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フランケ・グリクシュの「再定住行動報告」

註:本記事は2020年に初投稿したものですが、未熟なりに翻訳技術が向上したのと色々と理解も進んだので、以前の翻訳は出来が良くないと感じるようになったため、今回ほぼ全面的に翻訳しなおし、私自身の文章も全面的に変更したものです。

本記事で紹介するフランケ・グリクシュの「再定住行動報告」とも呼ばれるレポートは、フランケ・グリクシュが当時の親衛隊将校であり、その親衛隊側の人物が、戦時中にアウシュヴィッツ・ビルケナウのユダヤ人に対するガス処刑の内容を詳細に記述したレポートです。このようなアウシュヴィッツのガス処刑を戦時中に記述した内部文書はこれ以外には存在しないので、大変貴重なものです。

当然、修正主義者たちはこのようなガス処刑について記述された内部文書なるものの証拠性を認めません。しかし、この報告書が世に出てきた経緯を知ると、修正主義者にとっては大変反論しやすい状況にもありました。なぜならば、最初に登場したものは報告書原本ではなかったからです。その経緯の詳細については後述するとして、最初に登場したのが原本ではなかったため、原本でない限り証拠とは言えない、と主張することが可能でした。そして修正主義者たちは、連合国による捏造文書の一つであろうと結論付けました。

果たして、では原本はどこへ消えたのか? 伝えられた話によると、戦後に米軍将校が原本を見ながら、タイプライターを用いて手作業でコピーしたとされます。先に知られていたのはそちらの方なのですが、原本はどこかに消えてしまったのか、あるいは修正主義者の主張するようにそもそもなかったのか?

今回の翻訳記事は、反修正主義者のサイトであるHolocaust Controversiesブログサイトの執筆者がその原本をついに見つけ出し、当該サイトで記事として紹介していたものを翻訳したものです。原本そのものを物質的に発見したのではなく、ネットを通じてドイツ連邦公文書館からその写真コピーを発見したというものですが、その印字された文字の形状の特徴まで調べており、当該ブログサイトでは本物として間違いないと結論付けています。

発見から3年経った2022年の現在まで、この原本(カーボンコピー)の発見について、特に主要な修正主義者からの反論は聞かれません。日本のネット上でも、Holocaust Controversiesの当該記事が、修正主義者であるブライアン・レンクによる昔の否定論文を破壊する記事であることに全く気付かず、そのレンクによる議論を持ち出して否定しようとする人がいる程度です。ある修正主義者はタイプコピーではなく「原本とされるもの」程度には理解したようでしたが、修正主義者が証拠性を認めるわけはなく、それでもなお捏造だとする見解を変えることはありませんでした。

しかし、「原本」発見を認めるとしても、修正主義者たちの考えるこの「再定住行動報告」に関する陰謀理論はこうなると予想されます。

連合国の陰謀実行当局は、戦後ホロコーストを捏造するにあたって、多くの証拠資料なるものを偽造したのである。ヴァンゼー議定書がその代表例で、偽造であったことは多くの事実から確定している。その中の一つに「再定住報告」も存在したに違いない。米軍将校はそれが偽造であることを知らずにタイプコピーした可能性もあるだろうが、その場合でも原本なるものは偽造されていたのである。それがたまたま資料を公文書館に収めるにあたって、そこに含まれただけであろう。従って、Holocaust Controversiesが発見した!と息巻いたところで、単に捏造文書の一つが発見されたに過ぎない――。

もちろん、このような主張は修正主義者の他の捏造主張の例に漏れず、何の証拠もない戯言なのですが、修正主義者たちはその内容にケチをつけて、不正確で間違っているから捏造で間違いないとするのです。ではなぜ、この文書作成に使われたと推定されるタイプライターの文字が当時、本人らが使っていたであろうタイプライターのものと一致するのか? なぜ文書形式まで合っているのか? もし偽造とするなら、そこまで精度の極めて高い工作をしつつ、どうして内容だけが修正主義者の主張するような杜撰なものなのか? 修正主義者の考えはあまりにチグハグにしか思えないのは私だけでしょうか? しかも、修正主義者の主張する内容のおかしな点は、以下翻訳で示すように、簡単に説明できるものばかりです。

では、以下記事の翻訳です。・・・と、その前にこの再定住行動報告に関する代表的な反論記事の一部を紹介しておきます。

フランケ・グリクシュの「再定住行動報告書」:捏造の解剖学
ブライアン・レンク著

ヨーロッパのユダヤ人を絶滅させるというドイツの政策とされるものは、アドルフ・ヒトラーの直接命令とまでは言わないまでも、それによって動き出したと長い間推定されていた。この命令と称するものは、1945年から46年にかけてのニュルンベルク裁判の本審判や、その後の「ナチス戦犯」裁判でも引用された。「総統命令」の文書による証拠はまだ見つかっていないが、1977年まで、絶滅主義者の歴史家たちはその存在を当然視していた。

この年、イギリスの歴史学者アーヴィングが『ヒトラーの戦争』を出版し、歴史学界で大きな議論を呼んだ。アーヴィングは、文書記録の丹念な調査とヒトラー側近の生存者との徹底的なインタビューに基づいて、ドイツの指導者はユダヤ人の大量殺戮を命じておらず、絶滅政策について知ったのはおそらく1943年になってからだと論じた[1]。

英国サリー大学の名誉教授である英国系ユダヤ人歴史家のジェラルド・フレミングは、この問題に対処するために、特にアーヴィングの1977年の挑発的な論文に対応するために、ヒトラーが本当にヨーロッパのユダヤ人絶滅を命じたことを決定的に証明する本の執筆に着手することに決めた。 数年にわたる調査と執筆の後、彼は『ヒトラーと最終的解決』(ドイツ語版1982年、アメリカでは1984年に出版)で自分の主張を発表し、アーヴィングや他の修正主義者に対する決定的な反論として広く歓迎された。

フレミングがその著書で引用している重要文書は、「Umsiedlungs-Aktion der Juden」 (「ユダヤ人再定住行動」、ただしフレミングは「ユダヤ人再定住」と呼んでいる)と題する2頁の報告で、アウシュヴィッツのガス室でのユダヤ人の大量殺戮を記述し、「総統命令」について明確に言及している。この文書は、長い報告書の一部とされており、ベルリンのSS人事本部の高官であった親衛隊少佐アルフレッド・フランケ・グリクシュが、1943年5月にアウシュヴィッツ・ビルケナウを視察した直後に作成したとフレミングは主張している。

この「再定住行動」文書を最初に引用したのは、アメリカの歴史家チャールズ・W・シドナー(『破壊の兵士たち』(プリンストン大学、1977年、3371頁))だったようだ。最近では、フランスの反修正主義的歴史家ジャン・クロード・プレサックが、『アウシュヴィッツ:ガス室の技術と運用』(ベアテ・クラスフェルド財団、ニューヨーク、1989、236-23ページ)として、ファクシミリと英訳の両方で発表している。

フレミングがこの報告を重要視していることは、『ヒトラーと最終的解決』の一章全体をこの報告に割いていることからもうかがえる。彼は、この章に 「アウシュビッツ-ビルケナウからの公式報告」というタイトルをつけている。

もし本物なら、この「再定住行動」報告書は、絶滅論者のテーゼのいくつかの重要な点を確認するものと思われる。

・「ユダヤ人の再定住」という言葉は、特に「ガス処理」による大量絶滅政策の婉曲表現であった。
・アウシュビッツでの大量殺戮は、ユダヤ人を絶滅させるためにヒトラーが命じた秘密計画の一部であった。
・1943年春、アウシュビッツ・ビルケナウの火葬場群にある殺人ガス室が、ユダヤ人の殺害に使われた。

しかし、「再定住行動」報告書は本物なのだろうか。本稿では、それがほぼ間違いなく本物ではないことを立証することにする。本文と、その本文に対するフレミングとプレサックの分析を丹念に調べれば、次のことが明らかになる。

・この「再定住行動」報告書は、戦後の偽造であることはほぼ間違いない。この文書の原本、カーボンコピー、ファクシミリはもちろん、この文書が抜粋されたとされる長い報告書もこれまで作成されておらず、存在さえも知られていない。
・この「再定住行動」報告書のドイツ語には、正書法上の特異性があり、これを書き写したとされる人物は、ドイツ語の原本を目の前にしていなかったと思われる。
・この報告書に書かれているアウシュビッツ・ビルケナウに関する具体的な内容は、明らかに虚偽である。
・フレミングとプレサックは、この「報告書」にある数々の事実上の「誤り」や重大な「不自然さ」を無視したり、ごまかしたりしており、粗雑でおそらく非倫理的な学問であることを示している。

<後略:強調は私>

この論文を書いたブライアン・レンク氏は2000年以降は、修正主義者としては目立った活動はしておられないようです。レンク氏は、まさか原本(カーボンコピー)が後々に出てくるとは思ってもいなかったでしょうね。

▼翻訳開始▼


アウシュヴィッツ・ビルケナウにおけるユダヤ人の大量絶滅に関するナチスの文書。フランケ・グリクシュ報告書

アウシュヴィッツの「再定住行動」に関するいわゆるフランケ・グリクシュ報告は、絶滅収容所でのユダヤ人の大量殺戮に関する当時のナチスの文書の中で最も詳細かつ明確なものである。この文書には、アウシュビッツ・ビルケナウにおける大量殺戮のプロセスが記されており、「不適格者(ユダヤ人)は大きな家の地下に行き」、「ある物質」を「上から柱に容器を下げて」導入し、「死体は焼却される」方法などが記されている。これまでは、戦後の粗末な報告書しか公開されていなかった。今回、親衛隊人事本部の職員が戦時中に作成したカーボンコピーを発見し、初めて公開することになった。

その文書

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(BArch R 187/539, p. 24-25)
註:「BArch」とは「Bundesarchiv」の略称であり、ドイツ連邦共和国の国立公文書館(ベルリン連邦公文書館)のこと。

転記

Umsiedlungs-Aktion der Juden

Eine besondere Aufgabe hat das Lager Auschwitz in der Regelung der Judenfrage. Modernste Massnahmen ermöglichen hier in kürzester Zeit und ohne grosses Aufsehen die Durchführung des Führerbefehls.

Die sogenannte "Umsiedlungsaktion" der Juden läuft folgendermassen ab:

Die Juden kommen in Sonderzügen (Güterwagen) gegen Abend an und werden auf besonderen Gleise in eigens dafür abgegrenzte Bezirke des Lagers gefahren. Dort werden sie ausgeladen und durch Aerztekommissionen in Anwesenheit des Lagerkommandanten und mehrerer SS-Führer erst einmal auf Arbeitsfähigkeit untersucht. Hier kommt jeder, der noch irgendwie in den Arbeitsprozess eingebaut werden kann, kommt [sic!] in ein besonderers Lager. Vorübergehend Erkrankte kommen sofort in das Sanitätslager und werden durch besondere Kost wieder gesund gemacht. Grundsatz ist: Jede Arbeitskraft ist zu erhalten. Die "Umsiedlungsaktion" älterer Art wird völlig abgelehnt, da man es sich nicht leisten kann, wichtige Arbeitsenergien laufend zu vernichten.

Die Untauglichen kommen in ein größeres Haus in die Kellerräume, die von aussen zu betreten sind. Man geht 5 - 6 Stufen herunter und kommt in einen längeren, gut ausgebauten und durchlüfteten Kellerraum, der rechts und links mit Bänken ausgestattet ist. Er ist hell erleuchtet und über den Bänken befinden sich Nummern. Den Gefangenen wird gesagt, dass sie für ihre neuen Aufgaben desinfiziert und gereinigt werden, sie müssten sich also alle völlig entkleiden, um gebadet zu werden.

-2-

Um jegliche Panik und jede Unruhe zu vermeiden, werden sie angewiesen, ihre Kleider schön zu ordnen und unter die für sie bestimmten Nummern zu legen, damit sie nach dem Bad auch ihre Sachen wiederfinden. Es geht alles in völliger Ruhe vor sich. Dann durchschreitet man einen kleinen Flur und gelangt in einen grossen Kellerraum, der einem Brausebad ähnelt. In diesem Raum befinden sich drei grosse Säulen. In diese kann man - von oben ausserhalb des Kellerraumes - gewisse Mittel herablassen. Nachdem 300 - 400 Menschen in diesem Raum versammelt sind, werden die Türen geschlossen und von oben herab die Behälter mit den Stoffen in die Räume gelässen [sic]. Sowie diese Behälter den Boden der Säule berühren, entwickeln sie bestimmte Stoffe, die in einer Minute die Menschen einschläfern. Einige Minuten später öffnet sich an der anderen Seite eine Tür, die zu einem Fahrstuhl führt. Die Haare der Leichen werden geschnitt[en] und von besonderen Fachleuten (Juden) die Zähne ausgebrochen (Goldzähne). Man hat die Erfahrung gemacht, das[s] die Juden in hohlen Zähnen Schmuckstücke, Gold, Platin usw. versteckt halten. Danach werden die Leichen in Fahrstühle verladen und kommen in den 1. Stock. Dort befinden sich 10 grosse Krematoriumsöfen, in welchen die Leichen verbrannt werden. (Da frische Leichen besonders gut brennen, braucht man für den Gesamtvorgang nur 1/2 bis 1 Ztr. Koks.) Die Arbeit selbst wird von Judenhäftlingen verrichtet, die dieses Lager nie wieder verlassen.

Bisheriger Erfolg dieser "Umsiedlungsaktion": 500 000 Juden.

Jetzige Kapazität der "Umsiedlungsaktion"-Oefen: 10 000 Juden in 24 Stunden.

