映画『容疑者Xの献身』はハッピーエンドだった
◎きっかけ
9/24に土曜プレミアムでテレビ放送していた、映画ガリレオの『容疑者Xの献身』を深夜に録画で見た。思うところがありすぎて文字にしたくて、スマホのメモに思うままに書いていると気づけば3,4時間経っていて、3000字以上書いていた。
せっかくなので誰かに読んでもらいたくて、放置していたTwitterの公開アカウントにログインして、初めてnoteに登録して、メモをコピペしてちょっと直して記事にしてみた。見てくれてありがとう。
◎登場人物紹介
〈 2人の天才 〉
・湯川(福山雅治):物理の天才で、イケメン大学教授。女子学生がこぞって講義をききにくる。警察に度々捜査協力をしている。
・石神(堤真一):数学の天才だが家庭の事情で進学できず、冴えない数学教師に。生徒は授業を全くきかずに騒いでいるような高校で勤務。
――2人は同じ大学出身の同級生で、当時からお互いを天才だと認め合う仲。事件を通して、17年ぶりに再会。
〈 石神の隣に住む親子 〉
・母 花岡靖子(松雪泰子):誰もが羨む愛想のよい美人。シングルマザー。弁当屋を開いている。
・娘 花岡美里(金澤美穂):天真爛漫な女子高校生。石神を通学路で見つけると元気に挨拶をするような子。
【以下本文】
1. 後味の悪さとハッピーエンド
ガリレオシリーズは言うまでもなく、福山雅治演じる湯川先生が主人公である。しかし、この映画の主人公は間違いなく、堤真一演じる石神であった。そして、石神を主人公としてこの物語をみると、ラストシーンで私は「ハッピーエンドだ」と感じた。
ただし、ディズニーやジブリなどで体験するような、誰もが観た後に笑顔になるような所謂 "ハッピーエンド" とは種類が異なる。福山雅治目当てで、原作など知らずに気軽に見始めた身としては、衝撃的な後味の悪さはあった。しかしながら、「これで良かったのだ」という納得感があり、「報われない」人生を送ってきた石神がようやく「報われた」ことが嬉しかった。
2. 人は独りでは生きていけない
「人という字は‥‥、」
「人という字は、人と人が支え合ってるから人なんです。」
私は金八先生の世代ではないが、このセリフだけは何度も聞いたことがある。何度聞いても、捻くれている私は「そんなこと言われても…」と思っていた。「漢字に込められた意味とか知らねーよ。こじつけでしょ?だから何?支え合えって?支えてもらってることに感謝しろって?恩着せがましい」と。まったく嫌なやつである。ハライチの岩井がラジオで言ってそうだ。(ハライチは大好きです。)
しかし、私は今回の映画を観て、人は本当の意味で「独り」では「生きて」いけないのだと悟った。
「本当の意味で独り」とは、例えば隠居して1人暮らしをしている老人でも、子や孫と交流があったり、心を通わす愛玩動物がいたり、趣味の友達がオンライン上にでもいれば独りではないという解釈だ。自分を認めてくれて、必要としてくれている人が1人でも(1匹でも)いれば、独りではないと思う。そして、ここでの「生きる」とは、たんに衣食住そろった生活を送るという意味だけでなく、日常の日々を前向きに捉えて暮らすという意味である。
その人「個人」としての認証
この物語での石神は、両親はおそらく他界しておりパートナーはなく、職場では彼の才能が評価されるどころか誰も彼を彼として認めておらず、愚痴を言い合える仲の良い同僚もいない、趣味は数学の公式を1人部屋で解くことという孤独な人物として描かれている。学生時代の友人は、17年ぶりに再会したという湯川ぐらいであったのだろう。
しかし、もしも石神が大学で研究を続けられ、「ガリレオ」の湯川から「天才」と称されるほどの頭脳を存分に活かしてキャリアを描ける人生であれば、ふと自殺を考えたりはしなかっただろう。
石神をただの「数学のつまらない先生」=「いなくなっても誰も気にしない存在」「代わりがどこにでもいる存在」としてではなく、「独自の美学を持つ天才数学者」=「代替不可能な存在」として、その人個人として認めてくれる人物がいれば、彼は自殺なんか頭にも浮かばずに湯川のように変人ライフを楽しんでいたのではないだろうか。
そして、「突然消えても誰も気にかけない存在」という意味で、石神はあのホームレスたちと同一だったのかもしれない。石神は自殺しようとしたあの瞬間から、自分と同じような存在の命は同じ重さであり、「いなくなってもいいもの」と感じていたのだとすると、彼のあの大胆で冷酷な行動にも説明が付く。
3.「社会人ひとり暮し」への絶望と焦り
一人でも大丈夫だという余裕
私は大学4年生で、来年から社会人として働き始め、一人暮らしをする。石神と比べると、頭脳は足元にも及ばないが、社交性と対人関係能力はいく分上だと思うし友達もいる。
