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294.自分を確かめてください! Confirm yourself

1.自分の人生を信じる

 

coucouさんの父がこの世を去って、約6年と4か月が過ぎた。

母は、約2年と5か月過ぎた。

coucouさんの父は11歳のときに父親を亡くした。

その時、父は、死ということと、父親がこの世からいなくなるということを信じなかった。父親はどこに行ったかというと仕事で旅に出たと信じていたようだ(そう、思い込んだ)。

でも、大正時代のことだから、近くの林から木々を集めて遺体を火葬しながら家族は見送る。その場面を実際に見ているのだが、父は決してそれを自分の父親だとは認めていなかったようだ。

むしろ、空高く舞い上がる煙と、
煌々と燃え上がる炎の美しさに見とれていたという。

そして、母親と病気の兄と幼い妹と新しい生活がはじまる。11歳なのに一家の長となった父は、父親から教わった樺太開拓(荒れ果てた雑記林での農地の開拓)を行うが、現実にはまるで役に立たたない。母がその分、子どもたちの世話をしながら田畑を開墾する。

父は考えた。畑仕事はできなくても、どこかに丁稚奉公をすれば食いぶちを減らすこととわずかでも仕送りできると考えた。

そして、樺太平野から中央のハバロスク(樺太庁豊原市)に向かう。

そして、幾多の困難を乗り越えて、家族全員を豊原に呼び寄せ暮らし始めた。しかし、その後、満州に開拓団として移植し、戦争が始まり、家族は離ればなれとなり、満州の地で母を亡くした。

父は、母の死を知ったのはだいぶ後だったが、父はそれも信じなかった…。

でも、「自分の人生を信じている」と語っていたことを想い出した。

©NPО japan copyright association Hiroaki

 

6年前、私の父はこの世を去ったが、現在のcoucouさんも父と同じように、父の死を認めていないし、信じていない。2年前の母の死も同じ、信じていない。

 

でも、現実は、会いたくとも会えない。
話したくとも話せない、
父も母もいない。
とても悲しい。

けれど、父もそうだったように、
父がいないとしても、まだまだ悲しみが続くかもしれないけれど、
父や母と同じように、
coucouさんも大丈夫、元気に楽しく生き続けられると信じている。

もしかすると、
この世から大切な人がすべていなくなったとしても、
自分がこの世を去ったとしても、
大丈夫な自分の人生を信じるようになれたかもしれない。

 

どんな病気になろうが、
病気が治ることを信じるのではなく、
その病気が治らなくとも、
自分の人生を信じてあげる。

それが、本当の意味での「自分を信じる」ことではないのか、
とcoucouさんは思う。

coucouさんの父や母は、
私の人生や肉体を通して存在しているし、
いつでも逢えて、
いつでも話ができることがわかったからね。

おそらく、
たとえ、自分がこの世を去るまで、
去ったとしても一緒だと信じているんだ。

 

そう、「自分の人生を信じる」

自分を信じるって、自分を大切にできるか、どうかだね。

そうすれば何が起こっても、何も心配はない。

©NPО japan copyright association Hiroaki

 

2.    Confirm yourself「自分を確かめて」

イエス・キリストは「信じよ!」と唱えたが、
ブッダは、「信じるな!」と言った。

イエス・キリストは「神を信じよ!」または、
「我を信じよ!」というのに、
ブッダは多くの人々に「私を信じるな!」そして、
「確かめろ!」と唱えた。

あれから約2500年の時を越えた今も、
人間は、真実とは何か?
何を信じて、何を疑うべきか?
がわからない。

 

※注 釈迦=ゴータマ・シッダルタ、紀元前565年ころ、現在のネパール南部にあったカピラ国に生まれ。 シャカ族の王子。 29才のときに出家、修行を重ね、35才のときに悟りを開き「ブッダ(悟りし者)」となる。

 

