見出し画像

偽りの自伝

 花巻健は今自伝を書いていた。しかしその伝記は花巻自身のリアルな半生ではなく、彼がこうなりたいと夢見てきた理想の人生だった。

 その自伝で彼は弛まぬ努力の果てにイケメンの小説家になった自分のサクセスストーリーをまるで事実であるかのように詳細に書いた。彼はまず小学校時代自分をバカにした同級生や後輩。いぢめっこの同級生やその兄貴の真似をして自分をいぢめた下級生の弟に受けたいぢめを悔し泣きで思い出しながら書き綴り、さらに高校時代に告白した初恋の女の子から変態扱いされ、女の子に告白したLINEをそのまま印刷されて黒板に貼られクラスの連中に詰られた事を発狂しそうになりながらありのままに書いた。そしてその後のこうあるべきであった人生を書き綴ったのだ。

 絶望と孤独の淵に沈んでいた少年を救ったのは小説という蜘蛛の糸だった。芥川の憂鬱と太宰の絶望は少年を慰め、ドストエフスキーとカミュの反逆は少年のいぢめっ子への復讐心を高ぶらせた。そして少年は決意したのだ。自分も彼らのような小説家になって奴らを見返してやろうと。それから彼は小説家となるためにあらゆる努力をした。ひたすら小説を書き続け、小説家らしい知的なルックスを手に入れるために顔を鍛えた。そうしているうちに小説の腕はプロ級になり、さらに元々土台はそれなりにまともだったので、顔もイケメンになってしまった。

 こうして天才作家花巻健は誕生した。花巻が大学一年の時に書いた処女作『自然界にブルーはない』は大ベストセラーになり、A賞もあっさり受賞し、彼は若手作家のトップにトリプルツイストで華麗に躍り出た。ちなみにこの小説は今では高校教科書に必ず収められる古典となっている。

 花巻はその後もベストセラーを立て続けに出し、彼は三十を前にして大作家の仲間入りをしてしまった。しかも海外で絶賛されノーベル文学賞にエントリーされるようになった。世に天才と称されあらゆるメディアにもてはやされていた花巻は当然ながら女にモテた。彼は女優やモデルたちと毎夜ベッドを共にした。だがその彼女たちとメイクラブをしている最中でもあの青春時代の初恋の女の子の事を忘れることはなかった。こんなビッチどもじゃ僕の失った初恋は埋められない。やっぱり君じゃなきゃダメなんだ。花巻は結婚を迫ってくる女優やモデルを振り切って自宅のタワーマンションから初恋のあの人の元へと……。

 と、ここまで書いた所で花巻は我に返った。そして四畳半の部屋で今自分が書いた自伝を読んで絶望にくれた。ああ!俺もこの自伝みたいに努力していれば大作家になって女にモテまくりだったのに!だがいくら嘆いても無駄に過ごした時間は戻ってこない。花巻は耐えきれず声を上げて泣いた。すると誰かがうるさいと文句を言ってきたではないか。花巻は隣の住人が文句を言いにきたのかと思いビビッて顔を上げた。彼はその男を見て驚きのあまり気を失いかけた。そこにいたのが自分に瓜二つの人間だったからである。いや、瓜二つというのは正確ではない。この自分にそっくりの男はブランド物の服を身につけているし、何よりも顔がイケメンだった。その姿は自分が理想の自分と夢見ていたベストセラー作家花巻健そっくりだったのである。

 花巻は当然ながら最初は幻覚でないかと思った。しかし目の前のイケメンはどう見ても実体のある人間で呼吸さえしていた。彼はもしかしたら並行世界で作家となった花巻健が、こちらの世界の日雇い闇バイトで糊口をしのいでいる自分に説教するために来たのかもしれないと思った。彼は眩しいほど輝いている並行世界の自分を見てその眩しさに圧倒された。彼は恐る恐る並行世界の自分に向かって聞いた。

