見出し画像

渡辺一夫 『ヒューマニズム考 人間であること』 : 不寛容に対して不寛容になるべきか

書評:渡辺一夫『ヒューマニズム考 人間であること』(講談社文芸文庫ほか)

渡辺一夫を最初に読んだのは、平成3年の『僕の手帖』である。これにずいぶん感心して、同じ年に『人間模索』を読んでいるが、こちらはそれほどでもなかったようで、今回の『ヒューマニズム考』は、それ以来の、じつに四半世紀ぶりということになる。

当時の私にキリスト教についての知識は皆無であり、エラスムスがどういう立場の人なのかも、あまりよく理解していなかったはずなのだが、しかし『僕の手帖』にあれほど感心したのは、同エッセイ集に、渡辺初期の代表的エッセイ「寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか」が収められていたからであろうと思う。きっと、私はこの文章に感動させられたのだ。

本書『ヒューマニズム考』でも語られているとおり、エラスムスに代表されるユマニストたちは、ルターやカルヴァンなどの宗教改革者とともに、(カトリック)教会の硬直した権威主義を批判して「キリストの精神」に還る必要性を訴えた。
本書のキーワードである「それはキリストとなんの関係があるのか。」「それは人間であることとなんの関係があるのか。」とは、「神の身体」を自称する教会が、イエス・キリストが説いた「小さいものへの愛」から、あまりにもかけ離れた権威主義的存在になってしまっていたからである。「イエスは、とても人間的な人だった。だからこそ、キリスト教会は、イエスの人間主義に還らなければならない」というのが、ユマニストたちの原点なのである。

本書でも、人間的であるために、政治権力的実効性をとらなかったユマニストとしてのエラスムスやラブレーやモンテーニュと、教会を改革し、本来の信仰へと戻すために多かれ少なかれ「権力」をふるうことになった宗教改革者のルターやカルヴァンが対比的に語られており、著者の渡辺は前者に止まり、「寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか」という問いに対し、「そうではない。たとえ目先の戦いに敗れようと、無力であろうと、寛容は不寛容に対しても寛容であらねばならないはずだ」と、呻吟しながら言う。

そう。渡辺は単なる奇麗事として「寛容」を説いているのではない。現実の前に、無力に立ちつくすしかない「寛容」の現実を直視し、その立場から、それでも歯を食いしばり、呻くようにして「それでも寛容は、不寛容に対しても寛容でなければならない。目先の戦いに敗れようとも、寛容を貫くことでしか守れない、人間性の希望というものがあるのだから」と、自分自身に言い聞かせるように語る。だから、四半世紀前の私は、渡辺に言葉に感動したのであろう。

と言うのも、私は、自分で「論争家」を名乗るほど、論争ばかりしている人間だったからだ。それは何も、ネット上でというような、よくあるヌルい話ではない。
もちろん、単なる口喧嘩には興味は無いが「何が正しいのか・どちらが正しいのか」という議論は、若い頃から友人とも交わしたし、季刊の同人誌上ですら論争をした。
「季刊の同人誌」というのは3ヶ月に1回しか刊行されないのだから、ある文章を読んで、それへの批判論文を書いても、それが相手に読まれるのは3ヶ月後であり、その批判論文に対する反論が返ってくるのは半年後、それへの反論をすぐに書いても掲載はさらに3ヶ月後だから、最初の論文掲載からは9ヶ月が経っている。つまり、たったの2往復の議論に1年がかかるという時代にも、私は論争を捲まず撓まずやっていたのだから、書けばすぐにレスポンスの返ってくるネット環境において、私がどれだけの人と数多くの論争をしたかは、もはやまったく不明なのだ。なにしろ、当初の論争こそ、主に文学作品の評価に関するものだったのだが、ネット時代になってからは、「ネット右翼(またはその前身)」たちとの「喧嘩」に明け暮れたもしたからだ。
無論、それとて最初は「論争」のつもりだったのだが、彼らに「理屈」は通用せず、彼らに「フェアプレイ精神」や「騎士道」といったものは、欠片も無かった。彼らは、匿名の陰に隠れて、手段を選ばず、数に任せて「イヤガラセ」をすることで、「ネット掲示板」や「ブログ」を「荒らし」て、それで相手を黙らせれば「勝てば官軍」と勝ち誇ったのであるが、私はそれが我慢ならず、まさに一人で「喧嘩」を捲まず撓まず続けていたのである。