翻訳

ユダヤ人の再定住行動

アウシュビッツ収容所は、ユダヤ人問題を解決するための特別な任務を担っている。ここでは、最新の対策によって、総統の命令(Führerbefehls)をできるだけ短時間で、しかも大きな混乱もなく実行することができる。

いわゆるユダヤ人の「再定住行動」は、次のように進行する。

ユダヤ人は夕方ごろ特別な列車(貨物車)で到着し、特別な線路を通って収容所内の特別に区画された地区へ移動する。そこで彼らは荷を下ろされ、収容所の指揮官と数人のSS指導者の立会いのもと、医療委員会によって労働に適しているかどうかが検査される。ここでは、まだどうにかして労働過程に溶け込める者は皆、特別なキャンプに入れられる。一時的に体調を崩した人はすぐに医療キャンプに送られ、特別な食事で回復させる。原則は、「すべての労働力は保存されること」である。重要な労働力を継続的に破壊するわけにはいかないので、旧来の「再定住行動」は完全に否定される。

不適格者は、外から入れる大きな家の地下の部屋に入れられている。5~6段の階段を降りると、左右にベンチが置かれた、長く、風通しの良い地下の部屋に出る。明るい照明で、ベンチの上には数字が書かれている。囚人たちは、新しい仕事のために消毒と洗浄をすると言われているので、全員完全に服を脱いで入浴することになる。

-2-
パニックになって落ち着かないことがないように、服をきれいに整え、指定された番号の下に置くように指示し、風呂上がりにも自分のものを見つけられるようにしている。完全な沈黙の中で、すべてが進行する。そして小さな廊下を通り抜け、シャワールームのような地下の広い部屋に入る。この部屋には大きな柱が3本ある。この中に、地下室の外の上方から、ある製品を降ろすことができる。300〜400人がこの部屋に集まった後、扉が閉められ、物質の入った容器が上から部屋に入れられる。この容器が柱の底に触れると、ある物質が発生し、人は1分で眠りについてしまうのである。数分後、反対側のドアが開き、エレベーターにつながる。特別な専門家(ユダヤ人)によって、死体の髪の毛が切られ、歯が折られる(金歯)。ユダヤ人が歯のくぼみに宝石、金、プラチナなどを隠すことは経験済みだ。その後、遺体はリフトに載せられて1階へ。遺体を荼毘に付す大きな火葬炉が10基ある。(新鮮な死体は特によく燃えるので、全工程で必要なコークスは1/2〜1ゼントナーである)。作業自体は、二度とこの収容所から出ることのないユダヤ人囚人たちによって行われる。

この「再定住行動」のこれまでの成功例:50万人のユダヤ人。
「再定住行動」オーブンの現在の能力:24時間で1万人のユダヤ人。

( 註:この日本語翻訳は、記事元のHolocaust Controversiesにある英訳を参照して補正はしているが、ドイツ語原文から直接翻訳したものである)

文書の起源

米国の歴史家チャールズ・W・シドナーは、『破壊の兵士たち/親衛隊髑髏部隊、1933-1945』のあとがきで、こう書いている。

フランケ・グリクシュ・メモランダムは、1976年に筆者が発見した「Umsiedlungsaktion der Juden」と題する文書で、1945年秋に米軍の文書分析官が、ニュルンベルク戦争犯罪裁判の証拠として使用可能な資料を収集・評価する過程で初めて発見し、オリジナルのカーボンコピーからドイツ語でタイプしたもので、そのままの形で複写したものである。このカーボンコピーは、現在も移設されることなく、索引のない大量のニュルンベルク裁判資料の中に埋もれている可能性が高い。SS人事課長マクシミリアン・フォン・ヘルフのために書かれ、提出されたフランク・グリクシュ・メモランダムの原本は見つかっていない。
このカーボンから作られたタイプコピーは、筆者が私文書のコレクションから見つけ、全コレクションとともにブランダイス大学のタウバー研究所に寄贈され、現在は同大学に寄託されている。

戦後、この報告書を探し出した文書分析者は、米第三軍のエリック・M・リップマンで、彼はこの文書の粗いコピーをタイプした(図1)。彼のコピーには、英単語("hat "ではなく「had」、"an "ではなく「and」)やタイプミス("vorübergehend "ではなく「vörübergehend」)などがあった。ジャン・クロード・プレサックは、フランケ・グリクシュ報告書の分析日本語訳)の中で、リップマンが「バイエルン州のどこか、正確には思い出せない場所で、一連の文書の中から、原本の報告書のカーボン・コピーを見つけたことを覚えているようだ」と指摘している。

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図1:フランケ・グリクシュ報告の戦後のタイプコピー、プレサック『アウシュヴィッツ:ガス室の技術と操作』238頁より。

イギリスの歴史家ジェラルド・フレミングは、著書『ヒトラーと最終的解決』の中で、この文書の歴史的背景を論じるセクションを設けている。リップマンのタイプライター文を引用しつつ、「アルフレッド・フランケ・グリクシュの報告書からの3枚のカーボンコピーのうち1枚が...著者の手元にある 」と述べている。フレミングはこの報告書のカーボン・コピーを公表することはなかった。ホロコースト否定派のブライアン・レンクは、1991年に、カーボン・コピーについてフレミングに問い合わせたが、返信としてタイプライター文のコピーを送ってもらっただけであったと主張している。真偽のほどはともかく、人の言葉からしかわからない文書の形式的な真偽を確認することは不可能である。

2005年には、英国のホロコースト否定論者デヴィッド・アーヴィングが、フランケ・グリクシュ報告書に関する議論に加わった。彼の説明によると、彼は1980年代に旧ベルリン文書センター(BDC)でこの報告書を見たという(ちなみに、「最新の方法によって総統命令を非常に迅速かつ慎重に実行することが可能になる」という文書が、なぜヒトラー個人を暗示していないのかは、アーヴィングの秘密の1つである!)。彼が参照した(記憶では)「238-IとII」は、いわゆるシューマッハ・コレクションのファイルのようだった(このヒントをくれた我らがニック・テリーに感謝する)。ブルーノ・シューマッハーはBDCの職員で、国家社会主義(ナチス)時代に関する様々な出所の文書を集めていた。

そこで、BDCのファイルを取り込んでいたベルリン連邦文書館のシューマッハ・コレクションに挑戦してみたのだ。アーカイブの検索エンジンで有望な候補が見つかったのは、ファイルR 187/539で、「再定住行動、キャンプ・アウシュビッツ、メモ、日付なし」と記述された文書であった。BDCの旧参照番号240-Iは、アーヴィングが238-Iと誤って記憶したものであるかもしれない。そして、その文書が、上記のユダヤ人大量虐殺に関する報告書であることが判明したのである。

歴史的背景

1948年末、旧SS人事本部のアルフレッド・フランケ・グリクシュは、1943年春に東プロシアのレッチェンの本部でハインリッヒ・ヒムラー親衛隊全国指導者に会ったときのメモを妻に口述した(フレミング『ヒトラーと最終解決』153ページ)。この「日記」によると、ヒムラーは、東部の「ある収容所」のSS指導者の間で自殺が増え、前線勤務を希望する者が増えてきたため、フランケ・グリクシュとその上司マクシミリアン・フォン・ヘルフを呼び寄せたという。

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図2 アルフレッド・フランケ・グリクシュ、1906年11月30日生まれ、1943年4月20日にSS親衛隊少佐、1944年9月1日にSS親衛隊中佐に昇進(BDC SSOファイル)。

フォン・ヘルフは、「これらの収容所の指導者の中には、精神的な負担に耐えられない者もいる、だから彼らを前線に連れて行くべきだ」と考えた。ヒムラーは「君はこの問題を分かっていない」という言葉で、スタッフのローテーションの要求を拒否した。そして、「今、あなた方はこれらの収容所に行かなければならないので、その任務についても知らされているはずだ」と説明した。それは、ヒトラーが決めた「ユダヤ教の生物学的中心をきっぱりと絶滅させる」ことを実行することである。

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図3:マクシミリアン・フォン・ヘルフ(1893年4月17日生まれ、1943年1月31日に親衛隊中将兼武装親衛隊将軍、1944年4月20日に親衛隊大将兼武装親衛隊将軍に昇進(BDC SSOファイル)。

ヒムラーはさらに、この「任務の遂行は時間の浪費を許さず、あらゆる手段で、スムーズに、あまり注意を払わずに行わなければならない」ことを強調した。「この件では秘密が決定的な要因であり」、この「極めて難しい任務は、一人ひとりが汚れないように行わなければならない」のである。このヒムラーの言葉は、フランケ・グリクシュによって伝えられただけだが、SS指導部の実際の懸念が反映されており、彼の本物の演説のように聞こえる(隠すべきことは何か? ナチスの絶滅施設のカモフラージュと秘密)。

SS人事本部の部長と副部長が東部を訪問したことは、しっかりと文書化されている。

1943年4月22日、フォン・へルフは、「各機関の(SS)指導者に会う」ために「5月(1943年)の第一週に総督府への公式訪問を実行する」計画を総督府のSS・警察上級指導者フリードリッヒ・ヴィルヘルム・クリューガーに知らせた。副官のアルフレッド・フランケ・グリクシュも同行した。彼らは1943年5月4日にアウシュビッツ強制収容所を視察する予定だった(下の図5参照、トゥービア・フリードマンは以前この手紙を出版している)。

フランケ・グリクシュが書いた長い旅行記によると、旅は1943年5月4日火曜日にベルリンからクラクフへのフライトで始まり、午後にアウシュビッツを視察した(付録A参照、画像を提供してくれたスティーブン・タイアスに感謝します)。クラクフ、レンベルク、ルブリン、ラドム、ワルシャワの順であることは、1943年5月7日のクリューガーのスタッフの「旅行日程表」(図4)からも裏付けられる。

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図4:1943年5月7日付、総督府高等親衛隊・警察指導部経済課の旅行日程表(BArch NS 19/1794, p.38)。

SS人事本部の二人のSS将校は5月14日にワルシャワに到着し、「ゲットーでの戦闘に関する詳細な報告」(付録Aの旅行報告)を受け取った。

フランケ・グリクシュの戦後の叙述によると、v.ヘルフはヒムラーに「ある指導者の人事ファイルに、適切な異動による任務完了後、彼らを助けるために肯定的または否定的なメモを作成すれば非常に喜ぶ」と言ったという。実際、アウシュヴィッツ司令官ルドルフ・ヘス、ルブリンSS・警察指導者オディロ・グロボクニク、ガリツィアのSS・警察指導者フリッツ・カッツマンのSS隊員ファイルに、この旅行の評価書が存在する。

いわゆるユダヤ人問題の最終解決は、アウシュビッツ強制収容所にとって重要な任務であった。たとえば、1943年5月22日、ハンス・カムラーとアウシュヴィッツSSの会議に関するメモには、「さらに、最近、ユダヤ人問題の解決があり、そのために、当初6万人の収容者の前提条件を作らなければならなかったが、短期間に10万人に増加するだろう」とある(Die Verfolgung und Ermordung der europäischen Juden durch das nationalsozialistische Deutschland(ナチス・ドイツによる欧州ユダヤ人の迫害・殺戮) 1933-1945, Band 16, Doc. 70)。

アルフレッド・フランケ・グリクシュのアウシュヴィッツへの旅行に関するそれ以外の長大な報告(付録A)は、ユダヤ人問題の最終解決に対する大規模なビルケナウ収容所の役割について沈黙しているとまではいえないが、きわめて短い。この微妙な問題は、「ユダヤ人の再定住行動」と題する独自の報告書に分割されていたとすれば、この省略はよく理解できるだろう。

カーボンコピー

上記で再現されたビルケナウでの大量絶滅に関するフランケ・グリクシュの説明はカーボンコピーであり、それは文字の輪郭が不鮮明であることからも明らかである。作成後に追加されたものはない(手書きの保存用番号を除けば)。つまり、1枚目のシートは、その内容を完全に含んでいるが、必ずしもその逆ではない(つまり、1枚目のシートは、そのカーボンコピーから分離した後に署名、日付、コメントがなされた可能性がある)。

カーボンコピーの性質については、この投稿の付録Bで説明している。ただ、カーボンコピーは、トップシートと同じ時期に、同じ人が、同じストロークで書いたものであることを念頭において欲しい。

タイプライター

スタンプ、手書きメモ、印刷済みのレターヘッドなどがない場合、文書の正式な真正性を確認するのは難しいと考えられる。しかし、紙、インク、タイプライターの文字など、資料の出所を知る上で貴重なものがまだいくつかある。

このケースでは、タイプライターは、このフォントの文字に通常期待されるストロークが欠けているため、文書の作者を確認する鍵となる可能性がある。しかし、切り捨てられた文字は、同じ特性の組み合わせを持つ、出所がわかっているサンプルがなければ意味がない。

「ユダヤ人の再定住行動」についてのレポートは、フランケ・グリクシュが上司のフォン・ヘルフと一緒に行った旅行について書いたとされているので、彼らのBDCのファイルと、彼らの所属するSS人事本部のファイルに目を通した。フォン・ヘルフのSS士官ファイルには、1943年4月22日のクリューガー宛ての手紙のタイプされたコピーが含まれている(図5)。この文書は2枚複写で存在し、アウシュビッツに関する報告書と同じ特徴的な文字が見られる。

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図5:v. ヘルフのBDC SSOファイル(BArch R 9361-III/530593)から1943年4月22日にクリューガーへ送られた手紙のコピー。

図6は、フランケ・グリクシュ報告書の文字(No.1)と、クリューガーへの書き込みのコピー2枚(No.2、3)と、比較のためにフォン・ヘルフとAFG(註:アルフレッド・フランケ・グリクシュの略記)のBDC親衛隊士官ファイルの中から異なるタイプライターで書いた文書(No.4、5)を比較したものである。

フランケ・グリクシュの報告書とクリューガーへの手紙には、「i」, 「m」, 「n」, 「u 」の文字に欠けがあることが読み取れる。他の文書でも欠けた文字が見つかることがあるが、欠損文字の正確な組み合わせと特徴から、同じタイプライターであることがわかる。また、タイプライターには大文字のウムラウト(Ä、Ö、Ü)、エスツェット(ß)、シグルーン(sig rune)がない(あるいは作者が使わないと決めた)ことも共通点である。

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図6:各文書の文字の比較。枠内はフランケ・グリクシュの報告書とクリューガーへの手紙のコピーに使われたタイプライターの文字の欠損を示している。

念のため、書類の写真を活字の専門家の資格を持っている人に調べてもらった。この専門家の意見によると、アウシュヴィッツに関する報告書(文書「A」)とクリューガー書簡(文書「B」)は両方とも、1930年から使われているレイアウトのランズマイヤー&ロドリーンのフォントAR 1で書かれている。分析の結論は以下の通り。

マッチングシステムの特徴と活字の特徴から、文書「A」と「B」は非常に高い確率で(mit großer Wahrscheinlichkeit)同じタイプライターで書かれたという結論が正当化される。調査した文書が原本として入手できなかったため、より高い確率の記述は不可能であった。

