見出し画像

クレマトリウムⅡのチクロン導入穴の発見と、主収容所のクレマトリウムⅠのチクロン導入穴。

アウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所のガス室で使われた毒ガスが、チクロンBと呼ぶ害虫駆除剤から発生する青酸ガスであったことはよく知られています。

第二次世界大戦後以降、わりと大きな誤解として、この毒ガスがシャワーを通じて部屋に導入されたものと思われていたことがあります。たとえば以下のようなイメージかと思います。

プレサック『アウシュヴィッツ:ガス室の技術と操作』p562より。プレサック本によると、明確には書いていないが、これはナッツバイラー収容所にあるシャワー室の写真らしい。

シャワーから毒ガスが出てくる、とは戦時中の噂としても流布していたようですが、シャワー配管(のようなもの)を使ったのは、安楽死作戦(T4作戦)であり、流された毒ガスは一酸化炭素ガスでした。

しかし、アウシュヴィッツで用いられた方法はそうではありませんでした。害虫駆除剤のチクロンBは、缶詰に入れられて供給されていました。

この砂利のような物質は、硫酸カルシウムだそうで、石膏の主成分だそうです。化学式はCaSO4です。日本語Wikipedia(2022.8現在)を見ると、「ペレットやファイバー・ディスク、珪藻土などの吸着剤」などと書いてありますが、ペレットやファイバーディスクは材質ではなく構造を示す用語であるのに、珪藻土は物質の名称で、ちょっと意味不明な文章になっていたようです。ともかく、化学分析した人がそう言っているので、まちがいなく石膏のようです。

その石膏の砂利みたいなのに、青酸を染み込ませてあり、缶を開けるとその青酸が蒸発するという仕組みです。沸点は摂氏26度くらいですが、アルコールみたいなものでして、沸点以下でも盛んに蒸発します。氷点下18度くらいまで実験したデータがあり、蒸発速度は遅くなりますが、それでも結構蒸発してきます。

これをどうやって使うかというと、害虫駆除作業の場合は、対象室内の各所に撒いておくわけです。砂利状のものではなくディスク状のものを用いた作業風景の写真があります。

こうやって各所に撒いておいて、対象害虫・害獣、あるいは気象条件等によるもの数時間から1日くらい放置しておくわけです。当時の対象害虫のほとんどはおそらく疫病を媒介するシラミだったと思われますが、シラミの場合は青酸ガスの空気中濃度が5000ppmで2時間の接触時間が必要だったそうで、満遍なく部屋中に行き渡らせる時間などを考慮して実際にはもっと長かったようです。

しかし、殺人ガス室でのチクロンBの使用方法は害虫駆除とは異なります。まさか、犠牲者をガス室に詰め込んだ後で、チクロンBを写真のようにばら撒きに行けるわけありません。青酸ガスに対する人間への毒性はシラミよりはるかに強いので、チクロンBを室内でばら撒いている最中に犠牲者は次々とぶっ倒れて阿鼻叫喚、作業員の安全は確保できないでしょう。ですから、犠牲者をガス室に詰め込んで、ガス気密ドアを閉めた後、外からチクロンBの砂利をぶち込むのです。

この映画の動画でそのガス投入作業が再現されています。ブンカー1や2、クレマトリウムⅣやⅤのガス室では、これとはやや違い、壁の上部にあるシャッターを開けてチクロンを導入していたとされます。ちなみにこの映画「パサジェルカ」は未完(完成前に監督が交通事故で死んでしまったので知人がまとめたもの)のポーランドの映画ですが、この映画のこのシーンはそこそこ正確にチクロン投入作業を再現していると思われます。缶開けに使っている道具は本物そっくりなのだそうで、つけているガスマスクも実際に使っていたであろうGM38と呼ばれるもののようです。

で、やっと本題です。クレマトリウムⅠ、Ⅱ、Ⅲのガス室では、動画のように天井からチクロンBをガス室に投入したのです。ということは、それらのガス室の天井にはチクロンB投入用の穴がなければなりません。したがって、現在もアウシュヴィッツ・ビルケナウ博物館にあるそれらの遺跡の天井に、チクロン投入口が存在したらかなり完全な証拠なので、ガス室論争は一件落着もあり得たはずでした。ところが・・・

  • クレマトリウムⅠの場合、現在もアウシュヴィッツ博物館で公開されているガス室であるが、このガス室は戦後に再現された(戦時中に一旦防空壕になっていた)ものであり、今空いている天井の穴はその再現工事の時に開けられたものであり、ガス室当時からずっと空いていたものではない。再現工事関係者の一人は、戦時中に塞がれていた位置が天井にくっきりその跡が残っていたので、その位置の通りに開けただけだ、の趣旨の証言をしているが、否定派に証言は信用されない。

  • クレマトリウムⅡ、Ⅲの場合、親衛隊が撤収時にダイナマイトで破壊してしまったので、無茶苦茶に壊れていて、一眼見たくらいではどこに穴の残骸が残っているのか見当もつかない状態になっている。特にⅢは瓦礫自体が近隣住民にかなり盗まれているようで、発見はほぼ不可能。

で、「No holes?, No Holocaust!」(穴なし、ホロコーストなし)のような修正主義者の標語まで生まれてしまったのでした。しかし、実際には本当によく調べなければわからない状態なのです。あるいはまた、クレマトリウムⅠの場合は戦後に復元したことが明らかなので、今開けられている位置が本当の位置なのかどうかは、それを証明する当時の図面などでも見つからない限り、証明不可能です。実際そのような図面は見つかっていません。

