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木下武男『労働組合とは何か』 : 〈特殊日本的〉な常識の呪縛

書評:木下武男『労働組合とは何か』(岩波新書)

非正規労働者が、全労働者の4割を占め、正規・非正規を含めた労働環境が悪化の一途をたどっている現在の日本において、何をどうすれば、この状況を変えることができるのであろうか。

このような「危機感」を持っている私たちの中にも、次のような考え(思い)があるとは言えないだろうか。

 「国が、何とかしてくれる(何とかして当然だ)」
 「会社が、何とかしてくれる(何とかして当然だ)」
 「組合が、何とかしてくれる(何とかして当然だ)」

こうした考え方の根底にあるのは「私たちには、人間らしい生活をする権利があり、それは守られなければならない」という大原則だろう。
つまり、「憲法がそれを保障しているのだから、国がなんとかしろ(そのために税金を払っているのだ)」「会社は、国の定めるところに従って、労働者の権利を十分に保障すべき」「組合は、労働者のために戦うべし」といった感じになるのだが、それはしばしば「自分自身は動かなくても、その責務を負った各種機関が、その責を果たすべきだ」という「あなた任せ」な考え方になりがちだ。

しかし、「労働組合の歴史=労働運動の歴史=労働者の歴史」を顧みれば、こうした「お客さま」感覚が、いかに間違っており、甘っちょろいものかということがわかる。

つまり、よく言われることだが、各種の「人権とは、先人の血で贖われたもの」であり、神の手から無料(ただ)で各個配布されたものではないのだ。それは、労働者自身が、「国家・権力者」や「資本家・企業・会社」といったものと闘って、勝ち取ってきたもの(獲物)であり、その根底にあるのは「弱肉強食の世界」なのである。

無論、人間の世界は複雑であり、ホッブスが仮定した「万人の万人に対する闘争」が、すべてではないだろう。これは一種の極論であり、たしかに人間には、他人を思いやり、困っている人を助けようとする心も存在する。
ただし、それもまた「すべて」でないことは明らかなのだから、他者が闘いを仕掛けてきた時に備えて、自身を守るすべを持っていなければならない、というのも当然だろう(無論「非武装中立」などもあり得るが、何も備えをしないという選択肢はない)。つまり「誰かが、何とかしてくれると」という「他者依存」的な考え方は、間違いなのだ。そして、事実そうであるからこそ、「労働者の権利の闘い」は血みどろな闘争の歴史であったし、今の日本もまたそうなのである。ただし今は、労働者の方が、一方的に押し込まれている局面なのだ。

本書著者は、現在の日本の労働状況を変えるにはどうしたらいいのか、どうすべきなのか、といった実践的問題意識に発して、それは「真のユニオン(労働組合)」の設立しかないと考え、では、現在の日本に必要な「真のユニオン」とはどのようなものなのかを探るために、労働組合の歴史を振り返って検討し、現在の日本において、どうして現状の労働組合が機能しないのかを明らかにしている。そして、それが機能しないのなら、新たに設立されるべき「真のユニオン」とはどういうものなのか、を示しているのだ。

その意味では、本書は、著者の「労働組合」論であり、その観点から、現在の日本の労働組合が、いかに「労働組合の本質を外した、異形の労働組合」かを明らかにしている。
私たち日本人が、長らく馴染んできて、当たり前にそれが「労働組合」だと思っているものが、いかに「非労働組合的な労働組合」であったかを、明らかにしてくれるのだ。

平たく言えば、「日本の労働組合」というのは「資本家の都合で歪められた、夢想の労使協調の労働組合」にすぎない。「労使は、話し合えば、折り合える」という「他者(資本家)の善意」を前提とした労働組合なのである。
そしてそれは、戦後日本の経済復興期には、うまくいっているように見えたのだが、実のところそれは「好景気を背景とした、余裕のある資本家側による、労働組合の骨抜き策(期間)」であったと考えていい。本来ならば「労働者のことを慮ってくれる資本家」なという「夢想」に酔うことなく、「笑顔の裏」を透視しながら駆け引きし、有事に備えるべきだったのだが、あまりにも好景気が長く続いたために、私たちは「労使協調は永遠に続く」と勘違いし、労働組合は牙を抜かれて「闘えない労働組合」に変質させられてしまっていたのである。
そして、バブルの崩壊とともに、そのツケが、徐々に「弱者となった労働者」を襲うようになっていったのだ。

