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『アウシュヴィッツ「ガス室」の真実』に真実はあるのか?(4)

『アウシュヴィッツ「ガス室」の真実』に真実はあるのか?(1)
『アウシュヴィッツ「ガス室」の真実』に真実はあるのか?(2)
『アウシュヴィッツ「ガス室」の真実』に真実はあるのか?(3)
『アウシュヴィッツ「ガス室」の真実』に真実はあるのか?(4)
『アウシュヴィッツ「ガス室」の真実』に真実はあるのか?(5)

今回もかなり長く、三万五千字近くあります。最初は全面反論する気はなかったのですが、ほとんど全面反論になってしまってます。いちいち細かいことを調べる癖もついており、そこでもまた長くなる要因を自ら作ってしまっています。アホだと思います、自分を(笑)

では今回もまた、ご笑覧あれ。


「第4章「証言」の問題」について

「物証はなくても「証言」があれば…という考え方」について

「物的証拠」をGoogleで調べてもらうと、

物的証拠とは、裁判で検証物や文書など、物の存在・形態・状況などを証拠とする方法です。物的証拠には、DNAや指紋のような個人を特定する証拠(個人の物的証拠)と、血液型、タイヤ痕、武器の製造元など、特定の母集団を明らかにして、容疑者の絞り込みに役立つ証拠(集団の物的証拠)があります。

と教えていただきました。しかしここでは、「証言」と対比させられていますので、証言以外の証拠を指すようです。状況証拠はさすがに物的証拠とは言わないと思いますが、膨大に残されている当時の文書資料も物的証拠ですし、あるいはロイヒター・レポートを否定したクラクフ報告も物的証拠になり得ます。殺人ガス室跡とされる場所でシアン化水素が使われたことを示すシアン化物を有意に検出しているからです。以下にリスト化されているアウシュヴィッツの証拠リストの過半数は証言ではない物的証拠です。

従って、第4章は冒頭の項目タイトルから嘘です。

で、この章では証言を問題にしていくそうです。とりあえず、西岡の主張を見ていきましょう。最初の項目内に特に述べることはありませんので次に進みます。


「アブラハム・ボンバの「ガス室目撃証言」」について

アブラハム・ボンバはホロコーストの証言者では有名な人の一人です。つまり、否定派にとっては目障りな証言者の一人でもあります。ひとまず、トレブリンカ博物館サイトから翻訳紹介してみましょう。

アブラハム・ボンバは1913年6月9日、ビトム(ドイツ名ボイテン)で生まれた。翌年、彼の家族はチェストホヴァに移り、彼は美容師として働き始めた。1942年9月25日、彼と家族はトレブリンカ絶滅収容所(トレブリンカ2)に移送された。混雑した牛車での移動は24時間かかった。収容所でアブラハムは囚人作業班に選ばれた。残りの家族はガス室で死んだ。当初、彼は衣服や盗品の仕分けに配属された。数週間後、彼は、ガス室に入る前に犠牲者の女性の髪を切る「髪切り」部隊に送られた。ボンバは、トレブリンカで同じく美容師として働いていた友人が、自分の妻と妹の髪を剃るよう強制されたある日のことを思い出した。

1943年1月、アブラハム・ボンバは他の2人の囚人とともにトレブリンカ第二絶滅収容所から脱走した。彼は、いわゆる「小ゲットー」がまだ機能していたチェストホヴァに戻ることができた。1943年6月、ドイツ軍はついにチェストホワのユダヤ人地区を清算した。なんとか生き延びた人々は、ドイツ企業HASAGの工場に収容された。そこでボンバは解放まで生き延びた。戦後、アブラハムは、先に結婚していた2番目の妻レジーナとともに、ついにアメリカに移住した。二人の間にはボニーという娘がいた。

アブラハム・ボンバは、トレブリンカ第二絶滅収容所スタッフに対する裁判で二度証言している。まず、ヨゼフ・ヒルトライターに対する訴追の証人として証言し(1951年フランクフルト・アム・マイン)、1960年代には、彼の証言は、とりわけトレブリンカIIの最後の収容所長クルト・フランツの有罪判決に貢献した(1964-1965年デュッセルドルフでの裁判)。

https://muzeumtreblinka.eu/en/informacje/bomba-abraham/

さて、証言の内容についての西岡の批判を読む前に、本来であれば、対象とされている証言の全てに目を通しておくのがベストです。しかし、私は西岡が使っているクロード・ランズマンの『ショア』の本は持ってないし、映画の方もまだ見たこともありません。しかし、アブラハム・ボンバは結構有名なようなので、ショアのものではないものの例えば以下などで読むことはできます。

一旦はこれを翻訳して引用しようかと思ったのですが、ちょっと長すぎるので諦めました。できれば翻訳してでも読んでみてください。さて、では西岡の主張を読んでみましょう。

これが、ボンバ氏が、トレブリンカ収容所でドイツ人に命じられ、処刑直前の女性たちの髪を「ガス室」の中で刈るようになった経障だそうです。氏の証言を続けて読みましょう。「ガス室の中に連中[西岡注:ドイツ人たちを指す]は、女たちが腰かけられるように、ペンチを置きました。それはまた、これがこの世で最後の歩みだとか、最後の瞬間だとか、最後の呼吸だなどということを、彼女たちに気付かせないため、すぐあとに起こることを、勘付かせないためでもあったのです」(同書252〜254ページ)
では、「ガス室」がどのくらいの大きさだったのかと言うと―
「大きい部屋じゃなく、そうですねえ、四メートル四方くらいでした。けれども、そんな部屋に、連中西ドイツ人のこと」は、あまり大勢、女性を詰め込んだので、ほとんど重なり合うくらいでした」(同書254ページ)と言うのです。この大きさにご注目下さい。その「ガス室」は、「四メートル四方くらい」だったと、ボンバ氏は言うのです。ところが、問題は次の部分です。その「ガス室」の中に鏡があったか?という質問に答えて、ポンパ氏はこう「証言」しているのです。「いや、ありませんでした。ベンチだけで、椅子もなかった。ただペンチと、床屋が一六人か、一七人だけしかいないのに(中略)、女性の数は、あまりにも多かった!一人のカットに、二分ほどかけましたが、それ以上は無理でした」(同書257ページ)
つまり、「四メートル四方くらい」の「ガス室」の内部にベンチがあり、そこに床屋だけでも「一六人か、一七人」がいた、というのです。その上、その狭い「ガス室」の中にこれから愛される女性もたくさんいたことを思い出して頂きたいと思います。ボンパ氏は、一回に何人の女性を刈ったかという問いに答えて、こう「証言」するのです。「一度に(中略)、おおよそ(中略)、六〇人から七〇人でしたか」(同書258ページ)
そして、次にはこう「証言」します。「いや、第一集団が終わると、次のグループが入ってくる。あわせて、女性一四〇人か、一五〇人になりますかね。この人たちのカットが、全部すむと、連中(西岡注:ドイツ人たち)から命令が出て、われわれは、約五分の間に、ガス室を出なければなりません。それから、ガスを送り込み、女性を窒息死させたのです」(同書258〜259ページ)
お分かりでしょうか?つまり、その「四メートル四方くらい」の「ガス室」内部には、先ずベンチがあり、床屋が一六人か一七人かいて、その上、何と「あわせて一四〇人か一五〇人」の(殺される)女性がいた(!)と、ボンバ氏は「証言」しているのです。「四メートル四方くらい」の「ガス室」にこんなに大勢の人間が入ったのでしょうか?

西岡本

西岡は、そんな狭いガス室にそんな大勢の人間が入るわけがない、と主張しているのですが、それを検討する前に一つ興味深いことをお知らせします。すでに、このシリーズ1回目でお伝えしたように、西岡本は西岡氏自身が自分のブログにテキストで公開していると述べました。実はそこにはガス室の広さについてこう書いてあるのです。

「大きな部屋じゃなく、そうですねえ、4メートル平方くらいでした。
<中略>
この大きさにご注目下さい。その「ガス室」は、「4メートル四方くらい」だったと、言うのです。

西岡本:西岡ブログ版

お気づきですか? 先ず、私の方が紹介している本の方(Kindle版)では、全て「四メートル四方(四㍍四方)」となっているのに、ブログでは「4メートル平方」と書いたあと、そのあとは全て「4メートル四方」になっています。表記が微妙に違っています。

実はこれ、私が西岡に指摘して修正させたのです。旧Twitter上で何かの拍子にボンバの証言の話題になり(多分最初の相手は西岡ではなかったような気がします)、西岡のブログには当時、「4平方メートル」と書いてあったのです。で、それは間違っている、と西岡に指摘したら、その間違いを認め、修正しますと西岡は述べ自分で書き直したのです。つまり、西岡がブログで書いていた当該記述は最初だけ「4メートル平方」で合っていたのに、以降全部「4平方メートル」と間違えていたのです(つまり西岡は自著のテキストを自ブログで公開するにあたって全部手入力していたらしい。それはそれで恐ろしいことだ(笑))。

以前西岡が間違えていた証拠はWebアーカイブにあります。2018年のものです。

「大きな部屋じゃなく、そうですねえ、4メートル平方くらいでした。けれども、そんな部屋に、連中[西岡注:ドイツ人のこと]は、あまり大勢、女性を詰め込んだので、ほとんど重なり合うくらいでした。」(同書254ページ)と言うのです。

 この大きさにご注目下さい。その「ガス室」は、「4平方メートルくらい」だったと、言うのです。ところが、問題は次の部分です。その「ガス室」の中に鏡があったかという質問に答えて、ボンバ氏はこう「証言」しているのです。

「いや、ありませんでした。ベンチだけで、椅子もなかった。ただベンチと、床屋が16人か、17人だけしかいないのに(中略)、女性の数は、あまりにも多かった!一人のカットに、二分ほどかけましたが、それ以上は無理でした」(同書257ページ)

 つまり、「4平方メートルくらい」の「ガス室」の内部にベンチがあり、そこに床屋だけでも「16人か、17人」がいた、というのです。その上、その狭い「ガス室」の中にこれから殺される女性もたくさんいたことを思い出して頂きたいと思います。ボンバ氏は、一回に何人の女性を刈ったかという問いに答えて、こう「証言」するのです。

「一度に(中略)、おおよそ(中略)、60人か70人でしたか」 (同書258ページ)

そして、次にはこう「証言」します。

「いや、第一集団が終わると、次のグループが入ってくる。あわせて、女性140人としか、150人になりますかね。この人たちのカットが、全部すむと、連中(西岡注:ドイツ人たち)から命令が出て、われわれは、約5分の間に、ガス室を出なければなりません。それから、ガスを送り込み、女性を窒息死させたのです。」(同書258~259ページ)

 お分かりでしょうか?つまり、その「4平方メートルくらい」の「ガス室」内部には、先ずベンチがあり、床屋が16人か17人いて、その上、何と「あわせて140人か150人」の(殺される)女性がいた(!)と、ボンバ氏は「証言」しているのです。「4平方メートルくらい」の「ガス室」にこんなに大勢の人間が入ったのでしょうか?

