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「美空ひばり」廃墟の街から

「僕の昭和スケッチ」イラストエッセイ154枚目

<「美空ひばり」© 2022 もりおゆう 水彩/ガッシュ 禁無断転載>


美空ひばりは、まさに昭和の大歌手。

単純に言って、どの時期であっても日本の総理大臣の名を言えない人は幾らでもいるが、この人の名前を知らない人はまずいない。

彼女は美空ひばりとなる前に、「美空和枝」の名で母親と共に「青空楽団」を結成(1945年/当時8歳)、各地を巡業に回り始める。2年後のある日彼女の乗ったバスが山間部であわや崖下に落ちようかという大事故を起こす。
和枝は瞳孔を開く瀕死の状態に陥るも、幸い村の医師の救命措置を受け一命を取り止める。家に戻ると父親は母親に「もう歌はやめさせろ」と怒鳴るのだが、幼い彼女は「歌を止めるなら死ぬと!」と言い切ったという。10歳の少女が言い放ったこの一言は周囲を驚かせ、後の美空ひばりを象徴する言葉となる。

「歌は命」と言う彼女の言葉は営業用の空台詞では無いことが見てとれる幼少期の逸話だ。この後、彼女は瞬く間にヒット曲を生み、銀幕のスターとなる。歌声は戦後の荒廃した街々に流れた。
私が生まれた頃は、すでに美空ひばりは若くして大スターだった。

昭和26年の「越後獅子の唄」なども私の生まれる前のヒット曲だが、大のひばりファンだった母親の影響で私には同時代の歌のような錯覚が今もある。ティーンエイジャーの頃になると私は洋楽ばかり聴いていた。ビートルズの熱狂的なファンだった。当時、その洋楽仲間に自分は美空ひばりも好きだと言うとよく馬鹿にされたものだが、私の中ではそういう異質なものが自然と同居していた。

終戦の年1945年に廃墟の昭和と共に芸能活動を始めた美空ひばりは、数々のヒット曲を生み、1989年昭和の終焉と共に役割を終えたかのように天に召される。まだ52歳だった。自分が歳をとると、彼女のこの若さが痛ましい。

最後に取り組んだ楽曲からは「川の流れのように」、「愛燦燦」、「乱れ髪」などのヒット曲が次々と生まれ、死と重なった事がさらに人々の胸を震わせ涙を呼んだ。よくよく考えれば、人生の最後に及んでも新しいヒット曲に恵まれた歌手は他に類を見ない。
正に天恵かと思う。


*個人的には「越後獅子の唄」や「あの丘超えて」(いずれも私の生まれる前の歌)や最後の楽曲「乱れ髪」が好きだ。

<©2022もりおゆう この絵と文は著作権によって守られています>
(©2022 Yu Morio This picture and text are protected by copyright.)



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