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【7】 これまで考えていた私なりの死生観。一瞬で消えていった

涙が止まらなくなり、私は日に何度も泣くようになりました。
その度、夫が背中をさすってくれます。
流れる涙と、だらだらと垂れてくる鼻水。
せっせとティッシュを抜き取っては、夫が私の頬を拭い続けてくれます。夫が着ていたグレーのTシャツが、私の涙と鼻水によって、真っ黒なシミになり、おかしな模様をいくつも描きました。

「泣きたいときは、泣いたらいいんだ」

「ごめんね」と謝る私に対し、夫がそう言ってくれます。悲しむことを全面的に許してくれる夫のその言葉は、私をずいぶん慰めました。

まぶたが腫れて、ひりひりする日が続いていたある日のこと。

「どんなことが一番つらいのか、言ってごらん」

そんな風に、夫が言ってきました。
ただ悲嘆に暮れるだけの私の、涙の中身を分解して眺めてみようという提案だったのだと思います。

私は、一体なにが、そんなに悲しいのか……。
「……死ぬのが怖い。ただただ、怖い。死ぬ瞬間まで、苦しみ抜いて、死ぬのも怖い。それに、こんなに早く(夫と)さよならするのがイヤ。私があなたを看取る予定なのに」

そんなことを、途切れ途切れに答えました。

すると夫がこんなことを言うのです。
「もしものことがあっても、俺も一緒に死ぬから大丈夫。悲観的な意味で言っているんじゃないよ。この歳になって、生きていることに、それほどの執着もない。だから、本当にもうどうにもならないってなったとき、一緒に死のう。一緒に死ぬんだから怖くないでしょう。痛くないような、苦しくないような方法を考えるから」

この人は、本当にそうするだろう。
それがわかるから、一層泣きました。

健康な頃から、折に触れ、夫とふたり、死や命、運命について話し合ってきました。
不運というのは、人を、時期を、一切選ばずに唐突に訪れるのだということ。願いが叶うときもあれば、叶わないときもある、コントロール不能だということ。

病を例に挙げるなら、治療によって助かる場合もあれば、逆に命を縮める場合もある。すべてのケースはオリジナルであり、どうなるかわからない。そして死という「結果」が訪れても、それが医療によって延びた結果なのか、自分の寿命だったのか、それとも医療によって縮められた結果なのか、はっきり分からない。
それが現実だということ。

一方で、「自分の死」というのは、厳密には存在しないということ。
生きている私たちは、誰かを亡くすという喪失の経験はできても、自分が死ぬことだけは、経験の範疇をはみ出している。

だから、怖いのは「死そのもの」ではなくて、死に至るまでの過程(苦痛や不安)なのだということ。
日頃、夫とふたり、そんな話を積み重ねるうちに、万が一、自分が何かの病に侵されたとしても、できる治療はするし、見込みのない場合は諦めて、残された日々をなるべく楽しく充足感に満ちた時間にする。そして立派に死んでゆこう。早晩、皆、死ぬんだ。少し早いだけなんだから。
そんな心持ちでいたのでした。

しかし、私なりの「命に対する結論」など、シンプルな恐怖と悲しみを前に、なんの役に立ちませんでした。
頭で考えていたことは、あくまでも頭で考えていたこと。
上っ面の観念に過ぎなかった。
そのことを思い知らされ、あると思っていた自分の軸のようなものが、実はどこにもなかったのではないか。愕然としました。


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