「あなたはひょっとして並行世界の花巻健さんですか?」

 これを聞いて並行世界の自分はニッコリと笑って答えた。 

「いや、違うな。俺はお前が今書いている自伝から出てきたんだぜ」

「えっ?」

 と花巻は驚いて書きかけの原稿とそこから出てきたという男を見比べた。彼はこの書き物の世界から飛び出してきた男がドラえもんのような気がしてきた。この男はやはり何をやってもダメな自分を叱りに原稿から出てきたのだ。闇バイトで逮捕されるかもしれない自分自身、盗みに入った部屋にあった100円玉持っていっただけだけど、そんな惨めな自分を叱って更生させようとしているのだ。彼は書き物の自分を見てそう考えていたが、やがて男が再び喋り出したので耳を傾けた。

「実は大事な用事があってね。俺はこの通り大作家になっていろんな女とやりまくったんだけど、初恋のあの子がどうしても忘れられなくてそれで会いに行こうとしてここに来たんだ。お前あの子の居場所知ってるか?お前の自伝にはあの子の居場所書いてねえからわかんねえんだよ、さぁ早く教えろよ」

「えっ!」

 と花巻はまた驚いた。コイツは何を言っているんだ。お前は僕が作り出した人間じゃないか。女たちとヤリまくったとか吹聴しやがって。しかも現実の僕のLINEを印刷して教室の黒板に貼り付けたあの初恋の子に会いに行くだって?バカもほどほどにしろ。大体おまえは僕以外に見えないだろうが。と花巻はこの自分のコピーに呆れ果てたが、その時ドアが荒々しく開かれ大家が玄関に入ってきた。

「あの家賃いい加減に払ってもらいたいんだけどね。三ヶ月分も溜まってるんだよ。今月分出してくれなかったら。出て行ってもらうから」

「はいはい」と男は呟いて玄関へと向かった。花巻はこのバカお前なんか人に見えるわけないと止めようとしたが、大家は男を認識したらしくこう言うではないか。

「なんだよ。そんな高そうな服きて。しかもなんかイケメンになって。お前まさかエステに行ったのか。そんなに金あんなら家賃ぐらい払えるよな?さっさと金出しやがれ!」

「そんなはした金今すぐ払ってやるよ。ほら」

 男は笑いながらそういって財布を取り出して万札の束を大家に突き付けた。目の前の万札の束を見て大家はビックリして目を剥いた。

「い、いやこんなに要らないから」

「いいから全部とっとけよ。今まで散々迷惑をかけたお詫びさ」

 大家は急に態度を変え何度もお辞儀をして逃げるように部屋を去った。花巻はたった今目の前で繰り広げられたありえないやり取りに驚愕した。ああ!僕以外にこの男が見えるなんて!彼はこの自分の原稿から飛び出てきた理想の自分を畏敬の気持ちで仰ぐように見た。

「どうした?いつまでもそんなに俺を見つめて。いいかい?さっきも言ったように俺はあの子に逢いに行くんだ。早くあの子の居場所を教えろよ」

 花巻はもしかしたらと考えた。もしかしたらこいつは僕の願った通りの作家になっていて、ひょっとしたら僕はこいつと一体化して僕自身がベストセラー作家で将来ノーベル賞文学賞を取るだろう花巻健そのものになれるのではないか。コイツは僕の見ている前で大家に札束を渡した。僕はちゃんとこの目でそのやり取りを見ている。だとすると僕はいづれこいつと一体化して僕自身がベストセラー作家にして将来のノーベル文学賞作家花巻健その人になれるのではないか。彼はそうに違いないと確信しすぐさま男に初恋の少女の住所を教えた。だがこれは何年も前の住所だ。今彼女がそこに死んでいるかどうか。

「そうか、そこに行けば彼女に逢えるんだな。じゃあ今から一緒に行こうぜ」

「だけど大丈夫か?同じ人間が目の前に二人いたら彼女驚かないか?」

「お前、さっきの大家の対応見なかったのか?大家は俺たちが二人いる事に全く気付かなかったじゃないか。大丈夫さ、誰も俺たちが二人だなんて認識しないよ」

 そうだよな、と花巻はさっきの男と大家のやり取りを見て思った。たしかに大家は俺たち二人を見て全く驚かなかった。って事はどういう事なんだ?しかしそんな疑問にいつまでもかかずらっている暇はなかった。男が玄関へと向かっていたからである。