現代はというと、インターネットが普及し、
ありとあらゆる情報が一瞬にして手に入るようになったが、
それでも何が真実なのか、
何を信じれば良いのかがより複雑化してしまったような気がする。
それは圧倒的な情報量が、その問題をより不鮮明にさせてしまっているのかもしれない。

 

それと同時に、
人は自分にとって都合の良い事は信じ、
都合の悪い事は疑い、
信じない、という習慣が身についてしまった気がする。

 

ブッダは、
「私の言うことを信じないでください。
確かめてみてください。」といった。

そう、自分の都合に疑いを持つ、
確かめる、もう一度確認する、
という考え方がブッダにはあった。

まさに、何を信じたら良いのかわからない時代に、
必要な教えかもしれない。

 

人は信じるものがわからなくなると、
結果としてネットなどの情報よりも生身の情報、
人の体験や経験などを知りたがり、信頼できる人を探そうとする。

すると、信頼する相手は、有名人であったり、専門家であったり、権威や名声、評判(噂)などを目当てにするようになってしまう。

そして、
最終的には占いや、霊的、スビチュアル、神や仏となるようですね。

霊的な場合、先祖や、生まれ変わり、または奇跡的なものを見てしまうとその場で虜になってしまう。(騙される場合もある)よくある話だけど。

 

「信じる」というのは「疑う」ことより簡単で、
精神的には楽な方法ですね。

「信じる」ことは相手にすべてを任せてしまう訳ですから、
何も心配をしなくとも済んでしまう。

そして、事が上手くいかなければ、
「あなたを信じていたのに…」
「信頼していたのに…」
「そうなるとは思わなかった!」
やがては、「嘘だった!」「騙された!」という結果を招く恐れもある。

 

おそらくブッダは、自らの悟りや体験を話しても、実際にその相手がただ信じているだけでは、意味がなく、自らが実践し体験して、自らが悟りなさい、という意味だったのかもしれない。

そのため「信じなさい!」ではなくて、
「確かめなさい!」と言ったのかもしれませんね。

 

では、ブッダは何を「確かめなさい!」と言ったの?

「信じる前に確かめる」とはどんな意味があるの?

それは、何でもかんでも、
「信じるな!」「まずは疑え!」

そして「信じなさい!」といつている。

そのために「まず、自分が確かめなさい!」という意味がある。
そして、そのことが「確かめられない」ものならば「信じるな!」と語っているのだと思う。
確かめられないものほど、おかしい事だから。

だからといって、何でも疑え、何でも確かめろ、というわけではなく、大切な事、重要な事、必要な事、危険な事ほどより注意が必要だといっているようにcoucouさんは解釈しているんだ。

 

そのために必要な事は、ネット上の情報だけを信じるのではなく、体験すること、体験する事とは行動する事、行動する事とは自分自身でその物事を確かめるという確認作業が求められる。

でも、それでもわからない場合があるよね。
また、勘違いする場合もある。

その場合「確かめ方の不足」が生じているのかもしれない。

©NPО japan copyright association Hiroaki

 

3. 「疑う」と「確かめる」の違い


「疑う」と「確かめる」は一見ニュアンスが似ているような気がするけれど、まったく違うものだね。
「疑い」って否定的な考え方で、
「確かめる」場合は肯定的で中立の考え方となるからね。

「疑い」は不信感だが、
「確かめる」は肯定的で冷静な判断をするものだ。

このように物事を冷静に「確かめる」ことができるようになると、勘違いや、トラブル、騙し、騙されるような関係などもなくなっていくと思う。

そして、ブッダは人々に何を説かれていたのか。

それは人々の苦しみ(病老死苦)からの解放だった。
生きることの苦しみからどうすれば人は開放されるのか。
その道をブッダは人々に説いて回り、その思考を「ヴィパッサナー瞑想」としてその方法を伝えた。

このヴィパッサナー瞑想は、自らの体と精神を使って、
あるがままの現実とは何かを「確かめる」ことによって、
理解できるものといわれている。

まさに「内省」「内観」ですね。

 

