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松尾匡 『左翼の逆襲 社会破壊に屈しないための経済学』 : 君は何故に、そして誰が為に戦うのか?

書評:松尾匡『左翼の逆襲 社会破壊に屈しないための経済学』(講談社現代新書)

本書のキモは「反緊縮」にはない。
本書でも「反緊縮」についてひととおりの紹介はされているが、その点だけなら、むしろ著者近年の他の著作の方が、詳しく解説されてもおり、わかりやすい。

本書が語るのは、著者が「反緊縮」をもって、日本をどうしたいのか、それはどのような信念に基づいたものなのか、という点である。つまり「方法論」の本ではなく、「著者の信念とその想い」を語った本なのだ。
その意味では、私のような典型的な文系人間には、著者近年の「反緊縮」本よりも、本書の方がずっと面白かった。やっと、著者自身の「顔」が見えてきたからである。

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なぜ「反緊縮」なのか。それは無論、長期にわたるデフレ経済の中で、かつて「一億総中流」と言われた日本社会も、中間層の多くが経済的に没落して、一部の富裕層と大半の困窮層に二極化してしまい、生活に困窮している人が大量発生しているからに他ならない。

この状況を変えるのは、どうすればよいのか。

ひとつには、現在の自民党政権が進めているように、「緊縮経済」によって税金の無駄遣いを減らす一方、金儲けの主体である大企業を税制的に優遇して儲けやすい環境整備をし、大企業が儲けることによって日本が国家として経済的に豊かになる。大企業が儲けて税金を払えば、日本は豊かになり、今は困窮に甘んじている層も、そのオコボレにあずかって、いずれ生活水準が向上するだろう、という考え方である。

しかし、これは実際のところ、うまくいかない。
と言うのも、大企業も、富裕層の仲間である政権政治家も、もとより「貧乏人を豊かにする」という目的意識など持ってはいないからである。
大企業や金持ちがいくら儲けても、そのお金は困窮層には回って来ない。困窮層は困窮したままの方が、安い労働力として使えるからだし、そもそも、大企業や金持ちは「自分たちの才覚で稼いだ金」をどうして「ボンクラ故の自業自得で貧乏に甘んじている困窮層」に「慈善的に恵んで」やらねばならないのか、と考えているからである。

したがって、大半の困窮層が「緊縮財政」に堪え、大企業優遇に堪え、消費税増税に堪えてまで、日本の国家経済を豊かにする必要はない。いくら日本の経済が豊かになったところで、それで多くの困窮層まで豊かになるということは、ないからだ。
わかりやすく言えば、金持ちや権力者以外の大半の日本人は、騙されて「利用されているだけ」なのだ。だから、私たち「金持ちや権力者以外の大半の日本人」は、自分たちのために、日本を豊かにする方法をこそ採用しなければならない。そして、その手法こそが「反緊縮」なのである。

「反緊縮」とは、簡単に言えば、「金持ちや権力者以外の大半の日本人」のために、政府はもっともっと金を出せ、そのことで消費を喚起してデフレを脱却せよ、ということであり(そのあたりの詳しいことについては、著者の「反緊縮」本を読んでもらおう)、さらに政府は、大企業や富裕層への優遇税制を止めて、むしろかつてのように累進課税でしっかりと税金を取れ、とそういうことである。
もちろん、これだけ読めば、「そんなことしたら、日本の企業が国際競争力を失って金儲けができず、日本が丸ごと沈没してしまうから、金持ちも貧乏もなく、元も子もなくなってしまうではないか」と心配する人が少なくないだろう。だが「その心配は要らない」と説いているのが、著者の「反緊縮」本なので、著者の主張に疑念のある方は、まず1冊くらいは著者の「反緊縮」本を読んで、自分の眼で、その真否を確かめて欲しい。

その上で、このような「反緊縮」を訴える、著者の根本にある考え方を語ったのが、本書でなのある。

著者が、なぜこのような「反緊縮」を訴えるのかと言えば、それは無論「貧乏人を救うため」であって、「金持ちも貧乏人も、平等に救うため」ではない。
著者の「反緊縮」提言が、結果として「金持ちも救う」ことになったとしても、それは結果であって、目的ではない。だから、金持ちや大企業が儲けたのならば、それは必ず、その他の人々に還元されねばならないものであり、それは義務であって、「慈善的な寄付」などではないのである。私たちの多くが勘違いしていたのは、たぶんここなのだ。

