ホロコーストの隠蔽:秘密主義とコードワード(1):隠蔽の証拠
だいぶ前にこんな記事を訳しています。
これ、翻訳処理が下手くそすぎて直したいくらいなのですが、この頃はとにかく沢山知識を得たくて、翻訳がおざなりになってました。で、確かこの記事を訳そうと思ったのは、「コードワード」というタームが気になっていたからだと記憶します。「コードワード」は「疎開」だったり「再定住」だったり「特別処置」だったり、そうした色々な言い換えなのですが、目的は当然、文書の中に処刑だの絶滅だのと言った直接的かつ明示的な言葉を登場させないことで、そうした行為を隠すことにあります。
否定派は、もちろんこの言い換えを認めません。認めたら否定論はその時点でおしまいです。何故なら、いちいち例を示すまでもなく、コードワードはやたらめったら出てくるからです。にも関わらず、はっきり「ユダヤ人の再定住行動」とタイトルにあるグリクシュの報告書は内容があまりにはっきりガス室での虐殺内容過ぎて、中身の記述内容にケチをつけて否定するしかなくなるという否定派お決まりのパターンでやっつけてくるわけなので、結局、とにかく否定してるだけやないか!、という具合です。
ともかく、要するにコードワードは絶滅を「隠す」ためにやってるので、「隠す」も一つの行為である限り、どんなに色々と隠したところで、頭隠して尻隠さずじゃないけれど、隠す行為それ自体を隠さないと、結局バレてしまうってことです。そういう意味で、ナチスドイツというか親衛隊は、隠すのを頑張ったかもしれませんが、ちっとも隠せていませんでした。ヒムラーの演説なんかあれ、どうして録音なんかしちゃったんでしょうね? ていうか録音してその記録を残してしまうだなんて間抜けそのものです。まぁ多分、やばい資料は実際には発見されてる分の何倍もあって、その大半は処分したのでしょうけど、処分しきれなかったってことだとは思います。
では今回は、HCサイトから情報収集の目的で今回のテーマに叶った記事をいくつか翻訳していきたいと思います。
▼翻訳開始▼
何を隠そうとしているのか?ナチスの抹殺施設のカモフラージュと秘密主義
強制労働に適さないとされたユダヤ人の運命について書かれたドイツの当時の文書は、しばしば目立って曖昧な方法で書かれている。実際の行き先や収容所を明記する代わりに、「東へ」「ロシアの東」といった一般的な表現が使われていたのである。
他にも、1940年に東プロイセンで行われたポーランド人や精神障害者の殺害が、ナチスによってどのように偽装されたかを指摘した。ソルダウの収容所でポーランド人知識人の「清算」を「カモフラージュ」するために、「問題のポーランド人は、総督府への送還に同意するという内容の宣言書に署名しなければならなかった」のである。特別コマンドによって清算された...精神病の囚人」は、SSの通信では「避難させられた」「どこか別の場所に置かれた」とされていた。
目的地がない、あるいは曖昧な殺人をカモフラージュするというコンセプトは、後にユダヤ人の絶滅を偽装するためにも用いられた。この偽装は、真の核心を持っていたのでうまくいった。ユダヤ人は町や村に集められ、連行されていったのである。住民や当局にとっては、この作戦の一部は、本当の再定住のように見えたかもしれない。ただし、「再定住」した人たちの話を二度と聞くことはなかった。「再定住」した人たちは処刑され、埋葬され、次の抹殺場所で焼却されたからである。
バビ・ヤールの大虐殺について、アインザッツグルッペCは「ユダヤ人に対する『再定住措置』は、住民の間で全面的に承認されていた」と報告している。「実際にはユダヤ人が清算されたという事実は今までほとんど知られていなかった」、「3万人以上のユダヤ人が集まり、極めて巧妙な組織のおかげで処刑の直前まで再定住を信じていた」と報告している(「バビ・ヤル虐殺の証拠 1941年9月29日、30日:当時の資料」(翻訳記事)を参照。)。
隠語は、側近以外の者とのやり取りの中で、その行為を覆い隠す役割を果たしただけでなく、冷酷な殺人をより罪のない言葉で包み込むことで、緊張感を和らげる役割も果たしていた。また、文脈からその婉曲的な性質が明らかな場合にも使用された。エドワード・シュトラウフによる1943年2月5日のコマンド命令では、「再定住地」を「2つのピット」と表現し、各ピットには10人の分隊が割り当てられ、2人が「カートリッジを配る」としている(『1933-1945年の国家社会主義ドイツによるヨーロッパ・ユダヤ人の迫害と殺戮、第8巻 ソビエト連邦とその併合地域 II』, p.581)。
