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言葉に関する感触、それからサイコティック・プロセス、また読んだ自己啓発の本について

自分が文章を書くということはどれほど自明なことなのでしょうか。
以前は、自分は文章を書くことに苦労などしていなかったと思います。
文章を書くことに苦労することが多くなったのは、精神疾患の症状が出てきてからだと思っています。
精神疾患の症状についても、次の手帳の更新では、精神障害者保健福祉手帳2級になるかもしれないです。診断名が「統合失調症」と「解離性障害」です。
それに加えて、その診断書には、「離人症」「自我障害」という記載もありました。
その点については、読む人に自分のアイデンティティの状態が無茶苦茶になってしまう恐れがある文章であること、また自分の言葉のニュアンスを自分でコントロールすることができず(また自分でも「ニュアンス」というものが自分の言葉でどんなものか自覚することができず)自分には「文字」だけが浮かび上がっている状態ですが、読む人には相手の心理を想像しながら呼んでいるものになっているかもしれず、その点については最近読んだ本にある通りだと思います。

こういう反応は相手の言葉の意味内容や、直接的に言葉にはしていない相手の気持ちを理解しているから、ドイツ語でいえばフェアメーネンの聞き取り方をしたわけだ。それが理性ある聞き方の一つだ。理性ある聞き方は、相手の言葉の向こう側にあるものを汲みとろうとする態度、あるいは相手をいたわろうとする態度、やさしさが含まれていることになる。ちなみに、「(その場の)空気を読む」ことも一種の読み取りといってもいいだろう。理解するためにできること書物を読む場合もほぼ同じだ。読書もまた、相手の言葉を聞くことだからだ。だから、その書物にどういうことが描かれているのか、どういう思想が表現されているのか、理性ある読み方をしていないければ把握できないことになる。記載されている言葉をなぞるだけならば、どんな本もありきたりで退屈なものになってしまう。

白取春彦 『生きるための哲学』 ディスカヴァー・トゥエンティワン、2012、Kindle(太字強調はnote作成者による)。

https://d21.co.jp/book/detail/978-4-7993-1166-0

自分自身、言葉をなぞっているというか、これはASD(自閉症スペクトラム障害)の人にありがちなことなのですが、言葉が字義通りにしか理解されないということなんですよね。自分のブログを読んで、この人は鈍感だろうなと思った方は自分がASDと診断された経験もあること(その時は、ASDとADHDだと言われていました)も一応踏まえていただいたらと思います。
字義通りに何かを伝えることには実は誠実さもあると思います。
実際、ある先生には誠実だと言われたこともありました。
自分は自己言及をすると(ジャン=ジャック・ルソーは自己言及癖、被害妄想癖があったようです)それが妄想になっているのか、事実そうなのかということが人に分かりづらくなると思います。
私は例えば、漫画などである吹き出しの関連で言うと、この吹き出しの中身が「心の声」だと思うのですが、その「心の声」を参照したうえで、自分の態度・反応を決めていくのがおそらく健康な人のあり方なのだと思います。

↑の記事のイラストでも、男性の側がじーんとなり、「また君を好きになる……」とあって「こちらこそ」と言っていますよね。
これがおそらく心理的に健康な人の内面の状態だと思います。
私の場合はその心理的健康が損なわているので、内面の声(吹き出しに当たるもの)を参照して話すというよりは、もう先に話してしまっているし、参照している声も「女性の声」の方になっています。
自分の写真が前のはあまり綺麗に映れてなかったのかもしれないので、もう一度過去のアルバムあさって綺麗そうなものを見つけてきました。(写真は念のため削除します。)

こういうので許してもらえないでしょうかね。ルッキズムが支配している世の中であることはかなり私も批判的に考えているのですが(なので、病気の関係もあり、今はかなりラフな格好で外出することが多いですが)一応世の中の常識に合わせて人を不快にさせない(と思われる)自画像をアップしておきます(なお、現在は男性の見た目で生活しています)。ルッキズムについては、私が読んだのは次ですね。

ルッキズムについて悩みながら書いていくこともできるかと思います。例えば、ひらりささんという人は実際、ルッキズムに悩みながら生きているということを記事で言っていました。

