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ルドルフ・ヘスの自白強要説の原典、『死の軍団』再び。/Rupert Butler, Legions of Death

ショック……。

以前にタイトルにある『死の軍団』について、かなり長い記事を、翻訳ではなく、自分で結構時間を掛けて書いたのですが、ふと立ち寄ったマクドナルドでスマホを弄っていたら、その記事に軽い修正点を見つけ、スマホから編集し保存したら……その記事の半分がごっそり消えてしまいました。結構ショックです。あの記事は、今述べたように自分で書いたものであり、他の記事のように翻訳しなおせば再現できるというものではないからです。仕方ないので、noteサポートに不具合報告をし、当該記事は非公開にしました。

そこで、改めて、当時の記事はちょっと長すぎたかもしれない上に、若干の私の誤解もありましたので、今回は可能な限りコンパクトにかつ修正も兼ねて再び論じたいと思います。

1.『死の軍団』って何?

イギリスのルパート・バトラーというジャーナリストが、1983年に出版した、ナチスを扱ったストーリー仕立ての歴史読本です。既に絶盤になって久しいですが、私はその中古本をネットを通じて海外からわざわざ取り寄せました。しかし、英語は全くダメなので、私にはペーパーバック版のままではきつく、スキャン業者に出して、全文をテキストコピー可能な状態でpdf化してもらいました。なので、現物の本は解体され、スキャン後に処分されていますので手元にはpdf以外存在しません。

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私の手元に来た時点でこんなに黄変しており(しかも上の写真は表紙であり多少は分厚い箇所でこれですから内部は推して知るべしです)、紙がボロボロ崩れる状態でしたので、それもあって pdf化がベストだろうと判断したのです。一度近所のコンビニで複写しようとしましたが、ボロボロと紙が崩れてくるので、破れでもしたらヤバいと思い自分で複写するのを断念しました。

この『死の軍団』が、ホロコースト否定派の間で価値のある本となったのは、ホロコースト否定派にとって絶対に否定しておかねばならない証言者の1人、ルドルフ・ヘスのその逮捕時の状況が詳しく記述されていて、否定派はその記述に「ヘスは逮捕時に拷問を受けていたことが判明した!」と大喜びしたのです。

否定派の重鎮ロベール・フォーリソンもこの本について論じています。以下で私はその記事を翻訳しましたが、あまりの酷さ……難解さに頭を抱えたものです。

この駄文論文が難解・厄介なのは、フォーリソンが自分の憶測を断定調で書くので、フォーリソンの憶測記述なのか事実の記述なのか区別するのが難しいことにあります。上のリンク記事を読めばそれは大体わかります。

最初に述べた通り、この『死の軍団』は、ジャーナリストが取材に基づいて書いたストーリー仕立ての歴史読本です。確かに、ルドルフ・ヘスを逮捕ししたというイギリス軍人だったバーナード・クラークの協力を得た趣旨が書いてあります。ただし以下のように本の冒頭に書いてあるだけで、一体どういう便宜なのか具体的な記述はどこにも書かれておらず、インタビューなのか当時のメモか日記でも貰ったのか一切書いていません。

謝辞
この本を出版するにあたっては、ロンドンの帝国戦争博物館印刷書籍部のテリー・チャーミアン氏に特に感謝している。チャーミアン氏は、ヒトラーの東側領土での戦争に関する関連書籍や文書を精力的に探してくれた。また、現代史研究所とウィーナー図書館からは、第二次世界大戦に関する報道資料のユニークなコレクションを利用することができた。また、英国王立連合軍防衛研究所(ロンドン)、ハンス・タシームカ・アーカイブ、ロンドン図書館からも多大な援助を受けた。アウシュヴィッツ・ビルケナウの生存者で礼儀正しいゲルトルド・モソニイや、アウシュヴィッツの司令官ルドルフ・ヘスを捕らえたバーナード・クラークからも多大な便宜を図ってもらった

註:これがどうして、「クラークによる記述または記録されたものの断片をいくつか引用」(フォーリソン)や「インタビュー」(木村愛二、西岡昌紀)になるのか私にはさっぱりわからない。そう読める箇所があったとしても、引用したとかインタビューしたとか一切どこにも書いていないのである。

被害者・加害者本人が書いた回想録ですら疑問視する否定派が、本人ですらないジャーナリストの書いた本の記述を証拠とみなす神経が私にはわかりません。否定派には「裏を取る」という概念が存在しないのです。次項で引用するのでそれを読めばわかりますが、書かれている情報の裏を取らないと、バトラー本のみで史実を解読する文書とするのは杜撰すぎると言えるでしょう。しかも後述しますが、この逮捕時の記述に大きく矛盾する別の事実(記事)が存在するのです。

2.具体的に拷問ってどんな内容なの?