西岡本:西岡ブログ版(2018年12月時点)

さて、この西岡の単純なミスは、日本の歴史学者で唯一、修正主義者だった故・加藤一郎も同じミスをしています。

この中で、ボンバは、ガス処刑を準備するたびに、自分と16名の床屋が4㎡のガス室に……

http://revisionist.jp/graf_05.htm

こちらの場合、グラーフの原文の英語では「4 meter square」つまり4メートル四方とちゃんと書いてあるのです。

つまらない粗探しとは思わないでくださいね。この違いは全然違います。面積にして四倍も違うのです。確かに4㎡におよそ160人もの人間が入るわけありません。密度にして40人/㎡です。以前に明石花火大会歩道橋事故の報告書では最大で13〜15人/㎡だったと述べていますが、その概ね三倍もの密度になってしまい、いくら私が否定派の主張よりもさらに高密度を提示しているからといってそれはあり得ないと言うしかありません。

しかし、4m×4m=16平方メートルなら違います。10人/㎡であり、明石花火大会報告書に記された最大値を下回ります。ボンバは「四メートル四方くらい」と言っていますから、もし仮に4mではなく実際には5mだとすれば、25㎡あることになり、一気に6.4人/㎡となって、高い密集度とは言え、十分あり得る密度になります。

実際に、以下では、ボンバとは異なる面積を示しているものもあります。

ガス室―広さ:
a)「3つのガス室があり、それぞれ4×4m、高さ2.6mで、ソビボルに建設された最初のガス室と同様であった」(アラド、p.42)
(上記は、コゴン本のp.115とほぼ一字一句同じである)
b)「ガス室の大きさは5×5m、高さは約1.90mであった」(ヴィエルニク、ドナート、p.157)
c)「古いガス室の建物には3つの部屋があり、それぞれの部屋の広さは約20㎡であった」(ラム陳述、p.495)
d) 表記サイズ、4m(廊下側の壁)×5m(ユロフスキーのプラン)
e) 「...3つのガス室、それぞれ約5×5m」(グラザール、p.37)

http://www.deathcamps.org/gas_chambers/gas_chambers_trebcad.html

従って、西岡の「「ガス室」にこんなに大勢の人間が入ったのでしょうか?」という疑問への回答は「入った」になり、疑問は解消されたので、ボンバの証言は疑わしいものではないことになります。

しかしここで私が述べたいのはそんな反論ではなく、西岡自身が間違えているのに、証言者の述べているそれら数字がたとえ誤っていたからと言って、西岡に証言者を嘘つき呼ばわりする資格はないということです。西岡自身が証明しているように、人は証言を間違えることがあるのです。


「「ホロコースト」の内容は二転三転している」について

そりゃ、間違っていたら修正するのは当たり前のことです。アウシュヴィッツの400万人の石碑が、150万人に修正されたように。西岡はこれを何度も何度も、今尚ずっと言い続けているようですが、「イイクニツクロウ(1192年)鎌倉幕府」が歴史教科書から消えてしまったように、より正しいとされる説が認められるのであれば、その説に書き換えられるのはあたりまでのことであり、書き換えない方がおかしいのです。

ところで、西岡は私からの指摘で自説を修正しているのですけれど、それはいいのでしょうか? 以下のページにある「ドイツでは発禁処分」は誤りだと私によって指摘され、西岡ははっきり認めています。興味ある方は、こんなの調べるのは簡単なので、Google検索を駆使して調べてみてください。確か、ドイツのAmazonも調べたかも。

ポーランド現代史の闇


「かつてはベルゲン・ベルゼンにも「ガス室」があったとされていた」について

そして、この収容所に「ガス室」がなかったことは、前述のように、「定説」側の著作にはっきりと書かれています(3)。当然、このベルゲン・ベルゼン収容所は、「定説」側の著作においても、アウシュヴィッツやマイダネックやトレブリンカのような「絶滅収容所」には分類されていません(4)
ところが、戦争直後には、ある歴史家は、その「ガス室」などなかったはずのベルゲン・ベルゼン収容所について、こんな「歴史」を書いていたのです。
「ベルゼンでは、クレーマー[西間注:同収容所司令官が、子供たちが母親から引き離され、生きたまま焼かれるのを眺める間、オーケストラにウィーン風の音楽を彼のために弾かせ続けた。ガス室で、毎日、何千人もの人々が殺されていたのである」(訳:西岡 原文は以下の通り)In Belsen, Kramer keptan orchestra to play him Viennese music while he watched children torn from their mothers to be burned alive. Gas chambers disposed of thousands of persons daily(Francis. T. Miller "A History of World War II,1 945,p.868)
おかしいとはお思いにならないでしょうか?今日では「定説」側論者たち自身が「ガス室はなかった」と言っているベルゲン・ベルゼン収容所について、戦争直後には、こんなことが書かれていたのです。「ガス室で、毎日、何千人もの人々が殺されていたのである」などと・・・。つまり、話が変わっているのです。

戦争直後(1945年)のアメリカ国内向けのプロパガンダ映画である『ナチスの強制収容所/ナチス絶滅収容所』では、記憶では確かにベルゲン・ベルゼン強制収容所にはガス室があったとされていたように思います。こうした映画などで、戦争直後は誤った情報が流布していたのかもしれません。

それだけの話です。

事件直後に誤った情報が流れた事例としては有名なもので、松本サリン事件があります。河野氏が冤罪報道被害者として酷い目にあったことはよく知られていると思います。だからと言って、松本サリン事件そのものがなかったという人はいません。同様に、ベルゲン・ベルゼンにガス室があったとした誤った情報が流布されていたからと言って、ナチス・ドイツの殺人ガス室が無かったことになるわけではありません。

松本サリン事件で河野氏宅から薬品が発見されたため、警察が判断を誤ってしまったのと同様に、当時の米軍は、ベルゲン・ベルゼン強制収容所の悲惨な状況を見て、戦時中の情報通り、殺人ガス室での大量虐殺だと誤解したのです。西岡はどうしてこのように常識的に物事を考えないのでしょうか?

で、戦争直後はそうした情報が流布したために、作家のフランシス・トレヴェリアン・ミラーはそれらの情報をそのまま信じてそう書いたに過ぎないでしょう。ちなみに、ミラーは歴史家とは言えても歴史学者ではないようです。


「「ダッハウのガス室」の目撃証言」について

即ち、このダッハウ収容所についても、今日、「定説」側歴史家は、戦争中そこで「ガス室大量殺人」が行なわれていたとは言いません(5)(6)。「ダッハウのガス室は未完成だった」などと言って、そこで「ガス室」が使われていたとは言わないのです。ところが、このダッハウ収容所についても、戦争直後には、処刑用ガス室があり、多くの人々が「ガス室」で殺されていた、という話が堂々と語られていたのです。
しかし、このダッハウについては、フランツ・ブラーハ(Franz Blaha)という。チェコ人の医師で同収容所に収容されていた人物が、そこには処刑用のガス室があり、大勢の人々が殺されていた、と「証言」しています(7)。しかも、そのプラーハという人物は、戦後の戦犯裁判に「証人」として登場し、その「ガス室」で段された人々の死体を自分が「ガス室」内で検屍した、とまで「証言」しているのです(同)。

ダッハウのガス室については、2024年現在の博物館サイトの説明では以下のとおりです。

毒ガスによる大量殺戮はダッハウ強制収容所では行われなかった。なぜSSが稼働中のガス室をこの目的に使わなかったのかについては、いまだ解明されていない。ある当時の目撃者の証言によれば、1944年に毒ガスで殺された囚人もいたという。

https://www.kz-gedenkstaette-dachau.de/en/historical-site/virtual-tour/crematorium-area/

囚人医師のフランツ・ブラーハの証言は以下にあります。

ブラーハ医師の目撃証言は二種類あり、一つは終戦間際に米軍に尋問された時のものであり、こうなっています。

Q. あなたは個人的に、この部屋でガスを浴びた人を見たことがありますか?
A. はい、7人の人がガス処刑されるのを目撃しました。

もう一つはニュルンベルク裁判でのものです(宣誓供述書)。

ガス室は1944年に完成しましたが、私は、最初の犠牲者を調べるために、ラッシャー博士に呼ばれました。部屋にいた8~9人のうち、まだ生きているのは3人で、残りは死んでいるように見えました。目は赤く、顔は腫れ上がっていました。後に多くの囚人がこの方法で殺されました。

直接目撃し、ブラーハが診察した人数が若干異なっていますが、同じ事実について語っていると見做せます。またニュルンベルク裁判では「多くの囚人がこの方法で殺されました」と語っていますが、直接目撃したとは言っていません。先の尋問ではこのように語っています。

Q. この部屋で発生したガス処刑のエピソードを、直接または間接的に知っていますか?
A. ガス処刑については伝聞でしか知らず、自分の知識ではありませんが、病院の特定の部屋に精神病患者がいなくなり、その患者が火葬場に運ばれたのを見たことがあるという事件を数多く知っています。私の知る限り、それらの患者は病院に戻ってこなかったし、その患者が病院に運ばれた後も戻ってこなかった。病院から連れ去られた精神異常の患者には、退院票が作成されました。

ブラーハの証言は尋問と裁判とで直接見た囚人の数がわずかに違っているだけで、直接見たものと伝聞とが割とはっきりしています。そして、よく読むと「死んでいるように見えた」と言っているだけで、本当に死んでいたのか、どうかいまいちはっきりしません。おそらくですけれど、博物館の表現が「ある当時の目撃者の証言によれば、1944年に毒ガスで殺された囚人もいたという」として断定していないのも、そうした理由からだと思われます。

しかし、ダッハウのガス室は確かに、害虫駆除室ではない人間用のガス室であったことは確かで、それは親衛隊医師のジークムント・ラッシャー医師がヒムラーに宛てた手紙の中に書いてあります。

ご存知のように、KLダッハウにもリンツと同じ施設が建設されています。「障害者輸送」はいずれにせよある部屋に送られるのですから、この部屋で、いずれにせよその部屋に送られることになる人たちに対して、さまざまな戦争ガスの影響をテストすることはできないのでしょうか。今までは動物実験や製造時の事故の報告しかなかったのですが、これからは、このようなガスの製造が可能になります。この段落のため、「秘密事項」として手紙を送ります。

https://note.com/ms2400/n/ne883049603e3

つまり、安楽死させられる障害者を使って、ダッハウに建設予定のガス室で戦争用のガスをテストしたい、とラッシャー医師は言っているのです。

皆さんは、これをおかしいとはお思いにならないでしょうか? こんな具体的な「証言」が裁判という場で語られていたのに、今日、「定説」側の歴史家たちは、何故「ダッハウのガス室は未完成だった」等と言うのでしょうか?