以下に、ビルケナウのクレマトリウムⅡの現在の航空写真を示します。

航空写真では解像度に限界があるので分かりにくいかもしれませんが、しかしかなり破壊されていることがわかるかと思います。写真ではこの上に位置するクレマトリウムⅢはガス室の位置の状態はもっと酷いので調べても無理でしょう。

しかし、クレマトリウムⅡは現地で確認すると、量的には相当程度に瓦礫が残っていたそうで、それで、反修正主義者であるダニエル・ケレン、ジェイミー・マッカーシー、ハリー・マザールの三人が、アウシュヴィッツ・ビルケナウ博物館の正式な承認のもとに、現地調査を行なって、その結果を報告した、というのが今回の翻訳記事です。

▼翻訳開始▼

ガス室の廃墟:アウシュビッツⅠとアウシュビッツ・ビルケナウの火葬場に関する法医学的調査

ダニエル・ケレン、ジェイミー・マッカーシー、ハリー・W・マザール

これは、アウシュビッツⅠとアウシュビッツ・ビルケナウ収容所の火葬場に併設されたガス室について、工学、コンピュータ、写真技術、歴史的資料を組み合わせて考察した研究ノートである。特に、屋根に開けられたいくつかの穴の位置を特定し、そこからチクロンBが導入されたことを明らかにしている。火葬場Iの4つすべてと、ひどく損傷した火葬場IIの4つのうちの3つである。著者は、デヴィッド・アーヴィングがペンギンブックスとデボラ・リップシュタットに対する名誉毀損訴訟を起こす前からこのプロジェクトを始め、裁判と同時に、しかし独立して進行させた。弁護側は、その後のアーヴィングの控訴申請の際に、著者らの報告書の第1版を提出した。その申請は裁判所によって却下された。


翻訳者註:リップシュタットとアーヴィングの裁判の控訴審は棄却され、原告であるアーヴィングの敗訴が確定した。


はじめに

毒ガスであるシアン化水素の固体キャリアであるチクロンBは、アウシュビッツの第1火葬場、アウシュビッツ・ビルケナウの第2、第3火葬場のガス室に屋根の穴(ベント(通気口)と呼ぶこともある)から導入された。ホロコースト否定論者は、火葬場Ⅱの屋根の穴の問題に注目し、今日、開口部は観察できないと主張している。スローガンは「No Holes? No Holocaust!(穴なし? ホロコーストなし!)」というスローガンがよく繰り返される[1]。我々の調査は、このスローガンが2000年に再浮上し、デヴィッド・ジョン・コードウェル・アーヴィングがペンギン・ブックス社とデボラ・リップシュタット教授に対して起こした名誉毀損裁判の前に行われ、事実関係を明らかにするために実施された。

ホロコースト歴史プロジェクト[2]のメンバーおよび関係者によるこの研究は、火葬場IIの屋根にある4つの穴のうち3つを特定し、現在は瓦礫に覆われている残りの穴の位置の可能性を示している。我々は穴の位置について、証言や写真による証拠に物理的な確認を加えたのは、これが初めてだと考えている。火葬場の写真の解析にコンピュータ画像技術を採用したのは、私たちの知る限り初めての試みである。アウシュヴィッツ収容所群の火葬場については、現代の呼称として、火葬場I(アウシュヴィッツ主収容所)、火葬場II、III、IV、V(アウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所)とした。

第一部では、物理的な発見と、証言や火葬場II建設時に撮影された地上写真との関係について説明している。第二部では、そのガス室での追加発見をいくつか取り上げる。第III部では、ガス室が写っている航空写真のいくつかを取り上げる。第IV部では本営の火葬場Iのガス室を取り上げ、第V部ではコンピュータ画像の領域からの資料を簡単に紹介し、論文中のコンピュータレンダリングの一部を読者に理解してもらうことにした。写真の分析に、新しい物理的発見と、これまでほとんど注目されなかった二つの重要な証言を組み合わせることで、火葬場IとIIのチクロン穴について、いくつかの新しい結論が導き出された。

火葬場IIとIIIはともに1944年末に解体され、その後1945年1月にSSの土木工兵がアウシュビッツから逃亡する前にダイナマイトで爆破したため、穴の探索はかなり複雑な作業となる。その後、数十年にわたり、さらに劣化が進んだ(図1参照)。

図1a:火葬場IIのガス室空撮写真
図1b:現在の火葬場IIのガス室跡
図1c:現在の火葬場IIIの跡

第一部:火葬場Ⅱのガス室

レイアウト

火葬場Ⅱは1943年3月31日に完成し[3]、は、1944年末に解体されるまで、アウシュビッツ・ビルケナウの主要な殺戮施設の1つとして使用されていたが、1945年1月に逃亡するSSによってダイナマイトで爆破された。シアン化水素による大量殺人は、生存者や元SS隊員によって報告されている。これらの証言は多くの文献によって裏付けられている。これらの文献も、部屋の壁から相当量のシアン化合物を回収した有名な化学的調査も、今回の議論には関係ない[4]。

殺害のプロセスは、シャワールームに見せかけた半地下のガス室に被害者をだまし込むことから始まる。犠牲者が中に入り、ドアがロックされると、ガスマスクで保護されたSS隊員が、部屋の屋根にある4つの開口部のそれぞれに、チクロンB(致死性ガス青酸水素の多孔性キャリア)の一つ以上の容器を注ぎ込んだ。他のいくつかのガス室で使われた手順とは異なり、火葬場IIとIIIのチクロンBは、単に床に流し込まれたのではなく、取り外し可能な容器で頑丈な金網の柱に降ろされたのであった。この容器、以下では「インナーコア」と呼ぶが、犠牲者が死んだ後にチクロンペレットを取り出すことができたのである[5]。火葬場の目録には、「金網導入装置」(Drahtnetzeinschieborrichtung[en])が記載されている[6]。