それがですね、結構謎なのです。ともかく、該当箇所を以下に訳出しましょう。note記事が消えてしまった怒りのエネルギーで、その逮捕時の記載がある19章全部訳します(笑)。英語テキストもコピペしたいところですが、それだと長くなりすぎるので、検証されたい方は申し訳ないですが、下記画像で代用して下さい。上手く行けば画像をダウンロードして、Googleドライブに転送しGoogleドキュメントでテキスト化出来るはずです。

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▼翻訳開始▼

19

 アウシュビッツ周辺の荒涼とした大地に、遠くから大砲の音が鳴り響いていた。赤軍が近づいてきたのである。最も悪名高い絶滅センターの証拠隠滅のための必死の戦いが本格的に始まったのだ。

 1945年1月の第1週の終わりに、SSは6万5千人以上のユダヤ人捕虜の避難を組織した。その月は、凍てつくような寒さの中、2,500人もの囚人を乗せた大規模な隊列が、シレジア地方の都市を目指して西に向かって徒歩で出発した。

 これは文字通り死の行進だった。ある800人の隊では、18日間の行進で生き残ったのはわずか200人だった。2,500人の別の隊では、初日に71人が撃たれた。つまずいて起き上がれない者は、銃弾に倒れた。

 ヒムラーとその副官たちは、しぶしぶ大量殺人の方針を放棄した。罪を犯した者には何が待っているかという明確な警告は、最初は無視された。

 1944年10月の時点で、アメリカとイギリスの共同宣言が「フラッシントン」から放送されていた。それは、オシフィエンチム(アウシュビッツ)でのドイツの大量処刑計画についてのものであった。この収容所や他の収容所では、「ヨーロッパの多くの収容所から来た何千人もの人々が投獄されている」。

 宣言では、もし大量処刑の計画が実行された場合、英国政府は「最高位の者から最低位の者まで、何らかの形で関与したすべての者の責任を問う連合国の全面的な協力と合意のもとに、罪人を裁くための努力を惜しまない」と警告を続けた。

 連合国側が非常に驚いたことに、ベルリンからは簡潔ではあるが返事があった。声明文によると「これらの報道は最初から最後まで虚偽である」ということだった。パニックになって否定したように聞こえたが、外務省は、この宣言には十分な価値があると考えていた。

 しかし、長い間、それは虐殺のレベルに違いはなかった。 警告の3日後の10月12日、ビルケナウの兵舎から3,000人のユダヤ人女性が「選ばれ」、火葬場IIでガス処刑された。

 イギリスは再び試した。SSのトップ7人の名前がラジオで読み上げられたのである。ロンドンのポーランド亡命政府に、蜂起後にワルシャワから追われてきた12,400人の市民をアウシュビッツでドイツ軍が殺したという情報が届いたからである。

 曖昧さのない放送で終わった。

「他のすべての関係者に警告せよ。これらの残虐行為は、罰せられるべき重大な犯罪である。このような状況下で、すでに負けた戦争の最後にこのような行動をとることが賢明であるかどうか、発起人であれ、幹部であれ、その他の方法であれ、すべての関係者に考えてもらいたい。」

「そして、ドイツ国民は、今、自分たちの代わりに国家的自殺をしようと呼びかけている人たちが、祖国の名誉に消えない汚点を残した一連の犯罪に直接責任を負っている人たちであることを忘れてはならない。」

 連合軍はアウシュビッツ周辺の工場への空襲を強化した。ある攻撃では、クラスター爆弾が誤ってSSの病室に落ちた。

 目撃者の一人、エーリッヒ・クルカ氏は、このイベントを歓迎すべき気晴らしと考えていた。

 「整備班で働いていた私と同僚は、クリスマスにセントラル・ヒーティングのパイプが霜で損傷したため、親衛隊の病室に呼ばれました......。修理を命じられた私たちは、急いでSSの部屋に向かいました。部屋の中には、オレンジやイチジク、チョコレートなど、5年ぶりに見るものがありました。修理のために少しの間、一人になった私たちは、食べ物を上着の下に隠し、修理を始めました。」