 花巻は慌てて男の後について外に出た。男は花巻に向かって早く案内しろと急かし彼はその勢いにおののきながら中学時代に初恋の子が住んでいた住所を教えた。

「そこに行けば彼女に逢えるんだな。ああ待ちきれないよ!俺は改めて告白がしたいんだ。今の俺は中学時代の惨めなゴミ以下の俺じゃない。今の俺はベストセラー作家で、将来のノーベル文学賞作家なんだ。彼女に教室の黒板にLINEを貼られてから見返してやろうと必死になって頑張ってきた。その俺を彼女に見てもらいたいんだ!」

 この自分が創作した男の言葉がいちいちグサッときた。今の自分はあの頃と寸分たがわない。相変わらず惨めでどうしようもない。なのに僕の創作したこいつは唖然とするほど見事に変化して堂々と僕の前にいる。花巻は彼を見て昔ブサイクとバカにしていた同級生がその後イケメンの金持ちになって再び現れたようなシュチュエーションを思い浮かべた。しかし今彼が目にしているのはそれが同級生じゃなくて紛れもない自分そのものなのだ。

 花巻と男は二人で彼女に家の前に立った。花巻は緊張して足がすくんだ。もうこの場から去ろうと思った。しかし男はそんな花巻のためらいに気を止めず普通にドアベルを押してしまった。

「俺だ。花巻だよ」と男はインターフォンに囁いた。花巻は親もいるだろうにと男の無礼を諫めようとしたが、すぐに懐かしい声が聞こえてきたので止めた。

「花巻君、本当に花巻君なの?」

「そうだよ、ベイビー。早くその深窓から出ておいでよ。いつまでもお嬢様気取りなんかしている場合じゃないぜ」

 この自分じゃ絶対に言わないキザったらしいセリフを聞いて花巻は恥ずかしくなった。しかし彼女は悲しい声で拒絶した。

「そんな事出来ないわ!私花巻君にどれだけ酷い事したかよくわかっているもの!花巻君の純粋な、私を毎日つけて、しかも家の形状と部屋を想像してねちっこく描写するぐらいの、純粋な気持ちを踏みにじったんだもの!」

「今更そんな事気にするはずないだろ?ベイビー、俺はこれから毎日君の肢体を体で感じてその感動を毛穴が震える程熱く描写したいんだ。俺はもう君しか小説に書きたくない。ベイビー、早くそのチャイルディッシュな部屋から出て来いよ。俺がお前を本当に大人にしてやるぜ」

「いいの?こんな不細工な私でいいの?私なんかベストセラー作家のあなたには絶対に似合わないわ」

「ベイビー、自分に自信を持てよ。お前はジェニファー・ローレンスなんかよりずっと綺麗なんだから」

「そんなお世辞はもうやめてなんか恥ずかしくなっちゃう。今からそっち行くわ。だけど私がブスだって事は……」

「ベイビー、もう何も言うな」

 インターフォン越しのやり取りが終わったらしく男は花巻の方を振り返った。花巻は事態を全く呑み込めなかった。一体この自分が創作したベストセラー作家の男は何をしでかそうというのか。どうやらこの男がベストセラー作家である事は周知の事実らしい。さっきまで世に生まれてすらいなかった男がベストセラー作家として世に認められているなんて事があり得るのか。大体この男は人の初恋の人に告ってどうしようというのであろうか。もしかしてこいつは僕のためにこうして動いてくれているのか。この能無しの怠けものの僕の代わりに全てやってくれているのか。これでおぜん立ては終了だ。あとはたっぷり楽しんでくれじゃあなってああ!お前ってやつは!その時勢いよくドアが開いて初恋の彼女が現れた。ああ!大人になってもあの頃と全く変わっていなかった!いや、もっと綺麗になっていた。確かにこいつの言う通りジェニファー・ローレンスなんて問題じゃなかった。彼女には百万ドルなんて全然足りない。彼女にふさわしいのはダイヤモンドで出来た惑星ぐらいだ!