(ベルンハルト・ハース氏(マシンライティングの専門家)による2019年4月3日の専門家意見、筆者に提供)

■翻訳者による若干の補足:
ネット上で、あるホロコースト否定論者が上記の分析の内容を理解しないことがあった。これは、タイプライターに対する無理解が原因である。タイプライターの印字動作は、「印字したい用紙を、ローラーにセットする。任意のキーを押下すると、梃子の原理でアームの先の部分が、インクリボンと呼ばれるインクを染み込ませた帯の上から、ローラーに固定された紙を瞬間的に叩きつける。その際、アームの先端についている活字の形でインクが紙に染み込むため、結果的に印字が成される。」というものである。上記分析の文字形状の欠損は、「アームの先端についている活字の形」が物理的要因によって破損しているために生ずる。破損原因は使い続けることによる摩耗であったり、あるいは製品製造時の不良などである。従って、同じフォントの欠損箇所が同じ(上記では四つのフォント)なので、この特徴から、かなり高い確率で同じタイプライター(この場合の「同じ」はタイプライターの種類が同じという意味ではなく、同一・単一・特定唯一のタイプライターという意味である)が使用されていると言えるのである。また少々余談ではあるが、どうやらそのネットの否定論者は、上記で示した文書が、元の物理的な文書を機械的にコピーしたもの(おそらく文書専用の写真撮影機)であることや、それら物理的な文書の質的な状態の違い(タイプ時のインクや用紙の状態、経年変化など)があることを理解しておらず、また異なった文書に印字されたそれらフォントを画像処理によって比較しやすくしていることなどを全くわかっていなかったようで、指摘されている四つのフォント以外にも形状が一致していないフォントがある、などと言い出す始末であった。古典的タイプライターは、タイプ時の力の入れ方の違い一つでさえ異なった印字状態を生み出すことくらい理解していただきたいものである。

■補足への追記:
追加的に書体に関する記事を別で記述したので参考にしてほしい。


スタイル

この報告書の最小限の形式的なスタイルは、アウシュビッツと総督府への彼らの旅行の他のノート(任務旅行報告書とヘスグロボクニクカッツマンに関する評価ノート、これらはすべてレターヘッド、日付、署名を欠いている)にも見受けられる。

図7は、フランケ・グリクシュが書いた、それほど形式的ではない報告書の例である。

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図7:上:フランケ=グリクシュの報告書の最初のページ、最後のページには彼の署名がある。下:フランケ=グリクシュの報告書の最後のページ。 SS人事本部の彼のハンドファイルから、BArch NS 34/15。

言葉の使い方は、他の書簡におけるフランケ・グリクシュのものと互換性がある(彼のBDC SSOファイルBArch R 9361-III/524709にある書簡を参照されたい)。たとえば、アウシュヴィッツ報告書は、比較的まれな独立文の場合も含めて、文法的に正しい括弧の使い方をしている。フランケ・グリクシュは、1941年10月17日のルドルフ・ブラントへの手紙の中で、同じ使い方を示している。

視点

第1パラグラフでは、第三帝国における労働力の不足が深刻化し、軍需産業の需要に対応するために絶滅政策が変更されたことについて述べている。著者は、「労働のためにできるだけ多くの囚人を確保する」という「基本原則」を指摘し、「何らかの一時的な病気を持つ者」に対しては「特別な食事」でケアすることまで指摘している。かつてのように「実質的な労働力を計画的に破壊することは許されない」とされるようになった。また、この声明には、長期的に労働に適さないと判断されたユダヤ人を殺すことは完全に許されるという見解も含まれている。組織的な大量殺人は、ナチスのイデオロギーの枠内で正当化されると考えられていた。

著者は何十万人もの大量殺戮について書いているが、この政策と実践を貶めるような用語やイメージは注意深く避けている。大量殺戮を含むこの作戦全体は「再定住行動」と呼ばれ、ナチス当局がユダヤ人絶滅を(道徳的に、外部の人間に対して)カモフラージュするために使った常套句である(付録C参照)。陰惨な作業を行うユダヤ人囚人たちは「この収容所から出ることはない」、つまり処刑されると言い換えることができる。1日1万人という殺傷能力は、「『再定住行動』炉の現有能力」という技術的な表現に包まれている。

火葬場の中の殺人行為は、できるだけ快適なものであったとされる。犠牲者が入るのは「ベンチが設置され、風通しの良い地下室」で、「明るい照明」がついている。「消毒と洗浄をして、新しい仕事に備えよ」と言われ、「すべては平穏に進行する」。本当に気がつかないうちに、「1分で眠れる」ようになっている。この絵は、ナチスの集団安楽死はきれいな突然死であるという(誤った)概念に基づいており、チクロンBによる大量ガス処刑の際の犠牲者の苦悩を否定するものだった。

報告書は、処刑人についてほとんど注意を払っていない-二つの例外を除いては。暗黙のうちに、「作業自体はユダヤ人囚人によって行なわれている」ことに注目することで、SS隊員がもっとも恐ろしい作業、とくに死体から遠ざかっていることを保証しているのである。しかし、著者は、SSスタッフが何をしていたかという問題にはあえて触れなかった。おそらく、まだ自分たちの役割に違和感を覚えつつも、どうせどうにもならないと思っていたのだろう。ヒムラーは、東プロイセンのレッチェン本部で行った出張の事前説明で、特定の収容所での精神的緊張を理由にSS指導者の前線への移送をすでに否定していたのである。

報告書の中でSSが登場するのは、他にランプでの選別の際に「キャンプ司令官と数人のSS指導者」が登場することである。SS人事本部の担当者であれば、この観察眼と用語は全く納得のいくものである。「SSの指導者たち」は、まさにフランケ・グリクシュが仕事に興味を持った人たちの集まりだった。同じ理由から、彼とv.ヘルフは、1943年4月22日のクリューガーへの書簡で、「各機関の(SS)指導者に会う」ことを要請しているのである。

つまり、アウシュビッツでのユダヤ人の大量絶滅を加害者の立場から明確に記述しているのである。

信頼性

報告書の信頼性についての詳細な分析は付録Cに記載されている。

この文書は、ナチスのユダヤ人絶滅政策の主要な傾向である、強制労働にますます焦点を当て、いわゆる無駄飯食いとみなされる不適格者を冷酷に殺害することを描写している。

アウシュビッツでの実施は、他の資料によって裏付けされた多数の絶滅プロセスの詳細とともに概説されている。著者は、収容所内の別の場所に貨物車(いわゆる特別列車)で到着し、労働に適さない者は選別され、大きな家に送られる、という被害者の道筋をたどっている。階段を使ってベンチとフックのある脱衣所に入り、廊下を通って殺戮の地下室に入る。毒物は屋根の上から柱を通して導入される。現場で働くユダヤ人囚人たちは、死体から髪の毛や金歯を取り除き、エレベーターで1階まで運んでくる。死体は1階のコークス燃料の火葬炉で焼却される。

著者が示した詳細のレベルは、広範な内部知識の反映であり、火葬場で目撃者となったSS隊員、ユダヤ人ゾンダーコマンド捕虜、その他の捕虜が提供したものに匹敵するものである。それとは対照的に、絶滅現場に関する信頼できる情報は、内輪以外ではほとんど知られていなかった(「アウシュビッツから帰還したハンガリー系ユダヤ人の集団絶滅に関する知識」も参照)。

しかし、この報告書にはいくつかの不正確な点があり、そのうちのいくつかは単純な記憶力の低下、不注意、視界不良、ツアーガイドの誇張の結果として説明できるもので、その他はより高度な説明を必要とするものであることを述べておく。

最も重大な誤りは、犠牲者がガス室に入ったのとは反対側のドアからガス室から搬出されたという記述であるようだ。仮に、-大きな仮定の話だが-、第2火葬場のガス室がすでに2つに分割されており、フランケ・グリクシュが2つのガス室の間のそのドアに気づいたとしても、その場面を目撃すれば、犠牲者が以前に入ったのと同じドアから連れ出されたことがわからないはずはないのである。

したがって、アウシュビッツの研究者ジャン・クロード・プレサックが指摘するように、見学の途中で休憩が入ったと推定することができる。もし、SS訪問者がガス室が開けられる前に地下室を出て、後で、別の入り口から地下室に戻った(あるいはまったく戻らなかった)とすれば、ガス室の処刑に関する混乱を誤解として説明することができるだろう。

もう一つの問題は、フランケ・グリクシュが実際のガス処刑を目撃したのか、それとも空の火葬場だけを目撃したのか、ということである。今のところ、ベルリンのSS士官がこの場所を視察したときには、ギリシャの輸送はまだ到着していなかったというジャン・クロード・プレサックの考えを支持する証拠はないようだ。もし、列車がすでにアウシュヴィッツに到着していたならば、ヘスは、そこから数百名の犠牲者を第2火葬場に運び出し、訪問者にガス処刑を見せるよう命じた可能性がある。しかし、SS将校が殺害現場の運営を観察していたという証拠もない。

注目すべきは、報告書の多くの詳細が、戦後、アウシュヴィッツの司令官ルドルフ・ヘスが書いた原稿(1958年にドイツ語で初版発行、1951年にポーランド語で初版発行、ブローシャート、『アウシュヴィッツの司令官』、2000、p.14 参照)と一致し、対応していることである。その顕著な例が、両者の証言にある「一部の犠牲者の歯のくぼみに貴重品が隠されているのを発見した」という記述である。この件に関する他の多くの証言(私が知る唯一の例外はベネディクト・カウツキーの回顧録『Teufel und Verdammte(悪魔と呪われた者たち)』1946年)では言及されていない詳細である。

内容がかなり重複していることから、アウシュビッツ司令官の指導を受けたSS将校がこの報告書を作成したことがわかる。また、戦後、ヘスが大量絶滅に関するこれらの詳細を特によく覚えていて、収容所を訪れる人々にそれを話していたことも当然であろう。

結論

冒頭に紹介した文書は、いくつかの理由から、SS将校アルフレッド・フランケ・グリクシュ(AFG)が東方旅行の結果として書いたアウシュヴィッツ=ビルケナウでのユダヤ人の大量絶滅に関するメモの真正版とみなすことができる。

  1. このメモは、アウシュビッツ・ビルケナウにおけるユダヤ人問題の解決という主題に関するAFGの長大な旅行報告(付録A)が残したギャップに適合するものである。

  2. その形式的なスタイルは、他の旅行記のスタイルに対応し、その言語的なスタイルは、AFGのスタイルに対応している。

  3. このタイプライターは、AFGが東方へ行く数日前に書いた手紙のコピーにも使われたようである。

  4. 報告書は、アウシュヴィッツでのユダヤ人の大量絶滅を加害者の視点から記述している。

  5. 「親衛隊の幹部」に対する興味は、AFGの特徴であり、東方への旅の目的とも合致している。

  6. 報告された詳細のレベルは、現場を目撃した者と一致する。実際の殺害過程の記述は伝聞である可能性もあるが、その場合には、同行したSSスタッフ(すなわち、アウシュヴィッツ司令官)から得たものであろう。

  7. 報告書の内容とアウシュビッツの司令官の証言が大きく一致していることから、後者がツアーガイドとして報告書の主要な情報源であったと思われる。

マクシミリアン・フォン・ヘルフは、戦後の日記から「ユダヤ人の絶滅は我々の不幸の始まりであった。ここで男たちが現れ、それを止めなければならなかった」と引用している。

二人のSS士官が収容所に現れたが、それを止めることはなかった。それどころか、フランケ・グリクシュの印象は、報告書に記されているように、ユダヤ人の絶滅を美化していたのである。

付録A:フランケ・グリクシュのポーランド旅行報告書(1943年5月4日~16日

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(TNA, WO 309/374; スティーブン・タイアスの好意による)

註:Holocaust Controversiesサイトでは11枚もの写真があるが、資料の写真しかなくテキストは引用されていないので、こちらでは写真の転載は意味がないと判断し載せていない。

付録B:カーボンコピー

カーボンコピーは、紙と紙の間にカーボン紙を挟み、上の紙に文字を入力することで作成される。文字はカーボン紙を通して上から下へ転写される。「カーボン」の特徴は、文字があまりはっきりしていないことである。

カーボンコピーは、トップシートと同じ時期に、同じ筆跡で、同じ書き手によって作られた。この意味で、これも「オリジナル」であるが、トップシートとは目的や詳細が異なる場合がある。米国法では、トップシートと同じ特徴を持つカーボンコピーは「複製原本」に分類される(例:テキサス州証拠書類規則マニュアル、文書を複製原本または単なる複製に分類するための意図の関連性も指摘されている)。

この2つのケースについて、例を挙げて見てみよう。

1.) カーボンコピーとトップシートは別物である。

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左はヒトラーからシャハトへの手紙の草稿の1ページ目、右はそのカーボンコピー(画像はここから引用)。カーボンコピーの主な内容は、トップシートにタイプされたもの(ブルーマーク)と全く同じものである。しかし、左の文書には、カーボンコピーにはないヒトラー事務所のレターヘッド(赤い印)があらかじめ印刷され、刷り込まれているのである。オレンジ色で示した部分は、タイプライターから取り出して分離した後、文書に追加したものである。したがって、このカーボンコピーは完全な複製ではなく、独自の特性と目的を持った文書である。本来は、ヒトラーのオフィスでシャハトに宛てた手紙を記録するためのものだった。

2.) カーボンコピーは複製品である。

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トップシート(右)とカーボンコピー(左)は目的も内容も同じ(BArch R 58/11422、別途作成されたサインのみ若干の差異がある)。この書類は、ゲシュタポの事務所からベルリンのRSHAに、外国駐在員の応募書類の補足として転送された。

結論から言うと、カーボンコピーはそのトップシートと同じ「オリジナル」(両者が同時に作られたという意味で)ではなく、複製されたオリジナルであるか、別の目的のために作られた/使われたかのどちらかである。ナチスのオフィスでは、官僚的なプロセスをファイルに記録するために、カーボンコピーがよく使われた。