「突然、サイレンが聞こえてきました。SSは私たちを暖房用の地下室に連れて行きました。地下室に隠れていると、爆弾の落ちる音が聞こえてきた。爆弾は5個ほどあった。そのうちの1つが、この暖房用の建物の近くに落ちました。私たちは瓦礫と灰で覆われていました。」

 1945年1月27日午後3時、ソ連軍がアウシュビッツに到着したとき、アウシュビッツはあまりにも悲惨な場所であったため、喜びは大きかった。

 死体は648体、生存者は7,600人で、アウシュビッツ本陣に1,200人、ビルケナウに5,800人、うち女性は4,000人、近くのモノヴィッツに650人の生存者がいた。

 最初のガス収容所が操業を開始してから2年半以上が経過し、最低でも200万人のユダヤ人が殺され、200万人のソ連軍捕虜、ポーランド人政治犯、ジプシー、ヨーロッパ中の非ユダヤ人も一緒に殺された。

 この時、外界はこの惨状に全く備えていなかったわけではない。それ以前に、赤軍はルブリンに到達し、マイダネクの中庭に積み上げられた死体や骸骨の写真を公開していた。

 しかし、このような状況では、なかなか受け入れてもらえない。アメリカの心理戦部門のD・マクラレン大尉は、1月3日にこう書いている。

「英米の人々は、海外でのドイツの残虐行為や国内でのゲシュタポによる恐怖支配を、全体としてはまだ信じようとはしていません。」

 彼らはすぐに知ることになった。

 ヒトラーの悪名高い東方政策を実行した者たちへの復讐心が燃え上がっていた。しかし、それはすぐには解消されない。アウシュビッツの司令官ルドルフ・ヘスの場合は、終戦から1年以上もかかることになっていた。

 ナチスの逃亡者の中には、軍服を燃やし、家族の宝石を掘り出して、アルゼンチンの牧場に逃げ込んだ者も少なくなかった。ドイツに残った人々は、一斉に北へ脱出した。シュレスヴィヒ・ホルシュタイン州は、長年にわたってナチス寄りの傾向が続いた農業地帯であり、お気に入りの場所だった。ここでは、最悪の狩りが終わるまで、男を保護することができると考えられていた。そして、新たな書類、新たなアイデンティティを求めて、様々な非ナチ化裁判所から巧みに逃れることができた。

 1940年5月から1943年12月までアウシュビッツの指揮官を務めたルドルフ・フランツ・フェルディナンド・ヘス親衛隊中佐は、ヒムラーによってSS中央経済管理局のデスクワークに昇進させられていたが、彼が魅力を感じたのは後者であった。その前には、アウシュビッツのSS駐屯地の司令官として、一時的にアウシュビッツに戻っていた。

 ヘスは、1945年5月に数十万人のドイツ人とともに最初に逮捕された。しかし、彼は認識されておらず、すぐに釈放されて農場で働くことになった。彼が忘れられたわけではない。英国のカウンター・インテリジェンスのフィールド・セキュリティ部門は、捜索を強化した。すぐに、シュレスヴィヒ・ホルシュタイン州のハイデという町にある、あるアパートの一室に興味を示した。

 バーナード・クラークは、イギリス人のユダヤ人で、92野戦保安部の軍曹であり、すでに逃亡中の元ナチス党書記マーチン・ボルマンの無益な捜索に携わり、現在は南イングランドで働く成功したビジネスマンであるが、こう説明する。

「ハンナ・ヘス夫人とその息子、娘がこのブロックの2階のアパートに住んでいたことは知っていたし、さらにヘスが月に一度、彼らに会うために忍び込む習慣があったことも知っていた。しかし、24時間体制で監視しても、彼の姿は全く見えない。」

「しかし、ヘスはどうにかして中に入り、どうにかして家族に会った。このニュースは、私たちが用意した情報提供者の軍隊からもたらされたものであるが、哀れなドイツ人たちは、占領当局の言いなりになることに熱心で、数缶のブリービーフやタバコ1箱のために、隣人や友人を裏切ることをいとわなかった。」

「明らかに行動すべき時が来ていたのである。」

 1946年3月11日の午後5時、ヘス夫人は玄関を開けると、英国の制服を着た6人の諜報員が現れた。彼らのほとんどは背が高く威嚇的で、持続的で容赦ない調査のより高度な技術を習得していた。