西岡本

ダッハウのガス室が未完成だったと述べたのは、ミュンヘン現代史研究所の所長をのちに務めることになった、マルティン・ブローシャートであり、1960年にディー・ツァイト誌に投稿した文書の中でそう述べています。

ダッハウでもベルゲン・ベルゼンでもブーヘンヴァルトでも、ユダヤ人や他の捕虜がガス処刑されることはなかったのです。ダッハウのガス室が完全に完成して「稼働」することはありませんでした。

https://note.com/ms2400/n/ne883049603e3

しかし、この投稿は、ディー・ツァイト誌上でのものと思われる当時の議論に応じたものであり、そうした議論があったという事実は、1960年当時には、ダッハウのガス室でガス処刑が行われていたのか、それとも行われていなかったのか、はっきりしていなかったことがわかります。ブラーハの証言を知っていたのか知らなかったのかについてはわかりませんが、たとえブラーハの証言を知っていたとしても、ブラーハが見たのはラッシャー医師による実験でしかなく、さらに本当に死んでいたのかどうかはっきりしないものであり、ガス処刑と言えるかどうかもはっきりしません。つまり、ブラーハの証言を認めても、ガス処刑の「確実な」証拠にはならないのです。

また、「ダッハウのガス室が完全に完成して「稼働」することはありませんでした。」と述べたブローシャートの真意は不明です。現代の博物館の見解ですら「いまだ解明されていない」なのですから、不明なことは不明としか言いようがありません。

しかしながら、ダッハウのガス室を未完成と述べたのは、1960年のブローシャートだけだと思われます(他は知らないだけですが)。修正主義者もこの投稿しか知らないはずなので、それだけのことで「今日、「定説」側の歴史家たちは、何故「ダッハウのガス室は未完成だった」等と言うのでしょうか?」などと、西岡本出版の1997年当時の「定説」側の歴史家全員があたかもそのように述べているかのように言うのは「おかしいとはお思いにならないでしょうか?」(笑)

さらに付け加えると、ダッハウの殺人ガス室を、修正主義者は戦後に捏造したものだと主張したいらしいですが、これもまた「ヒトラーの命令書」の時に述べたのと同じで、もしダッハウの殺人ガス室が捏造だとするのれあれば、連合国はどうしてもっと明確なガス処刑の事実を捏造しなかったのでしょうか? 上で述べたとおりブラーハの証言は実にあやふやなものでしかありません。捏造なら、そもそも何故ブラーハの証言がそのようにあやふやなのか? 何故もっと多くの明確な目撃証言を述べる偽証する証言者が一人もいないのでしょうか? ガス室のような物理的な建造物をせっせと作って、確かな証拠を一つも用意しない捏造などあり得るのでしょうか? そんなバカな話がありますか?

修正主義者の主張は無理筋すぎて話になりません。


「消えた「ガス室」」について

これだけではありません。その他にも、例えばドイツ中部に在ったブーヒェンウァルト収容所などでも、かつては、そこに「ガス室」があったという「目撃証言」が語られていたのです(8)。しかし、そのプーヒェンウァルトについても、今日では、「定説」開論者自身が、「ガス室」があったとは言わないのです。そこでも、「ガス室を見た」という「証言」があったにも拘らず、です。皆さんは、こうした「定説」側の変化を不思議には思われないでしょうか?

西岡本

西岡は同じ話を何度も何度もグダグダ書き連ねるのが好きなようです。これも前項で話したことに、ブーヘンヴァルトの話を付け加えただけです。アンんまり事細かに反論してたら、前章のガス室よりも長くなりそうなので、この項目は飛ばします。戦後しばらくはよく分かってなかっただけで誤った情報も流れていただけです(松本サリン事件のように)。現代ですら前述したダッハウのガス室のように「よく分かっていない」ことはあるのですから。


「何故、「絶滅収容所」はソ連支配下のポーランドにしかないのか?」について

これもすでに述べています。んとに同じ話ばっかだな……。


「「アウシュヴィッツの証言」は全て真実か?」について

ところが、こうした「死体を焼く煙」の「目撃証言」に疑問を投げかける、ある客観資料があるのです。それは、航空写真です。即ち、この四四年になると、アメリカやイギリスはしばしばボーランド上空にまで偵察機を飛ばし、軍需工場が多かったこのアウシュヴィッツ=ビルケナウ周辺で多数の航空写真を撮っていたのです。
そうした航空写真が七九年にCIAによって公開されたのですが、その一枚をここにお見せしたいと思います(15)。驚くほど鮮明に、当時のアウシュヴィッツーピルケナウの様子が映し出されていることが、お分かり頂けると思います。こんな写真が、当時の連合軍機によって、その四四年に多数、撮影されていたのです。

西岡本

アウシュビッツ・ビルケナウ収容所の当時の航空写真については、たくさんの記事を起こしてきています(海外記事の翻訳がほとんどですが)。まず間違いなく、それら航空写真については私の方が詳しいと思います。

などなど、アウシュヴィッツの航空写真を扱っている記事は他にもまだあると思います。

ところが、こうした四四年のアウシュヴィッツービルケナウの航空写真のどれを見ても、多くの「目撃者」が「証言」する、「死体焼却炉の煙突から上がる煙」は、全く確認することができないのです(16)。

西岡本

確かに、火葬場建物の煙突からの煙を写した航空写真はありません。しかし一つ言っておきたいのは、火葬場は確かにあったという事実、そして火葬場では否定派は焼却遺体数に文句をつけるものの、火葬場が活動していなかったとは誰も言っていません。そして、1943年夏頃の写真だそうですが、確かに以下の火葬場2を南から移した写真で見る限り、煙突から煙が出ていたことがわかります。煙突の先端に付着した黒いものは紛れもなく煤でしょう。

https://phdn.org/archives/holocaust-history.org/auschwitz/pressac/technique-and-operation/pressac0341.shtml

またしても言いますが、これは西岡も所有しているプレサック本にある写真です。西岡は全然読んでないことがここからもわかります。

現代の高性能のスマホのカメラですらも、目で見えていた筈のものが写真に写っていない経験をした人はたくさんいるはずです。私はたまに料理の写真を撮ることがありますが、目視では湯気が上がっていたはずなのに、写真には全く写っていないことがありました。現代のスマホなどのデジタルカメラもかなり高性能なので、そういうことは少なくはなったものの、ないわけではないのですから、当時のスチルカメラが撮影できなかったとしても変ではありません。

推測ですが、高高度から地上を撮影すると、太陽光が十分である場合は特に、地表面付近からの反射光を撮影することになるので、その光の方が強いため、煙突からの煙ははっきり映らなくなったのではないかと思われます。煙は要するに極めて微細な粒子状物質が結合せずに漂っている状態と考えられるので、地表面からの反射光がその粒子間の隙間から漏れてしまい、煙自体は映らなくなるという理屈です。この推測がどこまで正しいのかはわかりませんが、理屈としてはそうなるように思います。

ところが、煙ではなく、修正主義者のほとんどが否定する、元囚人の証言者の証言にいくつか見られる「煙突からの炎」を写していると考えられる写真があります。

1944年5月31日の航空写真より

煙突から炎が出る理由は、これは火葬炉からの「巨大炎」ではなく、煙突内側に溜まった不完全燃焼生成物のタール(クレオソート)が排煙の高熱によって煙突火災を起こしていると考えられます。煙突火災が起きる可能性についてはマットーニョは否定していません。

また、当時のアウシュヴィッツーピルケナウ及びその周辺では死体を野焼きした、というような「証言」もありますが、そんな「死体の山」も、「野焼き」の様子も、多数撮影された連合軍機撮影の航空写真には全く写っていないのです。

西岡本

これも笑止と言いたいくらいです。死体の山は航空写真ではなく、ゾンダーコマンドの有名な写真にありますし、死体焼却ピットも航空写真に写っていますし、「野焼き」の煙もちゃんと写ってます。

Holocaust Controversies: Personal Movement in the Auschwitz-Birkenau Compound on 25 August 1944 Aerial Photographsより

ゾンダーコマンドの写真については、死体の山じゃないじゃないか!と文句言う人もいるかもしれませんが、死体が焼かれているのは煙の向こうにある壕の中ですので。焼却ピットからの煙は、連続して撮影された航空写真を2枚用いてgif動画にしたものです。

