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令和の幸福論 『ピラミッドから逃げる。できるだけ、遠くまで』

今日はわたくしの思う令和の世の幸福論について。

「ピラミッドから逃げる」ってすごく抽象的な表現なんですけど、このワードを聞いて、「わりと魂レベルでピンとくるよ」とか、「すなお氏が何を言おうとしてるのか、読む前からわかる気がする」ってかたも中にはいらっしゃると思うんですよね。

(そんなあなたは魂のおともだち🙌)


以前、『ほんとうの世界を生きていこう』という記事を書いたことがあって

その中で、「いつも比較・競争にさらされているバトルロワイヤルな日本の教育怖かったなあ…」ってことを書いたんですね。


いつも競争しなきゃいけなくて、比べられて、いつだって「今より良く」なろうとしなきゃいけなくて。

わたしの目に映る大人たちは、いつも将来への憂いに顔をくもらせて。

悪いところを直せって迫ってくるし、がんばってることは当たり前のこととしてスルーされる。

自分はどれだけがんばっても、周りの人にとっては無力な存在で。

競争すること・苦手を克服すること・ランク付けのために人や自分と戦うことに参加「させられる」、そしてそこから逃げられないことがとてもこわかった

『ほんとうの世界を生きていこう』より



私が小さい頃から周りの大人たちに言われてきていたことって、ピラミッドの上層のほうに入る努力をしなければ、幸せになることってできないんだよ。ってことだったと思うんです。

ピラミッドの下のほうの行かないように努力しなければ、社会はあなたを許しませんよ。って。

(そんなこと言ってねーよって言われるかもですが、まー要約するとそういうことだよね)



このピラミッド式の幸福観って、人との比較を前提として成り立ってるよね。

こういうのって…

超、他人軸。 まじ、迷惑。



そしてね。この『ピラミッド式の(超他人軸の)幸福観』の中で生きてきて一つ怖いことに気がついたのですが、

どんな努力をしてどんな「上」のほうに一度ポジションを取ったとしても、その中でまた新たなピラミッドが形成され、どこまでも「もっと頑張れ」と追いかけてきて詰め寄ってくるのが、このピラミッド式の幸福観というものなんですよね。


自分の得意な何かで一定の評価を得たり結果を出したとしても、「もっと凄い人も世の中にはたくさんいるんだから、現状に満足せずに高みを目指して挑んでいこうよ」みたいなね。笑

人間まじウケる。どんだけドMなんだよ。

ドMすぎて、付き合いきれねーんだわ。(こっちはそこまでマゾじゃねーんだわ)



この世界観で生きてる以上さ、一握りの「上」のほうの人になるしか自分を認められない・幸せを感じられないということになるし

そんな世界観の中に身を置いている限り、自分を好きになんてなれるわけがないんだよね。

もっと足さなきゃ、もっと頑張らなきゃ、自分を認めるなんてできないよって。


そんなんやってたら病気になるか死にたくなるよね。

人間やめたくなるの、不思議でもなんでもないよ。

むしろ正常な反応だとおもう。ほんとに。



………


私がピアノ習ってたときの話なんだけど。

その頃って時代的にまだまだ他人軸の価値観が真っ盛りの頃で、やっぱり「人と比べて自分は上手いのか、そうじゃないのか」っていう部分ばかりを見て、

その「人との比較」というものさしを使って自分のピアニストとしての価値を測っている人が多かったようにおもうの。(私自身も含めてね)

あ、余談だけど、人と比べて「上手くないから」とか「評価されてないから」という理由で自分のことピアニストだって言える日本人ってほんとに少ないよね。ピアノが好きで弾いてるひとみんなピアニストだと思うんだけどなあ〜。。。


「◯◯ちゃんより早くあの曲が弾けたから勝った」とか、「◯◯ちゃんは私より年下なのに上手だから負けた」とかね。

(あんまり口には出さないけど、みんなこういうの心のどこかにあったと思う)


