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【短編】『僕が入る墓』(前編)

僕が入る墓(前編)


 目の前に広がる田園風景を真っ二つに分けるように一本のアスファルトでできた道がどこまでも続いていた。僕は先を行く明美の黒くしなやかな後ろ髪から溢れた残り香をたどりながら、これ以上距離を離すまいと歩数を増やして後を追った。明美の腰のあたりにはまるで大気にひびが入ったかのように陽炎が揺らめき、明美の体にまとわりついていた。

「早くー」

「待ってくれよ」

「もうバテちゃったの?」

「いいや。まだまだいけるよ」

「早くしないと置いてっちゃうわよ」

明美は僕に構うことなく通学路をかけていく小学生のように心を躍らせながら進んでいった。スーツケースとリュックを持った挙句、手提げバッグまで持たされた僕には地獄みたいな一本道だった。

 道は徐々に険しくなり、明美の背を見ながらやっとのこと山道を登っていくと、目の前に凛と構えた大きな門が現れた。少し離れた石垣沿いには白のミニバンが停められており、ナンバープレートには南信州と書かれている。あたりを見渡しても明美の姿はなく、もう中に入ってしまったようだった。門の屋根に積み重なった瓦は今にも崩れてきそうで、すでに何枚か落下したのか所々はげていた。僕は一年前に初めてこの場所を訪れたのだが、それ以上に長い年月が経過したかのようなどこか懐かしいようで寂しささえも感じられた。僕は門の下の敷居に躓かないように荷物を抱えながら慎重に段差を跨いだ。屋敷の表玄関は一年前とそう変わりなかった。大きな茅葺き屋根が家柄の良さを物語っていた。明美の家系は元々名家だったようで、その大きさは誰もが息を飲むほどだった。目線を移すと、右の方には池があり、そのすぐそばに大きな松の木が池を覆うように聳え立っていた。

 門からは等間隔で敷き詰められた石畳が表玄関にかけて続いていた。僕は土で靴が汚れてしまわないようにとなるべく石畳の上を歩いて進んだ。すると、縁側から懐かしい顔がこちらを覗いた。

「あら、こんにちは」

「ご無沙汰しております、お義母さん」

昨年挨拶に来て以来、明美の家族とは一度も顔を合わせていなかった。明美の方は正月に一度帰省していたが、なかなかお互いに時間を合わせられず、今回が久しぶりの二人揃っての遠出だった。

「わざわざ歩いてきたの?」

「はい」

「言ってくれれば迎えにいったのに」

「いやあ、明美が歩きじゃなきゃ嫌だって言うんで」

「まあ、困った人」

僕は軽く頭を下げてから表玄関の引き戸を開けて家の中へと入った。数日分の二人の衣類や、明美の化粧道具、家族へのお土産など全ての荷物を床に下ろした途端、一気に体が軽くなりいわゆるハイの状態になった。しかしそんな身を削って得た快楽も束の間で、すぐさま副作用が表れた。一日の疲れがいっぺんに全身を駆け巡ると、僕は空気が抜けたチューブマンのように体をくねらせて靴を履いたまま廊下に倒れ込んだ。

「え!これ全部担いできたの?大丈夫だった?」

僕は義母の声がしてからすぐに起き上がった。

「平気です。いい運動になりました」

「あんた、明美の言うこと全部聞かなくていいんだからね」

「違うんです。明美に行き帰りの券の購入やら準備やらを任せる代わりに僕が二人の荷物を持つっていう契約なんです」

「まあ、契約って。悪魔みたいね」

「違いないです」

と返すと、ふふっと笑って義母は僕のスーツケースの取っ手を握った。

「これ全部持ってっちゃうわよ?」

「ああ、大丈夫です。僕が持ちます」

「いいのよ。じゃあリュックだけお願い」

「わかりました」

 義母のやや丸まった背中を眺めながら長い廊下を進んでいくと、使われていなさそうな灯りの消えた部屋がいくつも目に入った。どこも半開きで完全に閉め切られてはいなかった。おおよそ、この古い木造建築だと風で勝手に戸が開いてしまうのだろうと思った。気がつくと、少し前を歩いていたはずの義母の姿がなかった。よそ見をしている隙に部屋に入ってしまったようだった。どこに消えてしまったのかと思い、一つ一つ部屋の引き戸を開けて確認して回っていると、突然後ろから何かが僕の肩に触れた。義母の手であった。義母は部屋に入ってちょうど廊下との壁沿いに荷物を置いていたため、死角になって気づかずに通り過ぎていたらしい。用意された部屋へと入ると、すでに隣り合わせで二つ布団が壁沿いに敷かれていた。やけに高さがあると思ったら、下に分厚いマットレスが敷いてあった。義母の心がけに僕は頭が上がらなかった。