自らで自らを教える、
「内省(内なるものを観る、知る)」とはどういうことかというと、
自らの精神と体を観ることによって、
真理(現実)とは何かを理解し、
真理(現実)を理解することによって、
精神の汚れを祓っていく「内省」ということ。

つまり、外界にあるものではなく、自らに用意されている精神と体からの理解で完結することです。「内省」とは自らを省みて、確認、修正していく心の作業方法のひとつだ。

 

だからこそブッダは「私を信じなさい」と仰いまなかった。
「信じなくて良いですから、まずは本当かどうか確かめてご覧なさい。そして、この方法が確かであれば初めて採用したら良いでしょう。」と言ったんだ。

©NPО japan copyright association Hiroaki

 


※参考文献 
お釈迦様物語 お釈迦様とキサーゴータミー | 1から分かる親鸞聖人と浄土真宗 (tulip-k.jp)

 ブッダはなぜ「信じて」ではなく「確かめて」と仰ったのか? (vipassanabhavana.org)

この世の真理を解き明かす4つのキーワード|お釈迦さまの教え|仏教の教え|日蓮宗ポータルサイト (nichiren.or.jp)

coucouさんです。みなさん、ごきげんよう!

coucouさんは、父や母の影響なのか?
人を疑うなんて、とんでもない、
と長年思い続けていた。

その理由は、自分の矛盾、自分の不安定さに対しての疑いばかり。
すべての問題、責任は自分の側にあるのだと信じてきたから。
また、人のせいにはしてはならない、
と逆に自分のせいにばかりしてきたため、
とても苦しいハードルと人生を歩んできたような気がする。

そして、不思議なことに「自分が悪いのだ…」と思えば思うほど、自分がすべて悪いと信じるようになり、挙句の果てには、みんながcoucouさんのせいにするようになる。

信じられないことかもしれないが、coucouさんの非だと認めると、周りはそれに同調して結果、責められてしまうんだ。

こんなことは一例に過ぎないが、様々な問題やトラブルのときに生じた…。

例えば、交通事故を起こしたとき、100対0という答えはない。
相手にぶつけられたとしても、自分の不注意として警察官は判断し、70対30というような割合で答えが出る。
もちろん、停車中に相手がぶつけてきた場合は100対0の場合もあるが、
どちらも動いている場合は必ず0にはならない。

coucouさんは相手が前方不注意で車の後部をぶつけられたときに、
相手がお年寄りだったので心から無事でよかった…。
そして「申し訳ない…」といった一言の言葉でトラブルになった。

「あの時にあなたは自分の非を認めたじゃあないか?」
とその老人は怒りだし、保険料を支払わない、という。

警察は事故扱いにせず、互いの保険屋さん同士の話し合いとなったが、
「自分はまるで悪くない、相手は自分の非を認めて謝った事実がある。ドライブレコーダにも録画されている。これが証拠だ…」
と言い続ける。

最終的には保険屋さん同士が解決してくれたが、人の恐ろしさを感じた瞬間だった。こんなことはあくまでも例に過ぎないが、「人のせいにしない者はせいにされる」恐れがあることも感じた。

coucouさんは、それでも人間は違う、信じた相手を見間違えただけで、それも自分が悪いのだ、と信じた…。

そして、coucouさんはこのブッダの言葉と出合ったんだ。

「信じなくて良いですから、まずは本当かどうか確かめてご覧なさい。そして、この方法が確かであれば初めて採用したら良いでしょう。」

それは、何でもかんでも、
「信じるな!」「まずは疑え!」

そして、何よりも「自分を確かめて!」といっている。


coucouさんは、どうやら「信じる」ことの信じ方を誤っていた気がした。


でも、人を信じているよ。



みんな~
読んでくれて、
ありがとう~

coucouさんの恥ずかしい話の連発でした~

また、明日ね!




 

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