■翻訳者による若干の補足:
「カーボンコピー」は電子メールでは「CC」と表記される複数人に同じメール内容を送る仕組みだが、この「CC」表記の起源がカーボンコピーなのである。カーボンコピーは、説明の通り、紙と紙の間にカーボン紙を挟み込むことにより、上の紙に文字などをペンや鉛筆などで書いたときの筆圧によって、このカーボン紙に含まれたインクが下の紙に転写されることによってコピーされる。これは、タイプライター利用時にも同様で、タイプライターの活字が用紙に打刻されることによって、その圧力がカーボン紙のインクを下の紙に転写する。このような方法により、複数枚の用紙とカーボン紙を用いて、タイピング時に複数枚の複写コピーを作成することが可能だったのである。より形式的で官僚的な手続きに則る場合、複写されている用紙には「Copy」と明示されていることもある。また複写されている場合にそれら別々の用紙の配布先を記述している場合もある。フランケ・グリクシュの「再定住行動」報告はそのような官僚的な形式には則っていない。


付録C:アウシュヴィッツのユダヤ人再定住に関するフランケ・グリクシュ報告書の信頼性

「ユダヤ人の再定住行動」 (Umsiedlungs-Aktion der Juden)

...およびAussiedlung/Evakuierung(疎開、避難)を含むその言語的変種は、通信や演説でユダヤ人絶滅を偽装するためにナチスの婉曲表現としてよく使われた。

例えば、アインザッツグルッペCはバビヤールの虐殺日本語訳)について、「ユダヤ人に対する『再定住策』(Umsiedlungsmaßnahme)は住民に全面的に承認された。現実にはユダヤ人が処刑されたという事実は、今までほとんど知られていなかった」「3万人以上のユダヤ人が現れ、彼らは極めて巧妙な組織のおかげで、処刑直前まで再定住を信じ続けていた」と誇らしげに報告した。

白ロシア(現在のベラルーシ)の治安警察と SD の司令官による 1943 年 2 月 5 日のコマンド命令では、「再定住地」[Umsiedlungsgelände]は「二つの穴」で、各穴に 10 人の隊員が割り当てられ、2 人が「弾薬を配る」(Die Verfolgung und Ermordung der european Juden durch das nationalsozialisthe Deutschland(ナチス・ドイツによるヨーロッパ・ユダヤ人の迫害と殺戮) 1933-1945, Band 8 Sowjetunion mit anektierten Gebieten II, p.581 )と説明されている。

「ユダヤ人再定住」は、総督府のユダヤ人絶滅の文脈で広く使われた。

1942年4月7日、市民管理局のリヒャルト・テュルクは、「SSと警察指導者[グロボクニク]のユダヤ人再定住行動[当面の間]」について語った(Faschismus, Ghetto, Massenmord, p.271) 。

絶滅収容所に配属された者は、「ルブリン地区のSSおよび警察の指導者である親衛隊大尉ヘフレの「ラインハルト作戦(Einsatz Reinhardt)」本部の責任者として、私は詳細に知らされ指示されている・・・いかなる場合にも、私は、ユダヤ人再定住[Judenumsiedlung]の経過、実行、出来事について、口頭であれ、文書であれ、「Einsatz Reinhardt」の職員の輪の外部に情報を送ることが許されないこと...ユダヤ人再定住[Judenumsiedlung]の出来事は、機密規定でいう「国家の機密事項」であること」」という任務ノートに署名しなくてはならなかった。(こちらの文書8参照)。

1942年7月18日、ハインリッヒ・ヒムラーは上級SSと警察の指導者フリードリヒ・ヴィルヘルム・クリューガーに「総督府の全ユダヤ人の再定住(Umsiedlung)は1942年12月31日までに実施・完了すること・・・ユダヤ系の人間は一切総督府に残らないこと・・・完全浄化が必要だ」と命じた。この命令は1942年7月29日にRSHAとReichskommissar für die Festigung deutschen Volkstums(ドイツ国籍強化のための帝国委員会)に転送された。ヒムラー個人事務官リヒャルト・ブラントは、「再定住活動(Umsiedlungsaktion)は1942年12月31日まで終了するものとする」(BArch NS 19/1757, p. 1-2) と付属の手紙のカーボンコピーにまとめている。

1942年8月の列車時刻表命令では、「追って通知があるまで、再定住者(Umsiedler)を乗せた特別列車がワルシャワ・ダンツィヒ駅からトレブリンカまで毎日運行し、空列車が戻ってくる」(Die Verfolgung und Ermordung der europäischen Juden durch das nationalsozialische Deutschland(ナチス・ドイツによるヨーロッパ・ユダヤ人迫害・殺戮) 1933-1945, Band 9, doc 111)ことが通知されている。

「ユダヤ人再定住行動」[Aktionen der Judenumsiedlung]に関する警察大隊133の報告には、「輸送車が大きな事件もなくベウジェツに運ばれた」ことが書かれているが、そのほとんどが「カービン銃かライフルで射殺」された300名の老齢化した、病弱でもはや輸送できないユダヤ人を除いて、である(Report of a Kompanieführer Pol.Bat. 133 of the 14 September 1942(1942年9月14日の中隊長Pol.Bat.133の報告書), Die Verfolung und Ermordung der European Juden durch das nationalsozialische Deutschland(ナチス・ドイツによるヨーロッパ・ユダヤ人迫害・殺戮) 1933-1945 Band 9. 133, Die Verfolgung und Ermordung der europäischen Juden durch das nationalsozialistische Deutschland(ナチス・ドイツによるヨーロッパ・ユダヤ人迫害・殺戮) 1933-1945, Band 9, doc. 137).

SSはアウシュビッツの文脈でもこの言葉を使った。

1943年2月6日、SS-WVHAの責任者オズワルド・ポールは、「ユダヤ人居住区[Judenumsiedlung]からの繊維廃棄物の利用についての報告」を提出した(BArch NS 19/225, p.17)。

1942年10月2日のSS-WVHAからアウシュヴィッツへの無線信号は、「ユダヤ人居住区[Judenumsiedlung]の資材(すなわちチクロンB)を受け取るための」運転許可を与えている。

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出典:デジタルライブラリー101『アウシュビッツ裁判』

ハインリッヒ・キューネマンに対する評価では、彼は「もっぱら『ユダヤ人の再定住』(Judenaussiedlung)の過程で使われ、ゾンダーコマンドIと火葬場IIの影響を監督、整理、除去する仕事を割り当てられた」と述べている。(Perz & Sandkühler, Auschwitz und die "Aktion Reinhard"(アウシュヴィッツと「ラインハルト作戦」) 1942 - 45. Judenmord und Raubpraxis in neuer Sicht, in: Zeitgeschichte(ユダヤ教と宗教の新展開『世界史』) 26 (1999) 5, p. 296)

アウシュビッツ収容所長のハンス・オーマイヤーは、戦後アウシュビッツの報告書を作成し、ユダヤ人の処置について次のような記述をしている。

「ユダヤ人の再定住」[Aussiedlung der Juden]。

この呼称のもとで、アウシュヴィッツなどでユダヤ人の絶滅が行われた。この命令はおそらく、総統というか、親衛隊全国指導者の個人的なものであろう。

(1945年10月8日の供述)

あるSS隊員が編集したいわゆる『アウシュヴィッツ・アルバム』には、ユダヤ人輸送の処理は「ハンガリーからのユダヤ人の再定住」[Umsiedlung der Judenus Ungarn]と記されている。

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出典:アウシュビッツ・アルバム、Wallstein-Verlag, p. 16.

「ユダヤ人問題の解決」 [Regelung der Judenfrage]

より一般的な用語は「解決」または「最終的解決」であったが、ユダヤ人問題の「解決」はナチスの言葉の一部であった。たとえば、1934年12月20日のヒトラー代理のスタッフ会議では、次のようなことが指摘され ている。

ドイツは、ユダヤ人とドイツ人の完全な空間的分離が達成されたときにのみ、ユダヤ人問題の最終的な解決(Regelung der Judenfrage)を考えている。

1941年10月23日、『シュトゥルマー』のパウル・ヴルムは、ナチス外務省の「ユダヤ人専門家」フランツ・ラーデマッハに、「ベルリンからの帰途、東方のユダヤ人問題の解決[Regelung der Judenfrage]に取り組んでいる古い党員に会った。まもなく、多くのユダヤ人害虫が特別措置によって駆除されるだろう。」と書き送っている

帝国東方占領地担当省は1941年12月18日、オストランド帝国司令部に対して、「ユダヤ人問題については、口頭での議論を通じて、今、明らかにすべきである。問題の解決[Regelung]に関しては、経済問題は基本的に考慮されるべきではない」と書いている。(Die Verfolgung und Ermordung der europäischen Juden durch das nationalsozialisthe Deutschland 1933-1945, Band 7, doc 221)。

「特別列車」 [Sonderzüge]

...は、例えば東方へのユダヤ人輸送を表す言葉としても採用された。

  • 1942年7月14日の電報には、「ベルギー、フランス、オランダからアウシュヴィッツへの労働のためのユダヤ人特別列車(Judensonderzüge)」が記載されている。

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出典
  • 1942年8月の列車時刻表には、「追って通知があるまで、毎日、ワルシャワ・ダンツィヒ駅からトレブリンカまで移住者を乗せた特別列車(Sonderzug)が走り、帰りは空の列車が走る」(同出典)と記されている。

「貨物列車」 [Güterzüge]

アウシュビッツ・ビルケナウに到着したハンガリー人ユダヤ人の輸送:

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出典:『アウシュヴィッツ・アルバム』、Wallstein-Verlag、107 ページ。

「特別な線路を通って収容所内の特別に区画された地区へ」

フランケ・グリクシュがアウシュヴィッツを訪れたとき、ユダヤ人輸送列車は、アウシュヴィッツの関心地域を通過する鉄道路線の脇道(「旧ランプ」)で積み下ろしされていた(このような「地区」は一つしかなかった)。この場所での積み下ろし作業の様子を見聞きしていたのだろう。

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この文には、他の説明も考えられる(特に地区(districts)の複数形)。

註:原文記事のグリクシュ文書の英語翻訳はどうやら微妙に誤っているようで、「districts(複数形)」とすべきところを「area(単数形)」としてしまっている。元のドイツ語単語は「Bezirke」でありこれは「Bezirk」の複数形である。つまり候補となるユダヤ人が降ろされる「特別な地区(dafür abgegrenzte Bezirke)」は複数箇所を指しているのではないか? と、著者は主張したいようである。

  • ビルケナウでは、建築現場への建築資材の運搬に使われる狭軌のレールを観察し、あとは自分で想像した可能性。

  • ビルケナウの積み下ろし場建設計画を聞いて、そろそろ完成すると思っていたのかもしれない。1941年にはすでに、鉄道を「ビルケナウ捕虜収容所」まで延長することが構想されていた。しかし、このプロジェクトが完成したのは、1944年、アウシュビッツでハンガリー系ユダヤ人を破壊するためであった。

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ビルケナウへの鉄道路線を示す図面、おそらく1941年のもの、Bartosik, The Origins of Birkenau Camp, document 100より。

(編集:2つの補足がホロコースト否定派の間で混乱を招いているので、こちらの追加発言も参照のこと)

「医療委員会」[Ärztekommission]

...は、ナチス(強制収容所)の「安楽死(euthanasia)」に由来する言葉であった。

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出典

アウシュヴィッツ・ゲシュタポのヴィルヘルム・ボーガーも、ランプのSS医師を「医療委員会」[Ärztekommission]と呼んでいる(次のポイントを参照)。

「そこで下ろされて、検査される」

アウシュビッツ政治部のヴィルヘルム・ボーガー。

タラップには、囚人受け入れのコマンドと、関連するSS護衛兵、医療委員会がいた。列車が到着した後、囚人たちは外に出なければならなかった。その後、医師たちが活躍するようになった。収容者には仕事が割り当てられ、働かない人はトラックで火葬場へ運ばれてガス処刑された。

(アウシュビッツ裁判DVD、S.3295)

1944年夏のハンガリー系ユダヤ人の絶滅を撮影したSSの写真には、ビルケナウのランプでの選別作業(Aussortierung)が写し出されている。

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出典:アウシュヴィッツ・アルバム、Wallstein-Verlag, p. 24.

「親衛隊の指導者」[SS-Führer

アウシュビッツの目撃者の間では、ランプにいたSS隊員を表す言葉として、最も一般的ではない。しかし、フランケ・グリクシュが手紙の中でよく使っていたこの言葉を挙げたことは、非常に理にかなっている。ランプに「親衛隊の指導者」―収容所司令官や「医療委員会」(SS医師)とともに―がいることに気づいたのは、SS人事本部の彼の仕事と一致している。

Schutzhaftlager(保護拘禁収容所)のリーダー、ハンス・オーマイヤーは、ランプのSSスタッフについて次のように書いている。

入ってきた輸送列車は、囚人が降ろされるとすぐに収容所の医師が仕分けし、ガス処刑する者を選んでいました。55歳以上の不具者、病人、不適格者を選ぶように指示され、それ以降は11~12歳以下の子供もガス処刑に送られました。輸送には毎回異なる収容所のリーダーが責任保安官として任命され、輸送のためのガードチェーンを引き継ぎ、荷降ろしのためのブロックリーダーを割り振り、荷降ろし地点から収容者をトラックでキャンプやブンカーに運ぶという任務を負っていました。

(1945年7月25日の供述)

「一時的に体調を崩した人はすぐに医療キャンプに送られ、特別な食事で回復させる。原則は、「すべての労働力は保存されること」である。重要な労働力を継続的に破壊するわけにはいかないので、旧来の「再定住行動」は完全に否定される。」

「旧来の「再定住行動」」とは、ポーランド系ユダヤ人を乗せた輸送列車がアウシュヴィッツで完全に処刑された1942年前半を指しているのかもしれない(Czech, Kalendarium der Ereignisse im Konzentrationslager Auschwitz-Birkenau( アウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所のイベントカレンダー ) を参照)。アウシュビッツの司令官ルドルフ・ヘスは、このことを次のように語っている。

もともと、RFSS(註:Reichsführer-SSの略。親衛隊全国指導者、ハインリッヒ・ヒムラーのこと)の命令では、アイヒマンによってアウシュヴィッツに移送されたすべてのユダヤ人は例外なく絶滅されることになっていた。これは、上部シレジア地方のユダヤ人についても同様であったが、ドイツ系ユダヤ人の最初の移送のときには、すべての労働ユダヤ人、男性、女性を選別し、収容所で軍需産業のために利用するという命令が出された。

(Broszat, Kommandant in Auschwitz(アウシュビッツ司令官), p. 245(註:講談社学術文庫版の『アウシュヴィッツ収容所』では390ページに当該箇所の記述がある))