「お腹空いてる?もう少ししたら夕飯の支度始めるけど、待てそう?」

「あ、どうかお気になさらないでください。まだ空いてないです」

「そう。もし空いたら、和菓子が居間にあるから勝手に食べてね」

「ありがとうございます」

義母は部屋の窓を全開にすると、軽く微笑んでから廊下の方へと消えていった。僕はスーツケースからタオルを取り出し、全身にまとわりついた汗を拭った。すぐに、義父に挨拶しなければという気持ちとともに、冷えた飲み物をもらいたいという欲求から居間へと向かった。

 引き戸を開けると、義父が低い机の前にあぐらをかいて窓際に置かれたテレビを眺めていた。すぐ真向かいには明美が足を伸ばしてくつろいでいた。

「ご無沙汰しております」

「おお、拓海くん。よく来てくれた」

「突然お邪魔してしまいすみません」

「いいんだ。しかし、歩いて来たって言うじゃないか。だいぶ遠かっただろう?」

「はい」

すでに義母からも似たような質問をされていたため、僕は簡単な返事でとどめた。

「まあ、ゆっくりくつろいで」

「ありがとうございます」

「そうだ。お茶でも飲むか?」

「ぜひ。ありがとうございます」

自分から飲み物が欲しいとおこがましく聞く前に、運良く義父が話を振ってくれて助かった。

 義母は冷えたお茶を三つお盆に乗せて、三人の前に一つずつ置いていった。そしてお盆をお勝手に下げてから自分の分のお茶を持って僕の隣に座った。同じタイミングで義父は立ち上がってお勝手の方へと行ってしまった。勢いよくお茶を飲み干す僕の姿を見て驚いた様子で言葉を切った。

「あら、喉乾いてたのね。早く言ってくれればよかったのに。もううちでは気を遣わなくていいのよ?」

「はい。ありがとうございます」

義母は申し訳なさそうな顔で話を続けた。

「それにしても、拓海さんのご家族には悪いことをしたわね。半ば押し付けるような形になってしまって」

「ああ、全然いいんですよ。うちには兄や従兄弟もいるので」

すると義父が台所の方から煎餅をいくつか掴んだまま戻ってきた。ゆっくりと腰掛けてから二人の会話に加わった。

「でもね、君がうちの家族になってくれて本当に助かるよ」

と言うと、足の位置を調節してから義母が注いだばかりの冷えたお茶を一口啜った。明美は机の向かい側から気の毒そうな目で僕の顔をじろじろと見ていた。

「びっくりしたでしょうね。婿入りが条件だってお父さんが言った時は」

「そうですね。でも明美と一緒になること以外考えられませんでしたし、特に迷うことはなかったです。駆け落ちするわけにもいかないですしね」

と冗談を言ってみせたが、義父は少しも表情を変えなかった。どうも僕には義父の笑いのツボを理解するにはまだ経験不足みたいだった。明美は顔を赤らめていた。

「そういえば、お祖父様は?」

「ああ、たぶん部屋にいるよ。挨拶してくるか?」

「そうします」

「私も行くわ」

と明美が言うと、義父があっけらかんとした顔で言葉を返した。

「なんだお前、まだ挨拶してなかったのか?」

「うん。だって、じいじと話すといっつも叱られるんだもん」

「それは、お前が礼儀正しくしてないからだろう?」

と脇腹を棒で突かれるように反論を喰らうと、義母が間に割って入った。

「あんたも人のこと言えないでしょ。毎日叱られてるくせに」

「あれは叱られてるわけじゃない」

「あらそうですか」

僕は床に片膝をついて中途半端な姿勢のまま、呆然と親子の会話を観察していた。「早く行っておいで」という義母の声かけでやっとのこと立ち上がった。

 戸を叩くと、部屋の中から「なんだ」と吐き捨てるような掠れた声が聞こえた。明美はゆっくりと戸を開いて、中の様子を確認するように顔を覗かせた。

「明美か」

「はい。ただいま、じいじ」


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