 暴力を振るう必要もなく、妻と子供は別々に保護されていた。クラークの口調は意図的に控えめで、会話のようなものだった。

 彼は穏やかに始めた。「昨晩、ご主人がお見えになったそうですね。」

 フラウ・ヘスはこう答えた。「数ヶ月前に逃亡して以来、会っていません。」

 クラークはもう一度、優しく、しかし責めるような口調で言った。「そんなことはないとわかっているはずです。」すると、一気に態度が変わり、叫んでいた。「言わなければ、ロシアに引き渡して、銃殺隊の前に立たされるぞ。そしてあなたの息子はシベリアに送られる」

 それは十分すぎるほど証明された。結局、傷ついたヘス夫人は、かつてのアウシュビッツの責任者であり、今はフランツ・ラングと名乗っている男の居場所を明かした。息子と娘への適切な脅迫により、全く同じ情報が得られた。

 ハイデからの道は大雪に覆われていたが、深夜になると、軍政府の将校、医療関係者、兵士など約30人の車列が、ゴトルペルの敷地内にある寂しい農家へと向かった。

 車列はゆっくりと停止した。続いて、火を消し、タバコを消せという命令が出た。

 クラークとクロス大尉が前に出て、軍曹はリボルバーを構え、静寂の中で玄関のドアを何度もノックした。

 出てきた黒服の老婦人は、すぐに「他の人はいない」と否定した。隊員が移動して、しっかりと彼女を逮捕した。捜索が始まった。

 すべての部屋、戸棚、床の間を調べても何も出てこない。時刻は午前2時を回っていた。クロスはかなり焦っていた。

 彼はため息をついた。「これもボルマンの逃避行なのかもしれない。確かにここには誰もいないし、私は疲れてきた。」

 クラークは「馬小屋ブロックは未だだ」と主張した。

 その中には、巨大なベンチを備えた牛の屠殺場も含まれていた。隊員たちはあちこちに散らばって几帳面に捜索を始め、最後は無数にあるアルコーブの一つにたどり着いた。

 クラークは鮮明に思い出す。「彼は、新しいシルクのパジャマを着て、3段のバンカー(註:大箱?)の上に横たわっていた。あとでわかったことだが、彼はほとんどの人が持っていた青酸カリの錠剤をなくしていた。彼の口にトーチを突っ込んでいたので、使う機会はほぼなかっただろうが。」

  イギリス軍の制服を見ただけで、ヘスは恐怖の声を上げた。

 クラークは「お前の名前は何だ?」と叫んだ。

 彼が「フランツ・ラング」と答えるたびに、クラークの手が囚人の顔にぶつかった。それが4回目になると、ヘスは折れて自分が何者かを口にした。

 この告白は、ヘスが署名した命令に従って両親をアウシュビッツで死なせた逮捕部隊のユダヤ人軍曹たちの嫌悪感を一気に解き放った。

 囚人は最上段の寝台から引き剥がされ、パジャマは体から引き剥がされた。そして、裸のまま惨殺台の一つに引きずり込まれ、クラークには果てしない打撃と悲鳴が聞こえてくるようだった。

 結局、医務官は大尉に「死体を引き取りたくなければ、彼らを呼び戻せ」と促した。

 毛布をかけられ、クラークの車に引きずり込まれたヘスは、軍曹にかなりの量のウイスキーを喉に流し込まれた。そして、ヘスは眠ろうとした。

 クラークは、警棒を男のまぶたの下に突き刺し、ドイツ語で命令した。「豚は目を開けてろ、豚ども」

 このとき初めて、ヘスは何度も繰り返してきた正当性を口にした。「私はヒムラーから命令を受けました。あなたが兵士であるのと同じように私も兵士であり、命令に従わなければなりませんでした。」

 一行がハイデに戻ってきたのは午前3時頃であった。まだ雪が舞っていたが、ヘスは毛布を引き裂かれ、全裸で刑務所の庭を独房まで歩かされた。

 彼からまとまった言葉を引き出すのに3日かかった。しかし、いったん話し始めると、彼を引き止めることはできなかった。

 しかし、この尋問で最も苦しんだのは、囚人ではなくバーナード・クラークだった。

 彼はこう振り返る。「逮捕する前の私の髪は漆黒だった。3日後、突然中央に白い筋が現れ、それが残りの髪の毛も白くなるまで続いた。」

「それは、出来事の緊張によるものではなかった。私はそれに対処することができた。しかし、ヘスは囚人に穴を掘るように指示して、その穴に銃殺されたことを誇らしげに繰り返していた。遺体に火をつけて、そこからにじみ出た脂肪を他の人にかけたことも明かした。」