一方、ドイツの歴史家クリスチャン・ゲルラッハは、「おそらくこれは1942年8月の実践を示唆したものであろう。輸送者が全員すぐに殺されるような強制移送列車は比較的少なかったが、90%以上が処刑されたものはより多かった」という(Gerlach, The Extermination of European Jews(ヨーロッパのユダヤ人絶滅), p. 199)。

ナチス指導部は、ユダヤ人労働力を軍需産業に利用することを目的とし、労働に適していると思われる者は当分の間、免除した。たとえば、1942年9月16日、SS-WVHAの責任者オズワルド・ポールは、アウシュビッツでのシュペーアとの会談について、ヒムラーに次のように報告している。

...帝国大臣シュペーア教授は、仕事に適した5万人のユダヤ人を、既存の閉鎖された企業で、既存の宿舎を短期間利用できるようにしたいと考えています。私たちは、そのために必要な労働力を、主にアウシュヴィッツで、東方移住から摂取し、既存の運営施設が、労働者の成果や構造が絶えず変化することによって妨げられることがないようにします。したがって、東方への移住を予定されている労働に適したユダヤ人は、旅を中断して軍需産業を遂行しなければなりません。

(BArch NS 19/14, p. 99 [stamped pagination])

1943年3月2日、後のアウシュビッツ司令官アルトゥール・リーベンシェルは、当時の司令官ルドルフ・ヘスに対して、こう指示した。

そこで知られているように、ベルリンからのユダヤ人輸送は1943年3月1日に開始される。これらの輸送には、これまでベルリンの軍需産業で働いてきた、完全に能力があり健康なユダヤ人約15,000人が含まれていることを再度指摘しておく。彼らの労働能力は、あらゆる手段で強調されることになる。

(Die Verfolgung und Ermordung der europäischen Juden durch das nationalsozialistische Deutschland(ナチス・ドイツによる欧州ユダヤ人迫害・殺戮) 1933–1945, Band 16, Document 59 [p. 232])

1943年7月8日、強制労働者として使用されるユダヤ人収容者の輸送が強制収容所ルブリン(註:マイダネク強制収容所)からアウシュビッツに到着した。

今朝、ルブリンからの受刑者を乗せた輸送列車が午後6時に到着し、5人の死者と2人の銃傷を含む1500人の受刑者を乗せていた。囚人たちは到着後すぐに入浴し、害虫駆除を行った後、男女収容所の責任ある収容所医師から健康状態や労働能力について診察を受けた。

750人の男性収容者のうち、労働に適するとして選ばれたのは424人だけで、残りの326人は労働収容所ブナ(註:アウシュヴィッツ第3収容所であるモノヴィッツ収容所)での使用目的に対して十分に働けるものではなかった。

女性収容者750人のうち、収容所医師から労働に適さないと言われた収容者は80人で、移送者の約1割を占めていた。約1割が疥癬に覆われており、残りの囚人のうち、かなりの部分が重労働に使うことができない。収容者の体調の悪さを示す写真が何枚も添付されている。また、収容所守衛医師の報告書も同封されている。

(Blumental, Dokumenty i Materialy, Tom I, p. 140)

1944年2月14日、アウシュヴィッツの新司令官リーベヘンシェルは、アウシュヴィッツSSスタッフに次のように念を押した。

...何度も言われているように、囚人の労働能力と労力を維持するためにあらゆることがなされなければならない。

(Standort- und Kommandanturbefehle des Konzentrationslagers Auschwitz 1940-1945, p. 411)

「不適格者」[Untauglichen]

アウシュビッツは強制労働の選別の中心地であったが、もう一つの機能は労働に適さないと見なされた人々を絶滅させることであった。1942年12月16日、ゲシュタポ長官ハインリッヒ・ミュラーは、ビャウィストクとテレージエンシュタットから4万5000人のユダヤ人をアウシュヴィッツに移送し、約3万から3万5000人の不適格なユダヤ人を収容するようヒムラーに提案した。

45,000という数字には、不適格者(老ユダヤ人と子供)が加わっています。適切な尺度を適用すれば、アウシュヴィッツに到着したユダヤ人の選別によって、少なくとも1万から1万5千の労働者を得ることができます。

(ナチスドイツによる欧州ユダヤ人迫害・殺戮 1933–1945, Band 16, Document 45 [p. 210])

ランプで選別された不適格なユダヤ人の数字は、政治部が記録し、ベルリンのRSHAに報告された(Auschwitz SS Men Confessing on Tape: Josef Erberを参照のこと)。ベルリンとテレージエンシュタットからの輸送の場合、アウシュヴィッツSSは、到着したユダヤ人の中から不適格者を何人取り出し、何人殺したかという記録をWVHAに転送していた。

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Sterbebücher von Auschwitz 1, Dokument 56.

「gesonderte Unterbringung」という言葉は、アウシュビッツにおける超法規的処刑の既定の婉曲表現であった。"Separate accommodation" in Auschwitz: a code word for extrajudicial executionsおよびAuschwitz-Birkenau Selection List of 21 August 1943.も参照のこと。

いわゆるアウシュビッツ・アルバムには、「もはや労働に適さない」女性/男性に関する2つのセクションがある。

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出典:アウシュヴィッツ・アルバム、Wallstein-Verlag.

アルバムの写真で、労働に適さないとして選別されたユダヤ人が、最後に火葬場の近くにいるのを見ることができるのは、何よりの証拠である。彼らがビルケナウに到着して生き延びたことを示すような写真は一枚もない(SSカメラマンが衛生処理後に撮影した、労働に選ばれた人々とは異なる)。

「大きな家」 [größeres Haus]

これ(註:以下の写真)はアウシュビッツ・ビルケナウの第2火葬場である。アウシュビッツの司令官がSSの訪問者に見せたのだろう。ジャン・クロード・プレサックは「1943年5月4日、クレマトリウムIIだけが完成し稼動していたが、Kr IIIはまだ準備ができていなかった」と述べている日本語訳)。

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フランケ・グリクシュは、道路の反対側にある第3火葬場を見たかもしれないし、そのことを聞かされたかもしれない。被害者は運命に翻弄され、苦しまないという彼の持ち前のメッセージに従って、彼は火葬場を、無知な人間や被害者がどう見るかを想定して、大きな家と呼んでいるのである。

「アウシュビッツ・アルバム」には、労働に適さないとして選別されたユダヤ人の集団が、大きな建物である火葬場の近くに並んだり、待ったりしている写真が掲載されている。

火葬場4と5にて:

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火葬場2と3にて:

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「地下の部屋...」 [Kellerräume]

火葬場の建設図面にある地下室の断面図。

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「外から入れる」 [die von aussen zu betreten sind]

アウシュヴィッツの中央建設事務所のスケッチは、外部から脱衣室への将来の直接アクセスを示している。

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火葬場2号館跡のGoogle衛星画像。脱衣場の地下に降りる階段が丸で示している。

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「.. 5,6段の階段を降りる...」 [5 - 6 Stufen herunter]

プレサックによると日本語訳)、脱衣所までの階段の数は10段だったらしい。ゾンダーコマンドの囚人ダヴィッド・オレールは、第3火葬場の絵に同じような姿を示している。

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出典:ダヴィッド・オレール、Un Peintre Au Sonderkommando a Auchwitz(アウシュビッツのゾンダーコマンドの画家), 1989, p. 47


「左右にベンチが置かれた、長く、風通しの良い地下の部屋に出る。明るい照明で、ベンチの上には数字が書かれている。囚人たちは、新しい仕事のために消毒と洗浄をすると言われているので、全員完全に服を脱いで入浴することになる。-2-パニックになって落ち着かないことがないように、服をきれいに整え、指定された番号の下に置くように指示し、風呂上がりにも自分のものを見つけられるようにしている。完全な沈黙の中で、すべてが進行する。」

アクセスステップを備えた細長い脱衣所の建設図面

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出典

火葬場2の「脱衣所の換気」作業が行われたことが記された作業予定表。

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出典:Schüle, Industrie und Holocaust(産業とホロコースト), p. 459

火葬場の「脱衣所の換気」について記載された工事書類。

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出典:Schüle, Industrie und Holocaust(産業とホロコースト), p. 458

アウシュビッツの司令官ルドルフ・ヘスの証言には、報告書に書かれているのと同様の光景が含まれている。

アウシュビッツでは、次のように絶滅のプロセスが行われた。絶滅の運命にあるユダヤ人たちは、できるだけ静かに、火葬場へと導かれた。脱衣室では、そこで働いていたゾンダーコマンドの囚人から、これから入浴と害虫駆除をすること、服をきちんとまとめること、そして何よりも、害虫駆除後に服をすぐに移動できるように場所を覚えておくことを、彼らの言葉で伝えられた。ゾンダーコマンドの囚人たちは、このプロセスを迅速、平穏、円滑に進めることに最大の関心を持っていた。

(Broszat, Kommandant in Auschwitz(アウシュヴィッツ司令官), p. 257(講談社学術文庫版の『アウシュヴィッツ収容所』では407ページに当該内容の記述がある))

また、火葬場でSS医師の仕事をしたミクロス・ニーシュリは、別の視点からこう語っている。

火葬場では、10〜12段のコンクリートの階段を下り、収容人数2000人の地下の空室に入ります。最初の列は入り口で本能的に立ち止まりましたが、「消毒」「風呂」と主要言語で印刷された看板を見ると、安心して階段を下りていきます。ベンチがあり、番号のついた衣服が置いてあります。部屋の壁には、ベンチと番号のついた洋服掛けが用意されていました。入念な誤報戦略の一環として、SSは、風呂上がりの服を問題なく見つけられるように、自分の番号を記憶するよう全員に念を押したのです。

(ミクロス・ニーシュリ、1945年7月28日の証言(註:原文記事にはリンクが貼ってあったが、情報は既になかったのでリンクは省略した))

ゾンダーコマンドの囚人ダヴィッド・オレールが描いた脱衣シーン。

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出典:ダヴィッド・オレール、Un Peintre Au Sonderkommando a Auchwitz(アウシュヴィッツのゾンダーコマンドの画家), 1989, p. 52.

「彼らは小さな廊下を通って...」

脱衣室とガス室の間の廊下の建設図面(ラベルと矢印を追加したもの)。

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「...そして、シャワールームのような地下の大きな部屋に到着する。」

「ガス密閉ドア」に沿って「14個のシャワーヘッド」を備えた第3火葬場の在庫を移管する。

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アウシュビッツ司令官 ルドルフ・ヘス:

"脱衣後、ユダヤ人はガス室に入ったが、このガス室にはシャワーと水道管が備え付けられており、完全に浴室の印象を与えていた。

(Broszat, Kommandant in Auschwitz(アウシュヴィッツ司令官), p. 257)

ビルケナウの第2火葬場跡の法医学的調査によって、「ガス室の東側1メートル弱の通路に直径8センチの小さな円盤が埋め込まれていた。この円盤には、シャワーヘッドの前板のような小さな穴がたくさん開いている(裏面の方が見やすい)。穴の大きさは非常に小さく、多くの穴は板をまったく貫いていないようであり、水が流れたとしても、その量は多くないと思われる」ことが発見された。(ダニエル・ケレン、ジェイミー・マッカシー、ハリー・W・マザール、ガス室の廃墟: アウシュビッツ1とアウシュビッツ・ビルケナウの火葬場に関する法医学的研究、『ホロコーストとジェノサイド研究』に掲載された、オックスフォード大学出版局、第18巻、第1号、2004年春号、オンライン版はこちら日本語翻訳))

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「この部屋には、3本の大きな柱があります。この中に、地下の外からある製品を上から降ろすことができる」

ガス室には、4つの(フランケ・グリクシュが述べている3つではなく)金網の柱があり、屋根の上からチクロンBペレットが下げられていた(「アウシュヴィッツに関するマットーニョの反駁、第二部:火葬場でのガス導入」(日本語訳)も参照)。プレサックによると、

この誤りの原因は、フランケ・グリクシュがLeichenkeller 1に数歩入っただけで、最後まで降りなかったため、4本の柱のうち3本しか気づかなかったからである。

(Pressac, Technique and Operation of the Auschwitz Gas Chambers, p. 239日本語訳))

■翻訳者による若干の補足:
グリクシュのレポートに見られる数箇所の細かな誤りは、アウシュヴィッツ収容所を一回だけ訪問し、見学したグリクシュがその記憶に基づいて報告書を書いたからという理由が、細かな誤りの要因として最も大きいと考えられる。プレサックは色々とその誤りの原因を細かく説明してはいるが、どれもプレサックの推測に過ぎず、そのように断定できるものではない。このチクロンBをクレマトリウム2(または3)のガス室内に導入する金網投下装置は、ガス室中央に並んで7本ほど建てられている構造柱に対して、中央線上から外れた位置となる千鳥状に四本存在した。従って、たとえグリクシュがガス室内に入っていたとしてもこの構造柱によって金網投下装置が隠れて見えないこともあり得るので、三本と誤認した可能性もある。いずれにしても、一度しかアウシュヴィッツに訪れていない、アウシュヴィッツのガス室にはほぼ無関係なベルリンの親衛隊人事本部勤務のグリクシュに正確な記述を求める方がおかしい。


「300〜400人がこの部屋に集まった後、扉が閉められ、上から製品の入った容器が柱の中に下ろされる。容器が柱の床に着くと、ある物質が発生し、人々は1分で眠りについてしまうのである」

ドイツの文書では、第2火葬場の殺人ガス室を「gassing cellar(Vergasungskeller)」、「gas cellar(gaskeller)」と呼んでいる。

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出典
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ヴァンペルト『アウシュビッツの事例』210ページからのクローズアップ写真
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出典

殺害の過程をヘスは次のように説明している。

これで扉は素早くネジ止めされ、ガスは直ちに用意された消毒剤によってガス室の天井からダクトを伝って導入ハッチに投げ込まれ、地上に放出された。これによって、すぐにガスが放出されるようになった。ドアの覗き穴から、導入ダクトの近くにいた人たちがすぐに死んでいくのが見えた。約3分の1は即死だったといえる。他の人たちは、よろめき、叫び、息をのみ始めた。しかし、悲鳴はすぐにガラガラに変わり、数分後には全員が横になってしまった。遅くとも20分後には、もう誰も動かなくなった。天候によって、湿度が高いか乾燥しているか、寒いか暖かいか、ガスの性質によって、いつも同じとは限らない、輸送物の構成によって、多くの健康な人、老人や病気の人、子供、ガスの効果は5分から10分続いた。導入ダクトからの距離にもよるが、数分後に意識不明となった。悲鳴をあげている人、年配の人、病気の人、弱い人、子供は、健康な人や若い人より早く倒れた。