すっごい典型的なピアノ学習者&親あるあるで、「何年生でショパンの幻想即興曲が弾けたら凄い、勝ち」みたいな価値の測りかたがあると思うんだけど

これって本当に他人軸な発想で、こういう他人との比較が前提の物の見方をしている限り「一握りの人しか認められない、優越感⇔劣等感の世界」から抜け出すことってできないと思うんだよね。


※ 私は私の幻想即興曲が一番好き🎼

クラシック詳しい人とか幻想即興曲のことよくdisったりしてるけど、わたしは純粋にすげー美しい曲だとおもう。


だってさ、

平均より早く何かの曲が弾けるようになったとしても、もっともっと難しい曲が弾けるようになったとしても、どーせ次は周りのモブキャラたちに「せっかくピアノやってても音大行かなきゃ/コンクールで入賞しなきゃ意味ない」とか言われるでしょ。

その次は「ピアノで飯食っていけないなら意味ない」、その次には「音楽やってるなら有名にならなきゃ…」(以下エンドレス)ってね。

そうこうしてるうちに、自分まで自分にたいしてそんな呪いの言葉を浴びせるようになる。

そしてその呪いの言葉を自分の中で反芻する。何千回も、何万回も、無意識に。


こんなのって全然幸福じゃないよね。


私はピアノやってたからピアノを例にしか書けないんだけど、こういうのって音楽の世界に限らず、文章の世界でも、勉強でもスポーツでもアートでも、どこでだって起こってるよね。

日常生活の中でも。


私を含め人間は愚かな生き物だから、油断するとすーぐ他人と比較するための材料を見つけては、「勝った負けた」と騒いでキャッキャしてしまうけれど

いいかげん、「勝者の裏に敗者あり」 の幸福観から脱してもいいんじゃないかなあと、おもうんだよね。


だって、人を負かさなきゃ幸せになれないなんて、狂ってるじゃん。

ピラミッドの上のほうまで這い上がらなきゃ人としての価値を認められないなんて、愚かにも程がある。


こんな狂った世界観に早いとこ見切りをつけない限り「自分を認めよう」とか「自己受容しましょう」なんてまじで無理だから。っほんとに。

まー比較・競争の世界観のほうが好きな(そっちのが生きやすい)人はそっちでいけばいいんだけどね。

でも、「それじゃちょっと辛いよ」って人まで、わざわざそっち(比較や勝ち負けの世界)に合わせて生きる必要ってもうなくなりつつあるよねっていう。


もういい加減、自分は自分だけの音を奏でようぜって。

そんな感じ。


…………


あーそれと、話は全然変わるんですが、

上に貼ったインスタアカウント(昔の私のアカウントです)をこの間掘り返して見ていたら

ちょうど私が “発信者としての発信” ができるようになる直前の頃に書いた『こうしたらライフワークが見つかったよ』『ライフワーク、そこにあったのか…😳』ということについての文章が出てきたので、そのことだけ最後にちょっとシェアさせていただきますね。

(当時の文体とか読んでて恥ずかしすぎたので、元の文章はすでに削除済みです。笑)


ここからはサブスク版読んでくれてるかただけのおまけになります。

「ライフワークのみつけかた」(=『ライトワーク、してみる?会議』⬇で言うところの「自分を表現するための「手段」や「やりかた」のことです)について、実体験に基づいて “ちょっとふつうではない角度から” 書いていくので

楽しんでいただければうれしいなーと思います。


……………


2018年頃のインスタの投稿を見ていたら、その中に「私って何やっても中途半端」「(周りの)みんなみたいに命削ってまで頑張れない…」みたいなことが書かれていたんですよね。(その頃の投稿はもうほとんど消してしまいましたが)

そしてそこから開き直って、ライフワークを見つけて歩みを進め始めた2019年。

その境目の時期の私に何があったのか、私自身忘れてしまっていたのですが、当時のインスタにはリアルタイムでしっかりと綴られていたんです。

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