「彼は、約200万人の死の責任を負い、1日に1万人のペースで殺害が行われたこともあったと、反省の色もなく認めた。」

「その彼が、妻子に宛てた手紙の検閲を担当していたのである。時々、私は喉が痛くなった。一人の男の中に二人の異なる男がいた。一人は人の命を顧みない残忍な男。もう一人はソフトで愛情深い。」

 ヘスは一度も責任逃れや否定をしようとしなかった。

 ポーランド人民特別法廷での裁判では、死刑判決にも動じない様子だった。連合軍には命令があり、それが実行されないということは絶対にあり得ないと考えたからだ。

 ルドルフ・ヘスは1947年4月7日、妻子と暮らしていたアウシュヴィッツ収容所内の家のそばで絞首刑に処された。


 元ポーランド総督で、ナチス党のガウライターであり、ドイツ法アカデミーの会長であるハンス・フランクは、1945年5月、ベルヒテスガーデンの収容所に収容されていた20万人の囚人の一人に過ぎなかった。彼は、自分が知られずに済むかもしれないという希望を捨ててはいなかった。実際、終戦のかなり前には、戦争犯罪者の中でも特に有名な人物の一人になるという見通しに、変な喜びを感じていた。

 前年の1月にワルシャワで行われた秘密会議で、彼はこう宣言した。

「1万7千人もの人々が銃撃されたと聞いても、私たちは決して弱音を吐いてはなりません。ここに集まっている私たちは、ルーズベルト氏の戦争犯罪者リストに名を連ねていることを忘れてはならない。私は光栄にも第1位です。」

 彼を逮捕した2人の有色人種のGIは、どんな有名人であっても印象に残らず、彼がミースバッハの市営刑務所に移送されたのは、残酷に殴られてトラックに投げ込まれた後だった。

 虐待の痕跡を隠すために防水シートがかけられていた。フランクは、左腕の動脈を切ろうとしたときに、このカバーが役に立った。

 明らかに、そのような安易な脱出は許されない。米軍の衛生兵に命を救われ、ニュルンベルクの国際軍事法廷で裁判を受けることになった。

 フランクの言葉は、ヒトラーを支持しているかどうかにかかわらず、常に強引であった。1941年12月、彼はこう宣言した。

「私はユダヤ人に何も求めない、彼らが消えること以外は。彼らは行かなければならないだろう...ここで帝国の構造全体を維持できるように、私たちはユダヤ人と出会う場所や機会があればいつでもユダヤ人を破壊しなければならない...350万人のユダヤ人を射殺することはできないし、毒殺することもできない。しかし、帝国で検討されている大規模な対策と連動して、いずれにせよ絶滅につながる措置をとることはできる。」

 ニュルンベルクの被告は、法廷の前で懺悔して罪を告白すれば、甘い判決が下されるというイメージを持っていたのかもしれない。それがフランクの希望であった。しかし、早くも1929年には党の法務部長を務めていたナチスの確信犯にとって、それは明らかに手詰まりの状態だった。藁にもすがる思いであった。

 とはいえ、弁護士にふさわしく、彼の弁護は巧みで積極的であった。その主なテーマは、彼は実際には罪を犯していないが、ポーランドでは「重要な平和的措置」の指示を出したに過ぎないというものだった。彼は、ニュルンベルクで「過剰」とやや寛大に表現された自分の犯罪を、「自分がコントロールできなかった」と指摘した警察の活動のせいにした。

 ヒトラーは、自分を二重に裏切ったのだと、いささか悲しげに訴えた。

「...表向きは私を代表者に任命していたが、裏ではヒムラーとその手下たちの狂気の専制政治にこの地域を委ねていた。」

「彼らの活動に対して、私がヒトラーに訴えても、事実上、無力であり、最も必死な手段で対抗しようとしても、すべて無反応であった...」

 役に立たないことばかりだった。イギリスのニュルンベルク裁判の主任検事であったサー・ハートリー・ショークロスは、フランクを次のように表現しているが、その効果は絶大であった。

「ポーランドでのテロリズムの使用、多数の人々を餓死させるような方法でのポーランドの経済的搾取、100万人以上のポーランド人の奴隷労働者としてのドイツへの強制送還に、故意に参加している。」

 判決も宣告された。

「占領政策は、国家としてのポーランドを完全に破壊し、その人的・経済的資源をドイツの戦争努力のために冷酷に利用することに基づいていたことが証拠によって証明されている。」

「すべての反対派は、徹底的に弾圧された。20人から200人のポーランド人の集団を公然と破壊したり、人質を広範囲に射殺するなどの行為を命じた簡易警察裁判所を背景に、恐怖政治が行われた。」

