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【読書】孤独に耐えられない人

お疲れ様です。11月に入ったけれど、私の地域はぽかぽかと暖かくて眠いです。

さて、今回読んだ本はこちら。池田晶子による『言葉を生きる:考えるってどういうこと?』です。哲学の本なので、記事の内容もかなり哲学っぽくなっています。



池田晶子というと、こちらの本『14歳からの哲学 考えるための教科書』が知られているかなと思います。

私はこの本全ては読めていない気がするんですよね。中身は、14歳向けと、それと17歳向けに書かれた内容のものがあり、これを読んだ当時はまだ17歳ではなかったことは覚えているのだけど、いくつの時に読んだんだろう。

また本棚から引っ張り出してこちらも読んでみたいなと思います。



今回は、冒頭で挙げた『言葉を生きる:考えるってどういうこと?』を基に記事を書きます。

読んで、あー最近あんまり考え事をしてなかったなと思いました。課題がある、どうやって課題を終わらせようだったり、バイトがあるな、今日は土曜日だから忙しいかもしれない、といった現実的なことはもちろん考えます。

でも、どうしてだろう、なんでだろう、と考えるような考え事はしていなかった。もったいない。

最近noteにも執筆できていなかったのも考えることを怠っていたからなんだろうなと思ったり。もちろん、忙しかったからというのもあるだろうけれど、そうしたら忙しいって何だろうと思ったり。

こうしてnoteに好きなことを書くくらい忙しいのでは、自分のやりたいことが何もできていない状態ではないか、と。だからこそ、忙しいという言葉を使用するのだろうけれど、そうして忙しくさせているのは自分でそう思い込んでいるだけではとも思ったり。



それくらいにして本題に入ります。今回の本で一部自分に刺さった部分があったので、抜き出します。

自分の孤独に耐えられないということは、自分で自分を認めることができないということに他なりません。自分で自分を認めることができないとは、言葉を換えれば、自分で自分を愛することができないということです。

池田晶子『言葉を生きる:考えるってどういうこと?』


はあああああああ。確かにそうだ。考えてみれば孤独であることは誰にとっても変わらない事実であるのに、私たちはというと範囲の規模が大きくなってしまうが、どうして私は寂しいや独りが辛いという感情に捉われてしまうのだろう。

一文目の、自分の孤独に耐えられない人は自分で自分を認めることができないというのは、考えてみれば分かる話である。以降は自分の解釈です。

自分を認めることができない人はどういう人なのかと逆に考えてみると分かりやすい。私の場合、小説や映画などの作品に触れたり、他の対象と比較したり、他人と関わる中で自分という存在が見えてくる。

その自分を認めることができないというのは、他の対象と比較した際にこれが自分なのだと受け入れるのではなく、誰かが決めたわけでもないのに自分の中で基準を作ってしまい、それと結果が異なった場合にそれは自分ではないという判断を下してしまうことを指す。

たとえば、自分は寝坊をすることなくバイトに行き、マニュアル通り完璧な仕事をこなすことが自分の理想だとする。それが、もしも寝坊をしてしまい、勤務中にミスを犯して社員の方に注意を受けたとする。

その場合、理想としている自分と今の自分は違うため、これは本当の自分ではないという判断を下してしまい、その理想とのギャップ、差に人は苦しむことになる。

自分で自分を認めることができないのであれば、誰か他人に自分を認めてもらう必要がある。そうしなければ、極端な話にはなるが、(理想の)自分ではない自分はこの世の中には必要がないと思ってしまうから。これは別に極端な話でもないと思う。

自分と一緒にいてくれる人は、自分のことを認めてくれるのだと考えることが多い。自分を認めてくれる人がいると、自分に存在価値があるような気がして安心する。

そうして、他人がいないと生きることのできない状態になってしまうのが依存である。

だからこそ、自分の孤独に耐えることができない人というのは、自分で自分のことを認めることができない人である。

もちろん自分を認めることができないのだから、自分を愛するもくそもない。



いやあ、これ自分のことじゃん!!って思いました。

そうなんですよ、自分一人でいると、自分って存在価値ないんじゃねって思ってしまうんですよね。だって、自分はいても、その唯一の自分は自分のことを認めることができないから。

それは苦しくなるはずです。

だってごらんなさい。一人を楽しんでいる人、というより、一人を楽しんでいるときにこんな自分なのになんでここに生きてるんだろう、なんてクヨクヨ考えている人を見たことがありますかっていう話ですよ。