「全く写っていない」? 寝言も大概にして欲しいですね。


「「ガス室目撃証言」がお互いに矛盾している例」について

例えば、こんな例があります。アウシュヴィッツで最初に青酸ガスによる大量殺人が行なわれた時の状況については、幾つも、「目撃証言」があります。それらによると、それは、第一アウシュヴィッツの第11棟という建物の内部で、チクロンBによる大量処刑が実験的に行なわれた時だった、ということになっています(17)。ところが、それに関する複数の「証言」を注意深く比較すると、その日付けち、所要時間も、建物の中の場所も、処刑の方法も、救いようがないまでに食い違っていることを、見直し論者の一人であるイタリアの研究者カルロ・マットーニョ(Carlo Mattogno)は指摘しています(18)。

そのマットーニョの論文に対しては、Holocaust Controversiesでバッサリ対処されているので、私から述べることはありません。

ブロック11については、クラクフ報告でもシアン成分を検出しているので、物的証拠もあるということになります。


「自分の「証言」を撤回した「目撃証人」たち」について

それは、「証言」内容を追及されて、それまで語り続けてきた自分の「目撃証言」を、「実は人から聞いた話だった」等と、事実上、撤回した人間が少なからずいるという事実です。……<中略>……例えば、ある有名な「目撃証人」は、永年、アウシュヴィッツで「ガス室大量殺人」の現場を自分の目で見た、と「証言」してきました。ところが、ある裁判でその内容を追及されると、途端に「それは、実は人から聞いた話だった」等と言って、そんな事柄を目撃していなかったことを認めているのです(19)。それも、法廷においてです。

西岡本

脚注(19)とあるので、それを以下に。

注19 例えば、ルドルフ・フルバ(Rudolf Vrba) 氏は、『ショアー』にも登場する有名な「ガス室目撃証人」の一人である。ところが、 そのフルバ氏は、一九八五年一月二十三日、前述のツンデル裁判の法廷で、ツンデル側の弁護士に追及され、一九四四年以来、自分がアウシュヴィッツービルケナウで目撃したとしてきた「ガス室」に関する自身の「証言」の多くを事実上、撤回している。このことは、カナダの新聞 The Toronto Sun の八五年一月二十四日の記事で、驚きをもって大きく報道されている。また、他にも、こうした「目撃証人」の名を挙げることはできる。

西岡本

ネットにその新聞記事はないかと探したらあっさり見つかりました。

書籍『芸術的な写真』
犠牲者は実際のガス処刑を見たことがない
ディック・チャップマン
トロント・サン紙
1985年1月24日

強制収容所の生存者は昨日、ガス処刑を目撃したことはなく、アウシュビッツ・ビルケナウについての著書は『芸術的な写真......法廷のための文書ではない』と認めた。

現在、BC大学の助教授であるルドルフ・ヴルバは、アウシュビッツの火葬場とガス室に関する彼の文章と絵による記述は、「そのように見えるかもしれないと聞いたもの」に基づいていると、エルンスト・ツンデル裁判に語った。

ツンデルは、人種的あるいは社会的寛容を害する、あるいは害するおそれのあるホロコーストに関する虚偽の情報を故意に公表した罪に問われている。

ビクトリア州の弁護人ダグ・クリスティーは、ガスマスクをつけたナチス親衛隊兵士がビルケナウの火葬場につながった低いバンカーに毒ガスを流し込むのを見たというヴルバの以前の証言に異議を唱えた。

クリスティが、ヴルバが見たのはガス室ではなく死体安置室の屋根であったと示唆したため、ヴルバは昨日、その特定のバンカーの中には入っていなかったことを認めた。

ヴルバはまた、到着後、彼がガス室に直接連行されたと主張した数千の女性、老人、子供の一部は、収容所の浴場に行くつもりであったかもしれないことを認めた。

「はい、何人かは実際にそこ(浴場)に行き、もっと多くの人たちがガス室に行きました」とヴルバは言い、多くの赤ん坊がガス処刑されたと主張した。

ヴルバは、彼が1944年に描いたアウシュビッツ収容所のレイアウトは不完全であり、クリスティは、ヴルバが浴場の場所さえ知らなかったことを示唆した。

クリスティによると、新しい到着者は浴場に行くために、2つの火葬場の間を行進しなければならなかったが、ヴルバは、この地域は「閉鎖された道路」で終わっており、「煙以外、誰もそこから出てこなかった」と主張した。

1944年、100万人のハンガリー系ユダヤ人に迫り来る虐殺を警告する使命を帯びて、ポーランドの収容所を脱出したヴルバは、その時点までに176万5000人の大量殺戮犠牲者を正確に[「10%以内」に]推定したと主張した。

彼は、自著『私は許せない』の中のいくつかの叙述は、他の人々の証言に基づいていると述べた。

あるヴルバの証言では、死体を焼くのに90分かかったといい、別の証言では20分かかったという。

「私は信頼できる情報源から聞いたことも含めています」と、ヴルバは後の報告書の変更点を説明した。

ヴルバの1961年の宣誓供述書は、アウシュヴィッツのガス室に関するニュルンベルク戦争犯罪裁判の文書を引用し、それがヴルバの証言を裏付けていると主張している。

クリスティが、[「ナチス政府」の]文書にはガス室については何も書かれていないと指摘すると、ヴルバはこう答えた:「タイプミスかもしれない」

ヴルバは、アウシュヴィッツの死者総数は250万人であったと述べているが、ホロコースト史家のラウル・ヒルバーグとジェラルド・リートリンガーは、「歴史的規律」によって、それぞれ100万人と約85万人という低い見積もりをしており、ヴルバの目撃体験の恩恵を受けていないと証言している。

ヴルバ氏はまた、第二次世界大戦後の数十年間で、アウシュビッツの死者数の推定が増加していることは、「より優れた方法を持つより優れた学者が、常に情報を改善していることを示している」と述べた。

ヴルバは、1944年のアウシュビッツでの証言における「善意による誤り」を、ユダヤ人に警告するための「大きな緊急性」によるものだと擁護した。

https://forum.axishistory.com/viewtopic.php?t=6226

ルドルフ・ヴルバは、1944年4月10日にアウシュヴィッツ収容所を、アルフレッド・ヴェッツラーと共に脱出し、アウシュヴィッツでのユダヤ人絶滅についての詳細な報告書を書き、1944年7月になるとハンガリー王国の摂政であったミクロス・ホルティに知られることになり、それまで続いていたハンガリー・ユダヤ人のアウシュヴィッツへの輸送をストップさせることになりました。1944年11月にはアメリカの戦争難民局から他の報告書とまとめられて出版され、アウシュヴィッツでのユダヤ人絶滅が全世界に知られることになります。その報告書は、以下で訳出してあります。

彼らの脱出の目的は、アウシュヴィッツでのユダヤ人絶滅を外部に伝えるためだったのです。迫っていたハンガリーユダヤ人絶滅作戦のため、報告書は三日間という非常に短期間にタイプされたそうです。しかし、報告書の公表はどうやらかなり遅れ(ヴルバは報告書を受け取ったルドルフ・カストナーが抑圧したと主張しているそうです)、ハンガリー・ユダヤ人に何十万人もの犠牲を出した要因になったようです。

さて、ヴルバはツンデル裁判に検察側証人として出廷し、被告側弁護士で修正主義者のダグラス・クリスティに攻撃されました。その時の様子がトロント・サン紙によって伝えられたのでしょう。しかし、ヴルバは1961年のアイヒマン裁判にも証人として出廷しており、「1961年のアドルフ・アイヒマン裁判のためのヴルバの供述[203]によると、彼はガス室についての情報を、ゾンダーコマンド・フィリップ・ミュラーやそこで働いていたその他の人々から得ており、ミュラーは1979年にこのことを確認している[127]」(Wikipedia)とのことであり、ヴルバはツンデル裁判で初めて自分が目撃したのではないと語ったのではありませんでした。

ヴルバはそれら著書で、あたかも自分自身が目撃したかのように書いたのは事実のようですが、真相が収容所内の他の囚人から聞いた話だったとしても、それで真実性が失われるのでしょうか? 我々は現在、他の情報源からヴルバの記述の正確性を知ることが可能であり、こちらでは、ジャン・クロード・プレサックやロバート・ヤン・ヴァン・ペルトは記述は概ね正確であると語っているとあります。西岡はその内容を確認していないことは明らかです。ヴルバは直接ガス処刑を目撃してはいないとしても、ゾンダーコマンドとして直接ガス処刑を目撃していたフィリップ・ミュラーらから聞いた話を書いていたのですから、事実の細部が正確ではなかったとしても、真実性そのものが失われるわけではありません。

この「目撃証人」が、「ガス室大量殺人」の「目撃証人」として大変有名だったために、この出来事は外国の新聞では大きく報道されています(20)。

西岡本

これは前述の引用の直後にある単なる続きなのでどうでもいいのですが、この注釈20でまた西岡はやらかしています。

注20 The Toronto Sun, Jan. 24, 1989. この記事の冒頭だけを紹介する。A concerntration camp survivor yesterday admitted he never witnessed anybody being gassed to death and his book about Auschwitz-Birkenau is only "an artistic picture..not a document for a court."

西岡本

これは、上で翻訳引用した記事のことであり、その日付は1985年です。何故、西岡はこうも確認という作業を怠るのでしょうか?