翻訳者註:金網導入装置」の正確な形状はわかっていない。現物は火葬場の解体時に撤去され処分されたと考えられる。しばしば修正主義者が「現場にはコンクリート柱しかなくその柱は中空になっていなかった」と主張しているのは単に「撤去」を考慮に入れていないだけである。金網導入装置の形状は、その製造に携わったとされる囚人のミハエル・クラによる証言が詳細で、その証言を元に歴史家のロバート・ヤン・ヴァン・ペルト教授の指導によって再現した以下の動画で示すものがかなり正確だと思われるが、その細部は想像である。

このような特殊な装置が、火葬場ⅡやⅢで必要だったのは、述べられているとおり、ガス室がほぼ地下構造になっていて、その換気には吸排気両方の機能を備えた換気システムを用いていて行ったものの、およそ500㎥の広い空間の全体を一度に安全にするほどの換気は行えなかったためである。その他のアウシュヴィッツにあったガス室のように地上型であれば、窓・扉の全開放を行うことで、室内にチクロンBのペレットが残っていても、そこからのガス放出による危険性を無効化するほどの外気導入が行えたのである。


この部屋には外部に通じるドアや窓がなく、犠牲者が脱衣するためのホールから通じるドアが1つあるだけだったので、取り外し可能なコアが必要だったのだ。この仕組みによって、犠牲者が死んだ後もガスを放出しているかもしれないペレットを安全に回収することができるようになった。屋根に開いた穴の上には、レンガ造りの小さな「煙突」が作られている。

数分後、おそらく20分後、犠牲者は死に、部分的に使用済みのチクロンBペレットを保持している導入器具のインナーコアが引き抜かれた。15分以上、強力な換気システムによって室内の空気が浄化された後、ドアが開けられ、「ゾンダーコマンド」の囚人たちがそのために設置された死体リフトを使って死体を炉の部屋に移した。犠牲者の数を示す厳粛な証言は、SSの労働力配置報告書に記載されている「ストーカー」の数である。火葬場Ⅱと火葬場Ⅲでは、それぞれ最大220名が雇用されていた[7]。

火葬場II(と火葬場III)のガス室の内寸は30×7メートルで、外壁のレンガの厚さは0.5メートルである。屋根スラブの幅は8m。内部の高さは2.4m、室内の総容積は504立方メートル。断面が0.4×0.4mの鉄骨鉄筋コンクリートの柱が7本、屋根を支えている。この梁は、部屋の全長にわたって中央の支持梁を支えている。梁の断面は幅0.4m×高さ0.55mであった。柱の中心間の距離は3.8m、一番外側の2本の柱と南北の壁の中心間の距離は3.6mであった[8]。

ガス室の長軸は、ほぼ正確に南から北に並んでいる。7本の支柱と4つの屋根の穴には、南から北へ向かって昇順に番号を振っている。図2a図2bに屋根と部屋の模式図を示す。

図2a:火葬場Ⅱのガス室を上から見た図式。C1-C7は支柱、H1-H4はチクロン穴のマーク。ダイナマイトで屋根が移動したため、現在では相対的な距離(例えばC1とH1の間)が異なっている(図10および関連する考察を参照)。
図2b:火葬場全体の模式図。ガス室の周りの点線は盛り土を示す。マーク・ダウニング氏に感謝する。2bの以前のバージョンは、ロバート・ヤン・ヴァン・ペルト、『アウシュヴィッツの真相』( ブルーミントン:インディアナ大学出版局、2002年)p. 190に掲載されている。

火葬場Ⅱの南側から写真を検討する場合、ガス室を見つけるには、本館南側の壁にある窓が有効である。その10個のフルサイズの窓に、西から東へ向かって昇順に番号を振っている。窓2はガス室の屋根の真上に位置する(ただし、図3では窓3がガス室を見下ろすように見える)。

図3:火葬場II建設中のディートリッヒ・カマン親衛隊伍長率いるチームによる写真。正面にガス室が見え、3本のチクロン「煙突」が確認できる。以下、「列車写真」。アウシュビッツ国立博物館、PMOネガNo.20995/494、カマンシリーズ。

火葬場IIIでも同じように殺戮が行われ、いくつかの小さな違いを除いては、火葬場IIの鏡像であった。しかし、火葬場IIIのガス室は、その構造の状態から、さらなる情報を得られる可能性は低い(図1b参照)。

これまでの知見

3種類の証拠が、火葬場Ⅱのガス室の屋根にあるチクロンB導入孔と、その上に作られた小さなレンガの「煙突」を長いあいだ示してきた。

a) 生存者と元SS隊員の前述の証言。

b) 武装親衛隊及び警察中央建設局 (Zentralbauleitung der Waffen SS und Polizei)の写真班のメンバーが撮影した写真に含まれている情報、屋根の上に突き出た3本のツィクロン「煙突」(図3、4)を示している。

図4:図3の詳細。機関車の煙突で塞がれた3つ目のチクロン穴。写真にやや傾きがある(屋根の端が傾いている)。傾きを補正すると、穴の上にある3本の「煙突」の高さが同じに見える。また、ガス室は半地下であることに注意。西端の一部は断面が三角形のカモフラージュ土塁(写真左)で見えなくなっている。第三部で詳しく説明する。