しかしその一方で、整形やメイクを駆使して社会にインストールされている「美」に寄せ、コンプレックスを克服しようとする人たちのことも、あるいは、自分の顔も他人の顔も見ることをやめ、「美」の物差しを用いること自体に声をあげる人たちも、それぞれ、凝り固まった美意識の中で戦う仲間だと信じている。

ひらりさ(インタビュー)「私が自分の顔を嫌いになった瞬間。今だから話せる、ルッキズムのこと【ひらりさ】」https://telling.asahi.com/article/13049758(最終アクセス日:2023/09/04)

私は自分は男性なのだとは思います。男性の心は参照可能なもので、それに参照しつつ言葉を発することができるけれど、女性の心もまた生じていて、そちらは正直なところサイコティック・プロセスのなかにあるような内面で、確かにちょっと近寄りがたいかもしれないです。
自分は仕事をしている時は男性の心ではなく、女性の心を参照しているように思います。それは、その方が仕事上のコミュニケーションが取りやすいからだと思います。ちなみに、自分は今は男性としか言いようのない見た目をしています。髪を伸ばしていた時は違う風にも見えたかもしれないけれど。
私が解離の問題について言及するのは、ルソーが晩年良くしていたであろう自己言及になってしまうので、それが過剰になると、人に伝わらない話になってしまうのだと思います。
自分自身、その自己言及は行き過ぎると危険なのだなあと思っています。
内面を参照する時に、参照している内面のモードが違うと解離性の人格障害になると思うのですが、私もそれはありますね。
参照している内面が違うということ自体は解離ではあるし、男性の意識と女性の意識が同じ人のなかにあるケースは、Xジェンダーではあります。

https://jobrainbow.jp/magazine/xgender

2 両性 両性とは自分の性が男性でもあり、女性でもあると認識している性自認です。「自分の中には男性が◯割、女性が◯割」存在している」というように男女両方に属しているという感覚で、この割合は本人の中でほぼ変わりません。
4 不定性 自分自身の性自認が流動的な性自認を不定性といいます。言い換えると、様々な性の間で自分の性が揺れ動いているという人をさします。 不定性における性の揺れ動きは、2つの性の間に限定したものではありません。たとえば、男性・女性の中間地点から女性との間にかけて流動する人もいれば、男性・女性・Xジェンダー無性のような複数の性の間で流動する人もいて、どちらも不定性に当てはまります。 先ほど紹介した両性のうち「日によって自分の中の男性・女性の割合が変わる」という人も、不定性です。

JobRainbow 「Xジェンダーとは? 【男女の枠に属さないってどういうこと?】」 (最終アクセス日:2023/09/04、太字強調は元ページ作成者による) 

こうした両性ないし不定性Xジェンダーの観点からすると、自分は不定性なのかなと思います。実際、まあどう観ても今は男の人にしか見えないと自分では思うけれど、女性の心の方を参照してコミュニケーションしている時もあるし、男性の心の方を参照している時はあります(男性モード、女性モードで自分は分けられると思っている)。男性の心の声の方がまだマイルドなのだと思います。

誠実な自己語りについてひらりささんが語っている記事を見つけました。https://ginzamag.com/categories/interview/329477

終女 全体的に、無理に答えを出そうとしてないじゃないですか。「私もまだ迷ってるし、これからも考え続ける」という態度。すごく誠実な自分語りだと感じたし、そこに親近感を感じる読者が多いんじゃないかなって。

ひらりさ×絶対に終電を逃さない女さん「誠実な自分語りをするには? ひらりささん×絶対に終電を逃さない女さんが思う、「私」を書くことの効用」(最終アクセス日:2023/09/04)