「ああ!花巻君久しぶり!」

 彼女が現れた瞬間花巻はまっすぐ駆け寄って彼女を抱きしめようとした。だがその花巻を男が突き飛ばして彼女を抱きしめて、しかも花巻の見ている前で思いっきりベロチューをした。まるで見せつけるぐらい濃厚なキスをし手から男は彼女に向かって今すぐ結婚しようとかほざいた。彼女はプロポーズをあっさり受け、そしてこう言った。

「まったく花巻君いつからこんな大胆になったの?昔はあんなにおとなしかったのに」

「ベイビー、人間は時が経てば変わるもんだぜ。人は変わろうと努力するんだ」

「でも、こんな所でキスはやめて人が見ているかもしれないじゃない」

「でも今は誰もいないさ。さぁ、もう一度熱いキスを……」

 ああ!こうしてまた花巻と彼女はキスをした。花巻はこれを見て先ほどまでの自分の考えのあまりの愚かしさに死にたくなった。ああ!この男は本気で僕になり替わろうとしているのだ。おい君!そいつは僕じゃないぞ!僕は君の毛穴が見えるほど近くにいるじゃないか!なのになぜ無視するんだ!そんな僕の偽物にいつまでも夢中になっているんじゃない!って……も、もしかして今人の目にはコイツしか見えていないのか?僕の存在は誰にも全く認識されないのか?じゃあ僕はどうしたらいいんだ!どうしたらみんな僕の存在を認めてくれるんだ!

「今すぐ結婚しよう!」と男が彼女に囁いた。彼女は涙目で男のプロポーズを受け入れた。花巻はその光景を見て愕然として立ち尽くしていた。


 男と彼女はそのままタクシーで教会のチャペルに向かった。そこには花巻自身のの両親と彼女の両親がそろって待ち構えていた。彼らはタクシーから降りてきた男と彼女に喝采を浴びせた。二人の後からタクシーを降りた花巻はこの光景を見て頭を抱えた。ああ!やっぱり自分はみんなに認識されていない!彼はみんなに自分の存在を気づかせようとして周りに向かって大声で呼びかけた。しかし誰も彼の声に気づかなかった。唯一気づいたのは男だけだ。がこいつは花巻に声をかけるどころか「なんか虫が飛んでいる音がするなあ」とか言って彼を手で払い出した。その男と愛しい初恋の彼女の元に自分の両親が近づいて半泣きで声をかけてきた。

「まさか、あの引きこもりでどうしようもなかったお前がこんなに立派になるとはなぁ~。父さんも母さんももう大感激だよ!」

「父さん、あなたは確か僕が子供の頃こう叱りましたよね?『お前はこのままだったら誰にも認められないまま一生を終わるぞ』って。僕はその言葉を肝に銘じてそれから毎日みんなに求められるように必死に努力したんです。あの言葉がなかったら今の僕はなかった。ありがとう父さん」

 この男の言葉を聞いて両親は一斉に泣き出した。花巻はたしか自伝にそんな事を書いた事を思い出しあっと声を上げた。それとあの小学校時代の忌まわしいいぢめっこたちや、中学時代自分を無茶苦茶嫌っていた同級生たちも自分の元に駆け寄ってきた。

「お前凄いな!今までいぢめていたこと詫びるよ!」

「花巻君がこんなに偉大な人間だったら嫌ってなんかいなかったのに」

 男はその学生時代の仲間の言葉に対してこう返した。

「謝ることはないよそれはもう過去の事さ。それに僕は君たちに感謝しているんだぜ。言ってみれば君たちは僕に試練を与えたのさ。僕はその試練を受けて見事誰にも認められる人間になることが出来たんだ。君たちの試練を乗り越えたおかげで、こうして作家として世に認められたんだ。負けたら」

 とその時男は花巻をチラリと見た。

「今頃は四畳半のアパートで日雇いと闇バイトで糊口をしのぐような惨めな暮らしをしていたに違いないさ」

 ああ”!このバカ野郎!僕がお前に書いたセリフで人をバカにするとは許せん!もう原稿用紙なんか破り捨ててお前の存在を抹消してやる!と花巻は絶叫して持ってきていた原稿用紙を破ろうとした。しかしその時男は花巻を一発殴って気絶させ原稿用紙を奪ってしまった。

「どうしたの?健。また虫?」

 男は彼女の言葉に「そうさ」と原稿用紙を扇ぎながら答えた。教会の前に立っていた一同は見えない花巻を放っちらかして結婚式を控えた花婿と花嫁について教会へと向かった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?