翻訳者註:図4の写真と、修正主義者ゲルマー・ルドルフによる以下の「補助線などの書き込みのある図」を比較すると、ルドルフの補助線の書き込みは不適切であることがわかる。特に、チクロン穴の煙突(と思しき物体)を推定するのに、非常にぼやけている輪郭を実戦でくっきり分けるように区切るのは恣意的に過ぎるだろう。また「75」cmの幅を記してある箇所は、明らかにその右側にある「50 65」の幅のものより影の色が薄く、同じものとみなすことには無理がある。これら小煙突の推定は、推定された仮説モデルとしての3Dレンダリング上での一致を見るべきであり、その意味で本報告書の方が遥かに妥当な推定である。

https://vho.org/GB/Books/trr/Image3b.jpgより。

追記:ルドルフの他の論文と見比べていて気が付いたが、上図はいわゆるルドルフ・レポートとして知られる1990年代に登場した論文にある写真図であるが、その後の論文でルドルフは写真に記されるサイズを変更している。どちらが正しいのかは、Leichenkeller 1の外幅が正確にわかる図面を知らないのでわからない。


この写真は、竣工直前の1943年初頭に撮影されたものである。窓4の真下には、穴1(右)と穴2(左)の金網導入装置を囲むレンガの「煙突」が見える。窓5の下の形状は、導入煙突ではなく、火葬場本体の壁面にある門型、変色、あるいは別の形状である。さらに、ガス室の中央付近、3番窓の東の端の下に、より明るい影が現れている。これも導入口にも対応していない。 ガス室の屋根の上や近くにある物かもしれない。それは「煙突」1、2より低く、幅も狭い。また、「煙突」1 と 2 の暗い影の右側には、後ろの壁よりも明らかに明るい灰色の影があるが、正体不明の形の右側の灰色の影は、壁とはっきり区別がつかない状態になっている。 これは、画像をスキャンしてグレーレベル(=強度)を調べることで確認できる。

図4では、機関車の煙突のすぐ左側に、4号孔の西端の頂上がよりはっきりと見える。 下半分は雪に覆われ、南面は煙突に覆われて見えない。煙突3は煙突で完全に覆われている。アーヴィングは、この穴の正体は「シール材を入れたドラム缶」[9]だと推測しているが、そうでないことは明らかである。円筒形の物体であれば緩やかな光パターンになるが、上の物体では一様な光と一様な影が急激に変化している。

私たちは、第二火葬場の建物とそのガス室の3次元コンピュータモデルを構築した(図5)。


図5:列車写真から見た火葬場Ⅱのコンピュータ・レンダリング(図3、図4)。ジグザグに配置されたサイクロン穴、例えば、穴3と穴4が近接しているように見えることに注意。図6とパートVも参照。

モデル化した特徴の寸法や位置は、建物の設計図(窓など)、現存する遺跡(4つの穴のうち3つの位置など)、またはその両方(屋根の寸法)から様々に復元されている。設計図はプレサック[10]に掲載されている。

この「列車の写真」は、私たちが部屋で発見した物的証拠(後述)と一致している。これは、リバースエンジニアリングによって浮かび上がったものである。与えられた写真が、私たちのモデルの(仮想)写真と同じになるようなカメラ位置はあるのだろうか? 肯定的な回答は、モデルの信頼性を高めることになる。この種の分析は、火葬場Iのチクロン穴にも適用される(後述の第IV部参照)。いずれも戦時中の写真と、私たちの物理的な発見が示唆するモデルが見事に一致していることが確認された。

手前の列車の正確な位置は不明であるが、三角測量と射影幾何学の原理[11]により、図5のようにガス室の南西角から南へ約104.3メートル、西へ45メートルの位置に置くことができる。

その相関関係はまぎれもない。写真から、ほぼセンチメートル単位でサイズを推定することができる。この点を最もよく表しているのは、建物とガス室の骨格を示すワイヤーフレームを写真と重ね合わせたものであろう(図6)。

図6:「列車写真」とコンピュータ・レンダリングのワイヤーフレームの重ね合わせ、チャンバー内部、コンクリート支柱、チクロン導入シャフトを含む。

c) 1944年にアメリカとイギリスの飛行機が撮影したビルケナウ複合施設のいくつかの航空写真(図7参照)。

図7:1944年8月25日、アメリカの偵察機から撮影された火葬場IIの写真の詳細(8月25日写真)。盛り上がった土がガス室の東端を見えなくし、穴をより東に見せている。穴は南から西東・東・西東と交互に並ぶ。米国国立公文書記録管理局(NARA)、RG-373、国防情報局(DIA)の記録、Mission: 60PR/694 60 SQ; can. F5367, exposure 3186. Scale: 1/10,000; focal length: 12 inches; altitude: 30,000 feet.

その中で最も鮮明な写真は、8月25日にアメリカが上空を飛行した際に撮影されたものである。火葬場IIとIIIは、3185番という1つのフレームの端に正確に現れている。次の3186番では、火葬場IIだけが見え、火葬場IIIは飛行機の軌道によって切り取られてしまっている。

航空写真判読の専門家であるキャロル・ルーカス[12] は、この2コマは「現場を撮影した写真の中で最も品質が高い」と分析しており、特別な関心を集めている。フレーム3185の方がコントラストが良く、3186はやや露出オーバーになっている。写真の解像度は「4〜6フィート(1.25〜1.85メートル)のオーダー」であったと とルーカスは判断した。屋根の上で観察された4つの「にじみ(染み、汚れ)」の位置は、電車の写真と、以下に述べる現在の物的証拠と非常によく一致している。この汚れは、穴の部分だけというには大きすぎる。これはおそらく、チクロン缶の導入にあたったSS隊員が屋根の上で踏みつけて残した痕跡だと思われる(第III部参照)。

