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自分のど真ん中を見つめ続ける勇気について。

少し前の話なのですが、タレントの壇蜜さんが、ご自身の結婚についてお話をされていた際に「結婚するから幸せになるのではなく、ひとりでも生きられる自信がついたから結婚しました」といったニュアンスのことをおっしゃっていました。

私は結婚生活の経験がないので、結婚というものについては自分の言葉で語ることが一切できないのですが、これって恋愛についてもほんとに同じことが言えるなあと思ったのです。


相手に幸せに「してもらおう」という思いが強いと、恋愛どうこう以前に人との関わりなんて上手くいきようがありません。

反対に、相手を「自分が」幸せにしなきゃと頑張りすぎるのもよくない。

だってこれって、どちらにしても自分と相手の両方を侮辱している考えかただから、遅かれ早かれどこかで限界がきて、崩れていってしまうんですよね。


先日公開した恋愛noteの中で、こんなことを書いたのですが。

「『決断の性』を生きる。」より


間違いではないのですが、この文章には決定的に足りないものがありました。

さらっと書いてしまったけど、「私が純粋に私として生きる」って、時にすごく孤独なことなのです。

これって自分のアイデンティティの在り処を相手のもとに依存させずに、自分自身の足で立つということを意味するものだから。


上の文を見ただけだと、やりようによっては随分と楽勝な感じで、恋愛って進んでいくような印象を受けるかもしれません。

でも実際のところ、誰かのことを好きでいるって、時々すっごい苦しいし、すごく辛いし、痛いし、むかつくし、イライラするし、とてもさみしくなる。


なぜなら、自分が思うような愛情表現をしないのが他人という生き物だから。

お互いにとっての異物同士が惹かれ合って、なんとかひとつになりたいと願うのが、恋愛というものだから。


私自身、「もうダメかもしれない」「もう全部やめちまおうかな」「やっぱりそんなに強くなれないよ」って何度も思うのですが(そうねえ… 一ヶ月に一回くらいは思うのよねえ)、

それでもさみしさだったり苛立ちを自分の中で解消して立て直したあとに待っているのは、いつだって「信じていてよかった」という気持ち。


信じるって、相手を信じるってことじゃありません。

相手を信じたいと思った、自分の気持ちを信じるんです。

苛立ちやさみしさや痛みの奥のほうに隠れてる、「愛したい」という私の気持ちを信じるんです。

八十億の人の中からたった一人、相手を見つけ出して恋をした、私のこの人生を信じるんです。


他人である相手の気持ちなんて、どれだけ近づいたって、完全にわかることなんてありえない。

そんな不確かなものを信じようとしても、それは雲をつかむようなものだから、だから相手を好きになった自分自身のことを信じるんです。


相手と上手くいっていても、仮にそうじゃなくなったとしても、幸せになるチカラをちゃんと持ってる自分自身を信頼する。

そうすると相手のほうも、勝手に信頼されてるように感じるしね。

自分で自分を幸せにできていると、相手は「自分がこの人を幸せにしてるんだ」って勝手に感じて、勝手に自信を持ってくれる。

そしてその自信の供給源となっている女性に、持てる力をもっともっと注ぎたくなる。

これ男と女という生命体における、パートナーシップのハッピーサイクル。


しかしながら、先ほども書いたように、違う生き物同士の相手と恋愛をしながらも自分をしっかり保つってある意味本当に孤独な作業です。

これ↓は今執筆中の、『これまでの恋愛で学んできたこと総集編』的な長編noteのまえがきの一部なんだけど。

ほんと時々やってられなくなるし、全部投げ出したくなるし、相手のこと理解も信頼もできなくなるし。


それでも、自分自身と相手のことをずっと大切に思っていたいと思ったら(大嫌い!って思う時も含めて、大切に思っていたいと思ったら)、やっぱり「自分のことを信じる」っていう一点だけは頑張らなければいけないって思います。

