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414.欠陥だらけな人つてね、もしかすると、それも才能のひとつかもしれないんだよ。

 (26)負けない心

1.自分を弱くするものは自己不在から

 

どう?

負けない心のシリーズ26回目。

人に勝てなくったっていい、
人に負けたっていい、
人に馬鹿にされてもかまわない、

ただ、自分の心は負けないよ~

だって、大切な自分をそれ以上辛くさせる必要なんてないし、現実は負けていないのだもの。

人が負けたといっても、誰もが負けを認めていたとしても、
自分が蒔けを認めない限り、負けなんてないんだよ~

それがね、強さの原理、原則の意味なんだ。

人なんてね、もともと強い人なんていないし、弱い人だっていないんだ。

人はね、ただアタマの中で考えているだけでは何も答えは生まれない。
よく、今、考えているところだという人がいるけれど、それでは永遠に答えなんてないよね。

つまり、すべての答えって、すべて行動の中にしか存在していないと思うからさ。

 

自分を弱くするものはね、すべて自己不在から起こるんだよ。

自己不在ってね、必ず相手に原因を求め、責任転嫁してしまい、最終的に自分がわからなくなってしまい、それを心理用語では「合理化」ともいう。
だから、すべて自分の目の前に起こる出来事は、すべて自分自身の問題であり、自分自身の困難のひとつだといえるんだ。

自分を強くするもって、自己不在じゃあなくて、自己存在、自己存在感が必要になる。決して自分一人の問題であるからといって、自分一人で考え、行動することでも、深い孤独感を味わうことでもないからね。

目の前に起こる出来事、
目の前の世界の現象はね、すべて自分が望んだものなのさ。

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2.自分を強くするものって、自己存在感から


人の回りは常に自分と相手がいるように、
相手にとっても必ず自分がいる。

それは、お互いが存在感を持ち、お互いが自分の責任と感じ合う、お互いが力を合わせたり、努力しあったり、頑張りあい、励まし合うことで、その存在感が共感能力になるんだ。

これは共に感じる能力で、共に感じる能力がないと人ってね、自己不在になってしまうんだ(自分がわからなくなる)。

それはね、相手の喜びを自分の喜びと感じ、相手の苦しみや悲しみを自分のことのように感じる人って、自分の確認、再確認することができるからさ。
(それができない人には自分のことがわからなくなる)

結果、物事や自分がよく見えるようになり、自分が相手からどう見られているか?自分は相手をどう見ているかがわかるようになるんだ。

さて、相手の気持ちになり、相手のことをどこまで考えられるかな?

果たして、相手の喜びが自分の喜びとなっているのかな?

ここに強さの原理のバロメーターがあるんだよね。

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3.自分に革命を起こす


ヘレンケラーは目が見えず、耳が聞こえず、口もきけず、この三重苦を背負った少女だったけれど、これらの欠陥を克服し、自分の才能を見事に開花させて世界中に有名になったことはどなたも知っているお話だよね。

でもね、普通の人には自分の欠陥がなかなか見えない。だから、人は自分の欠陥をどうすればいいの?自分に欠陥があると思っているほとんどの人たちは、それらに対して悩んでいるような気がする。

さらにその悩みはね、悩めば悩むほど、欠陥が余計に増幅されて大きくなってしまう。

また、自分に欠陥があると思うほとんどの人は、自分で勝手に「欠陥だ!」と決めつけている場合も多い。だから自分ではそれが欠陥だと信じていても、他人からしてみればそれらを欠陥と感じていないというギャップも生じている。

ヘレンケラーの場合、逆にその欠陥に対し、自分自身で立ち向かい、挑戦し、見事に克服して自分のできる得意な才能を素晴らしく開花させた。

 

では、へレンはどうしてそのようなことが可能だったの?

たとえば、目がみえなくなれば耳が敏感になる。
それは目がみえないという欠陥を耳が敏感になることによって補ってくれる。これを「生理的補償作用」という。

この「生理的補償作用」は誰にでもあるもので、もしこれを上手に動かすことが出来たなら、どうかな?

神経質な人は、その神経質であるという欠陥を自分の才能として伸ばすことに役立たせることができるはずだよね。

そのような考え方になると、むしろ、欠点、欠陥は自らに与えられた才能と呼んでもかまわないものかもしれないよ。

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4.欠点・欠陥は才能のひとつ


さて、この「生理的補償作用」をどう活用したらいいの?

まず、ほとんどの人は欠点、欠陥を嫌い、マイナスととらえる人がほとんどだよね。だけど、欠点、欠陥、短所のない人なんてこの世にはいない。

むしろ、これらをプラスに上手に利用することがこの「生理的補償作用」といえるんだ。両足のない人は、両足のある人より、両手は素早く、器用に素晴らしく発達する。

口のきけない人は、口のきける人より自分の意志を伝えようと努力する。

早く走れない人は、早く走れる人より努力する。

coucouさんの場合はね、記憶力、暗記力がまったくダメなので普通の人より記録(メモ)をとることに集中するようにして克服するようにした。

これは、あくまでも例だけど、「勉強のできる人はあえて勉強する必要がなくなり、勉強をできない人は勉強をし続ける必要がある」というようなものだね。

昔、小泉八雲という作家がいた。

この人は外人なのだけど、子どもの頃から病弱で、さらに片方の目が見えなかった。そして、いつも、もうひとつの目が見えなくなるのではないとか恐れていた。

でも、こういったハンディがあるのにかかわらず文学に打ち込んだ。

彼の恐れは、彼の欠陥は他人にはわからないことだったのかもしれないけれど、彼の作品は、彼の才能として開花した。

それは、片目による恐怖心により、彼の「観察眼」(ものを見る目)が磨かれ、非常に鋭い表現力が身についていったといわれている。

この恐怖心によって、新しいものを見る目が作られたのかもしれない。

 