写真では、西側に1番と3番、東側に2番と4番と、少しずつ交互ににじみが写っている。ゾンダーコマンドの生存者ヘンリク・タウバーは、技術的な問題に関して信頼できる証人であると考えられているが、火葬場Ⅱの穴は交互に並んでいたと証言している。興味深いことに、彼は、タウバーが火葬場IIとIIIを混同していると示唆したプレサック[13]によって「訂正」されている。チクロン穴は、火葬場IIIではかなり中心から外れていたが、両方の火葬場で左右交互に並んでいた(8月25日のコマ3185、ここには再掲されていない)。火葬場IIで穴が交互に開いていることは、航空写真、「列車写真」、物理的所見、タウバーの証言によって裏付けられている。このことは、これまで歴史家もホロコースト否定論者も同様に見落としており、その結果、写真の分析に誤りが生じている。

* * *

金網のチクロン挿入装置は、コンクリートの支柱に取り付けられていたのだろうか? この仮説は一見合理的に見えるが、私たちはこの仮説を支持するものは少なく、反対する強い証拠を見出している。アウシュビッツ・ビルケナウのゾンダーコマンドの専門家であるヤド・ヴァシェムのギデオン・グライフ[14]は、私たちの要請に応じて、火葬場IIとIIIで働いていたゾンダーコマンドの生存者2名と連絡を取った。シャウル・チャザン氏もレムケ・フリシュコ氏も、装置は支柱に取り付けられていなかったと述べている。我々はそのような趣旨の証言は他には認識していない。

それは、構造上の理由から、1番、3番、5番、7番の支柱の側面に取り付けられたと推測されている。その結果、煙突の間隔は南北でちょうど7.6m、柱の両側に交互に取り付けた場合、東西で約1mとなる。航空写真では、この仮説は支持されない。 特に火葬場IIIの千鳥格子状のにじみは東西に約2.5mの間隔があり、火葬場IIの煙突4に対応するにじみはこの予測よりかなり南に位置していることがわかる。我々は、導入構造は各コーナーの4本の鉄筋で支えられており、コンクリート柱の支持を必要としなかったと主張する。証人エルバー[15]が述べたように、このような棒が4本あることは、導入装置が自立しており、コンクリート支柱に取り付けられていないことのさらなる証拠である。

さらに、4つの穴の位置がわかりにくいのは、室が破壊される前に穴が埋められてしまったためではないかとの仮説も立てられている。火葬場IIとIIIではその可能性はなさそうである。当初の屋根は3層構造になっていた。その下には厚い石骨材コンクリートスラブが敷かれている。より薄く、より細かい、砂骨材のコンクリート混合物である。そして、真ん中に防水用の瀝青炭タール紙がある。SSがこの作業を重複して行う必要性を感じたとは考えにくいし、痕跡を残さず4か所で行えたとも思えない。スラブの下からオリジナルの天井がかなり見えているが、手を加えられた形跡はない。第1火葬場では、SSの防空壕に転用された際に穴が埋められた(年代不明)。

コンクリートの屋根は、建設業界では鉄筋と呼ばれる鉄の棒を十字に交差させて補強している。この鉄筋の格子が、チクロン穴の位置の裏付けとなる。コンクリート打設時に計画された穴には、鉄筋が伸びていないはずである。例として、図8aは犠牲者が脱衣を命じられた火葬場の地下室の屋根にある典型的な鉄筋のパターンを、図8bは切断されていない鉄筋と穴の縁で切断されて曲がった鉄筋の両方を示したものである。

図8a:第2火葬場の「脱衣室」の屋根を敷設する作業員。鉄筋が十字に交差していることに注目。アウシュビッツ国立博物館、ルドウィック・シリーズ、PMO neg.no.298; およびカマン・シリーズ、20995/498。詳細。
図8b:チクロン穴1、火葬場Ⅱ。下のコンクリート層と上の砂セメント層を隔てる防水紙が見えている。

西側のほぼ中央付近にある現在の屋根の開口部は、既知のチクロン穴とは一致しない(図9)。

図9:1945年1月の解放後と思われる、火葬場IIの屋根に開けられた目的不明の穴。

当時の写真には、この場所を示すものはなく、鉄筋の一部が明らかに穴を横切るように走っていて、その後に切断され、曲げられている。これで、チクロン穴でないことが立証された。この穴を誰が開けたかは不明で、1945年1月の赤軍による収容所解放以前に作られたと考える根拠はない。チクロンの穴を「偽装」するために作られたものでないことは明らかで、そうでなければ鉄筋が突き出たままになっているはずはない。この穴は、我々の目的には無視できる。

最新の研究成果

我々による1998年から2000年にかけての調査で、ガス室の屋根にある穴1、2、4の強力な物的証拠を発見した。これは、前述のとおり、文書、写真、証言によって裏付けられている。

以下のことに注意を喚起する。

a) 物的証拠そのもの。これは、開口部の明確な兆候からなる。屋根のコンクリートに直線的な鋳造のエッジがある。鉄筋がきれいに切断されている、つまり爆発で伸びていない。穴の中の領域に鉄筋がないこと。そして、穴の縁で内側に曲がった鉄筋があることである。

最も重要なのは、鉄筋の形状が、屋根を破壊した爆発によるものと説明できないことである。この爆発では、鉄筋は外側と上側に曲がり、伸びて細くなったはずである。鉄筋の両端を垂直な鉄筋に引っ掛けて、四角い開口部を形成する(図16)。これは1943年初頭にコンクリート屋根が打設されたときに、この穴ができたことを示している。