「強制収容所は、悪名高いトレブリンカとマイダネクの収容所を設立することによって、総督府に導入された。」

 1946年10月16日、フランクはニュルンベルク刑務所のギムナジウムで絞首刑に処されたが、その際、彼は典型的な美辞麗句を残した。「千年経ってもドイツの罪悪感は消えないだろう。」

 国務大臣としてチェコ保護領の実質的な支配者であった失敗した元書籍商のカール・ヘルマン・フランクが、プラハで公開処刑されたときに、そのような宣言をしたという記録はない。

 リディツェの復讐を見ようと7,000人の観衆が集まった。体に合わない色あせたユニフォームを着て、ぶら下がっているフランクの写真が世界中のマスコミに流された。

 しかし、SSの完璧なモデルである死のデスクマン、アドルフ・アイヒマンには、まだ正義の鉄槌は下されていなかった。

 終戦後、アイヒマンは、それなりに説得力のある民間の書類を持って、家族と一緒にアルゼンチンに渡った。

 イスラエルの諜報機関は時間をかけていた。

▲翻訳終了▲

 今回は、敢えて訳すだけとして、どこかを太字強調にしたり、注釈解説を加えたりはしませんでした。

3.だから『死の軍団』のどこが問題なの?

 では問題です。一体この記述のどこに拷問の記述があるのでしょう? 候補を以下にいくつかあげます。……とその前に、拷問とは何か、Wikipediaから引用しましょう。

拷問(ごうもん、(英: torture[1])とは、被害者の自由を奪った上で肉体的・精神的に痛めつけることにより、加害者の要求に従うように強要する事。特に被害者の持つ情報を自白させる目的で行われる。

否定派が問題にしているのは、拷問によりヘスは嘘の自白を強要された、ということなので、ここではこの否定派の要件を満たすかどうかが問題になります。

① 逮捕時にクラーク軍曹がヘスを殴ってる。

 クラークは「お前の名前は何だ?」と叫んだ。
 彼が「フランツ・ラング」と答えるたびに、クラークの手が囚人の顔にぶつかった。それが4回目になると、ヘスは折れて自分が何者かを口にした。

ふむ、定義から言えば確かにこれは拷問かも知れません。自由に逃げられた状況だとは思えないので、被害者の自由を奪ってますし、殴ったのか引っ叩いたのかで痛めもしてますし、名前の自白を強要しています。でも、彼は確かにルドルフ・ヘスでした。嘘ではないので問題はありません。

② ヘスが名前を自白後、軍曹たちに酷い暴行を受けている。

 この告白は、ヘスが署名した命令に従って両親をアウシュビッツで死なせた逮捕部隊のユダヤ人軍曹たちの嫌悪感を一気に解き放った。
 囚人は最上段の寝台から引き剥がされ、パジャマは体から引き剥がされた。そして、裸のまま惨殺台の一つに引きずり込まれ、クラークには果てしない打撃と悲鳴が聞こえてくるようだった。
 結局、医務官は大尉に「死体を引き取りたくなければ、彼らを呼び戻せ」と促した。

 被害者の自由を奪い、痛めもしてますが、別に自白は強要していませんので、否定派が問題とする要件を満たしてはいません。アウシュビッツで両親を殺され軍曹たちの暴行を受けるのは確かに拷問的状況と言えなくはありませんが、これはしょうがないでしょう。

③ クラーク軍曹がウィスキーを無理やり飲ませ、警棒をヘスの瞼の下に突き刺した。

 毛布をかけられ、クラークの車に引きずり込まれたヘスは、軍曹にかなりの量のウイスキーを喉に流し込まれた。そして、ヘスは眠ろうとした。
 クラークは、警棒を男のまぶたの下に突き刺し、ドイツ語で命令した。「豚は目を開けてろ、豚ども」
 このとき初めて、ヘスは何度も繰り返してきた正当性を口にした。「私はヒムラーから命令を受けました。あなたが兵士であるのと同じように私も兵士であり、命令に従わなければなりませんでした。」

 定義としては拷問に当てはまるかも知れませんが、①同様嘘は見られませんので、問題ありません。

④ 寒い中を裸で歩かせた。

 一行がハイデに戻ってきたのは午前3時頃であった。まだ雪が舞っていたが、ヘスは毛布を引き裂かれ、全裸で刑務所の庭を独房まで歩かされた。

 普通になんの問題もありません。

⑤ 三日間も拷問されて自白させられた!