私も自分の状態についてこれは解離性障害で、またこれは統合失調症の分身的幻聴でなどと書いてきたけど、それは自分にとってあくまで仮説的なものだということを忘れてはならないのかなと思いました。
受け取り手によっては「それはあなたの妄想ですよね?」とひろゆきばりのツッコミを入れてくるケースもあるし、そうされても傷つかないようにはなりたいです。結局、自分もかつては論文を書いていたわけだし、審査も通っているし、そこでは自分は今のような書き方(つまり、自分に対して誠実でかつ、禁欲的な書き方)ができていたのだという風に私は認識しています。
文字通りには読めない言葉が多いなか、私はできるだけ文字通り読んでも(文字だけが浮かび上がってきても)読めるような文章を書くことを心がけてきたけど、そうではない「心の理論」を適応して、ここには文字通り書かれていないことを想像しつつ、読むということももちろんしても良いとは思います。ただ、自分の文章を書くフォームは元々はこうしたフォームで書いていたと思います。実際、大学院時代のメンターになった先生から次のように言われたことがありました。

頂いたのは、「真摯に考え、悩み、誠実に、そして責任のある生き方をしていこうとしておられる○○さんの姿勢に胸が打たれるものがあります」という言葉でした。
少なくともそういう自分がいることは確かなのです。自分もそういう側面があった。でも、内面の声においてサイコティック・プロセスが進んでいる(サイコティック・プロセスは私の主治医が言っていた言葉です)部分があり、例えばそれは妄想に近いかもしれないけど、ギルティ・クラウンの桜満真名がウィルスに侵攻されていったように、自分もそのいわばサイコティック・プロセスのなかにあるところの内面の声によって自分の最初の男性の声が置き換えられていくように感じます。これは完全に置き換えられてしまった方が良いのかと思うけれど、自分には根本には、実はいわゆる規範的な男性らしさに対する忌避感があるのではないかと思い、自分は男性になっていく自分が嫌なのではないかと思いました。だから女性の心の方が良いと思ってしまう。でもそれはミサンドリーを克服できていない自分の問題でもあり、男性としてもちろんルッキズムとの兼ね合いはあるけど、ある程度、自分から観た時に違和感のない姿にはなりたいなとは思います。
今の姿などは見せられないです。

https://www.nitroplus.co.jp/game/lost_x/character/other/

ルソーが自己言及があり、被害妄想で…というのは、最近出た本の東浩紀『訂正可能性の哲学』を読み、そこに書いてあったことです。

この本はあまりに難しいので、ここで取り上げることはないかと思いますが、一点だけ、ルソーに関して東が整理しているところで次のような言葉がありました。

第一に、演劇は嘘である。役者とは「己れを偽る術、自分の性格とは別の性格をまとう術、現実にある自分とは異なったふうに見せる術」に長けた人々である。彼らがいくた舞台のうえで悲劇を演じ、正義や公正を訴えたとしても、観客はけっして真に受けない。

東浩紀 『訂正可能性の哲学』 ゲンロン、2023、274頁。

演劇について言及がありました。私は実際に自分のことについて演じているかどうか分かりませんが、確かに自分を良く見せようとすることはありました。実際にそれは盛っているということかもしれませんが、でも自分はただ今は男性の心を参照しているモードで書いているということなので、別の性格を偽っていることはないつもりです。
あるとすれば、女性の心を参照して言葉にしている時と、男性の心を参照している時、またさらには別の人格もあるかもしれませんが、そうしたものを参照して言葉にしているということになるのでしょう。

最近読んだ本で精神科医にも紹介したのですが、田坂広志さんの『人は、誰もが「多重人格」~誰も語らなかった「才能開花の技法」~』という本がありました。

この本によれば、「表層人格」「深層人格」「抑圧人格」という3つの人格は私たちにはあり、それは次のようなものとのことです。

  • A)「表層人格」…ある状況では隠れているが、他の状況ではすでに表に出ている人格

  • B)「深層人格」…現在は隠れていて、表に出てきていない人格ですが、置かれている立場や状況が変わったり、意識的な努力をすることによって、自分の中に育ち、表に出てくる人格

  • C)「抑圧人格」…何かの理由で、強く抑圧されていて、心の奥深くに抑え込まれ、なかなか表に出てこない人格

そこで、 

「多重人格のマネジメント」=「自分の中にある様々な人格の、どの人格の存在も自覚しており、置かれた状況や場面に、どの人格で処するかを、意識的に判断し、瞬時に、人格の切り替えができること」