私たちの多くは「儲けた金は、儲けた人のものだ」と単純に考えているのではないだろうか。「だって、その人が、努力し苦労して稼いだ金なんだから、その人が自由に使うべきであって、他人がとやかく言うべきではない」と。
しかし、この考え方は「お人好し」に過ぎよう。

「政府」とは、国民の負託を受けて「権力」を行使するのだから、その政策は「すべての国民のため」であり、「一部の者のため」であってはならない。ならば、この日本における優位的立場において、金儲けをできた人というのは、基本的には「日本国民全体」のために、金を儲けさせてもらった、と考えるべきなのである。
ところが、人間とは欲の深い過剰性の生き物だから「俺のものは俺のもの、お前のものも俺のもの」ということになりやすい。つまり、稼いだ金は「全部自分のもの」だと考えたがるのだが、じつはそうではないのである。

私たちは、誰もが、自分のために働き、同時に日本に住むすべての人のために働いている。だから、税金を払うのだ。それぞれの能力の応じて、他の人に対する責任を負うのであり、貧乏人は貧乏人なりに、金持ちは金持ちなりに、その責任を負わなければならない。不利な立場にある者は不利な立場なりに、有利な立場にある者は有利な立場なりに、その責めを負わなければならないのだ。
だが、多くの人は「自分の稼いだ金は、自分だけのもの」という勘違いにとらわれているが故に、金持ちや大企業の「無責任」を許してしまっているのである。

だからこそ、いま必要なのは、勘違いの「公平」ではなく、正しく「弱者をこそ救う」ことなのだ。「多くの人」に還元すべき儲けを不当に抱え込んでいる大企業や金持ちから、差し出させることなのだ。
私たちはもう「我慢して、国家経済を建て直せば、いずれ私たちも救われるだろう」などという「甘い幻想」は捨てて、いま目の前にいる「困窮した人々」「苦しんでいる人たち」を救うために、「政府」や「大企業」や「金持ち」に断固として、正当な要求を突きつけなければならない。「出すべきものを出して、こちらへ回せ」と。

著者が、本書で訴えるのは『苦しいから反対するのでいい』(P124)ということだ。
「政府」や「大企業」や「金持ち」は、人々の「苦しみ」については、結局のところ「自業自得」であり「身の程を知れ」という理屈で正当化しようとするし、多くの人はそれを「頭」で吞んでしまい、自身の「苦しみ」を受け入れてしまう。

しかし、その人に「金を稼ぐ能力」があろうとなかろうと、普通に(他者を害さず)生きている人が「苦しむ」のなら、その「苦しみ」は否定されるべき誤りであって、肯定されてはならないし、自身で肯定してもならないものなのだ。
私たちは今、知らず知らずのうちに「資本の論理」に「飼い馴らされ」て、金儲けの道具にされているということに気づかなければならない。人間の価値は、「いくら稼げるか」だけではない。もっと大切なものが、いくらでもあるのである。

「金持ち」も「権力者」も「貧乏人」も「生活無能力者」も、同じ人間であり、同じように生きる権利があるのだという「原点」の意味を、私たちは、今一度ではなく、初めて、きちんと考えるべきだ。
「貧乏人」は「使い捨ての道具」、で良いわけがない。「生活無能力者」は廃棄処分にすれば良い、わけではない。
人間とは、多かれ少なかれ「いろいろな側面」において異なっており、そこに恣意的な「価値的線引き」などすることはできないし、経済的・政治的有力者たちによって、恣意的な「一面的な評価基準」を採用させるわけにはいかないのだ。そんなものを許してはならないのである。

あなたが、有能であろうと無能であろうと、金持ちであろうと貧乏人であろうと、誰かにとって、誰かの基準において、あなたが「かけがえのない人間」であることに、違いはないのである。
だから、一方的な「価値基準」を押しつけられ、洗脳されて、それを受け入れてはならない。私たちの誰もに「生きる権利」と「生きるために戦う義務」がある。そして、それを否定する権利は誰にもないし、それを許す権利もないのだ。

本書の推薦文として、ブレディみかこが『イデオロギーではなく人の命と幸福を。左翼の故郷を見よ、と本書はさけぶ』と書いているように、最後は「イデオロギー(左翼か否か)」の問題、「反安倍(反菅)か否か」といった「政治的立場の問題」などではない。
著者が望むのは、「すべての命のため」であり、それがそのまま「私たち自身のため」なのである。

初出:2020年11月30日「Amazonレビュー」

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