政府の命令による殺人、つまり法人格のない処刑を囲い込むためのデフォルトの婉曲表現は、かつてはSonderbehandlung/特別処置という言葉だった(マットーニョの証拠の特別処置も参照)。この言葉の意味は広く知られており、「避難」「再定住」「東方への移送」などに比べて、むしろ見抜きやすいものだった。それは、真実を最も内側のサークルだけに限定するのに役立つものではなかった。
SSの統計学者リヒャルト・コルヘアが「ユダヤ人問題の最終解決」に関する報告書(翻訳記事)をまとめた際、ベウジェツ、トレブリンカ、ソビボル、クルムホフ(ヘウムノ)に移送されたユダヤ人の運命を「特別処置」という言葉で表現した。彼はすぐにヒムラーのスタッフから「『ユダヤ人の特別処置』という言葉がどこにも出てこないことを望んでいる」と訂正され、より目立たないように「ロシア東部への移送」「収容所でのふるい分け」という言葉を使うように命じられた(リチャード「知らなかった」コルヘア(翻訳記事)も参照)。ヒムラーは、治安警察・サービスの責任者エルンスト・カルテンブルナーに向かって、200万人以上のユダヤ人の組織的な絶滅を単なる東方への移送として覆い隠しているこの報告書を、将来的に「カモフラージュ目的の...潜在的な材料としてはかなり良い」と考えていた(資料1)。
ヒムラーは、1943年10月4日の有名なポーゼン演説で、親衛隊の指導者たちに向けて「ユダヤ人の疎開」を「ユダヤ人の絶滅」と明かした。レーム・パージの殺害や1000の死体が「一緒に横たわっていた」と言及していることからもわかるように、彼が話したのは強制退去を表現するための何らかの武術的な方法ではなく、物理的な絶滅と殺人についてだったのである。彼はSSの指導者たちに「公の場では決して話さないように」と念を押し、困難な作業にもかかわらず「まともであり続けた」という「栄光」は「決して口にしてはならない」としている(資料2)。
いわゆる「ユダヤ人問題の最終的解決」の立役者によるこれらの文書は、絶滅収容所に関する現代の資料にも見られる2つの重要な要素、すなわち、迷彩と秘密を明らかにしている。この2つの要素は、これらの場所が単なる通過収容所であったというホロコースト否定論者の主張とは相容れないものである。
東方への輸送は、いずれにしてもすでに最も無邪気な公式の主張であった。アイヒマンの部門のメンバーの暴露に関するRSHA部門II A 4(帝国防衛問題)の内部専門家の意見によると、ユダヤ人に対する単なる「疎開計画」(「実行された残虐行為」には言及していない)は「国家機密」とは見なされず、「これらの措置は大体において秘密にしておくことさえできない」し、「部分的には、ドイツの法律からも明らかである」という(1942年12月23日のヴァルター・レンケンからカール・ギュンター・フスマンへの手紙、BArch R 58/10678、ページなし)。
トランジットキャンプを利用した単純な再配置であれば、カモフラージュや最高レベルの秘密保持は必要なかったでしょう。それとは別に、ナチスの目には役に立たない食べものや危険な要素である何百万人もの人々が、アウシュビッツ、クルムホフ(ヘウムノ)、トレブリンカ、ベウジェツ、ソビボル、ミンスクなどの最後に知られていた目的地や、占領されていたソビエト地域から、さらに戦闘軍の後方である東へと追放されたという仮説(いずれにせよ具体的な証拠はない)は、それだけですでに不条理である。
アウシュヴィッツ
SS-WVHAの責任者オズワルド・ポールは、1942年9月23日にアウシュヴィッツのSS上級職員を対象にした講演で、上記のヒムラーと同じ路線をとり、「...言葉を発する必要のない問題や特別な任務に対して理想的な態度をとっている」と賞賛した(資料3)。
1944年5月の任務ノートによると、SS隊員は「ユダヤ人の疎開を実行する措置の間は、無条件に秘密を守る」ことが特に義務付けられており、「同志に対しても」ということが強調されていた(資料4)。
その頃、アウシュビッツではハンガリー系ユダヤ人の絶滅が始まっていた。絶滅の現場で何が行われているかを隠すために、厚い迷彩フェンスの設置が計画された(資料5)。これらは、アウシュヴィッツ・ビルケナウ施設の航空写真では、有刺鉄線のフェンスの隣によく見える(図1)。