もし、若いということが欠陥なら、

もし、年をとっているということが欠陥なら、

もし、お金がないということが欠陥なら、

もし、自分は他人に比べて才能がないという欠陥なら、

もし、今、自分に勇気がないと感じるなら、

もし、今、自分の仕事が上手くいかないと思うなら、

それを利用して、必要に応じて、自分なりの方法を見出せばいい。
自らに欠陥があるからこそ、この「生理的補償作用」が働くことを思い出し、自分が本来やるべきこと、あるいは学び、集中することが大切になるはずなんだ。
結果、それらができるようになると、それらの欠陥を補うために「生理的補償作用」が強力に働くはずだからね。

だから、欠点、欠陥を嫌ってはならないと思う。

もし、coucouさんみたいな欠陥だらけな人がいたら、
もしかすると、それも才能のひとつかもしれないからさ。

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coucouさんです~
みなさん~
ごきげんよう~

日々、少しずつ元気を取り戻してきたよ~
これも、みんなのおかげ~
noteの世界に戻るとね、とても嬉しくなるcoucouさんです。
それはね、みんなの記事を読ませてもらうからなんだよ~

だってね、素晴らしいのだもの~

心から御礼~


さて、coucouさんの大好きな「ノートに神さま」34番目(順不同)の文学の神さまをご紹介~

勝手なご紹介お許しくださいね~

祖父の手をにぎった私、父の手をにぎる私。
父が祖父に抗った跡、私が父に抗ったきた跡。
覚えている限り消えない何か。
父の手はカサカサで、それでいて力強かった。
       青葉 犀子 -Saiko Aoba「覚えている限り消えない何か」より

ノートの世界にこんな文学の神さまがいた。

coucouさんはとても衝撃を受けたんだ。青葉さんの一文字一文字に深い、とても深い魂と映像が感じられる文だったからね。

「覚えている限り消えない何か」の文は、思わずcoucouさんは泣いてしまった…。

そう、coucouさんの父の手の感触やあたたかさ、この世を去る瞬間のわずかな力は今でも忘れられない。そう、覚えている限り消えない何かなんだ。
coucouさんはね、珍しくもう一度青葉さんの作品を読み直した。

青葉さんの言葉はこんなにも深くcoucouさんの中に浸透していた。
だけど、こんなに素晴らしい文は書けない。
それはね、青葉さんの独自の世界なのだから、誰にもまねができない。独自の世界ってね、青葉さんの独自の人生、優しい人生なのだもの。

coucouさんみたいに長くない、無駄のない文、素晴らしい作品群がこのnoteの世界にあった。

ぜひ、読んでほしい~

多すぎて紹介しきれないので、あとはみなさんの自由に見てくださいね~

青葉犀子さん、出会えて感謝~

読むたびに感動をありがとう~

応援、ありがとう~

勝手にスキな言葉を入れてしまいましたが、お許しくださいね~

凄いね~

言葉って~

凄いね~

ノートの世界の神さまたち~

青葉 犀子 -Saiko Aoba

青葉 犀子 -Saiko Aoba-さんの言葉より

夫と小学生の息子、犬1匹と東京で暮らしています。 書くことへ憧れていたに気持ちにむきあって、日々のあれこれと胸のうちを綴っていきます。


誰にも求められていないそんな話を、書きたくてたまらない。
うごめいているあれらの存在を、拾ってすくって言葉という形に変えて昇華することが、この打ちのめされるような関係に一筋の意味を持たせてくれる。

両足は金色の沼の中にある。
私だけの文学を書いていく。これはわたしの決意のような、臆病な覚え書


想像でここに降る雨は、さやさやと降る優しい雨ではありません。
強風が吹き稲光が轟く中で、アビキューの土壁を激しく叩くような強く力強い雨。厚い土壁の褐色が雨水を吸ってじゅんじゅんと濃くなる。跳ね上がる雨粒と落ちてくる雨粒がぶつかって破裂していく。
息を吸ってみると、鼻腔に肺に、大地の湿り気がはいってくる。

雪色っていいね。
確かに君のお腹も雪のように優しいトーンをしてる。このまま溶けずに残る優しい雪いろ。

Life is but a dream
生きる事は夢のよう

私が泣いたら。
おじさんは悲しい話をやめてくれるかな。
お父さんはごめんなさいを言わなくてすんで、
お母さんは泣かなくてすむのかな。

私が泣いたら。
おじさんが私を引っ張り上げて、抱っこしてくれるかもしれない。
そしたらお父さんとお母さんはうれしくなるかな。
私が誰かに抱っこされたら、
いつもお父さんとお母さんは笑うもの。

祖父の手をにぎった私、父の手をにぎる私。
父が祖父に抗った跡、私が父に抗ったきた跡。
覚えている限り消えない何か。

父の手はカサカサで、それでいて力強かった。

それでもいいのだ。
家族との何気ない日々が、同じような朝が。こうして繰り返して続く先に、息子にとっての大事なものが彼の中に残っていけばいい。

©NPО japan copyright association


 Production / copyright©NPО japan copyright coucou associationphotograph©NPО japan copyright association Hiroaki
Character design©NPО japan copyright association Hikaru


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