「マルコポーロ」廃刊事件の際、私を取材しに来た新聞記者たちの多くが、「証言があるじゃないですか」等と言い、その「証言」を検証しようなどとは全く考えていなかったことは、その一例です。

西岡本

どの口でそんな偉そうなことを言っているのでしょうか? 自分自身の記述すら確認せずによくそんなことが言えたものです。


「「証言」を選ぶのは誰か?」について

このように、ウソの「証言」はあった、としか考えようがありません。

嘘をついているのはお前だ! と言いたくなるってものですが、西岡の著述とは別の趣旨で、ホロコーストに関する嘘の証言は確かにあったことは述べておく必要があると思いました。

ここに記される以外にも、怪しい証言や間違った証言、あるいは明らかに事実とは認められない証言は存在します。しかしこれは何もホロコーストに限った話ではなく、他の事件などでもたくさんのいわゆる嘘証言のケースは存在します。しかし、だからと言って十把一絡げに全ての証言を却下することもまたあり得ない話です。人間は嘘をついたり誤ったことを述べたりするのは誰もが知っている事実ですが、事実と認めて良い証言もあることは言うまでもありません

しかし、ホロコースト否定派が、ホロコーストを肯定する証言をされると非常に困るのは真実でしょう。否定派は、全ての肯定証言を否定します。非現実的ですね。

私は、皆さんに、このことに気付いて頂きたいのです。特に、虚偽の証言が一人歩きをする時には、そうした「証言」を選ぶ側の問題が大きいことは、過去の冤罪事件が教える教訓です。実際、冤罪事件の過程を調べると、「証言」を集める側が都合のよい証言ばかり拾っていたり、逆に都合の悪い証言は取り上げていなかったりした事例の多いことが、容易に分かります(22)。

西岡本

注釈22は、

注22 F. Leuchter & R. Faurisson: The Second Leuchter Report. JHR, Vol. 10, No. 3, Fall, 1990

とありますので、読む必要はありません。詐欺師のロイヒターと、否定派教祖のフォーリソンなので。ロイヒターについては以下を。

肯定証言を全却下する否定派が何を言ってもナンセンスなだけです。全ての証言は否定・肯定に関係なく、可能な範囲で精査される必要があります。少なくとも、内容をしっかり確認しなければなりません。西岡は前述の通り、確認なんか全くしませんので、お前は何を言ってるんだ?でおしまいです。


「何故、「証言」を検証しないのか?」について

歴史上の様々な出来事について、或いは社会の大きな事件などについて、有名になりたいとか、或いはその他の動機から、見てもいないことを「証言」したり、事実を著しく誇張、歪曲する「証人」が現われることは、考えてみれば、全く珍しいことではないのです。特に、この問題のように、大変な数の関係者がおり、その中にドイツ人に憎悪を持つ人々が多数含まれている場合、そうした現象がより顕著に出現することは、容易に想像できると言えるでしょう。問題は、先ほど申し上げた通り、そうしたウソの「証言」が、何故選ばれ、大きく取り上げられるのか、という点にあるのです。もう一度言いますが、この「ガス室」に関して、「証言」を選んできたのは、連合国の政府であり、それに追随した欧米のマスメディアでした。そうした、「ガス室目撃証言」の選び手たちは、果たして本当に公正に証言を収集していたのでしょうか?

西岡本

ここで西岡先生のおっしゃることは一理くらいはあって、ホロコースト関係の嘘証言にまんまとマスメディアが騙された事例がいくつかあるようです。西岡先生にとっては残念ながら「ガス室」とは関係ないものの、前述したリンクで示した記事の中にミーシャ・デフォンセカという名前がありますが、そこでも書いた通り、もしNetflixをサブスク契約している方がいらっしゃったら、『ミーシャと狼』を是非ご覧ください。思いっきりメディアが嘘証言に騙されています。

ところで、ホロコーストの嘘証言について幾つかは、定説側の人たちによって嘘が暴かれたり指摘されたりしてきたそうですが(例えばハーマン・ローゼンブラッドの事例は修正主義者の天敵でもあるデボラ・リップシュタットが指摘していた)、修正主義者って嘘を本当に暴いたことがあるのでしょうか? つまり修正主義者が「こいつは嘘をついている!」とした事例で、修正主義者に賛同する側でもなんでもない普通のメディアが取り上げてくれた事例とかはあるの? そんなの聞いたこともないのですが。


「「ガス室目撃証人」たちは法廷で訊問されているか?」について

このことに関連して、前にも名の出たフランスの見直し論者(リビジョニスト)ロベール・フォーリソン博士は、ある重要な事実を指摘しています。それは、戦後、ドイツ人戦犯を対象にして開かれたどの戦犯判でも、「ガス室目撃証人」に対する交差訊門(cross examination)が全く行なわれていなかったという、驚くべき事実です。
ご説明するまでもないとは思いますが、ここでいう「交差訊問」とは、弁護側が検察側の証人に質問をし、検事が被告側証人に質問をすることです。つまり、「反対訊問」と同じことですが、その「交差訊問」が、戦後どの裁判でも、「ガス室目撃証人」に対しては、何故か一度も行なわれていないことを、フォーリソン教授は指摘しているのです。

西岡は「cross examination」のことをわかってるんでしょうか? これは日本語では一般に「反対尋問」と呼びます。「交差訊門」なる言い方は普通しないと思います。ググってもそんな熟語は見つかりません。

反対尋問とは何か、「ご説明するまでもないとは思いますが」(笑)、この程度私は説明しません(笑)

しかし私はフォーリソンが何を言っているのか理解できません。私はホロコーストに関連した裁判記録などほとんど目にしたこととはありませんが、しかし、こんな有名な例は知っています。ヘスはニュルンベルク裁判でアウシュヴィッツのガス室を証言した証人として超有名です。

ここでは弁護側証人であるルドルフ・ヘスですが、ヘスに対して何人かが尋問を行っています。一見するだけでは誰が弁護側で誰が検察側か分かりにくいと思うので、この裁判記録を「反対尋問」で文字列検索をかけてみてください。

アメン弁護士:以上で反対尋問を終了しますが、英国の同盟国が提出を希望する一つの資料を除いて、反対尋問の開始時に紹介した資料を要約したものです。それは、展示物番号USA-810です。これは私が反対尋問を開始した時に提出した武装SSに関する以前の証拠品の要約です。
さて、閣下、私は理解しています。ソ連とフランスの代表団は、1つか2つの質問を持っています。彼らは自国に特有のものだと考えています。それをこの証人に提出したいと考えています。

裁判長:ルデンコ将軍、覚えていると思いますが、法廷は検察側の弁護人から、証人に関する限り、1人か2人の特定の被告人を除いて、検察側は1回の反対尋問しかできないと保証されていましたが、その保証がなされて以来、検察側が2回以上の反対尋問を希望したのは今回が2回目です。

アメン弁護士(アメン「弁護人」と訳すべきだったかもしれません)は、はっきり反対尋問を行っていたと言っているわけです。実際にこんな有名な事例があるのに、フォーリソンは何を言っているのか本当に理解できません。

しかしここで西岡のことを疑って、フォーリソンは本当は何を言ってたかを注釈23を辿ってまで調べようとすると、「これは、フォーリソン教授から、国際電話で直に聞いた話である」と書いてあったので確かめようもないのでした。確かめようもないことを注釈に普通書くか?(笑)


「連合国は拷問によってドイツ人被疑者の「自白」を得ていた」について

既にお話ししていることですが、これらの戦後の戦犯裁判の一部で、連合国側の取調べ官たちが、ドイツ人被疑者たちに拷問を加えて「自白調書」を作成していたことが、アメリカの議会記録に明記されています(この記録は、日本の国会図書館にもあります)。また、アウシュヴィッツ収容所の司令官だったルドルフ・ヘス(RudolfHöss)という人物は、戦後イギリスに捕らえられ、ニュー২ンベルク裁判に出廷した後、ソ連支配下のポーランドに身柄を移され、処刑されていますが、そのヘスがニュールンベルク裁判に出廷した際、イギリスは、彼の「自白調書(Affidavit)」を提出しています(24)。

なるほど、1997年頃からそんな馬鹿げたことを言っていたのですね。強調表示してある「自白調書(Affidavit)」のことです。私はこれで散々西岡を問い詰めましたが、昔からそう言ってたのなら、道理で譲らないはずです。西岡はここで何重にも間違えたことを言っているのです。

まず、ヘスの証言として知られるものにはいくつかの種類があります。私も全部知っているわけではないので、代表的なものだけを挙げます。

1946年3月11日深夜(あるいは12日未明)に、ルドルフ・ヘスはイギリス軍憲兵隊に逮捕されます。そして、その日はハイデの町に送られ、そこから期間的には二日間、日数にすると三日間勾留されます。おそらくその(1)ハイデの街での最初の日に、一番最初の調書が取られています。ヘスの自伝では「調書に署名はしたが、なんと書いてあったのか知らない」と述べているのがそれです。この調書は公開されておらず、どこに保存されているかも不明だそうです。従って内容を知る人はいません。続いてヘスは、二日後、「ウェーゼル湖畔のミンデン」(これはヘス自伝の日本語版の誤訳で「ウェーザー川流域にあるミンデン」が正しく、ウェーザー川であって湖ではありません)にある英軍施設に移送されます。ここで取られた調書は(2)証拠NO-1210として知られています。そして4月になるとヘスの身柄はニュルンベルク裁判に移されます。ここで、裁判に先立って(3)宣誓供述書が作成されます。さらに、ニュルンベルク裁判での勾留中に心理分析官の(4)グスタフ・ギルバートによってヘスの証言メモが取られています。5月になってヘスの身柄がポーランド当局に移されると、裁判までの間に長期間にわたって尋問が行われたようですが、この期間の当局側による記録については裁判記録を含め私自身はその存在をよくは知りません(「ない」と言っているのではありません)。で、ポーランドでの勾留中にヘス自身が(5)回顧録を書いていたのです。

私との議論で分かったのですが、西岡は(2)の調書(NO-1210)と(3)の宣誓供述書を混同していたのです。なので、議論当時、話が通じず、議論が全然先へ進まなかったのです(笑)。西岡は、宣誓供述書をイギリス軍が作成したと思い込んでいました。

驚くべきは、西岡は「Affidavit」の訳は「自白調書」だと言い張って聞かなかったことです。ネットで調べるだけですぐ分かりますが、「Affidavit」の日本語訳は「宣誓供述書」です。私はその議論の時、図書館まで出かけてどでかい辞書まで何冊も調べて確認してるので間違いありません。でも今回やっとその理由がわかりました、1997年の本に自分でそう書いたからなのですね(笑)

西岡は今でもイギリス軍のNO-1210とニュルンベルク裁判の「Affidavit」の区別がついていないと思いますが、NO-1210はイギリス軍の拷問(?)によって作成されたと言えなくもないかもしれない程度には言えますが、「Affidavit」はあくまでもニュルンベルク裁判所管轄で作成されたものであり、そこでは拷問の事実を示すものは何もありません

とりあえず、ヘスへの拷問疑惑は以下をお読みください。

しかしながら、ヘスの証言と言って私や歴史家たちが参照するのは、ほとんどヘスの自伝であり、イギリス軍による調書はもちろん、ニュルンベルク裁判やその他の証言を参照することはほとんどありません。何故なら、ヘスの証言は裁判証言や自伝等でも一貫して同じことしか言っておらず、自伝が最も詳しく書かれているからです。私はあまりにもヘスの自伝を読みすぎて、文庫本はすでに手垢でめっちゃ汚いです(笑)