(Broszat, Kommandant in Auschwitz(アウシュヴィッツ司令官), p. 257-258(講談社学術文庫版『アウシュヴィッツ収容所』では408ページ))

証言によれば、ガス室の最大収容人数は2000〜3000人のオーダーであった。ガス室には、控室へのドアが一つしかなかった。プレサックはこの間違いを次のように説明している。

これはおそらく、Leichenkeller 2の二重扉が廊下に通じていて、Leichenkeller 1の敷居をざっと見る前にそこを通ったためであろう。

(Pressac, Technique and Operation of the Auschwitz Gas Chambers, p. 239日本語訳))

「1分間で眠らせる」というのは、殺戮方法を認めてもらうための公式の主張かもしれないが、それはガス室内の現実とは一致しない。数分後、突然静かになったというのが、外からの目撃者の証言である。

「数分後、反対側の扉が開かれ...」

ガス注入時間は、通常、全員が死んだことを確認するために20分程度と推定される。換気がオンになったが、ゾンダーコマンドの囚人たちは、この時点ですでにガスマスクをつけてガス室に入ることができたのだ。

反対側には出口のドアがなかったが、犠牲者は生きて入ってきたのと同じドアから引き出された。ある時点で、アウシュヴィッツSSは、より小規模の移送に対処しやすくするために、ガス室にドア付きの隔壁を設置したが、1943年5月の時点でそれが実施されたかどうかは疑問である。さらに、このドアがエレベーターの出口であることの説明もつかない。

ジャン・クロード・プレサックは、この誤りを次のように説明した。

これは、火葬場へ行くときに何らかの区切りがあって、やや方向を見失ったということでなければ説明できない。彼の誤りは、次のような行程を想定すれば理解できる。外から脱衣室[Leichenkeller 2]に降り、その全長を通って、一番奥の二重扉まで歩き、そこから、短い廊下、前庭に入り、そこから、ガス室[Leichenkeller 1]に数歩入り、その動作が説明された。地下から北側の階段で庭に出て、北側の入り口から火葬場の1階に入り、炉の部屋に通された。ここで、トプフの炉の素晴らしさを説いたのは、おそらく1号炉の前に立っているときだ。そして、死体リフトで地下に降り、ガス室への入り口の前(しばらく前に通った前庭がわからず、これはガス室へのもう一つのドアだと思った)にいた。彼はおそらく、死体吊り上げ機で1階に戻り、北側の正面玄関からクレマトリウムを出たのだろう。つまり、死体吊り上げ機で直接炉の部屋に上がるのではなく、北側の階段を使って地下室から出たときに、「中断」が起こったのだ。

(Pressac, Technique, p. 239(日本語訳))

「...リフトにつながる」

ガス室のドアの横にエレベーターがある建設図面。1943年3月13日、囚人の金属作業場は、火葬場2のための「適切なウィンチ、ケーブル、モーター、ガイドレールの取り付けを含む、最小積載量300kgの物品リフト1基」を完成させた

ガス室の扉の横にあるエレベーターの建設図。1943年3月13日、囚人の金属作業場は、火葬場2のための「300キロの最小積載量を持つ1つの物品リフト」を完成させた。

「資格者(ユダヤ人)により、死体の髪を切り落とし、歯を折る(金歯)。ユダヤ人は空洞の歯に宝石、金、プラチナなどを隠していることが確認されている」

ゾンダーコマンドの囚人ダヴィッド・オレールが描写した光景...

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出典:ダヴィッド・オレール、アウシュヴィッツのゾンダーコマンドの画家、1989, p. 55.

アウシュビッツの司令官ルドルフ・ヘス(Rudolf Höß)は、こう述べている。

ゾンダーコマンドは死体の金歯を抜き取り、女性の髪を切る。

(ルドルフ・ヘス、「ユダヤ人問題の最終的解決策」、ブローシャート、『アウシュヴィッツ司令官』からの引用、p. 258)

ナチスが強制収容所から一般的に人間の毛髪を収集し、使用していたことを示すドイツの文書については、こちらの投稿日本語訳)も参照して欲しい。

金歯の使用については、1942年10月8日のSS-WVHAからハインリッヒ・ヒムラーへの次の文書を参照して欲しい。

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死亡した受刑者の歯科用スクラップ金は、注文に応じて医務室に納品されます。そこで、私たち男性の歯科治療のために使用されます。ブラシュケ親衛隊上級大佐はすでに50kg以上の金塊をストックしています。これが、今後5年間の貴金属の必要量の目安です。安全面でも、活用の面でも、このためにさらに金を集めるのには適していないと考えています。強制収容所の通常の生産物から発生する歯科用スクラップ金が、信用を担保に帝国銀行に引き渡されることの確認をお願いします。

(Tuchel, Die Inspektion der Konzentrationslager, p. 151)

アウシュビッツの司令官は、歯に宝石が隠されていることを確認した。

埋められた歯の中にも、計り知れない価値を持つ宝石がある。

(Broszat, Kommandant in Auschwitz(アウシュヴィッツ司令官), p. 255)

このことは、囚人のベネディクト・カウツキーも言っていた。

服や靴の中、縫い目、靴底の間、中には歯にダイヤモンドを埋め込んでいるユダヤ人もいた。金歯や金塊の売買が盛んに行われた。彼らはすべての死体を調べ、金歯を割っていった。

(Kautsky, Teufel und Verdammte, 1946, p.96)

金歯を抜くという行為は、他の絶滅現場でもよく行われていた。

SSの悪名高い流刑部隊の指揮官オスカー・ディルレヴァンガーは、SS内部の調査官の前で、死刑判決を受けたユダヤ人を毒で殺し、その金歯を割って部下に使わせたと証言している。

私は、ユダヤ人が大量の金を口に入れていることに気づいていた。一方、私のSS隊員にとっては、歯の修理に使えるのはクルップ鋼だけであった。私は、このような誤りを正すために、ユダヤ人にストリキニーネを注射して、即死させようと考えた。

(ディルレヴァンガーからSS調査官に述べたユダヤ人毒殺事件参照)

ミンスクでは、ナチスが処刑前に金歯を抜いていたことが、ドイツの文書で裏付けられている。

SD刑務所長から白ロシア国家弁務官への書簡。

件名:ユダヤ人行動
参考:1943年5月31日付口頭報告
1943 年 4 月 13 日、元ドイツ人歯科医エルンスト・イスラエル・ティチャウアーとその妻エリサ・サラ・ ティチャウアー(ローゼンタール出身)は、SD(上級曹長リューベ)により司法刑務所に連行され た。それ以来、金の橋や王冠、印鑑は、引き渡されたドイツやロシアのユダヤ人の間で取り外されたり、ばらばらにされたりしている。これは、問題のアクションの1〜2時間おきに起こる。1943年4月13日以来、516人のドイツ人とロシア人のユダヤ人が処刑された。しかし、精密な判断の結果、金目のものは、1943年4月14日に172人、1943年4月27日に164人のユダヤ人の2回の行動でのみ取り押さえられた。ユダヤ人の約5割が金歯、ブリッジ、印鑑を持っていた。SDの上級曹長リューベは、毎回自ら立ち会い、金塊も持って行った。これは1943年4月13日まで行われなかった。

(Die Verfolgung und Ermordung der europäischen Juden durch das nationalsozialistische Deutschland(ナチス・ドイツによるヨーロッパ・ユダヤ人迫害・殺戮 ) 1933-1945, Band 8, Sowjetunion mit annektierten Gebieten II, p.615)

1943年7月20日の白ロシア治安警察・サービス司令官エドゥアルド・シュトラウフの覚書。

もう一度強調しておくが、彼らは、ただ義務を果たしただけなのに、私と部下を野蛮とサディズムで責めたてた。特別処置されるはずのユダヤ人が、専門医にきちんと金歯を抜かれたことでさえ、議論の対象となった。「このような扱いは、ドイツ人、そしてカントやゲーテのドイツにふさわしくない」と、クーべは反論している。世界におけるドイツの名声が損なわれたのなら、それは我々の責任である。それとは別に、私の部下がこの処刑で欲望を満たすことも事実だった。

(BArch NS 19/1770, p. 10)「

「この後、死体はエレベーターに乗せられ、1階へ行く」

筆者は「地上階」を「1階」と意味した。

ゾンダーコマンドの囚人ダヴィッド・オレールによって描かれた光景...

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ダヴィッド・オレール、アウシュヴィッツのゾンダーコマンドの画家、1989, p.57.

アウシュビッツの司令官ルドルフ・ヘス(Rudolf Höß)は、こう述べている。

その後、エレベーターで今熱せられたオーブンの前に運ばれてきた。

(Rudolf Höß, Die Endlösung der Judenfrage, quoted in Broszat, Kommandant in Auschwitz, p. 258)

「そこには、死体を焼くための大きな火葬炉が10基ある。」

第3火葬場の炉室(15個の炉口のうち14個が見えている)の当時の眺め。

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出典:ヤド・ヴァシェム文書館、デジタルコレクション

「火葬場の炉」の数の数字的な間違い。火葬場2、3には5つの炉があり、それぞれ3つのマッフルで15炉のマッフルを構成していた。

アウシュビッツの研究者ジャン・クロード・プレサックは、この誤りを次のように説明している日本語訳)。

フランケ・グリクシュは、おそらく炉室全体を回ったのではなく、西側の入り口から1号炉の前に立って、説明を聞いたのだろう。10という数字は、クレマトリエンIIとIIIを合わせた能力(3つのマッフル炉10基)の合計である可能性もある。

あるいは、フランケ・グリクシュは「二重マッフル」(註:クレマトリウムⅡまたはⅢの火葬炉は三重マッフル炉である)のオーブンを5台と覚えていたのかもしれない(ヘスは戦後の尋問で同じミスを犯している)。

「新鮮な死体は特によく燃えるので、全工程で必要なコークスは1/2〜1ゼントナー程度である」

ガス室から出されたばかりの死体はまだ温かく、死体安置所に保管されている古い死体よりも確かに燃料は少なくてすむ。

1941年11月4日、オーブン製造業者のトプフ&ゾーネは、アウシュビッツ建設管理部に、「凍った死体は火葬に回されると、より多くの燃料を必要とする」と説明した。

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出典:Schüle, Industrie und Holocaust, p. 436.

「全工程」で25〜50kgのコークスという数字の意味が不明である。この量はすべてのオーブンに対して少なすぎるように思われる。一つの死体に対して高すぎるように思われる。この数字は、複数の死体の積載あたりのコークスの総量を表しているのかもしれない(多くのエネルギーを必要とするオーブンの最初の予熱を考慮せずに)。


■翻訳者による補足:
アウシュビッツ収容所のゾンダーコマンドとして有名なヘンリク・タウバーは以下のような供述を行なっている。

やせ細っていて脂肪のない「ムゼルマン」の死体は、側面のレトルトでは燃焼が早く、中央のレトルトでは燃焼が遅くなっていました。 一方、輸送列車から直接ガス室に送られた人たちの死体は、それ故にやせていないので、中央のレトルトの方がよく焼けた。そのような死体を燃やしながら、炉の中で火をつけるためだけにコークスを使っていました。脂肪のついた死体が勝手に燃えたのは、体内の脂肪が燃焼したおかげです。

ヘンリク・タウバーの宣誓供述より

トプフ・ウント・ゼーネ社の火葬炉技術者であったクルト・プリュファーが中心になって開発したビルケナウで用いられた火葬炉の運用における技術的詳細は少々分かり難い。何故ならどうやら、死体そのものの燃焼も燃焼エネルギーとして有効活用されていたようだからである。一般的な民生用火葬炉は、死体を一体ずつしか炉の中で焼かない。遺骨を遺族に返却しなければならないからであるが、ナチスの強制収容所で行われた火葬は、複数の遺体を同時に連続して炉内に装填して焼却していく方法が取られた。この場合、炉内にあるそれらの遺体の燃焼エネルギー自体も遺体を燃焼させるエネルギーとなる。おそらく、遺体の脂肪分はよく燃えたはずで、「脂肪のない「ムゼルマン」」すなわち、日々の強制労働と貧しい食生活で痩せ衰えた囚人よりは、それよりは太っていて脂肪分の多い輸送されてきたばかりですぐガス室送りになる運命の「労働不適格者」はよく燃えたのであろう。つまりこの送られてきたばかりの労働不適格者のガス処刑遺体を「新鮮な遺体」とグリクシュは記述しているように思われる。グリクシュレポートは「再定住行動」、すなわちユダヤ人の絶滅についての報告なのだから、「新鮮な遺体」の意味は、元記事の著者が言うようなガス処刑直後の遺体と解釈するよりは、労働不適格者のガス処刑遺体と解釈する方がより自然だと思われる。


「作業自体はこの収容所から出ることのないユダヤ人囚人によって行われている」

アウシュビッツの司令官ルドルフ・ヘス。

「絶滅の作業はすべて、ユダヤ人のゾンダーコマンドが行った。」

「同様に不思議だったのは、ゾンダーコマンド部隊の行動全体だ。彼らは皆、この行動が終われば、自分たちが(虐殺するのを)散々助けた何千人もの人種的同胞と同じ運命をたどることをよく知っていた。」

(1st quote from his manuscript the Final Solution of the Jewish Question, Auschwitz trial DVD; 2nd quote from his "autobiography" in Broszat, Kommandant in Auschwitz, p. 195)

約1000名のユダヤ人ゾンダーコマンドの囚人の大半は、アウシュヴィッツで実際に処刑され、収容所最後の数週間のアウシュヴィッツSSのためらいのある行動のために、約100名のSKだけが生き残ることができた(Friedler, Zeugen aus der Todeszone, p.307).