スクリーンは当初、第2火葬場と第2ブンカーの敷地にのみ設置された。1944年6月中旬、ポールが「火葬場のカモフラージュと、2つ目のフェンスの建設によるセキュリティ対策(カモフラージュには藺筵が必要)」を指示したとき、全面的な拡張が行われた(資料6、図2)。
1944年8月25日の下の写真では、すべての火葬場とブンカー2のサイトでスクリーンが完全に展開されている。
ラインハルト作戦
ヒムラーは、オディロ・グロボクニクがルブリン地域で運営していた絶滅収容所ベウジェツ、ソビボル、トレブリンカ(アクティオン・ラインハルト収容所)について、これらの収容所に「私の部下の一部」を提供していた安楽死計画の主催者ビクトール・ブラックに対して、ユダヤ人に対するすべての行動を「できるだけ早く」、「隠蔽のためであれば」実行すべきであると発言している(1942年6月23日のブラックの書簡(資料7))。
これは、ドイツでの安楽死措置を隠すことの難しさについて言及したものである(1942年11月18日のクルト・ブローメからアーサー・グレイザーへの手紙にも、結核にかかったポーランド人を絶滅させようとしたことについて、「絶対的な秘密が保証されていれば、どんな性質のものであれ、すべての良心の呵責を克服することができる。しかし、私は単に秘密を守ることは不可能だと考えている。この仮定が真実であることは、経験が教えてくれた」と書かれている)。(資料34を参照)
ベウジェツ、トレブリンカ、ソビボルのスタッフは、可能な限りの秘密保持を義務付ける職務記述書を発行しなければならなかった。そこには、「いかなる状況においても、『アインザッツ・ラインハルト』の職員の輪の外側に、ユダヤ人入植地の経過、実行、出来事について、口頭または書面で情報を送ることは許されない」と書かれており、それは「退役後も続く」とされていた。この作戦は「秘密の国家問題」(資料8)に分類された。
作戦終了後も、グロボクニクは収容所の秘密が守られていることを確認した。彼はヒムラーに、「作戦のために設置された施設は完全に撤去された」、「監督上の理由から、各収容所に小さな農場が作られ、そこに専門家が住んでいる」と報告した(資料9)。
クルムホフ(ヘウムノ)
「ゾンダーコマンド・ランゲ」のメンバーに第2級戦功十字章を授与するという提案は、「特別な任務は、全人格の使用と最も厳しい神経を必要とする」という説明で正当化されたが、「特別な秘密の理由から、遂行された任務の詳細について話すことはできない」とされている(資料10)。
クルムホーフのゾンダーコマンドが1942年半ばに10万人のユダヤ人を絶滅させるというノルマに近づいたとき、ヒムラーは「帝国大管区・ヴァルテラント帝国大管区の領域内に住んでいて開放型結核に感染しているポーランド出身の保護主義者や無国籍者を、特別な治療のためにゾンダーコマンド・ランゲに引き渡させる」ことを(当初は)承認したが、「できるだけ注目を集めずに任務を遂行するために、まず治安警察と個々の措置を詳しく話し合うように」と命じた(資料11)。
殺害されたユダヤ人の略奪品が検査され、分類されていた「ゾンダーコマンド・クルムホフのために」運営されていた仕分け収容所パビアニツェも、同様に「秘密の国家問題」(資料12)の一部であると宣言されていた(ドイツ文書のゾンダーコマンド・クルムホフ-パビアニツェ仕分け収容所、特に資料96参照)。
1943年3月、絶滅収容所は閉鎖されようとしており、ゾンダーコマンドの男たちはバルカン半島での反パルチザン戦に送られることになっていた(「ドイツ文書におけるゾンダーコマンド・クルムホフ-別れ」参照)。ルドルフ・ブラントは、ヒムラーの要請をカルテンブルナーに転送し、「自分たちのゾンダーコマンドの時期を除外し、示唆的にも話さないように促す」ことにした(資料13)。
資料
1.) 1943年4月9日のハインリッヒ・ヒムラーによるエルンスト・カルテンブルナーへの手紙
2.) 1943年10月4日のハインリッヒ・ヒムラーのスピーチ
3.) 1942年9月23日、オズワルド・ポールによるSS上級職員へのスピーチ
4.) 1944年5月にSS隊員が宣誓した任務メモ
5.) 1944年517日のカール・ビショフの手紙
6.) 1944年6月17日のヴェルナー・ヨハンのメモ(前日のオズワルド・ポールとの会議について)