アメリカの議会記録がどうたらと言っている件については、以下をお読みください。

これらを読んで西岡の話を馬鹿馬鹿しいと思わないのなら、あなたは立派な修正主義者です(笑)

ところが、そのへスを占領下のドイツで逮捕し、ヘスを取り調べて、この「自白調書」を作成したイギリスの軍人バーナード・クラークは、後年、ヘスの取り調べを回想したインタビューの中で、何と、ヘスを逮捕した際、彼に激しい暴力を加えたことを自慢するように語り、その「自白調書」が拷問の産物であったことを暗示しているのです(26)

上で示した『死の軍団』についての記事の中でほとんど述べていますが、インタビューだなんてどこにも書いてないし、「自慢」という言葉を使ったのは西岡のホロコースト否定仲間である木村愛二です。

ルパート・バトラーによると、クラークには拷問について「なんら後悔をしめさない。それどころか正反対に、“ナチ”を拷問したことについてかなり自慢した」という。

『死の軍団』のどこにそんなことが書いてあるのでしょうか? これはおそらくフォーリソンの論文の記述を木村愛二が勝手に自己流に意訳してしまい「ルパート・バトラーによると」などと捏造したのです。

バーナード・クラークは何の後悔もしていない それどころか「ナチス」を拷問したことに誇りを持っている

しかもこれはフォーリソンの感想でしかありません。本当にこいつらはどうしようもないですね。

ともかく、ヘスの証言が嘘であるという理屈は成り立たないことがわかります。ヘスがニュルンベルク裁判勾留中にグスタフ・ギルバートに述べたとされるアウシュヴィッツ犠牲者数「最大で150万人」が、ソ連の400万人よりも著しく低く、連合国に無理やり嘘を言わされたとするのなら、辻褄が合わないからです。しかも「最大で150万人」は、現在の推定値として認められている「110万人」の推計最大値である「150万人」に一致しており、非常に正確であることがわかります。さらにヘスの証言内容は、他の証言者の証言や文書証拠で十分裏付けることが出来、その信頼性はかなり高いと判断されるのです。

言い換えれば、拷問によって書かれた「歴史」を私たちは検証もせずに受け入れるべきか、という問いを、皆さん一人一人に、私は考えて頂きたいのです。何故なら、それは、私たちの自由に関わる問題だからです。

西岡本

『死の軍団』に書かれた本当の内容をきちんと読むこともできず(西岡は、クラークがヘスを逮捕した部分の2ページ分のコピーしか持ってないことを知っていますが、それすらちゃんと読まず欧米の修正主義者の主張を単に鵜呑みにしているだけです)、連合国の取り調べでは拷問があったとして修正主義者が好んで話す「137人の睾丸が破壊された」話が、実はアメリカ上院議会による公聴会で、その記事を書いたとされていたヴァン・ローデン判事が「私はその記事を書いていない」と述べて否定されていたことも知らないのです(欧米の修正主義者が知らないんだから、西岡が知るわけもないのですが)。

「検証」? どの口がそんなことを言えるのでしょうか(笑)。ちなみに私は、上で示したリンク先記事に書いた通り、『死の軍団』の本それ自体をアメリカから取り寄せました。Amazonで注文しただけですけど(笑)。木村愛二は「絶版になっていて入手不能」とかなんとか言ってましたが「いとも簡単に」入手できました(笑)


「「ガス室」の存在に否定的な証言が存在する」について

ところが、この裁判の初期に、注目すべきことが起きているのです。即ち、この時、トレブリンカの元被収容者たちの中から、自分はトレブリンカにいたけれど、「ガス室」など見たことも聞いたこともなかった、と証言する人々が幾人も現われたのです(「ガス室」に否定的な「証言」とは、こうした証言、或いはそれに類似した趣旨の証言を指します)(29)

とあったので、注釈29の文献は何かなと……

注30 H. P. Rullman: Victim of the Holocaust(Ukrainian National Center: History And Information Network-UNCHAIN, English translation 1987) p.44

ちょっとだけネットで調べてみましたが、「H. P. Rullman」が「Hans Peter Rullman」という人物であることがわかった程度で、それ以上は不明でした。例に漏れずこれも欧米の修正主義者経由で知った程度の情報なのでしょう。

トレブリンカ収容所と呼ばれる収容所には、基本的には二つあって、一つは絶滅収容所より前からあった労働収容所であるトレブリンカ1と、絶滅収容所であるトレブリンカ2です。トレブリンカ1は絶滅収容所から2キロほど離れたところにあったそうです。注釈29の文献を読んでないので、もしかしたら西岡が言っている「ガス室なんて知らない」と証言した人はトレブリンカ1にいたからかもしれない、程度のことしか言えません。しかし、西岡は出典は示しても何の引用もしておらず、それだけで「トレブリンカの元被収容者たちの中から、自分はトレブリンカにいたけれど、「ガス室」など見たことも聞いたこともなかった、と証言する人々が幾人も現われた」を鵜呑みにして信じることは無理だと思います。

トレブリンカについては証言者はかなり多いようで、トレブリンカ絶滅収容所に関する戦後の裁判も数回行われており、それら裁判ではガス室を否定する証言者がいなかったことは、以下の修正主義者であるグラーフの論文からもわかります。グラーフ自身は以下で色々と怪しいと言っているだけです。西岡の主張とは異なりますね。一応歴史修正主義研究会にある他のトレブリンカに関する記事も目を通しましたが、「ガス室の存在を否定した証言者」は見当たりませんでした。

わからないものはわからないとしか言いようがないので次へ。

「定説」側論者によると、このトレブリンカ収容所には「ディーゼル・エンジンで一酸化炭素を発生させるガス室」があったということになっています(30)。しかし、ディーゼル・エンジンの工学的特性の一つは、一酸化炭素を極く微量しか排出しないことなのです(31)。

すでに前記事で述べた話なので飛ばします。ボンバの話が続いていますがそれも前述のとおりです。


「トレブリンカ裁判とは何だったのか?」について

例えば、この収容所の敷地の形は、トレブリンカ裁判によれば、一八九ページにお見せしたように、長方形をしていたことになっています。それは、もう一度言いますが、この裁判で採用された「証言」が、トレプリンカ収容所の敷地はそんな形をしていたと述べているからです。
ところが、八九年に公開された航空写真を見ると、トレブリンカ収容所の敷地は長方形ではなく、扇形をしていたことが一目瞭然なのです。また、この航空写真を見ると、トレブリンカ収容所で採用された「目撃証言」が「ガス室」があったという場所に建物は写っていませんが、これは、「隠滅されたから」なのでしょうか? それに、トレブリンカ裁判が採用した「証言」では、トレブリンカ収容所は二重の鉄条網で囲まれていたと「証言」されているのに、そうではなかったことも、この航空写真からは明らかなのです(この航空写真と、一八九ページでお見せした、トレブリンカ裁判が「認定」した見取図とを見較べて下さい)。

では見比べてみましょう。

確かに、証言者が書いたとされるトレブリンカ絶滅収容所の見取り図と、航空写真で示された地形はまるで異なっています。なるほど! 証言者は嘘をついている! ……となりますか? そこで以下をご覧ください。航空写真を示すのは無理ですが。

https://jp.piliapp.com/japan-railway/tokyo-metro/

東京メトロの路線図ですが、これを正確な地図だと言う人はいないと思います。しかも、同じ東京メトロの路線図なのに、異なったデザインのものがあることはよく知られていると思います。では、正確な地図ではないからと言って、それら路線図は嘘なのでしょうか? 馬鹿馬鹿しいですね。

実際には、その元囚人は収容所内の地表面にいただけであり、しかも囚人ですからいつでも自由に歩き回れたわけではなく、ましてや測量できたはずもなく、メモを取ることすら許されなかったに違いありません(そんなことをすれば即座に銃殺されたでしょう)。そして、収容所を脱走した直後か、あるいは戦後に記憶を頼りに見取り図を書いただけのことであり、むしろ正確に扇形を書いたとすれば、それこそあり得ません。西岡は何故そんなある意味人間離れした、と表現したくなるような無理難題を元囚人に要求するのでしょう?

しかし写真左端と、見取り図左端を見比べれば、かなり正確に鉄軌道の形が描かれていることがわかります。それだけでも、見取り図としてはそれなりに正確なものであると推定できます。さらに付け加えると、もし仮に、その見取り図が戦後の裁判の時に書かれたものだとするのであれば、その時期にはすでにトレブリンカの場所も地形も当然わかっていたので、嘘の図面を書かせるのであれば、陰謀エージェントはその扇形ではない見取り図を、扇形に修正させたに違いありません。

本当に西岡は、アホなことばかり言っているのです。「二重の鉄条網」? あんた自分で「「隠滅されたから」なのでしょうか?」と書いてるじゃないか。隠滅しておいて、「二重の鉄条網」を残しますか? 変な溜め息しか出ませんね……。

さて、トレブリンカ絶滅収容所が証拠隠滅のため収容所敷地が整地されて農場にされていたことを示す、こんな文書が残っているそうです。

(1944年1月5日のオディロ・グロボクニクの報告)

機密の国家問題

4部コピー
1部目

ラインハルト作戦の経済的側面
[...]

しかし、帝国の資金とみなされる資金から行動のために用意された設備は、完全に取り除かれています。監督上の理由から、各収容所に小さな農場が作られ、そこには専門家が住んでいます。農場を維持するためには、彼に年金を支払わなければなりません。

https://note.com/ms2400/n/n204044027cce

過去、対抗言論のサイト、というかそのニュースグループの議論で、西岡がこの文書を相手に示されて「それのどこに証拠隠滅と書いてあるんですか?」などとつっこんでいたのを見た記憶があります(表現は違うかもしれません)。もちろん、その真意を確認したいところではありますが、グロボクニクは逮捕後、裁判に出廷する以前に自殺した(生きてた説もありますが)ので無理でした。しかし、この手紙の内容に一致する収容所は、トレブリンカ、ソビボル、ベウジェツしかありません。西岡が示した航空写真をみると、その敷地にはいくつかの畑ではないかと思われる区画があるように見えるのですが。畑があるのなら農場ではないのでしょうか?