をしていくことが大事だと言ってありました。

ここで私が申し上げる「多重人格のマネジメント」とは、自分の中にある様々な人格の、どの人格の存在も自覚しており、置かれた状況や場面に、どの人格で処するかを、意識的に判断し、瞬時に、人格の切り替えができることを意味しており、決して「精神の病」を意味しているのではないのです。精神病理学でも、それが「病」の場合には「多重人格障害」や「解離性同一性障害」というように、「障害」という言葉が使われています。

田坂広志 『人は、誰もが「多重人格」~誰も語らなかった「才能開花の技法」~』 光文社新書、2015、Kindle(太字強調は筆者)。

また、「ペルソナが硬い」状態から「ペルソナが柔らかい」状態に移行することが大事だとも書いてありました。

「ペルソナが硬い」という意味は、ある立場や状況で被っている「ペルソナ」を、立場や状況の変化に合わせて、柔軟に他の「ペルソナ」に取り換えることができないという意味です。すなわち、立場や状況の変化に合わせて、一つの「人格」から他の「人格」に柔軟に切り替えることができないという良いです。逆に、「ペルソナが硬くない」、すなわち「ペルソナが柔らかい」場合には、その人は、一つの「ペルソナ」から他の「ペルソナ」に柔軟に切り替えることができるのです。

同上(太字強調は筆者)。

また、本書では、「静かな観察者」についても言及があり、それは「深層人格」を観察しているようなものであることが言われていました。

「静かな観察者」とは、丁度、色々な個性の俳優がいる舞台の袖で、静かに劇の進行を眺め、どの場面で、どの俳優が前に出て演技をするべきかを、そっと指示する「舞台俳優」のような存在であるとも言えます。

同上(太字強調は筆者)。

「静かな観察者」がいることについては大事だと言われています。自分のなかに「もう一人の自分」がいて、さらにそれを観てる「もう一人の(たぶんメタな)自分」がいることの大事さが言われていました。
私はこれは自己啓発の本なので、学術書と同列には扱えないと思いますが、多重人格の傾向があると自覚されている人は(この本の著者もそうだと言っています、ただ精神病理の記憶がなくなるタイプの多重人格ではないと言っています)いわば自己肯定感を持つためにこういう本を読んでも良いのではないかと思いました。「自分がおかしいのではないか」と思うだけでは、それはガスライティングを受けている状態と変わらないのではないかと思います。
ガスライティングについては次を参照ください。

「ガスライティング」とは、ある人物に「(周囲ではなく)私のほうがおかしいのでは」と意図的に思い込ませることで、精神的に追い詰めたり、その人物を支配したりすること。1944年のサスペンス映画『ガス燈』から使われるようになった言葉です。

「「ガスライティング」とは? 不倫スキャンダルに見るモラハラ&DVの一形態」https://www.elle.com/jp/culture/a44424425/do-you-know-gaslighting2307/(最終アクセス日:2023/09/04)

結局のところ、「自分がおかしいのではないか」と思う時(もちろん内省が必要な時もあります)もあるかと思いますが、もしかしたらそれは力関係のなかでそういう風に思わされているだけかもしれないです。
そのことは少し自分に対するエクスキューズになるかもしれないですが、ここのところ自分を責めすぎている気もするので、そのことを書いておきます。
ソクラテスは自分が死ぬことを選びましたが、私はソクラテスほど勇気はなく、自分が死ぬことはないかと思います。
暗い話になってしまいましたが、受動的に生きているだけの状態かもしれないけれど、少しでも自分にできることを探して、毎日を送りたいと思います。
私の投稿の内容については繰り返しになりますが、配慮いただけると幸いです。また内容についても自分のことばかりになっていますが、どうしたら「誠実な自己語り」ができるかはテーマですし、実際内面に障害もありますから、そのなかで、どう誠実に語る言葉をまた回復させられるかはテーマだと思います。私の内容で不快な思いをした人がいたら、申し訳ないと思います。私の投稿は本来他者の役に立つかはわからないような内容で、誰からも顧みられなくても仕方ないと思いますが、後世のために残しておきます。

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