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ひとり遊びのさいしょ

子どもの新学期の準備で、不足している文房具を買いに来た。液体のりがなくなったから補充液を探すのが目的だ。しばらく棚の周りをうろうろして「アラビックヤマト」と書かれたメガサイズの詰め替え糊を発見した。これなら1年買わなくていいねと子供と笑った。

笑いながら思い出していた。
大きな声で言えないが、私は小さい頃この液体のりを使ってある一人遊びをしていた。切って貼ってで使うのではなく、塗って剥がすという行為。それも自分の手のひらに糊を塗りつけ、乾わいたら剥がすというちょっと変態じみた遊びである。

キャップを開けたら右手に力を入れてぎゅうっと糊を絞り出す。ちょっとすっぱいみたいな匂いがして、とろりとした液体が左の手の平に落ちる。それをスポンジの面でくるくると広げるのだ。その平の膨らんだ部分をつるんと光らせたら、目を近づけたり匂いを嗅いだりしながら乾くのを待つのである。

少しすると皮膚がつっぱるような感覚がして糊が乾いてきたのが分かる。乾ききったのを確認したら、指先で端をちょいちょいとめくって慎重に剥がしていく。一回で大きな面を剥がせるととても気持ちがいい。中途半端に切れてしまうときは乾ききるのが待てなかったとき。悔しくて負けた気持ちになる。

「何やってんの?糊が無駄でしょうが!」
何度か見つかってこっぴどく叱られたから、この遊びは家でひとりの時にこっそりと隠れてやった。不自然な糊の減り具合が目立たないように悪知恵も働かせた。やがてスティック糊が現れてうちの糊がそれにとって代わるまで、恐らく小学生ぐらいまではやっていたのだと思う。
こんなこと息子には言えないなぁ、と苦笑いだ。

そしてもうひとつ。
この遊びをはじめた頃の光景で忘れていない出来事がある。
それは私が3歳の頃で、場所は当時家族で暮らしていた札幌の家の小さな食卓テーブルの下だった。

***

ある日の事。いつも両親と過ごす夕食時に見知らぬ男の人が現れた。
私は常から自分のご飯が済むと食卓の下にもぐりこんでいたが、それは父と母がよく食後に言い争うので、そこから隠れるのが目当てだった。

その日やってきた男の人は恐らく父の仕事の関係者で、訪ねてきた理由は父にとって良くない話をする為だったのだろう。
私は「あっちで遊んでおいで」と母親に隣の部屋へ行くよう言われたのだったが、なにか恐ろしいものを感じて両親のいる場所から離れたくなかった。だからいつものように食卓の下にもぐりこんだ。
父は黙り込んで男の人の話を聞いていて、隣の母はだまっている。

食卓の下には大人の足が6本ある。
父と母の足は親しくそこにある。
知らないおじさんの足は強くて太くて、
急に動いたりして、なんかこわい感じ。

子どもながら今は邪魔してはいけないのだと察してたのだと思う。声をあげずにできる遊びを探していたら、床に転がっていた糊が目に入った。
私は這い出てそれを取ると、再び食卓の下にはいった。
この前「舐めちゃいけないよ」と母親に言われたやつだった。そのすぐあとで、母はピンクの色紙をちょうちょの形に切って画用紙に貼って見せてくれた。

蓋を取ると何かに塗りたくなる。
何も無いから手に塗ってみることにした。

冷たくてくすぐったい。べちゃべちゃしてる。へんな気持ち。

頭の板の上では、父が何度も「すいません」という言葉を繰り返している。

お父さんいけないことをしたの?
どうして怒られているの?

おじさんの足はせわしないのに、二人の足はじっとして動かない。
お母さんは泣いているみたい。泣かされてかわいそう、と思う。
私は手の上で乾いていく糊を眺めながら、右耳をそばだてる。

私が泣いたら。
おじさんは悲しい話をやめてくれるかな。
お父さんはごめんなさいを言わなくてすんで、
お母さんは泣かなくてすむのかな。

私が泣いたら。
おじさんが私を引っ張り上げて、抱っこしてくれるかもしれない。
そしたらお父さんとお母さんはうれしくなるかな。
私が誰かに抱っこされたら、
いつもお父さんとお母さんは笑うもの。

両手をくっつけたり離したりして、そんなことを考えたていた。
べちゃべちゃだったのがしだいに乾いて、手のひらがテカテカになった。
めくれ上がった端っこを爪でひっかけたら、それが綺麗にめくれていった。
すぅーんっ ぱっ と音がして、
めりりと手から離れていった。

***

北海道に住んでいた事があるというのは少なからず嬉しい思い出である。でも実際に住んでいたのは1年にも満たない期間だったようだ。
私の父は今まで数多の失敗を繰り返してきたが、これは初期の方に数えられるものだろう。私も3歳なりの受け止め方でこうしてしっかりと記憶に刻んでいるのだから。

父は俗にいう”上手い話しにすぐ飛びつく人”であった。
その当時何を上手いと思ったのかは知れないが、いきなり縁もゆかりもない場所で家族を引き連れて事業をしようと思い立つ、若さと勢いだけは十分すぎる程持っていた。親戚中の反対もかなりあったと聞いているが、それをエイヤと押し切って、住み慣れた関西を飛び出してきたのだ。

父は先行して一人現地に向かい、しばらくしてから私達を呼び寄せた。母は幼い私を連れて、本格的に冬がやって来る前に北海道に移った。まだ青函連絡船が運行していた頃の話で、母と私は二人で船に乗って津軽海峡を渡ったそうだ。その年、冬景色になる前に。

父の会社がどういった仕事をしていたのかは未だ不明のままである。(父はまだ存命だけれど、自分の都合の悪いことは決して話さない人なので私もいつしか知るのを諦めた。)そしてその事業を1年もたせずに駄目にしてしまうところが実にこの父らしいところでもある。
母も私もその父におんぶに抱っこであるしかなかったので、一蓮托生で運命を共にするしかなかった。私たち一家は次の夏を迎える前に、再び親戚を頼って、逃げるように関西へ戻ることになるのである。

札幌にはその短い間しかいなかったのに、幼い私に鮮明な記憶を残したあの時期あのひと騒動。
私はたった3歳だったけれど、一人で遊ぶことを覚えて探して、そして人の顔色を伺う癖もこういった経験を経て身につけていったのだと思う。
それがこの家族の一員として生きていく術のようなものだったと言ったら、大袈裟だろうか。

上を見上げたら雪が舞うみたいに桜の花が散っている。
あの冬の雪の一片みたいに、思い出がはらはら降ってくる。

デパートの紙袋に両足を入れ、紐を持ってぴょんぴょん跳ねて遊んだ事。
牧場の形をしたオルゴールが宝物だった事。
雪の夜に家の横にできた斜面を赤色のソリで滑った事。
そしてあの小さな食卓の下で、手の平に糊を塗って遊んでいた事。

手のひらで溶けていく。







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