 彼からまとまった言葉を引き出すのに3日かかった。しかし、いったん話し始めると、彼を引き止めることはできなかった。

拷問? どこに? ――実は、ネットによくいる一般否定派さんは最もこれを言います。ところが、それら否定さんが「ここに証拠あんねんぞー」と持ち出すこの『死の軍団』のもっとも重要な箇所には、拷問の記述はないのです。

これは、要するに、超読み難いフォーリソン論文に原因があります。フォーリソンが拷問だと書いているのは、『死の軍団』なのではなく、1986年10月17日のレクシャムリーダー紙に掲載された記事の中で,ケン・ジョーンズ氏によって語られたとされる内容にあります。

ケン・ジョーンズ氏は当時、シュレスヴィヒ・ホルシュタインのハイドに駐屯していた第5王立騎馬砲兵隊の二等兵であった。「彼が戦争中の活動についての質問に協力することを拒否したため、我々のところに連れて来られた。彼は1945/6年の冬に来て、兵舎の小さな牢屋に入れられた」とジョーンズ氏は振り返る。ジョーンズ氏の他にも2人の兵士がいて、ヘスの尋問に協力するために、彼と一緒に独房に入った。「私たちは、昼夜を問わず、斧の柄で武装して、彼と一緒に独房に座っていました。私たちの仕事は、彼が眠るたびに突いて抵抗を解くのを助けることでした」とジョーンズ氏は言った。運動のために外に連れ出されたヘスは、厳しい寒さの中、ジーンズと薄手の綿のシャツだけを着せられていた。3日間寝ずに3泊した後、ついにヘスは心を折られ、当局に全面的な自白をした。

フォーリソン論文を何度読んでも、フォーリソンが言ってる拷問はこれに加えて、クラーク軍曹がヘスの手紙を検閲したこと、だけです。しかも、フォーリソンは自白を強要されたと言っているのではありません。ヘスが狂ったと言っているのです、三日間眠らせてもらえなかったことと手紙を検閲されたことで(笑)。狂ってるのはフォーリソンだとしか思えません。

以上、『死の軍団』はヘスへの拷問による嘘の自白強要の証拠にすらなってなかったのです。結局、否定派の重鎮、フォーリソンがそう言うのだから、ヘスは拷問されたのだと、巷の否定派さん達がそう思い込んでしまっただけなのです。なんとなーく暴力っぽい記述があるから、そうなんだろう程度だったのでしょう。誰もフォーリソンの主張を理解していないのです。そりゃ、あれだけわかりにくい難読論文、否定派の脳で理解できるわけがありません(笑)。

というわけで、『死の軍団』は史実探究にはそれのみでは使えないレベルの本でしかない以上に、証明にすらなってないという悲惨なものだったのですが、まだ不可解な事実があったのです。読んでておかしいと思いませんでしたか? 

アウシュヴィッツのルドルフ・ヘスは最重要指名手配人物です。30名で逮捕しに行くような人物です(大した戦犯でなくてもそれくらいかけるかも知れませんが)。しかも記述中にはクロス大尉という名の将校が登場してます。なのに、この箇所の主役であるバーナード・クラークは「軍曹」なのです。如何にもヘス逮捕の総指揮を取ってるかのように書かれている人物が将校でもない軍曹って変だと思いませんか? それが次です。

4.え? ヘスを逮捕したのはクラークじゃなかったの?

これは、冒頭で述べた消えた記事を調べている最中に偶然発見したのですが、断定できるわけではないけど、ほぼ間違いなく、ヘス逮捕時の指揮官はバーナード・クラークではなく、イギリス軍のハンス・アレキサンダー大尉だったのです。私の推測になりますが、結論的には、おそらく『死の軍団』の著者であるルパート・バトラーが誤解したのだと思われます。バーナード・クラークはその逮捕時にいた軍曹の1人であっただけなのでしょう。それで、クラークはバトラーに自分の記憶していたことや聞いたことを語ったが、ついうっかりバトラーがその時に実際にいた人物の名前をほとんど確認せず、クラークの話に聞き惚れすぎたか何かで、クラークを逮捕時の指揮官と誤解してしまったのだと思います。あるいは、クラークが立場を偽った可能性もありますが、逮捕時の指揮官が軍曹であるというのはどう考えてもおかしいので、どっちにしろこのハンス・アレキサンダー大尉が指揮官で正解だと思います。