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(企業御用労働組合の問題「日本通運の御用組合が訴えられました!」より)

本書を読めば明らかだが、「労使協調」を前提とした労働組合では、資本家が本気で牙をむいた時には、闘いようがない。すでに「武器」を放棄しているからだ。
だから著者は「闘える労働組合」こそが「真のユニオン」であるとする。そして「真のユニオン」とは、誰かがどこかで組織して、「私を助け(に来)てくれる機関」ではない。私たち自身が、それを作らなければ、どこにもそんなものは存在しないのだ。

つまり、「労働者の権利」は、あるいは、各種の「労働条件」は、労働者自身が、闘って勝ち取るものであって、「与えてもらう」ものではないし、与えてもらえるものでもない。
しかしまたそれは、労働者が一人で戦ってどうなるものではない。巨大な資本の前に、個人は無力であり「権利など無いに等しい」。だからこそ私たちは、本書著者の示した「真のユニオン」像などを参考にしながら、自分たちの「ユニオン」を作らなければならない。でないと、どこからも「救世主」など、現れはしないのである。

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しかしまた、日本人は、自分たちの手で「権利」を勝ち取ったことがない、とも言われる。
「四民平等」の「人権」が、曲がりなりにも保証されたのは、外国からの侵略を恐れた政治指導者たちが、日本を「戦える国」に作り変えようとしたからであって、人々の「人権」を保証するためという「善意」からなされたものではなかったが、それでもそれは「自ら労することなく与えられたもの」ではある。
また、敗戦後の「民主化」も、占領国アメリカの強力な指導があったればこそで、それがなければ、日本人の多くは、いまだに「現人神・天皇」の「赤子」として、お国のために一身を捧げるのが当然とされるような「人権の保障されない二等国民」であったことだろう。

このように、日本人一般は、自分個人の「人間としての尊厳を守るための権利」を、自分たちの手で勝ち取ったことがない。それ(人権)を独占(制限)しようとする権力者・有力者たちと闘って、その手から奪い取った経験がない。その戦いにおいて、多くの血を流したことがない。

無論、少数有志の血が流されたのは事実だけれど、私たちの多くは、そうした人たちの「犠牲」の存在を学びもしなかったし、よくも知らないから、「人権」とは「天然自然に与えられているもの」だなどという「甘ったれた幻想」に浸っていることもできたのだ。

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だが、現実は、多くの場合「弱肉強食」であるし、それは日本の現状が証明していよう。
かつての「一億総中流」とは、本来「富める者と貧しき者の二極化傾向」が当然のこの「弱肉強食の世界」にあって、「二極化の潜在的進行期間=表面的な一瞬の無風」の時間に過ぎなかったのである。

果たして、こんな「甘っちょろい」私たちに、つまり、資本家たちとの「戦争を知らない子供たち」でしかない私たちに、戦闘組織としての「真のユニオン」など作れようか。
一一しかし、この問いは無意味である。
なぜなら、それが実現できなければ、「弱者」は食い物にされるのが、必然の結末だからである。

『 労働者の悲惨な状態を改善するのに役立つ労働組合を一刻も早く創らなければならないが、ここで重要な「主体の意識性」を忘れてはならない。意識性が加わらなければ実を結ぶことはない。その「主体の意識性」は労働組合の変革構想が明確になることで生まれてくるだろう。』(P260)

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「主体の意識性」が先か「労働組合の変革構想」が先かは、私にはよくわからないが、ともあれ、両方が揃わないことには、それが実現しないのは確かであろう。
本書を読み、論評して満足するだけであってはならないが、「弱者を救わなければならない!」と一人でいきり立ってもどうにもならない。
だからこそ、「どう行動すべきか」から出発している著者の労作である本書を、まずは多くの人にオススメしたい。

初出:2021年4月7日「Amazonレビュー」
   (同年10月15日、管理者により削除)
再録:2021年4月16日「アレクセイの花園」
  (2022年8月1日、閉鎖により閲覧不能)

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