そして、そんな私だからこそ、渡辺の「寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか」という言葉が突き刺さった。
卑怯な相手を倒すためならば、あるいは、倒せないまでも傷つけてやるためならば、悪鬼羅刹になってもよいとさえ思うことの少なくなかった私にとって、渡辺の言葉は「しかし、あなたのやり方で、本当の意味での勝利はあるのか? あなたは目先の勝利のために、自らの欲望を満たすためだけに、ミイラ取りがミイラになるといったことになっているのではないか」と、鋭く問われているように思ったのである。

「そんなことはわかっている。私とて好きでこんなことをやっているわけではない。しかし、現に目の前の暴力を、横暴を看過することができるのか。それに堪えて、結果として、その暴力を、横暴を、容認することになってもいいと言うのか」という気持ちが、私にはあった。まさに、本書で描かれるカルヴァンの苦悩と選択を、私は選んでいたのだ。

例えば、目の前で、自分の母親が、刃物を振りかざした暴漢に襲われており、私の手には拳銃がある。暴漢の凶行を止めるには、私はその拳銃を使うしかないとなれば、私は躊躇なく、その拳銃を使って暴漢を射つだろう。その際、射つ前に警告を発して刃物を捨てさせるなどという余裕は当然ない。また、暴漢を殺してはいけないからと、手足を狙うといった余裕もない。はずしたら、取り返しのつかない結果が待っているのだから、私は暴漢を殺してもかまわないという覚悟を持って、暴漢を射つだろう。
法律的には、この場合は「緊急避難」ということになって、罪は問われないかも知れない。しかし、人の命を奪うという選択に、何の違いもない。

例えば、このとき、襲われたのが、母親ではなく、縁も所縁もない見知らぬ他人だったら、はたして私は暴漢を躊躇なく射殺することができただろうか。たぶん、迷ったのではないかと思うし、その迷いを責める人はいないと思う。しかし「この差」の意味は、決して看過してはいけないと思う。
結局のところ、人は「自分が大切に思うもののためなら、他人の命をも奪う」ということであり、そのどこまでが「正当」であり、あるいは「過剰」なのかの判断は、決して容易ではないからだ。

例えば、本書で実質的に「悪役」を振られることになってしまったカルヴァンの選択を、誰に責める資格があるだろうか?
彼は、親や子よりも大切な「信仰」を守るために、あえて「心を鬼にし、その手を血に染めた」のである。その彼の選択を、どうして「暴漢の凶行から母親を守るために、暴漢を射殺することを選択する」人間が、非難することができよう?
言い変えれば「人間であり続けるために、虐殺を目の前にしても、あえて無策に立ちつくす」ことができる人なら、カルヴァンを責める資格もあるだろうが、「愛する人を救うためには、暴漢を殺すことも辞さない」という人には、カルヴァンを責める資格など無いのである。
(さらに言うなら、ナチスのユダヤ人虐殺を止めるために、ヒトラー暗殺計画にあえて加担し、刑死したルター派司祭ボンヘッファーを、誰が責めることができるだろうか)

むろん、渡辺一夫は、こうしたジレンマについて考え抜いたからこそ、そしてその上で「無力に立ちつくす」ことを選んだからこそ、呻くような声で「それは人間であることとなんの関係があるのか。」つまり「人間であるためには、何を選ばなくてはならないのか。」と語り続けたのであろう。

渡辺一夫の言う「無用の人間」による「実効性の無きに等しい抵抗」を、「人間の尊厳」において支持したいという気持ちが、私には強い。
しかし、目の前で殺されていく人たちの存在を、座視することもできないし、それが正しいことだとも思わない。
こういう「迷い」の中に、私はこの四半世紀、ずっと揺さぶられ続け、その時々、決断せざるをえなかったのだが、それが間違いだったとは思わない。

本当は、この宇宙には、善も悪もない。ただ、人間という生物が生きる上で必要とされる、善や悪という感情を持ってしまっているというのは、否定できない事実だろう。ならば、その不確定な「人間的事実」と向き合っていくしかないと、私は今でも迷いながら生きている。

そして、そんな私に、今も渡辺一夫は「それは人間であることとなんの関係があるのか。」すなわち「人間であるためには、何を選ばなくてはならないのか。」と、常に問いかけてくるのである。

初出:2019年12月9日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

 ○ ○ ○


 ○ ○ ○


 ○ ○ ○




 ○ ○ ○

 ○ ○ ○

 ○ ○ ○

 ○ ○ ○


この記事が参加している募集

読書感想文