西岡も、トレブリンカが通過収容所であったと認めてはいるので、その航空写真ではもしそうだったしてさえも、施設は取り除かれており、西岡が何を言っているのか意味不明で理解不能です。

ちなみに、西岡は注釈32としてマーク・ウェーバーとアンドリュー・アレンの共著による論文を以下のように挙げていますが、

注32 Cited in [M. Weber & A. Allen: Treblinka. Journal of Historical Review, Vol. 12, No. 2, Summer. 1992]

この論文は以下にあり

航空写真と見取り図の違いについては、

トレブリンカをきれいに整理された長方形の形の収容所として示す近年出版された図は正確ではない。/しかし、すでに述べたように、戦時中の航空偵察写真は、トレブリンカ第二収容所が実際には非対称の四角形で、不規則な形をしていたことを確認している。/53

以上のとおり「正確ではない」と書いているだけで、西岡のようにあたかも証言者が嘘を書いたかのようには述べていません。同論文では、トレブリンカのガス室などについて色々と文句を言っていますが、そのうちの蒸気説については以下をお読みください。実にくだらない否定論です。親衛隊が親切に囚人に本当の殺害方法を解説した筈である、とでも言いたいのでしょうか? これまた馬鹿馬鹿しくて話になりません。

そして、もう一つ、トレブリンカ裁判で採用された「目撃証言」の信憑性に疑問を投じる事柄があります。それは、八○年代後半から九○年代初めにかけて、アメリカ、ソ連、西ドイツ、そしてイスラエルを巻き込む形で発生した、ある冤罪事件が投げかける疑問です。
即ち、八○年代に、ジョン・デムジャンジュク(John Dem-janjuk)氏というウクライナ系アメリカ人が、八○年代に、ソ連からアメリカへの「通報」によって、戦争中トレブリンカで「ガス室」を運転していた、という嫌疑をかけられ、アメリカからイスラエルに身柄を移された後、一旦は、死刑の判決を受けたという事件です(33)。
この冤罪事件について詳しくお話しする余裕はありませんが、同被告が九三年にイスラエルの最高裁で無罪を勝ち得たことは、氏がトレブリンカで「ガス室」を運転していた等というソ連発の「情報」がいい加減なものであったことを証明しています(34)

西岡本

ネットで検索される場合は、「ジョン・デミャニュク」で検索されると良いかと思います。この話も、前述の『ミーシャと狼』同様、Netflixに『隣人は悪魔』というシリーズ番組がありますので、そちらの方が非常に詳しいので、サブスク契約されてる方は是非ご覧いただきたいと思います。

西岡は読者に「ソ連が諸悪の根源だ!」と印象付けたいのでしょうが、イスラエルで判決が覆えったのもソ連(およびソ連崩壊後のロシア)の情報でした。トレブリンカの残虐無比な看守であった、愛称「イワン雷帝」がデミャニュクとは別人のイワン・マルチェンコであるとソ連から出てきた情報で判明したからです。また、デミャニュクがトレブリンカの看守ではなかったとする結論にはなりましたが、本当の「イワン雷帝」と恐れられた看守はデミャニュクとは別人のイワン・マルチェンコだと判明したのであって、イワン雷帝がいなかったと結論されたのではないのです。

この最初のデミャニュクに対する裁判の最大の争点は、西岡の言う「ソ連発の「情報」」であったトラウニキ収容所の身分証明書にありました。裁判でもこの証明書の真偽についてかなりの議論がありましたが、この証明書はそもそもデミャニュクがトレブリンカにいたことそれ自体を証明するものではなかったのです。証言者がそのように証言したからですが、中にはトレブリンカではなくソビボルの看守だった、と証言した人もいたのです。しかし、トレブリンカにいた暴君的な残虐な看守であるイワン雷帝だ、とする証言者が多っかったので、イスラエルの裁判ではデミャニュクがそのイワン雷帝であったのか・なかったのかについてについてが、審議の焦点となってしまいました。

しかし結果的にはソ連崩壊後、ソ連の持っていた膨大な文書資料が公開されたことにより、トレブリンカの残虐な看守であったイワン雷帝は、デミャニュクではなく、別人のイワン・マルチェンコだと判明し、デミャニュクは無罪となって、剥奪されていたアメリカの市民権が復活したのです。デミャニュクがトレブリンカにいたことを示す証拠が証言以外になかったことの本質的な意味を、イスラエル当局は理解していなかったことが、この裁判の最大の誤りであったと言えます。実際には、デミャニュクの供述はソビボルに関しては二転三転しており、明らかに誤魔化していましたし、ソビボルにいたことについては明確にデミャニュク自身で証拠すら残していたのです。

しかし、アメリカ当局はしつこくデミャニュクを追求し続け、デミャニュクがソビボル、マイダネク、フロッセンビュルクなどの収容所の看守であったことを突き止め、アメリカは再度デミャニュクの市民権を剥奪するに至り、数年間はその措置が停止されたものの、ドイツへ強制送還されました。ドイツはソビボルでの集団殺人に加担したとしてデミャニュクに有罪判決を下しました。最終的には、デミャニュクは判決を不服として上訴したのち、老人ホームで高齢のため亡くなってしまいました。

ところで、西岡は「ソ連発の情報」がいい加減だと主張していますが、デミャニュクを無罪としたのも有罪としたのも全てソ連発の情報であり、最初に出てきた身分証明書も、結局その偽造(イスラエルの裁判ではしつこく何人も鑑定家のような証人を出廷させKGBによる偽造だと主張しました)は証明されておらず、その後に別の情報によってデミャニュクはトラウニキにいたことが証明されているので、いい加減ではなかったことになります。いい加減なのは何の検証も確認もしない西岡の方です


「あるユダヤ人女性の証言」について

「私たちは、B2Bブロック、または「家族用収容所」とも呼ばれる区画に連れていかれました。子供も、男もち、女も、皆いっしょで前もって選別されることはありませんでした。「男性用収容所」の囚人が、私たちのところにやって来て、アウシュヴィッツは絶滅取容所で、ここで人々を焼き殺すのだ、と言いました。私たちはそれを信じませんでした。B2Bブロックには、私たちより三か月前の、九月に、テレジン収容所を発った移送組がちゃんといたからです。先着組も、そんな事は信じていませんでした。というのも、私たち全員が再会したからです。だれ一人、連れ去られた者はいなかったし、だれ一人焼き殺された者もありませんでした。だから、私たちは、そんな事を信じなかったのです」(クロード・ランズマン著 高橋武沢『ショアー』338〜339ページ・・ユダヤ人女性ルース・エーリアスの証言より)この証言は、「ガス室」そのものの有無については何も断定していません。しかし、この証言の内容が、毎日、大勢の人々が「ガス室」で殺されていったとする、「定説」側論者たちが語る「アウシュヴィッツ」とかけ離れたものであることは、お分かり頂けると思います。

西岡本

このルース・エリアスの証言については、昔の『対抗言論』のニュース・グループで西岡と議論していた山崎カヲル氏が怒っていました。

とんでもない話です。ルース・エーリアスが自分のことばをこのように「解釈」されているのを知ったら、嘆きと怒りで卒倒してしまうかもしれません。彼女はおそらく、ガス室で身内や知人、もしかすると家族さえも失っていたはずですから。
 最初に、ランズマンの映画について、少し解説をさせていただきます(単行本『ショア』はその語りの部分を集めたものです)。それは多くの証人の証言や映像をモンタージュさせたものです。エーリアスの証言につづいて、テレジンから移送された人々がどのようにガス殺されたかを、ルドルフ・ヴルバとフィリップ・ミュラーとうふたりの生還者が語ります。こういうかたちで全体像が構成されているのですから、一部を切り取るべきではありません。
 テレジンからの移送組はアウシュヴィッツでは特別な扱いを受け、アウシュヴィッツの家族収容所(B2B)において6カ月間生存を許されました。6カ月目に彼らは殺されます。したがって、エーリアスが3カ月前に移送された人々と再開できたのは不思議でもなんでもありません。しかし、その3カ月後に、その人々はガス室送りになったのです。
 殺害と死体処理に使われたユダヤ人特別コマンドだったミュラーは、絶望のあまり彼らとともに死のうと思い、ガス室にいっしょに入ります。すると、あるユダヤ人女性からこういわれます。

「じゃあ、あんたも、死のうというのね? でも、無意味よ。あんたが死んだからといって、私たちの生命が生き返るわけじゃない。意味のある行為じゃないわ。ここから、出なけりゃだめよ。私たちのなめた苦しみを、私たちの受けた不正を・・・・・、このことを、証言してくれなければだめです。」[2]

 このような悲痛な声とともにしか引用してはならないエーリアスの証言を、西岡さんは勝手に切り取って、それを「『ガス室』に否定的な証言」にしてしまうのです。私はこうした行為の背後でうごめいている精神のありようを、卑劣だと断言します。これほどまでの卑劣さのなかで、ホロコースト否定はなされるのです。
 なお、テレジンから家族収容所に移送され、6カ月の猶予のあとで殺害された人々については、ニリ・ケレンが調査しています[3]。彼女によると、テレジンからは多くの子供たちも送られてきており、絶望的な環境のなかで彼らに教育を与える努力がなされたそうです。しかし最終的に、教師も子供もガス室に消えました。

https://web.archive.org/web/20070905164345/http://clinamen.ff.tku.ac.jp/Holocaust/Points2/Familienlager.html