7.) 1942年6月23日のビクトル・ブラックによるハインリッヒ・ヒムラーへの手紙
8.) 1942年7月18日付の任務メモ用紙
9.) 1944年1月5日のオディロ・グロボクニクの報告
10.) 1942年3月28日の第2級戦功十字章の提案
11.) 1942年6月27日のハインリッヒ・ヒムラーによるアーサー・グライサーへの手紙
12.) 1943年3月15日付のハンス・ビーボーによる帝国軍飛行隊 Ortsgruppe Litzmannstadt Westへの手紙。
Posted by ハンス・メッツナー at 2018年12月11日(火)
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銃撃文書のカモフラージュ言語として使われる「再定住」
以下は、「再定住」が、銃撃部隊によるユダヤ人殺害のカモフラージュや婉曲表現として使われた4つの例である。
1) 1941年7月12日 NOKW 1628 活動報告 Ortskommandantur I/287 ケルチ、ケルチで2500人のユダヤ人が処刑されたことを報告。マンシュタイン裁判では、この文書はルドルフ・マリーによって法医学的に検証され、「Exekutierung(処刑する)」が消され、「Umsiedlung(再定住)」が代用されていることが立証された。TR.4/14、pp.17-20(註:このリンクはどこに移動されたのかは不明なので見られません)、及びDEJ 7、Dok. 126、 pp.389-391、特に注5を参照(註:とありますが閲覧制限で見られません)。この行動については、モロトフのメモはこちら、ロベルトと私によるHCの記事はこちらとこちらも参照。
2) 1941年12月14日 Ortskommandantur バフチサライ、スキャンはこちら。ロンゲリヒの要約はこちら。
3) 1941年12月21日 NOKW 1727 Ortskommandantur エフパトリア;「execute(処刑)」は抹消され、「resettled(再定住)」が代用された。こちらのNMT High Command事件のp.311のメモを参照。
4) 1943年2月5日 ホワイト・ルテニアン・セキュリティ・ポリスの司令官、43年2月5日付作戦命令、署名。ストローチ、親衛隊中佐、RGVA 500-1-769, pp.113-116. ニックの記事はこちら、ロベルトの記事はこちら。
Posted by ジョナサン・ハリソン at 2017年1月26日(木)
▲翻訳終了▲
二つ目の翻訳記事は掲載した画像を使用したかったからですけど、否定派はどうやって言い訳するんでしょうね? まさか「「射殺」は書き間違えなので、「再定住」と直しただけだ」とでも答えるのでしょうか?
ヒムラーの演説の場合は、ネイティブなドイツ人以外の否定派は、「ausrotten」というドイツ語を決して「絶滅」を意味しない、そう訳さない、と強く主張します。もちろん、リンク先に書いてある通り、それは馬鹿げた否定論に過ぎません。私自身も、図書館で重さ何キロもある馬鹿でかい独和辞書を数冊調べましたが、全てで「ausrotten」が絶滅とか殲滅、抹殺を意味すると書いてありました。否定派のいうように「根絶やしにする=ユダヤ人を追放する」としか訳さないだなんて馬鹿げた解釈は成り立ちません。
最近訳した、ポーランドの証言集でも、大勢の人がいわゆるコードワードについて語っています。例えば、アーウィン・バーテルはこう語っています。
きっと、否定派は、こういうでしょう。「それはホロコースト捏造のために、本当はユダヤ人を移送させることをそのまま意味するのを、わざと言い換えさせたに違いない」のように。コードワードであると解釈せざるを得ない当時の文書とピタリ一致するのですけどね。
それと、否定派はよくこうも言います。「正史派が勝手にコードワードなるものを捏造しているだけで、実際にはその通りの意味しかない」。でもそうすると、こうした証言はどうなるのでしょうね。ほんの少ししか翻訳していないポーランドの証言集でも何人も証言してますし、もちろん他にも証言者は沢山います。
では次回は、否定派のコードワードに関する記事の反論記事を見ていきたいと思います。以上。
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