死の運命にあるGeheimnisträger(秘密を運ぶ者)として、ゾンダーコマンドの囚人は、収容所の他の囚人とは、宿舎(ブロック内または火葬場)の面でも外見の面でも区別されていたのである。普通のアウシュヴィッツの囚人は青/灰色の縞模様の制服を着ていたが(いわゆるカナダ・コマンドのように、追放されたユダヤ人から略奪したものを選別していた囚人のような例外はある)、ユダヤ人ゾンダーコマンドは暗いズボンに明るいシャツを着ていたことは、1944年夏に密かに撮影されたゾンダーコマンドの写真から明らかである。

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1944年10月7日のアウシュヴィッツの地元警察署からの報告には、「アウシュヴィッツⅡ強制収容所からゾンダーコマンド(火葬場)から囚人が逃亡、ほとんどがユダヤ人...左前腕に刺青のある、刈り上げ。服装は一部赤のストライプの入った私服」という特徴がある。

「この「再定住行動」の今日までの結果。50万人のユダヤ人」

フランシスチェク・ピーパーの「資料と調査結果に基づくアウシュビッツの犠牲者数 1945-1990のデータ」によると、50万人の「再定住」ユダヤ人は、1943年5月までには約33万人のユダヤ人がアウシュヴィッツに移送されていただけなので、この数字は誇張されている。

興味深いことに、同じ頃、政治部で得た情報に基づくとされる50万人の殺されたユダヤ人という数字が囚人の間で流布された。アウシュビッツの脱走囚アルフレッド・ヴェッツラーとルドルフ・ヴルバは、1944年4月にこう報告している。

年(1943年)の初め、アウシュヴィッツの政治部には50万人がリリースされたとの書類が届きましたが...ガス処刑された人々のデータが記入され、アーカイブに保存されたのです。

(Die Verfolgung und Ermordung der europäischen Juden durch das nationalsozialistische Deutschland 1933–1945, Band 16, document 108, p. 371)

この数字は、ナチスの通信社Internationales Institut für die Aufklärung über die Judenfrage(ユダヤ人問題国際啓発研究所)がポーランドのユダヤ人に関する外国のニュースを監視していた秘密レポートにも登場する。

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50万人という数字は、当時のアウシュビッツSSが流布した誇張された数字のようである(おそらく、保管が許されなかった実際の記録ではなく、稼働時間、収容人数、推定輸送人員に基づいているのだろう)。アウシュヴィッツSS管理部は、(登録された)収容者については責任を負うが、収容所の帳簿に登録されずにすぐにガス室に送られた収容者については責任を負わないので、正確な数字を知る必要はなかったのである。

もう一つの点:アウシュヴィッツ司令官ルドルフ・ヘスは、ラインハルト作戦収容所のトレブリンカ、ベルゼク、ソビボルの死者数の報告に追いつくために、アウシュヴィッツの死者数を自慢したくなったのかもしれない。

ヘスは、戦後の『ユダヤ人問題の最終的解決』に関する原稿の中で、アウシュヴィッツへのユダヤ人強制送還について、多かれ少なかれまともな集計をおこなっている。彼によると、この数字を知ったのは「アイヒマンか彼のスタッフから」であり、1944年でなければありえないことである。

1943年5月までの死者数が50万人というのは、戦後の偽造にしてはあまりに少なく、戦後はもっと高い数字が飛び交っている。ソ連はアウシュビッツで約400万人の死者が出たと主張している。アウシュビッツ逃亡者のルドルフ・ヴルバとアルフレッド・ヴェッツラーは、「1942年4月から1944年4月」の間に176万5千人のユダヤ人がアウシュビッツでガス処刑されたと報告している

「「再定住行動」炉の現在の能力:24時間で一万体」

アウシュビッツの司令官ルドルフ・ヘスによると、火葬場の最大火葬能力は次のとおりであった。

すでに述べた通り、第1火葬場と第2火葬場は24時間以内に約2,000体を焼却することができたが、それ以上は損害を与えずに焼却することは不可能であった。IIIとIVの施設は24時間以内に1500体を燃やすことができるはずだったが、私の知る限り、この数字に達したことはない。

(Rudolf Höß, Die Endlösung der Judenfrage, quoted in Broszat, Kommandant in Auschwitz, p. 259(講談社学術文庫版の『アウシュヴィッツ収容所』では409ページ))

火葬場(完成またはほぼ完成)に加えて、ブンカー2絶滅現場(元農家を殺人ガス室と野外火葬塹壕に改造)が当時はまだ存在していた。ヘスの計算では、この場所は一日あたり3,000人の犠牲者を出すことができた。こうして、収容所の司令官は1日最大1万人の収容人数を迎えることができた。

あるいは、ニュルンベルク刑務所の心理学者グスタフ・ギルバートに対する彼の言葉である。

「ビルケナウには5つの施設がありました。2つの大きな火葬場があり、それぞれ24時間に2,000人を収容することができました。つまり、1つのガス室で最大2,500人を殺すことが可能でした。コークスで加熱した5つのダブルオーブンで、24時間以内に最大で2,000体を焼くことができたのです。2つの小さな設備にそれぞれに大きなダブルオーブンを4台ずつ設置することができたので、約1,500人を処理できました。さらに、古い農家を密閉してガス室とし、1,500人を同時に収容できる野外設備もありました。そこで、露天掘りの薪で焼却していたのですが、これは実質的に無限でした。私の予想では、24時間で最大8,000人をこの方法で焼くことが可能でした。そのため、上記のような設備では、24時間以内に1万人を駆逐することが可能でした。私の知る限り、この数字は1944年に一度だけ、列車の到着が遅れたため、一日に5回の輸送が一緒に到着したことがあります」

毎日1万人の殺傷能力を持つというのが、訪問したSS指導者に対する彼の標準的な数字だったようだ。アドルフ・アイヒマンにも同じように伝えた(ただし、アイヒマンはここでの発言に不安を抱いていた)。

アウシュビッツで、私はもう一度これらの設備を見なければなりませんでした。私はこのことをヘスに告げ、その結果、彼はオフロードカーを注文しました。私たちはオフロードカーに乗って、ある地域を通り抜けました--私はアウシュビッツでの道を知りませんでした。そこは、本部から遠く離れた地区でした。私は仕事で何度かそこに行ったことがありましたが、本部、正面玄関の近くだけで、それ以上中に入ったことはありませんでした--私もそんな気は全くありませんでした--そして、大きな建物、大きな建物、これはすでに工場の装いでした、巨大な煙突、そしてヘスが私に言いました。「そうだ、ここには1万人の収容能力がある-そう1万人だ」と。

ビルケナウの火葬場は、民間の火葬場よりはるかに高い火葬率を達成した。これは、複数回の火葬、火葬サイクルの重複、焚き付け道具による炭化した死体の解体、不完全な火葬という手法によって可能になった。

1941年に第2火葬場が計画されたとき、トプフ社は1日あたり1440体の成人男性の死体を収容できると見積もった(当時ビルケナウは捕虜収容所として建設されていた)。この図は、1943年6月28日のアウシュビッツ中央建設事務所からSS-WVHAへの手紙のよく知られた草稿の中に入っている。

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出典:Schüle, Industrie und Holocaust, p. 460.

子供の割合が多いことを考えると、アウシュビッツのSSはガス処刑の犠牲者を1日2000体として計算することは容易であった。

付録D:フランケ・グリクシュ報告書とホロコースト否定派

フランケ・グリクシュ報告書は、ホロコースト否定論者が信じている事実上のすべてに異議を唱えている。この報告書は、ユダヤ人の大量殺戮、その意図、手段、範囲について明らかにしている。これはホロコースト否定を終わらせる最も手っ取り早い方法なのだ。したがって、この文書は、否定派の基本原則の一つに従って破棄されなければならない。「偽造されたものでなければ、われわれは逮捕されるのだ!」という否定派の基本原則に従って、この文書を破棄しなければならないのである。

Vincent Reynouard, video clip Ce SS qui, en 1943, aurait décrit l'extermination des Juifs

反論:
Vincent Reynouard And The Franke-Gricksch Report (Part 1)
Vincent Reynouard And The Franke-Gricksch Report (Part 2)
Vincent Reynouard And The Franke-Gricksch Report (Part 3)

マイク・ペイノビッチ、ツイッターで

反論:

Irregular Musings on the Unicellular Denial. #3 . Chris Crookes and Mike Peinovich.

註:以上二種については、以下の記事に翻訳をまとめています。

https://note.com/ms2400/n/na28165cf2439

ブライアン・レンク、フランケ・グリクシュ「再定住措置報告書」。捏造の解剖学

レンクはホロコースト否定論者としては何年も活動しておらず、最新の出版物は2001年のものである。

この報告書の原本のカーボンコピーがSS将校の経歴ファイルの中から「発見された」という証拠はない。また、このとらえどころのない「カーボンコピー」が国立公文書館にあるという証拠も、そのような文書がかつて存在したという証拠もない。この報告書の唯一のバージョンは、行方不明の報告書からの抜粋とされるリップマンのタイプスクリプトの「コピー」しか存在しないと思われる。

そのカーボンコピーが見つかったので、この記事に転載する。

1日1万人という「定員」について。

しかし、彼(プレサック)は、なぜSSの内部機密報告書にプロパガンダの虚偽があるのか説明していない。

この数字は、ヘスのようなナチスの粗雑な仮定で推定できるという事実を別にしても(付録C参照)、もしレンクが、あるSS将校が他の将校に対して自慢する理由を本当に理解していないのであれば、歴史文書を「分析」するよりも他のことをする方が、彼の知的能力に合っているのではないかと自問すべきなのである。

プレサックは、「再定住行動」報告による50万人のユダヤ人が1943年5月までにすでに殺されていたという主張が事実でないことを認めている。彼は、本当の数字は「おそらく20万から25万のあいだのどこか」であると根拠もなく主張している。プレサックは、なぜ、殺人者がその悲惨な犠牲者を少なくとも2倍に誇張しようとしたのか、説得力のある説明ができていない。

こちらも同じ。なお、ヘスは、大量絶滅の事業を、自分と他の絶滅収容所の司令官との間の競争のようなものと考えていたようである。この数字は、記録をつけることが許されていなかったことが知られているので、大雑把に見積もった可能性もある。

たとえば、プレサックは、ユダヤ人「ゾンダーコマンド」隊員が、殺害後「数分」しか経っていないのに、残留毒蒸気の犠牲になることなく、「ガス室」から死体を運ぶという恐ろしい仕事を始めることができたのかについて説明しようともしていない。

原語は「einige」であり、不定量ではあるが、manyよりは少ない量である。その大きさは、話し手がどのような「基準」を持っているかにもよる。時間のない人にとっては、すでに5分が「einige」かもしれない。時間の尺度で考えている人にとっては、同じ言葉で30分を表すことができる。


■翻訳者による注釈:
ここで言っているのは、グリクシュ報告書の原文の当該箇所がこうだからである。

"Sowie diese Behälter den Boden der Säule berühren, entwickeln sie bestimmte Stoffe, die in einer Minute die Menschen einschläfern. Einige Minuten später öffnet sich an der anderen Seite eine Tür, die zu einem Fahrstuhl führt. Die Haare der Leichen werden geschnitt[en] und von besonderen Fachleuten (Juden) die Zähne ausgebrochen (Goldzähne)."

これを訳すと、「数分」でゾンダーコマンドの作業が始まるという意味になるのだが、 ドイツ語の「Einige Minuten」は例えばGoogle翻訳で英訳すると「A few minutes」になりこれは日本語では「数分」となってしまう。しかし、「Einige Minuten」の「Einige」というドイツ語は、「いくつかの」という意味を表す不定代名詞であり、英単語の「few」が意味する「少しの」とはやや異なる。例えば、

Einige Zeit lebte er in Frankreich, dann ging er nach Italien.

の日本語訳は、

「彼はしばらくフランスに住んだあと、イタリアに行きました。」

となる。従って「Einige Minuten」は必ずしも「A few minutes」を意味しない。


ガス処刑の時間は20分程度(換気なし)であり、ユダヤ人のゾンダーコマンドの囚人はガスマスクをつけてガス室に入ることができた。フランケ・グリクシュが「einige Minuten」でそのような時間を意味していたことは確かであり、特に、彼がもっと長い時間を予想していたのであれば、その可能性はある。

致死物質(おそらくはチクロン)が空洞の柱を通して部屋に降ろされた、あるいは落とされたという『再定住行動』報告(およびさまざまな「目撃者」)の主張とは逆に、この部屋の現存する遺跡(Leichenkeller I)を訪れれば、そこの柱が中空ではなく、強固な鉄筋コンクリートでできていることが容易に確認できる。

今のレンクは本当にバカになってる(というか、前よりもっと)。「柱」または「コラム」は、ガス室の屋根から床まで続くよく知られた金網の柱にほかならない。ドイツの文献には、「ワイヤーメッシュ・スライドイン装置」、「吊り下げ装置」、「アングルアイアンガイド」、「ワイヤーメッシュで囲まれたゲージレールの骨組み」として記載されている。第2火葬場跡では、ガス室の屋根に対応する穴の存在を容易に確認することができる。


■翻訳者による補足:
著者は「ガス室の屋根に対応する穴の存在を容易に確認することができる」と書いているが、以下記事によるとそんなに容易ではないと思われる。チクロン投下穴とは無関係の穴も戦後に開けられているようでもあり、それを捏造された穴と主張している否定派も存在するので、それと混同する恐れがあるので、そのように書くべきではないと思う。


アウシュヴィッツに関するマットーニョの反論、第2部:火葬場でのガス導入」日本語訳)も参照のこと。

さらに、プレサックはこの文書にある「新鮮な死体は特によく燃える」という愚かな主張について何の説明もしていない。

新鮮な死体は、冷たい死体とは違って、特によく燃えることを知っていたからだろうか。


■翻訳者による注釈:
「新鮮な死体」については付録Cに追記した通りである。余談であるが、ネットの否定派には、死体は水分を多く含むためそんなに簡単に燃えるはずがない(ので簡単に燃えるかのような記述は嘘である証拠だ)、と頑なに主張し続ける人もいる。しかし、「燃え尽きる」のと単に「燃焼状態になる」のとはまるで意味が異なる。死体が炉内で表面から水分を徐々に失い、その水分を失った箇所から燃焼状態に徐々に変わっていく、といった順序を全く理解していないのである。あるいは脂肪分の多い死体は、その脂肪分から燃え始めるかもしれないが、脂肪分から燃え始めたからといって、死体に含まれる水分が消え去ったわけではない。死体内から水分が全て消失しないと燃焼状態にならない、なんてわけはない。確かに、水分を残して燃え尽きることはないが、水分の蒸発と同時に(水分がなくなった部位から)燃焼し続けるのが実際の死体の燃焼状態なのである。