相手のこと「生きててくれるだけで尊い、ありがてえ」って、思っていたいなら。

相手を好きになった自分のことを、大好きでいたいなら。

自分のこと信じるための根拠を、相手の言動に依存させちゃいかんのよね。


同性間の恋愛については経験がないので下手なことは言えないのだけど、男女間の恋愛において言えるのは、私たち女性の『自分の本音と孤独を取り扱うチカラ』が、愛する人との幸せな未来を育てるってこと。

男と女では愛情の表しかたや感じかたがまるで違うから、特に女性は孤独を感じやすい。不信感にも陥りやすい。

体の構造が違うから、これはもうしょーがないのよな。


だから女性は、相手と向き合っちゃいけない。

相手を見つめるのは男性の役割だから。


男は女を見つめ、女はいつでも自分のド真ん中を見つめ続けなきゃいけない。

 
物理的には熱く見つめ合っていても、心のなかでは真っ直ぐに見つめ合っちゃいけないのが男と女という生き物で。

(こんなん大人になるまで誰も教えてくれなかったけどね)


女性は共感の生き物だから、(優しい人は特に)ついつい男性の気持ちを察したり寄り添おうとしてしまうけど、

でも、女性が自分自身の〝 ド中心 〟をしっかりと熱い視線で貫き続けていないと、同じように男性側の愛の視線も、ふらふらとどこか他の場所に泳いでいってしまうのよ。

そうやって男性の愛を注ぐ視線の先が散漫になると、上で書いたハッピーサイクルが回らなくなって、そして二人の間の愛の歯車が狂っていく。


だから、その性質を考えると、女性は自分自身に恋をするという感覚くらいでちょうどいいのかもしれないなと思う。

相手と出会い恋をした自分自身の人生に、日常に、恋をするように夢中になる。


他人を信じようとする前に、自分自身を信頼する。

他人に恋をする前に、自分自身に一生懸命恋をする。

他人を喜ばせようとする前に、自分を歓喜で満たしてあげる。

他人に孤独を埋めさせようとする前に、自分の孤独を溺愛する。

他人に追われようとか考える前に、自分の気持ちを全力で追いかける。

他人と向き合おうとする前に、自分の本心を穴が空くほど見つめてあげる。


そうしてやっと、他人である愛する相手と、対等にニュートラルに、思いを伝え合える自分になれる気がするんだよね。

こうなってはじめて、お互いを自然と幸せにし合えるような、恋愛というコミュニケーション劇のスタートラインに立てるって、私はそう思ってる。



まあ、ここまで書いといてアレなんだけど。

私は、恋愛に正解も不正解も成功も失敗も何もないって思ってます。

傷付くことが間違いだとか、楽して愛されることが正解だとかも、別に思ってない。

たくさん傷付けばいいし、たくさん泣けばいいし、たくさん執着して、たくさん恨めばいい。何も間違いじゃない。


でも、やっぱり振り返ってみると、なんか悔しいから。

昔、好きになった人と上手くいかなくて、「もう消えてしまいたい」って思ったことがあったんだけど、そんなの悔しいじゃん。

自分自身にたいして、こんな失礼なことないよね。


たった一人の他人の言動ごときで死にたくなってる私、目え覚ませよって。言いたいんだよね。

何死にたくなってんだよ顔上げろよ、私がついてるから、もうあんたを泣かせないからって、あのときの弱虫すなおさんの震える肩を抱いてやりたいんだ。


だから、失恋戦隊すなお氏の、心の傷たちが満足するまで、私は恋の話を書き続けたいなって思います。

というか、私自身が恋愛にたいして持っていた固定観念への自分の中の苛立ちと恨みが収まるまで(笑)、がんばりたいと思います。


失恋がダサいなんて思わないで。

片想いがかっこ悪いなんて思わないで。

愛されないと価値がないなんて思わないで。

恋に破れ痛みを知った私たちは、そうだこれから、一緒に幸せになっていこうよ。

いつかの私に、私はそう伝えたいから。



大変長くなりましたが、本日はこれにて解散です。

もうしばらくnote書けないんじゃないかってくらい、なんか熱くなっちゃいました。照れる。

ここまでお付き合いくださったかたがいらっしゃいましたらご清聴誠にありがとうございました。

それではまた。


+++


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