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子どもからの「なんで産んだの⁉︎」 に答えられる?

この質問、されると結構へこみます(汗)

我が子から質問されたとき、即座には答えられず、無難に
「あなたに会いたかったからよ」
と言ってみたのですが、
「そういうのは大丈夫だから」
とあしらわれました(泣)

自分自身も親に対しそう思った時期があったと記憶しています。
誰しも自分の存在とは何なのか、自問自答し、悩む時期を通ります。
そして親になれば、こんな問いかけに、戸惑う瞬間が訪れるかもしれません。

「自己肯定感」とも深い関わりがありそうなこのテーマ、ちょっと深堀りしてみたいと思います。


「なんで産んだの?」=「生まれたくなかった!」

「僕(私)のこと、なんで産んだの?」

この質問を、子どもが親に投げかける時、
心はいったいどんな状態なのでしょう。

裏を返すと
「生まれたくなかった」と伝えたいのです。

他にも
「産んで欲しいなんて頼んでない」
「勝手に産んだんでしょ」
などの訴えも、同じような心情だと言えます。

ある程度の年月、家庭で育ち、社会を知ったうえで、この心境に至るということは、親に、社会に、その両方に、このいずれかに対して、自分の存在意義を感じられない心の状態だということがわかります。

どこかで見たことがありますが、その子と親子になれる確率は、数兆分の1なのだそうです。
そんなかけがえのない存在に、このセリフを言わせている背景には、一体どんなことがあるのでしょうか。


「親にとって自分は、価値ある存在ではない」


存在意義や存在価値について調べてみると…以下の説明がでます。

存在意義とは?
【この場に自分が居合わせることにより生みだされる価値、この世界に生きているということの尊さや不可欠性などについて用いられる語】

存在価値とは?
【その存在を意義あるものとして認めるような、人や物事のもつ価値】

要するに思考の流れは以下のようになります。

自分にはか人から認められる価値がない
=自分には存在意義がない
=この世に存在したくない
=存在させたのは親
=生まれたくなかった

なので、大元の原因は、自分が「存在価値がないと思っていること」です。

「人」とは大枠でいうと「社会」を指しますが、「社会」だけでなく「親」も対象になっているからこそ「生まれたくなかった」にまで、行きついているわけです。

親にとって自分は存在に値する価値はないのだと、子どもに思わせてしまっているということです。


親は子どもを守りたいだけなのに

なぜ、子どもにそう思わせてしまうのか。
せっかく産まれてきてくれたのに、これはとても悲しいことです。

思い起こせば、親が子を宿した瞬間は
どうか無事に産まれてきてね!
神様おねがいします、それ以外は望みません!と、大多数がそう感じているでしょう。

そう、その時期は、存在そのものに意義があったわけです。

一方で親は、成長にともない、世の中で価値のある存在になるように、せっせと子育てしていくことになります。
なぜなら、いつまでも親子だけで生きていくことはできないからです。

親は子より確実に、先に老いて、先に死にます。
自分がいなくなった後、生きられよう尽力するのは、動物としての性(さが)、「子を守る」ための最高に賢い手段です。

だだ、気をつけたいのは、
目的は「子が社会で存在価値を見いだせるようになること」だということ。

子育ては、親の経験や考え方が、大きな「ものさし」になるのは間違いなく、常に寝食を共にする親の存在は、子どもの成長へ確実に影響を与えます。

子どもを守りたい想いが強すぎるゆえ、社会でより高い価値の存在になることを求められた子どもは、期待に応えようとし、追い詰められ、結果、応えられないことで、存在価値を感じられず、自分は価値がないと思うようになります。
自己肯定感が低いと感じる原因の一つなのかもしれません。

また、子どもを守る目的から無意識に逸脱し、実は、親自身が安心したいだけのケースや、高級バックを持ち歩くように、子どもを自分の物や作品かのようにとらえているケースもあります。


「生まれて良かった」と思いたいし思われたい

本来、子どもを守りたいだけのはずが、
目的を見失ってしまい
社会での存在価値=親にとっての存在価値
になって行ってしまう…

そんな歪みを
子どもは敏感にキャッチします。
あっという間に見抜くのです。

存在するだけで意義があったはずなのに、
どうもおかしい、と。

「親は本当に自分を守りたいの?」
「親にとって、自分はどんな存在?」と。

子どもだって、言いたくてこんな悲しいセリフを言うはずありません。

「生まれて良かった」と思いたいけど思えない。
「生まれて良かった」と思ってもらいたいのに、思われてない。

この親子のズレ、なくすにはどうすればいいのでしょう?


十分な「無償の愛」

ここまでいろいろ考察してきましたが、「存在価値」という切り口で考えたとき、親子はどんな関係を築いていけばいいのでしょうか?

前節で、子は存在そのものに意義があると言いました。
それはすなわち「無償の愛」を注げる存在だということです。

人の心には「無償の愛」を溜めるコップがあります。
産まれたときから、親はコップにどんどん「無償の愛」を注ぎます。

ところが、社会での存在価値を重視し過ぎたり、自分のことで精一杯だったり、ときどき「無償の愛」を注ぐのを忘れてしまうのです。
「無償の愛」って、注ぎ続けるには、結構エネルギーがいります。
親も人間ですからね(笑)

しかし、コップが満タンにならないと、十分な自己肯定感がないまま、社会を生きることになります。
逆に、コップが満タンで、十分な自己肯定感を持てていれば、自分の力で社会を生きていくことができるわけです。

無償の愛と自己肯定感は深く関わっているのです。

「無償の愛」こそ、真に子どもを守り、存在価値を高める最短の道なのかもしれませんね。


失敗とチャレンジを繰り返して、人は成長します。
子どもは失敗も成功も、
親に、親だけには、全部まるごと、受け止めて欲しいのです。

親子関係に何より大事なのは
「無償の愛」でコップを満タンにすること。
満タンになれば、勝手に親から離れて、社会を強く生き抜いていくものです。


まだ間に合う

「なんで産んだの?」という問いかけ。
こう投げかけてくるうちは、子どもはまだ親に対する期待を持っています。

親からの「無償の愛」を受け取る余地はまだ十分にあるのです。

あなたならどう答えますか?

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