註:私は、バトラーはクラークにインタビューーしたとか、あるいは何かノートをもらってそれを参考にしたとか、断定はしていませんのでご注意願います。バトラーはクラークからなんらかの形で情報を得たのは事実だと思いますが、それがどのような形であったのかは『死の軍団』には何も書いていないのです。

ダウンロード (25)

ハンス・アレクサンダー(Hanns Alexander、1917年5月6日 - 2006年12月23日)は、ドイツのユダヤ人難民で、アウシュビッツのルドルフ・ヘス司令官を追跡し、逮捕した人物である[1]。

父アルフレッド・アレクサンダーと母ヘニー・アレクサンダーの間にベルリンで生まれ、双子の兄ポールとともに同化した裕福な家庭で育つ。1936年、ゲシュタポの逮捕リストに載っていることを知らされたアルフレッドは、娘を訪ねていたロンドンに残り、残りの家族がスイス経由でイギリスに移住するのを手助けした[2]。

第二次世界大戦が勃発した1939年9月、アレキサンダーは英国陸軍に志願したが、敵性外国人として拒否された。1940年に二等兵として王立開拓団に入隊し、1943年には将校訓練を受け、1945年には解放されたばかりのベルゲン・ベルゼン強制収容所で看守や職員の尋問の通訳を務めた[2]。

「正義の怒りに駆られた」[4]アレクサンダーは、アウシュビッツの元指揮官ルドルフ・ヘスが潜伏していることを知り、戦争犯罪容疑者の逃亡者を追跡する許可を上司に求めたが、拒否された。空き時間を利用してヘスの捜索に乗り出した彼は、1945年半ばに英国政府によってNo.1戦争犯罪調査チームが結成されると、参加を要請され[2]、専従のナチス・ハンターとなった。最初の大きな成果は、1940年から1944年までナチスのモーゼルラント州のゴーライターとして、当時ナチス・ドイツに占領されていたルクセンブルクの民政長官を務めていたグスタフ・シモンを1945年12月に追跡・逮捕したことだ。シモンは、1940年から1944年までナチスのモーゼルラント州知事として、当時ナチスドイツに占領されていたルクセンブルクの民政長官を務め、ユダヤ人の早期かつ迅速な国外追放やレジスタンス活動家の処刑を担当した。

アレクサンダーは1946年3月11日、ルドルフ・ヘスをゴトルーペル(ドイツ)で逮捕した。ヘスはフランツ・ラングと名乗り、庭師に変装して暮らしていた。ヘスの妻は、10代の息子をシベリア送りにするとアレクサンダーに脅され、ヘスの住所を吐いてしまったのである。ヘスは当初、「自分はただの庭師だ」と身分を否定していたが、結婚指輪を見たアレクサンダーはヘスに指輪を外すように命じ、外さなければ指を切り落とすと約束した。指輪の内側にはヘスの名前が刻まれていた。アレクサンダーに同行していたユダヤ人兵士たちは、斧の柄でヘスを殴り始めた。しばらくして、内部でちょっとした議論があった後、アレクサンダーはそれを外した」[4][5]。

戦後、アレクサンダーは、S.G.ウォーバーグのマーチャント・バンカーとして、長いプロとしてのキャリアを積んだ。ハンス・アレクサンダーはロンドンで89歳で亡くなった[6]。

彼の物語は、トーマス・ハーディングの著書『ハンズとルドルフ』で紹介されている。
Wikipediaより)

消えた記事執筆時にはもうちょっと一生懸命詳しい記事を探したのですけど、まぁ別にいいかなと、Wikipediaで済ませておきました。それでも『死の軍団』とは記述が一致している部分や明らかに違う部分があるのがわかると思います。特に、指輪でヘスだと判明したあたりは、逮捕した本人でなければ知り得ない話のようにも思われます。この記事にはハンス・アレキサンダーが「大尉」であることは書いていませんが、以前に翻訳した記事中にその旨の記載がありました。

史実って、やはり出来る限り多角的に調べてでないと、そう簡単に「これが事実・真実だ!」と言えるようなものではないのです。単純には、出来るだけ多くの資料などから裏付けを取るようにして、史実の記述を行なっていくのが伝統的歴史学だと思います。ところが、今回の場合、否定派さんの即断ぶりには呆れるしかありません。ホロコーストやガス室が本当であるかどうかを調べるのが「修正派」だったと思うのですが、たった一つの資料ですらそもそも読まないのですから、どうしようもありません。

なんで確かめないんでしょうね? 何回でも言いますけど、私には否定派の脳内は全く理解できません。



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