図16:4番目の(南から見て)チクロン穴の跡。鉄筋は2つの側面に沿い、他の2つの側面で端が内側に曲がってループ状に戻されている。回転したスラブで内側に型枠があることに注意。

b) これまでに発見された3つの穴の東西配置は、明確なパターンに従っている。その端はすべて中央のビームの側面から30cm離れている(その中心はビームの中心から75cmになる)。各穴の外縁は、対応する屋根スラブの端から300cmのところにある。これらの距離は、現在では約1cmの範囲で測定することができる。 このような配置が偶然である確率は非常に低い。

ある修正主義者は、この論文の予備草稿を見て、屋根がコンクリートの支柱から引き裂かれたときに、ダイナマイトの爆発によって穴ができたと主張したことを述べておく。しかし、次のような理由から、これは不可能である。

  • コンクリートの支柱は、屋根に直接取り付けるのではなく、中央の支持梁に取り付けていた。

  • コンクリート製の支柱は屋根の中央にあるが、穴はそうではなく、私たちが観察したように、一番近い端と中央の支柱の間に30cmの空間が開いている。

  • この穴は、支柱と同じ縦方向(つまり南北方向)の位置には見当たらない。

c) 穴の位置は、1944年8月25日の航空写真と一致する。

d) 穴の位置が列車写真と正確に一致していること(図5図6を参照)。

e) 穴を交互に配置することは、前述のタウバーの証言と一致し、構造的完全性を維持することにつながる。また、このような間隔は、シアンガスをより均一に分散させることができる。

以下の処理では、特に指定がない限り、すべての距離は特定されたオブジェクト(穴、柱、中央支持梁)の中心からのものである。南壁ではなく、屋根スラブの南端からの南北の距離は、爆発でガス室が破壊された後、屋根がかなりずれてしまった(図10a10b)。

図10a:火葬場IIガス室の南端を西から東に見たもの。屋根が剥がれ、北に移動し、穴の中に倒れこんでいる様子に注目(比較のため、レンガの長さは23cm)。そのため、最初のチクロン穴は、最初の(最南端の)支柱に対して、より北にずれてしまった。
図10b:北東-南西方向から見た図。折れた第一支柱の上部が倒れた屋根を貫いている。

一般に、爆発前の配置を示す最も信頼できる指標は、屋根の東端である。ほぼ全体が大きく分断され、その長さに沿ってはっきりと見え、紛れもない南側の角があるからである。また、穴が屋根と柱を相対的に移動することで、いくつかの特徴の相対距離が変化した。

穴1は、柱1付近の屋根の開口部である(図11a)。

図11a:最初の(最南端の)チクロン穴の様子。
図11b:ディテール。南側から北側を撮影した全景。鉄筋のない四角い形状を確認。爆発で破損しているが、穴ははっきりと確認できる。北東角を下から見上げて東に撮影したディテール。タールの滴下痕が残っている。ここに約3フィート(90cm)の残っているクローリングスペース(狭い空間)がある。

一見すると、この開口部は爆発によって作られたように見えるかもしれないが、しかし、よくよく調べてみると、そうではないことがわかる。直線的で平らなエッジの部分と90度の角度はそのまま残っているが、エッジの周りのほとんどのコンクリートは爆発で損傷している。この穴の中心は、屋根スラブの南端から4.1m、屋根の中心から0.75m西に位置している。大きさは約0.5m四方程度と推定される。ということは、その東端は中央のサポートビームの西端から0.3m西に位置することになる。

屋根の下は厚いコンクリートで、その上に防水用のタール紙を敷き、さらにその上に薄い砂のコンクリートで覆っているのである。中層は、防水性を確保するため、タール紙の上にタールを刷毛で塗る必要があった。穴の縁のコンクリートは、下層の数センチメートルがそのまま残っているだけで、その一角を注意深く調べると、縁にタールが塗られた跡が2つはっきりと残っている(図11b、右)。これは、屋根の施工中に、防水の段階ですでにコンクリートに穴が開いていたことを示している。

穴2は、爆発によって屋根がより完全に破壊された部分にある開口部(図12)である。

図12:2つ目の(南から)チクロン穴、東から西の眺め。北の端には、爆発で剥がれたコンクリートの塊が横たわっている。西側の縁は完全に粉々になっている。穴の輪郭が重なっている。

我々は、この穴は、いくつかの特徴によって識別できることを提案する。これらは、きれいに切断された鉄筋、短いが90度の角度で交わるコンクリートの直線状の端部、端部で内側に曲がった鉄筋、そして最も注目すべきはその開いた部分に鉄筋がないことである(図13図14)。

図13:2つ目のチクロン穴の南側にある直線状のエッジと内側に曲がった鉄筋。このような曲げは、爆発で屋根が上に持ち上がったからできるのではない。
図14:2つ目のチクロン穴の北と東の端で鉄筋が内側に曲がり、爆発で一部破壊された。

中心は屋根スラブの南端から11.5m、中央の梁から0.75mの位置である。大きさは0.5×0.5mと推定される。穴の東端はスラブの東端から3mの位置にある。

穴3の予測位置は、屋根の損傷が激しく、瓦礫で覆われている部分である(図15)。

図15:3番目のチクロン穴の仮説の位置の西-東の図。

予備調査では、屋根の一部が崩落した際に、穴そのものが破損した可能性があるとされている。しかし、この仮説にはさらなる検証が必要である。今回の調査では、3つ目の穴を特定するために必要な大規模な瓦礫の移動の許可を得ていないが、今後、許可が下りる可能性があるとのことである。