つまり一人の時間を楽しめる人って最強じゃんと思いました。もうね、そうやって自分のことを落としてまでマイナスな方向に考えたり、考えたって変わるわけでもない多分自分のことを認めてくれてるであろう他人の反応や他人のことを考えたって仕方ないわけです。

そもそもこの本にも、「自分のことを愛することができない人が、愛することができない自分から逃げて他人を求め、他人から愛してもらおうなんてのは、無理です」とはっきり書いてあります。

人から愛してもらうのにも、まずは自分が自分のことを認めて愛することができなければどっちにしろ八方塞がりということですね。



ということなので、考えてみました。自分の孤独に耐えて、自分を認めることができるようにするにはどうしたらいいのか。

自分中心に生きる。孤独を解消するには、これに限りますね。これまでも何回か考えてそうやって生きようと、noteにも書いたような気がするのですが、その志を忘れてしまうのが良く言えば人間の面白さと言ったところか。

自分中心に生きるのは、自分勝手とは違います。自分勝手は、社会のルールをガン無視している人がすることです。この社会のルールというのも定義が曖昧だから困ってしまうのですが。道徳の話になってしまいますし。


私が言う自分中心に生きるとは、自分の気持ちを第一に生きるということ。

たとえば、他の人とご飯に行くとしてその人が食べたそうな人を考えるのではなく、まず自分が食べたいものを考えてみる。そうしなければ、一生自分がどうしたいのか、何をしたいのか分からない人になってしまう。

そして、自分の気持ちを第一に考えて、相手の気持ちを憶測するのはやめる。人によるかもしれませんが、大抵私の場合は間違っています。だから、素直に聞くのが一番です。もちろん、ある程度憶測で過ごした方が良い場面というのはあると思うのでそこは臨機応変にやっていきます。

先程の例でいうと、相手は最近脂っこいものばかり食べているという話をしていたから、和食などヘルシーのものが良いのかもと思い、「和食にする?」と以前の状態の私であればそう提案してしまいます。ですが、相手は脂っこいものが好きで食べているのであれば今回も同じく脂っこいものを食べたいと思っているかもしれません。和食にするか、と提案されたことで、それが相手の自分の食べたいものなのだと判断する人が多数だと思います。

もちろん、その場合でもそのあとで自分の食べたいものを言えるならいいと思いますが、先に提案しておいて後からそれとは違う自分の意見を言う機会はなかなかないので、私の経験上は止めた方がいいです。

そうではなく、こう変えてみます。「私はピザが食べたいんだけど、あなたは何が食べたい?」それでそのあとに「それとも脂っこいものばかり食べているって言っていたから、そうでないものの方が良いのかな?」と付け足してあげます。

なんだか、コミュニケーションの話になってきちゃいました。ちょうど、コミュニケーションの本も最近読んだばかりなのでついでに紹介しておきます。

こちら『気まずくならずに会話が続く! 「コミュ力」アップ実践講座』です。読みやすくて分かりやすかったのでぜひ。



さて、話を戻しまして、自分の気持ちを第一に考えることがなぜ孤独の解消に繋がるのかと言いますと、自分一人になったときに自分は今どうしたいのかが分かるからです。これは結構重要なことでして、他人の気持ちを憶測しながら過ごしている人は他人中心で生きているからこそ、一人になったときにどうしたらよいのか手持ち無沙汰になってしまうので孤独に耐えることができなくなります。

そうではなく自分中心で生きて、他人と一緒にいる場合は相手への思いやりの気持ちも忘れずにすることで、どこにいても自分中心に生きることのできる自分が完成します。


他人中心に生きている人というのは、いわば他人がいないと何もできない人です。一人になると何もできなくなってしまうのは、ここに原因があると思います。

だからこそ、他人に評価してもらうことを求めます。これが自分で自分を認めることができない、という話に繋がります。


次に、自分を認めることは難しいです。どうしたら自分を認めることができるようになるのか、本を読んだとしても自分でもこれだと思えるような答えや考えに行き着いていないのでまだまだ考えてみなくちゃ。

自己肯定感が低い人であれば尚更自分に対して、自分はこれでいいんだよって自分に言うのは難しいですよね。私は難しいです。でも成長したい気持ちはあるので模索してみようと思います。



今回はここまで。長くなりましたが、ここまで読んで下さりありがとうございました。スキ、コメント、フォロー励みになります。では、また。



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