また、報告書の「この目的のために特別に用意された収容所の区域への特別な線路」についての言及を説明しようともしていない。これは、アウシュヴィッツ(ウィーン-クラクフ)の主要鉄道路線からビルケナウ収容所への鉄道分岐路を指しているとしか思えない。実際、このビルケナウの鉄道の支線の工事は1944年1月まで始まらなかった[12]。

AFGは、ビルケナウのすぐ東にある特別輸送列車のための特別線を指していた可能性がある。

この手紙の中で、レンクは次のようにも書いている。

今日に至るまで、アルフレッド・フランケ・グリクシュ、あるいはアルフレッド・フランケの名前と署名が入った1943年のドイツ語報告書の原本は提示されていない。エッケハルトの話が本当なら、戦時中の文書にはすべて「フランケ」という名前がついているはずである。

我々がここでアルフレッド・フランケ・グリックシュについてのホロコースト否定派の「専門家」 を扱っているということは、多くの戦時中の文書が 「フランケ」 という名前を持たず、実際にはその人物がアルフレッド・フランケ・グリックシュという名前を持っているという事実から明らかになる (少なくとも1999年以降、ここここでオンラインで入手できるような) 。また、この文書 (BArch R 9361-III/524709) から明らかなように、彼の署名は当時 「Frank-Gricksch」 となっていた。

画像59

次:カルロ・マットーニョ『アウシュビッツの真のケース』225-228頁。

彼(プレサック)のすべての推論は、問題の文書が本物であるという仮定に基づいているが、その証拠はない。したがって、彼の分析は、文書自体の真実性、ひいては真正性を確認するのではなく、単に「レポート」の「間違い」を説明することを目的としている。つまり、これから調べようとすることを先取りしているのである。

さて、ゆっくりと考えてみよう。これはソースだ。SSの指導者のメモのようなものだ。アウシュビッツでのユダヤ人の大量虐殺に関するものである。

真偽のほどは(当時、つまり1989年にプレサックが入手した証拠で)簡単に確認することができる。

  • その文書は、当時確かに行われた、誰かのアウシュビッツへの旅についてのものだ。チェック。

  • 加害者の視点から出来事を再現している。チェック。

  • その文書には、部外者の間で噂として流れていた内容をはるかに超える、多数の詳細な大量殺戮の様子が記されている。チェック。

一部、不正確または誤っている記載がある。さて、肝心の問題だ。出典が本物であると仮定して、その間違いを説明することは可能か? 「はい」の場合:チェック。そうでない場合は、そのソースが本物でないことを示しているのかもしれない。

したがって、プレサックが報告書の誤りを説明する運動は、「真偽を確認する」ことを避けているのではなく、その真逆である。その真偽を確認するための不可欠なプロセスなのである。

もちろん、マットーニョはこのことを理解することを決して許さないであろう。なぜなら、ナチスの残虐行為に関するどんな資料でも、それが不正確、不確実、矛盾していると考えるものを含んでいれば、それを退けることができるというのが、彼のホロコースト否定の中心的支柱であるからである。もっともらしい説明を提供するだけで、この揺らぐ否定の柱は倒されるのである。

プレサック側のもう一つの重大な誤りは、資料中の誤った数字を、あるときはフランケ・グリクシュのSSガイドに、あるときはフランケ・グリクシュ自身に帰することを試みていることである。

話し手と聞き手のどちらからでも「誤った数値」が発生することは、「誤り」ではなく、事実としてあるのだが。

しかし、不思議なことに「報告書」には、部屋の天井を支えている7本のコンクリート柱については触れられていない。

地下のコンクリートの柱は、ガス室としての機能とは無関係な特徴である。SSの訪問者が報告書に記すことのないものの一つである。

ユダヤ人の絶滅を記述する際に、ガイドが物事を正式名称で呼ばないというのは全く信じられないことだ。例えば、文書では「家」として言及している火葬場という施設の名前そのものを削除している。

マットーニョを「テキスト分析と批評の専門家」と評した人は、彼の二十冊の「ホロコースト・ハンドブック」をすべて読む罰を受けるべきだ(冗談だ、それはあまりにも残酷なことだ)。しかし、「不適格者は大きな家に行く」というような些細な文章の簡単な「文章分析」すらできない人がこれを読むと、皮肉なものである。

AFGが火葬場を「大きな家」と表現したからといって、ツアーガイドが火葬場であることを伝えなかったとは限らない。マットーニョはこれをでっち上げただけだ。

おそらく、ツアーガイドが建物を「家」と紹介し、炉の部屋で初めて火葬場であることを明らかにしたのだろう。もしかしたら、ガイドがこんなことを言ったのかもしれない。「これから入る建物は大きな家のように見えますが、実は火葬場なんです」。あるいはまた、ガイドは何も言わなかったのかもしれない。もちろん、SSの訪問者は、遅くとも、炉の部屋を見たときには、自分が火葬場の中にいることを認識していなければならなかった。彼がその情報をいつ得たのか、正確にはわからない。

しかし、はっきりしているのは、報告書の著者がこの言葉を使いたがらず、「大きな家」と表現することにしたことである。動機は? この報告書は、犠牲者にとっても、また暗黙のうちに加害者にとっても、最も肯定的な方法で大量絶滅を記述している。火葬場を「大きな家」と呼ぶのは、犠牲者が外から見て、本当に屠殺場へ導かれていることに気づかないことを強調するためかもしれない。

この「報告書」によると、殺戮は「ある種の薬剤」または「1分以内に人々を眠りにつかせる特定の物質」によって行われ、「物質の入った容器が柱の中に下ろされる」と言い、チクロンBさえも言及されていないのである。

AFGは報告書の中で正確な殺傷剤について言及する義務はなかった。ナチスのガス室でのチクロンBによる死が非常に恐ろしいものであることを考えると、彼は、意図的に、殺傷剤に言及することを制限したのかもしれない。

さらに、報告書に示されている詳細な知識を持つ偽造者と思われる者は、アウシュビッツでチクロンB/シアン化水素が使用されたと言われていることをAFGよりもよく知っていたはずである。

ナチスがアウシュビッツで「チクロン」およびシアン化物を使っていたことは、戦後、いや、戦時中からすでに人々は知っていた。たとえば、殺戮剤については、アルフレッド・ヴェッツラーとルドルフ・ヴルバの逃亡報告ですでに言及されている(「この内容物の容器には、『害虫駆除用シクロン』という銘とハンブルクの工場の銘板が掲げられている」。これらの容器には、証明されたように、ある温度でガスに変わるシアン化合物の調合液が入っていた」)。したがって、チクロンBについての言及がないことは、この報告書の信憑性を否定する証拠ではなく、むしろ、一度だけSSを訪れた人物が執筆したことを裏付けるものである。

しかし、この説明には、「中断」の記述はない。

D'oh!(註:アメリカ合衆国のテレビアニメ『ザ・シンプソンズ』の主人公、ホーマー・シンプソンの有名なキャッチフレーズ)。これは、ガイドツアーで集めた印象などをもとに、大量殺戮の過程を説明したもので、このツアーの内容をポイントごとに説明したものではない。

フランケ・グリクシュは、Leichenkeller 1の配置と向きを知っていたはずであることを考慮に入れるまでもなく--Leichenkeller 1の上部が地面から出ているのが見える外の庭からLeichenkeller 2に入ったから、あるいは、「報告」の中で「地下の外側から、上から」導入された「睡眠」剤の導入柱が述べられているからであろう。だから、フランケ・グリクシュは、壁と土しかないあの部屋の一番奥に、もう一つドアがあるなんて想像もしなかったはずだ。

フランケ・グリクシュは、脱衣室に入り、地下室に入っただけで、ガス室の奥には「壁と土しかない」ことを知る必要はなかった。

ガス室が脱衣室の階段から見えたかどうかも不明であり(あるいは、土手や植え込みで覆い隠されていた)、AFGが約60m離れたところにある半地下に注意を払ったかどうかはさらに不明であり、彼がちらっと見ただけのその構造を、後にガス室として見せられた同じ地下室と認識したかどうかはまったく不明である。

なぜなら、もしフランケ・グリクシュが最初のオーブンの近くに立ったとき、最も遠くにあるオーブンの一つまたはいくつかを見ていなければ、オーブンについては5より少ない数、マッフルについては3の倍数、例えば9または12(それぞれのオーブンに3つのマッフルがあったため)、しかし確実に10ではない、という説明が意味をなさないからである。

AFGがマッフルを3つではなく2つと記憶違いしていなければ。

この間違いは珍しいことではないだろう。AFGよりもはるかに多く炉室を目撃していたオットー・モルとルドルフ・ヘスの二人は、尋問の中で、炉の数を間違って伝えている。ヘスはモルの12基の炉の数字を間違えて「訂正」さえした(「モルは炉について引用した数字に関して若干の誤りがある。2つの大きなユニットはそれぞれ5つの複式炉で構成され、他のユニットはそれぞれ4つの複式炉で構成されていました」)。もし、この二人が火葬場の炉の正確な数と構成について間違うことがあるならば、一度だけ、短期間訪れたAFGも間違いなくそうであろう。

クレマトリウムⅡの炉の火葬能力(24時間で1万体の死体)については、プレサックは、収容所SSによる宣伝的な誇張と呼んでいるものに立ち戻っている。

マットーニョなら少しは諸事情に明るいので、まさか彼が火葬場2に単独で1万人の火葬能力を主張するとは思いもよらなかった。目撃者によって報告された絶滅能力を考慮すると、この数字はビルケナウのすべての絶滅施設の合計としてしか理解できない。マットーニョはこのことを知っているので、ここでは、悪意のある欠陥のある推論を扱っているのである。

この年代的な不可能性は、「報告書」の重大な誤りや、「クレマトリウム」や「チクロンB」といった基本的な用語の驚くべき無知とともに、それが元収容者の証言を使ったでっち上げであることをはっきりと示しており、プロパガンダの努力さえも裏切っているのである。

なぜ、マットーニョは、どの「元抑留者の証言」が「報告書の捏造」に使われたかをあえて示さないのだろうか。

ナチスによって労働不適格とみなされ、アウシュヴィッツ(あるいはその他の絶滅施設)に送られた何十万人ものユダヤ人にいったい何が起こったのかをあえて示そうとしないのも、おそらく同じ理由なのだろうか。彼はそれを伝えることができないからだろうか?

また、その顕著な例として、こんな文章がある。「ユダヤ人は歯に宝石、金、プラチナなどを隠していることが分かってきた。」

このセクションは引用で終わっていて、マットーニョは、ユダヤ人の犠牲者が歯のくぼみに-非常に小さな-宝石を隠していたという記述のどこが問題なのかを明らかにしていない。

実際、アウシュビッツの司令官が自伝で同じことを書いていることから、この報告書は、ルドルフ・ヘスをツアーガイドとして、本当にフランケ・グリクシュが作成したものであることが、顕著な証拠となる。

「埋めた歯の中にも、計り知れない価値を持つ宝石がある」

(ブローシャート、『アウシュヴィッツ司令官』、p. 255)

▲翻訳終了▲

以上、付録箇所も含めて、Holocaust Controversiesブログサイトによるフランケ・グリクシュの『再定住行動』報告書に関する記事を全訳しました。しかし、この報告書原本発見のニュースは、ホロコースト研究の世界でもおそらく聞かれることはない話だと思います。何故ならば、グリクシュのこの報告書には特に真新しい記述があるわけではないし、何十年も前に発見されていた米軍将校によるタイプコピー版と何ら変わりがないからでしょう。もちろん、主流の研究家たちが「やはりガス室は本当だった!証拠はあった!」と喜ぶわけもありません。当たり前だからです。

否定派は、いつもと同じように、内容の細かな「誤り」を指摘して、内容が正確でないから捏造に違いない、と主張するだけでした。アウシュヴィッツ収容所をたった一度しか訪問しておらず、ベルリンの親衛隊人事本部勤務でアウシュヴィッツ収容所のことなどよく知らないフランケ・グリクシュに、正確で誤りのない記述を求めること自体、無茶苦茶な要求です。

肝心なことはそこではなく、たとえ階段のステップ数や金網投下装置の本数、炉の数などを間違って記述していたとしても、地下への階段があり、金網投下装置というほんとに関係者しか知らない毒ガス投入装置のことが記述されていて、またユダヤ人の処刑の様子をほぼ誤りなく記述していることに価値があるのです。否定派が不審に考える「新鮮な遺体はよく燃える」もそうです。ヘンリク・タウバーなどは同様の趣旨のことを証言していて、そのようなことは関係者しか知らないのです。

その上で、発見された原本カーボンコピーを詳しく検証すると、タイプライターのフォント形状(フォントの欠落部分)が当時書かれていた他の文書の形状と一致しているという証拠があり、否定派以外の人にとっては、何も不自然な点がないのです。

ホロコーストについての肯定的な証言は全て嘘である、とする否定派の主張が荒唐無稽であるのと同じように、ここまで不自然さのないグリクシュ報告書が捏造であるというのは、荒唐無稽にも程があるとしか言いようがありません。

否定派の立てるストーリーを憶測するとするならば次のようになります。フランケ・グリクシュという親衛隊の人物が1943年5月にアウシュヴィッツを訪問している報告書があったので、それを見て連合国の資料偽造担当者がガス室存在の捏造文書を作成しようと思い立ち、わざわざ当時使われていたであろうタイプライターを親衛隊本部か何処かから調達し、詳しく調べられても偽物でないようにしか見えないように精巧に捏造した、と。

ならば何故否定派が指摘するような内容の誤りがたくさんあるのでしょうか? しかもこの報告書はニュルンベルク裁判をはじめとした戦後裁判では使われず、人知れず、ドイツ連邦公文書館に保存されていただけです。否定派のストーリーはまるで理に適っていません。個人的には、グリクシュ報告書の捏造などという瑣末でかつ面倒なことをせず、ヒトラーの命令書とやらを偽造すればいいだけの話だと思います。 

結局のところ、このフランケ・グリクシュの報告書で判明するのは、ホロコースト否定派はただ単純に無茶苦茶なことを主張しているだけである、実際のところはそれだけの話だったりするのです。


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