【今日のnote】文章を「紡ぐ」という表現について、ちょっと気づいたこと。
こんばんは、狭井悠です。
毎日更新のコラム、76日目。
先月のこと。いつものようにnoteを読んでいると、note毎日更新の大先輩(勝手に先輩と呼んでしまってすみません)である古賀史建さんのコラムで、「文章を紡ぐ」と表現することに対する違和感の話が綴られていました。
このコラムの中で、古賀さんは以下のように結論づけています。
ちょっと長いですが、引用です。
編集することを「編む」と呼び、文を書くことを「紡ぐ」と呼ぶひとたちがいる。文を編むひととして編集者の自分を定義し、文を紡ぐひととして書き手の自分を定義する。その、いかにも自己陶酔的な言いまわしに長らく距離を置いてきたのだけど、先日それがぼく個人の自意識や美意識に由来するケチな「違うんじゃないか」ではなく、もっと実用に即したところでの「そうじゃないよ」であったことに気がついた。
先週、長野のフィンランドヴィレッジという場所で、座禅を組む機会に恵まれた。京都からやってきたお坊さんは、座禅のキーワードとして「ほどく」ということばを挙げられていた。身体をほどき、こころ(自我)をほどき、果てには自分の存在そのものをほどいて周囲(自然)との輪郭線を消失させていく。こころを空にするのではなく、ひたすらほどいていくことが、座禅のありかたなのだと、お坊さんは言った。
ぼくは思った。「ほどく」とは、「編む」や「紡ぐ」と正反対にあることばであり、こころのめざす先だ。そして考えてみればぼくはずっと、対象を「ほどく」ことを目標にして取材をし、文章を書き、編集してきた自覚がある。ああ、ぼくがずっとやってきたことと、これからもっとやろうとしていることは「ほどく」なんだ。だから「編む&紡ぐ」のひとたちに距離を感じてきたんだ。
(※太字部分は僕が別途つけたものです)
ここで、古賀さんは、文章を書く中で、「紡ぐ」ではなく、「ほどく」ことをご自身で続けてきたんだ、というお話をされています。
なるほどなあ、そういう考え方もあるんだなあ、と僕はすごくこのお話が心に残っていて、ずっと今日まで、「文章を紡ぐ」という表現について、なんとなくニュートラルに距離を置きながら、その表現の佇まいを眺めてきました。
それから一ヶ月後。
先日、毎日更新のコラムを書いているときに、ふと思ったんです。
やっぱり、「文章を紡ぐ」という表現も、わるくないんじゃないかな? と。
それを思い立ったのが、以下のコラムを書いているときでした。
このコラムは、僕の毎日更新するnoteが、月間20,000PVに達した際に、その感謝の気持ちを述べたものです。
読者のみなさんへの想いを素直に書いていたところ、自分の中から、以下のような表現が導き出されてきたんですね。
今しか紡げないご縁を、文章で紡いでいるという実感があります。
これです。
なんだか、すごくしっくりきたんですよね。
ここで僕は、文章を紡ぐ=縁を紡ぐ、ということなのかもしれないなあと、思ったわけです。
文章を書くことで、バラバラだったいろいろなものを紡いで、一本の糸のように、点と点を線で繋いでいく。
それによって、書かなければ出会うことができなかった人とつながり合ったり、想いを共有したり、新たな気づきを得たりすることができる。
だから、僕にとっては、やっぱり文章は紡ぐものなんだ、と思ったんです。
なお、古賀さんは「紡ぐ」という表現そのものを頭から否定しているわけではなく、ご自分のスタンスと照らし合わせてみると、やはりこの表現は合わないといったお話だったんですね。
なので、僕も僕なりに、「紡ぐ」についてのスタンスを考えなければならないと思い、考えをまとめるまでに1ヶ月を要しました。
僕がこの「紡ぐ」に関する一連の考えを整理する中で学んだのは、「思考停止せずに、人の意見に流されることなく、ひとつの言葉や表現に対して、どれだけ自分の頭で考え抜けるかが重要なのだ」ということでした。
誰かの意見を聞いて、「確かにそうかも」と思って、その意見に合わせてスタンスを変えることは簡単です。しかし、そこには、スタンスを変えるにあたっての、自分なりの理由がなければならない。
古賀さんには古賀さんの想いがあり、自分には自分なりの想いがある。
そういった感覚のすり合わせの筋道を蔑ろにして、影響力のある人が何かを主張したからといって、何も考えず、その意見に迎合していてばかりではいけないと思ったんです。
ちなみに、思考停止したまま影響力のある人の発言に迎合する現象は、特にSNS上で頻繁に見られるものです。
僕はもう、そういうネット特有の流行り廃りにいちいち流されるのがほとほと嫌になって、最近ではほとんど、Twitterなどを真面目に見ないようにしています。
その代わりに、毎日noteを書き始めました。
僕なりに、思ったこと、感じたこと、話したいことはやはり毎日あって、それは湧き水のように、自然に湧き出し、生まれてくるものです。
それを、誰かに影響されて「やっぱりこれは言わないでおこう」「ああ、これは言ってもいいんだな」なんて、いちいち選別するのはナンセンスなことでしょう。
どれだけ影響の規模は小さくとも、やはり書き手として、自分のスタンスというものは確固たるものを持っておかなければならない。
最近はそれを意識して、ある種の覚悟を持って、毎日文章を書いています。
今日もこうして、無事に文章を書くことができて良かったです。
明日もまた、この場所でお会いしましょう!
それでは。ぽんぽんぽん。
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