翻訳者註:この調査結果が公表された2004年以降、2023年2月現在まで、この「3つ目の穴」に関する調査が行われた事実は確認できない。


穴4は、鉄筋の模様で識別できる(図16)。

図16:4番目の(南から見て)チクロン穴の跡。鉄筋は2つの側面に沿い、他の2つの側面で端が内側に曲がってループ状に戻されている。回転したスラブで内側に型枠があることに注意。

穴4は、屋根の跡の一番北側にある。1943年当時、これはその最北端ではなかった。この穴の位置を理解するためには、爆発とその後の崩壊によって、屋根の北側4mが180度折り返されて下になっていることを観察する必要がある。その部分は、本来その南側にあった屋根スラブの下に逆さまに横たわっている(17図18)。

図17:東側から見た折り畳み部分のアップ。(右側の傾いた看板は現在の看板)
図18:爆発時に屋根の北側が折れ曲がる様子。1のラベルが貼られた部分は写真に写っていない。部分4の3m西に4つ目のチクロン穴がある。正確な縮尺は図16図17を参照してほしい。部分4の東側が粉々になった。部分5と6は爆発でひっくり返った(図1617と本文を比較)。
図18b:火葬場2のチクロン穴1には鉄筋が伸びていた。

屋根の一部がそれ自体の下に折り畳まれていることは疑いの余地がない。それが逆さまになっていることは、4つの観察から明らかである。まず、屋根の南北軸に沿った鉄筋は、ひだの部分にほぼそのまま残っており、屋根の上部から180度回り込んで、コンクリートを貫通して下部(つまり3と6の間)に切れ目なく走っているのが確認できる。2つ目は、コンクリートスラブの上にタール防水を敷き詰めた際、端から流れてしまったことである。その滴は今でも目にすることができる。屋根の下部の縁には、タールが上方に流れるように残っているのが見える(図11bも参照)。第三に、部分6(図1718)の上部は、型枠の打刻に見られるように、屋根の内側である。そして4つ目は消去法になるが、失われた最北端の屋根スラブ(長さ約4m)に似たものは、他のどこにも見当たらない。

穴4は、1943年に鉄筋に設けられた四角い開口部がそのまま残っていることで確認できる。周囲の縁は爆発と屋根の折り重なりで粉々になり、鉄筋の格子模様だけが残っている。寸法は0.5×0.5m。この穴は、屋根の東端からの距離を正確に測定することが可能である。その端から数枚のコンクリートを伝って、一本の鉄筋が途切れることなく穴そのものまで続いている。その距離は3mで、約1cmの誤差がある。穴2と同様、ホール4の中心は屋根の中心から0.75m東に位置している。 南北方向の位置は、南側の屋根スラブの切れ目や、屋根の北端(現在は穴の南側)の位置が不明なため、若干の誤差がある。その位置は屋根スラブの南端から25.5mと推定されるが、おそらく1mほどの誤差がある。

ホロコースト否定派は以前から、ガス室の屋根の穴はすべて戦後に作られたものだと主張してきた。このような主張には明らかに問題があるが、穴4を鉄筋が貫通していないことから、この主張は事実上否定される。特に、穴の東側では、鉄筋が穴を通らないようにループ状に曲げられていることがわかる(図16の下側の囲み部分)。このループの両端は、穴の東側にある大きなコンクリートの塊にしっかりと埋め込まれており、戦後に改ざんされたという主張とは矛盾している。 単に穴4の存在が重要なのではなく、裏づけとなる証拠がある場所に正確に配置されていることが重要なのである。鉄筋が意図的にループ状になっていることから、この穴、そして他の3つの穴も、ほぼ間違いなく1943年1月のコンクリート打設時に開けられたものであることが証明されている。火葬場の殺人の意図は、文字通り決められたこの日よりも遅くなることはないだろう。

第二部:追加調査

ビルケナウの第2火葬場のガス室は、当時の一般的な工法で作られていた。しかし、私たちの調査訪問中に、いくつかの変わった特徴に遭遇した。これまで説明されていないものについては、これから説明する。この研究では、火葬場本体と脱衣室については触れない。

ガス室はかなり単純な構造であった。床は鉄筋コンクリートで、適切な排水口が設けられていた。7本の支柱も鉄筋コンクリートで、床スラブの下の柱状フーチングに取り付けられている。壁はモルタルで固めた在来レンガ。柱は鉄筋コンクリートの梁に取り付けられており、ガス室の全長にわたっている。屋根は鉄筋コンクリート打ち放しで、防湿剤と2cmの細かい砂入りコンクリートで上塗りされている。スラブの総厚は20cm。床面が地下約1.6m、屋根の天端が地上0.8mであること以外は、特筆すべきデザインではない(盛り土の配置が不均一なため、「地表」の正確な高さを特定することは困難である)。