ただ、パートナーはいない。それでも、一人暮らしの大学生活は充実していた。学生ならではの活動を通して、様々な人と関わってそれなりに楽しくやってきた。好きなことを学んで、考えたことをレポートに書くと、けっこう良い評価をもらえた。部屋で一人ふと寂しく思うこともあったが、毎週気の許せる友達と会えたのでそれほど深刻に悩みはしなかった。また、「一人でも楽しく過ごせるし、今後も大丈夫だろう」とどこか余裕があって、社会にも一人楽しく生活している大人は沢山いるだろうと思っていた。
石神は将来の私かもしれない
ところが、石神を見て私は不安になった。学生時代は美しい公式を求めて没頭し、他のことには目もくれず一人を楽しんでいた石神が、社会に出て「独り」だと気づくと人生に絶望していたからである。
いま私には幸い、親友と呼べる気兼ねなく話せる人物がいるし、友人も何人かいるし、家族も元気で関係も良好で、自分の能力を認められている環境にいる。しかし、社会人になると今までほど頻繁に会うことはできないだろうし、数年経つと親友や友人には私よりも大事なパートナーや家族ができるかも知れないし、親は先に死ぬし、職場で上手くいくかなんて分からない。パートナーがいないと私は独りになってしまうかもしれない。石神は将来の私かもしれない。そんな焦りが生じた。
石神は絶望の真っ只中に、たまたま隣に引っ越してきた可憐な親子に救われたが、そんな存在に出会えなければ死んでいた。ただの隣人や先生や客ではなく、毎朝店先で「いってらっしゃい」と見送ってもらえ、自分という存在を属性でなく「石神さん」として認識してもらえる存在に出会えたのは彼にとってラッキーだった。
一方で、あの親子にとっては、石神は所詮ただの隣人であり、引っ越したり弁当屋をやめたりすると全く接点がなくなるほどの薄い関係性である。(基本的には)ずっと一緒のパートナーとは訳が違う。
「推し」はパートナーではない
あの親子は、アイドルなどの「推し」みたいだと感じた。私には推しがいて、彼が日々メディアに出てくれるおかげで、前を向ける場面がある。推しには見返りなんて求めていないし、ただ楽しそうにしている所を見せてもらうことが幸せで、彼には純粋に幸せになってもらいたい。しかし、彼が芸能人を辞めてしまうとそれまでだし、当然推しは私のことを私として認識してはくれないし、何万人といるファンの1人が死んだとしても彼には分かりっこない。そういうものだから。
私は推しに認知されようとはしていないし、推し活は楽しいけれど、それとは別に安心感のあるパートナーが欲しくなる。私を私として認めてくれて、誰かではなく私を必要としてくれる存在、この世の誰よりも私を大事に思ってくれる人が、私の側に居てほしいのだ。
4. ハッピーエンドの理由
見返りなどいらない-はずだった
孤独だった石神を救ってくれた命の恩人であるあの親子は、彼にとって何よりも大切な存在であった。あの親子を救うためなら、自分の人生を捨ててさえもいいと考えるのは当然といえば当然だった。あの親子は「推し」なのだから、見返りなんか求める発想もなく、ただただ彼女たちを助けて幸せになって欲しかったのだ。「刑務所に入った私のことなんか忘れて、どこかで、そのまま真っ当に暮らしていてほしい。」そんな思いだったのだろう。
しかし、それでは石神があまりにも孤独で報われない。一方通行の、相手にそれが愛だとも伝わっていない献身である。
ラストシーンでは、石神の計画の全てを湯川から聞かされたあの美人母が、過ちを認めて罪を共に償うと言葉にした。その言葉は、彼の天才的な隠蔽計画の中で、予想だにしない唯一の証拠となるものだった。完璧なはずだった美しい計画は崩れたが、届くはずのなかった彼の想いは相手に届き、思わぬ反応を得られた。彼の報われない人生で、初めて報われた瞬間だった。初めて想いが返ってきた瞬間であった。それで、私は瞬間的に「あぁ、ハッピーエンドだ」と思えたのだ。
あの親子にとっても、それで良かった
人間をその手で殺した以上、真っ当な人間であればあるほど、普通には生きられないだろう。いつかバレるかもしれないという不安だけではない。フラッシュバックする殺人現場と相手の死顔、人を殺したという事実と平穏な日常生活とのギャップに果たして耐えられるのだろうか。のうのうと何事もなかったかのようなフリを何日も何年も続けるのは容易ではないだろう、特に純粋なあの親子にとっては。だから、あれで良かったのである。
今回は、テレビ放送用に所々カットされたものを見た感想であるが、原作では、あの娘の辛い後日談が描かれているそうだ。
フルバージョンの映画と、東野圭吾の原作も気になるところではあるが、もう少し私の元気が出てからにしたい。
(終わり)
ここまで読んでくれた方々、ありがとうございました。
初めてnoteを書いたので、反応を頂けると嬉しいです。
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