私自身は映画『ショアー』も見てないし、本も読んでいないので、この山崎氏の言葉から推定するしかありませんが、まず、西岡が述べていることは少し知識が必要なのです。

先ず、「テレジン収容所」とは何かというと、これはテレージエンシュタット収容所(通常、収容所に隣接するテレージエンシュタット・ゲットーを含む)を指します。この収容所は他の強制収容所とは異なって、特権的なユダヤ人の移送先でした。簡単な説明は日本語Wikipediaでいいと思います。通過収容所扱いを受けたユダヤ人とは別に、テレージエンシュタットに特権的に移送されていたユダヤ人は1943年ごろから何回かに分けてアウシュヴィッツ・ビルケナウに移送され、家族収容所区画に家族ごと居住させられます。そして、他のユダヤ人囚人とは異なって、移送直後の選別(労働不適格者のガス室送り)はなく、全員がそこで生かされることになったのです。その理由については明確な理由はわかっていなかったと思います。ただ、推測としては国際赤十字の視察を騙す目的があったのではないかという説があるようです(視察どころかアウシュヴィッツ収容所内へは国際赤十字は入らせてもらえませんでした。入ったのはソ連による開放後です)。しかし、移送から半年後にテレージエンシュタットから移送されてきたユダヤ人はほとんど全員ガス室で殺されたとされています。その様子については、アウシュヴィッツの巻物の一つであるザルマン・グラドウスキーの巻物に記載されています。他にも証言はあります。スタニスワフ・ヤンコフスキーなど。

ショアーでは、ルース・エリアスの証言を「半年間は生かされた」を示す意味で使っていたのでしょう。そこを西岡は切り取ってガス室否定の証拠であるかのように使ったので、山崎氏は怒ったのでしょう。しかし私は思います、西岡はショアーの編集のコンテキスト、文脈をまるで読めなかったのだろう、と。

ところで、ルース・エリアスはアウシュヴィッツを生き延びた数少ないユダヤ人の一人ではあったのですが、どうして殺されずに生き延びたのでしょう? それは、あのメンゲレ医師の実験に付き合わされたからなのです。

1940-45: 1942年、ルースはテレジエンシュタットのゲットーに強制送還され、そこで結婚した。1年後、妊娠していた彼女はアウシュビッツに強制送還された。ルースが出産した後、SSの医師は、赤ん坊の娘が食べ物なしでどれくらい生きられるかを調べる医学実験の一環として、彼女の乳房をひもで縛るよう命じた。ルースは密かにパンを水に浸して赤ちゃんに食べさせたが、赤ちゃんは弱っていき、空腹で胃が膨れた。囚人医師はルースを説得し、苦しむ赤ちゃんに致死量のモルヒネを注射した

https://encyclopedia.ushmm.org/content/en/id-card/ruth-huppert-elias

アウシュヴィッツ・ビルケナウでは、ポーランド人のスタニスラワ・レズチンスカ助産師の孤軍奮闘もあって、女性囚人の出産も認められるようになっていました。しかし、リンク先で書いたようにそれは新生児の生存を認めたわけではありませんでした。中には、このように医学実験の実験台にさせられた新生児もいたのです。そんな状況下にいたルース・エリアスの心境は察するに余りあります

確かに、ルース・エリアスはアウシュヴィッツ・ビルケナウのガス室の存在をアウシュヴィッツにいた間、信じなかったようです。それは以下の動画でも語られています。

ですが、それはその時だけの話であり、彼女はガス室を決して否定しているわけではありません。結局、西岡は否定論を信じたいだけで、何の確認も検証もしていないことがここでもわかります。ガス室の存在を信じなかったアウシュヴィッツの囚人は他にもいます。

しかし、それらに信じなかった囚人の証言をガス室否定に使用する否定派の人たちをどう思いますか?

「定説」側論者たちがこうした証言について言うことは、分かりきっています。このルース・エーリアスのような証人は、たまたま知らなかった、たまたま見なかっただけだ、と言うのです。しかし、この論法なら、誰でもあらゆることを「目撃者がいる」というだけで「証明」できることになってしまいます。考えてもみて下さい。仮に、誰かが「私は湖で恐竜を見た」と言ったら、「そんなものは見たことがない」という証言は、たとえそれが、ずっと湖畔に住んでいた住民のものであっても、論証もせず、一方的に無視してしまってよいのでしょうか?それならば、ネッシーも存在することになると思いますが「定説」側論者の「目撃証言があるのだから。ガス室はあったのだ」という論法は、これとどれだけ違うものでしょうか?

西岡本

山崎カヲル氏は少なくともそんなことは言いませんでした。西岡がショアーから否定論に都合のいいところを切り取った、として怒ったのです。そして私は西岡はまたしても例に漏れず何の確認も検証もしていないと呆れました。ネス湖のネッシーは何度も実際に調査が行われ、ネッシーの存在は否定されていますし、証拠写真の捏造なども暴かれています。ガス室の存在に否定的な証言として否定派が挙げた例も、上で示したリンク先の記事でそれらは否定の証拠にならないと根拠をあげて示されています。


「「ガス室」に否定的な証言は黙殺されてきた」について

ればかりか、ドイツなどでは、こうしたことに加えて、何と政府が、「ガス室大量殺人」に疑いをはさむような言論を法律で規制しているのです(39)。
……<中略>……例えば、こうしたことを証言した場合、それだけで年金を剥奪される可能性もあると言われているのです(40)。

西岡本

ドイツは、刑法130条の民衆煽動罪でホロコースト否定(ジェノサイド否定)の主張を公に行うことを禁止していますが、それはそれとして、注釈40を見て呆れました。

注40 Thies Christophersen: Auschwitz/A Personal Account by Thies Christophersen (Liberty Bell Publication, First-1973, Printed in U. S. A. -1979)

西岡本

ティース・クリストファーゼンは『アウシュヴィッツの嘘』を著した元親衛隊員で、ガチガチのホロコースト否定派です。クリストファーゼンは、嘘をついていたと自分でそう言っているため、とっくに終わってます。

そうした証言をするドイツ人の一人に、ウィルヘルム・シュテークリッヒ(Wilhelm Stäglick)博士という、ドイツの元判事が挙げられます。このシュテークリッヒ博士は、ドイツ連邦共和国(西ドイツ)で水年に渡り判事を務めた人ですが、若い頃、軍務でアウシュヴィッツを訪れたことがありました(1)。

西岡本

シュテークリヒもガチガチのホロコースト否定論者です。ドイツ語Wikipediaによると、「1974年、ハンブルクの財務判事シュテークリヒは、NPDの会員であり、右翼過激派雑誌に絶え間なく論文を発表していたため、懲戒手続きが開始され、早期退職と5年間の年金減額という結果に終わった[1]。」NPDとは「ドイツ国家民主党」の略称で、日本の公安調査庁によると「「ドイツ国家民主党」(NPD)は,1964年に結成された極右政党。人種主義的な国家主義を唱えるとともに,ドイツの国境線を1937年時点に戻すことなどを要求している」だそうです。

別に、シュテークリヒはそのような思想を持っているから信用すべきではないと言っているのではありません。西岡はシュテークリヒが極右政党の会員だったという事実や、ガチガチのホロコースト否定論者だという事実を書かないことを問題視しているのです。西岡は、定説側の歴史家は否定的な証言を抑圧してきたと主張しながら、自らはシュテークリヒやクリストファーゼンが否定論者であることを書かない。これは二重基準・ダブルスタンダードと言わざるを得ません。西岡は読者を欺いているとさえ言い得ると思います。


「火葬場の建物が「ガス室」と混同されていることの意味」について

しかし、現実にはそうした「証言」だけに依拠して、何も物証のない「ガス室大量殺人」が、疑いようのない事実であるかのように語られてきました。

西岡本

この項目は西岡がぐだぐだと自身の感想・意見だけを書いているだけなので、特段言うべきこともないのですが、上の引用箇所は嘘ですので、繰り返しになりますがそれだけは言っておきます。ガス室の存在は決して証言だけに依拠しているわけではないことは、西岡が自分で持っていると豪語している2024年1月現在、日本円で20万円以上もするプレサック本を読めばわかる話です。

「物証」についてもすでに示しています。それら証拠の一つ一つについて、否定派からの反論があるのも重々承知していますが、その否定論にはさらなる反論もあることも述べておきます。しかしそうした議論とは別に、「証言だけに依拠している」は完全に嘘です。


「731部隊の研究者が語った「証言」の問題」について

その教授は、731部隊の諸行為を実証的に解明し、発表してきた立派な方ですが、そうした研究の過程で、戦争中、731部隊のことを知っていたとか、彼らの行動を目撃した。などという多くの人々に会い、その証言に接してきたという体験の持主なのです。それで、そうした証言の問題については、ご自身、色々な体験をしておられるのですが、その教授がそうした731部隊に関する証言を収集する過程で気づいたことは、思い違いによる証言というものが非常に多いことだった、というのです。

西岡が、その教授からそのような大事な話を聞いておきながら、どうしてその教授が「思い違いによる証言」と判断できたのかについて、自分の胸に聞くことができないのは実に奇妙なことです。そして西岡はこのように述べるのでさらに理解困難になるのです。

それで、詳しく聞いていくとその人はウソなどはついていないのだけれど、その人が見たのは、「生体実験」などではなく、通常の病理解剖だったらしい。しかし、その人は、それを「生体実験」だと固く思い込んでいて、善意からそれを話して聞かせてくれた、というような例が多々あった、というのです。

西岡の弁をそのまま借りると、その教授は「詳しく聞いて」証言の内容を精査していったのです。ところが西岡は、証言者に証言など聞いたこともないのだそうです。

マルコポーロ事件の際、そのマルコポーロに記事を書くために一生懸命、阪神淡路大震災を取材したにもかかわらず、廃刊になったので記事を載せられなくなった当時の江川紹子氏は、それが悔しかったのかどうかは知らないけれど(悔しさは滲み出ているように思えるが)、雑誌『創』95年4月号で、西岡の会見を取材し、「収容所からの生還者などまだまだ多数生存しているはずのユダヤ人関係者へのインタビューは一切行っていないことを明らかにした」と書いています

しかもその教授は「その人はウソなどはついていない」とも西岡は書いているのに、なぜ西岡はホロコーストのガス室を肯定する証言を、嘘だとするかの如く、ほとんど断定に近い疑問を呈するのでしょう? あなた、アブラハム・ボンバの証言は嘘だと言ってるじゃないか。そうは言ってないとは言わせないぞ。

ほんとに西岡は無茶苦茶(笑)

ではまた次回。長くなってすみませんm(_ _)m

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