第二火葬場のガス室の図面と遺構から、他にもいくつかの珍しい特徴が明らかになった(これまでに議論されたことのないものもある)。

a) 窓や自然採光・換気口がない。

b) 部屋に下りるための階段やスロープはない。

c) 部屋へのアクセスは、実際の火葬場とつながっている北壁の東側部分にあるドアからのみ可能であった。(a、b、cの点については、他で十分に論じたとおりである)。

d) 東側と西側のレンガの壁には、全長にわたって大きな空洞の水路がある(図2aを参照)。

e) 部屋の全長にわたって、60cm間隔の小さなワイヤーループを天井に多数取り付け、サポートビームの両側とレンガの壁から100cmのところに設置している。

d)とe)の点については、別のところでも述べている。プレサックの建設図面の分析によると、煉瓦壁の内側の換気ダクトはガス室内の空気を入れ替えるために採用されており、合板でできた三角形のダクトは天井と南北の壁に固定されて、ガス室内に空気を導入するように設計されていた。部屋の換気システムについては、これまでにも多くの議論がなされている[16]。

f) 屋根の表面に3つの大きな四角い穴(1、2、4)の名残が見られる。穴3のおおよその位置は、この研究の第一部で説明したとおりである。

g) 屋根の鉄筋(rebar)は、導入孔と交差する箇所を工事中に切断(一部は切断してL字型に曲げることも)している。直径12〜15mmの鉄筋を屋根の上に南北と東西に約15cm間隔で並べ、ほぼ正方形のグリッドを形成し、そこにコンクリートを流し込む。グリッドは中央の梁と周辺の鉄筋構造に伝統的なU字型曲げで固定されていた。SSの工兵が部屋を破壊したとき、爆発的な力でグリッドが壊れた。割れた棒の多くは、爆薬の力で鋭く引き伸ばされたものであるが、他の棒は、チクロンB導入孔が残っている場所に正確に50x50cmの正方形のパターンを形成するために意図的に切られたようである。

h) 同時に4×10cmの長方形の小さな開口部が、屋根を貫通して下の部屋に鋳造された(図19)。

図19:屋根スラブの鋳造された開口部(センチメートル)

開口部は5番柱の北3m、屋根スラブの東端から2.65mの位置にある。この穴の機能はまだ不明である。ガス濃度を調べるための検知器を差し込めるように、取り外し可能なガスケットが付いていることもあった。そのために火葬場が整備されていたことが知られている[17]。

i) ガス室の天井には、小さな(およそ10×15×4cm)長方形の鋳型のくぼみがいくつも見られる。そのうちの少なくとも6つは、現在、下からアクセスできる天井の部分で見ることができる。窪みには、錆びた釘やネジが見える木製のブロックもある。くぼみは、支柱の両側、支柱の端から2m、南側の壁から北へ約3m、遺跡に見える範囲に一様に配置され、並べられている。この木製のブロックに、偽物のシャワーヘッドを取り付けたとされる(図20)。

図20a、b、c:ガス室の天井にある3つのくぼみ。20bでは錆びた鉄筋が内側の縁に触れるだけ、20cでは木のブロックが残っている。

一つ重要なことを強調しておかなければならない。木製のブロックの入った窪みは、ガス室の天井が作られた瞬間から、意図的に作られたものである。このブロックは、屋根にコンクリートを流し込む前に鉄筋を支えるために使われた(スラブボルスター)と考えることが可能だが、この考え方は様々な議論によって否定されている。

  • 鉄筋の支柱は、一般的にコンクリートや石を砕いた小さなもので、コンクリートの混合物の中に組み込まれ、下からは見えない。

  • コンクリートは多孔質で、孔の中に強アルカリ性の溶液があり、この溶液が鉄筋を錆びさせず、構造体を弱体化させないのである。鉄筋に水がかかるからと、あえて木製のスラブボルスターを使う技術者はいない。

  • 上部の一角のくぼみを除いて、木のブロックが形成するくぼみには鉄筋が入っていない。

  • 木製のブロックは、同じ向きで、互いに、そして中央の梁からまったく同じ距離に注意深く並べられた。

  • 現存する木製のブロックはすべて、ガス室内で何かを支えるために、その中心にネジのようなものが差し込まれた形跡がある。

j) 中央の鉄筋コンクリートの梁の両側には、多数の小さな木製の支持ブロックが取り付けられている。これらのブロックには、電気ケーブルを通すための小さなベークライト樹脂の支持具が何本か残っている。サポートブロックは、最初のシャワーヘッドブロックから2~3mほど先のサポートビームの南端まで見えている。この支持具には、照明のための電流を流すための電線が張られていたと思われる。強制収容所の他の場所(例:火葬場I)にも同様の支持具があり、電気ケーブルを支えている(図21)。

図21:火葬場Ⅱの中央支持梁のベークライト製支持具。

k) ガス室の東側1m弱の道に直径8cmの小さな円盤が埋没しているのを発見した。ディスクには、シャワーヘッドの前板のような小さなミシン目が多数見られる(裏面の方がわかりやすい)。穴の大きさはごくわずかで、板をまったく貫通していないものも多く、水が流れたとは考えにくい(図22図23)。

図22:クレマトリウムIIのガス室跡で発見された擬似シャワーヘッドの背面。
図23:擬似シャワーヘッド前面

板金には亜鉛メッキが施された形跡があり、錆びを抑制して「シャワーヘッド」の説得力を高めたのだろう。火葬場Ⅱのガス室には、配管設備があったという証拠はない。目撃者の証拠とアウシュヴィッツ・ビルケナウ州立博物館の文書館に保管されている記録の収束を考えると[18]、この固定設備は、犠牲者にできるだけ長くその運命を知らせないようにするための巧妙な計画の一部であったことは間違いないだろう。

第三部:航空写真

次に、連合軍とドイツの飛行機から撮影された写真のいくつかを見て、火葬場の物理的配置、とくにチクロン導入孔との関係を示しておこう。

どの航空写真でも、チクロン穴そのものを観察することは不可能である。その理由は、図24のガス室の屋根を観察するとよくわかる。これは、ビルケナウの航空写真として最も適切なものである。

図24:図7と比較して、ガス室を90度回転させ、右側に火葬場の建物の端、左側にセキュリティ・スクリーン(編み枝細工のフェンスと思われる)を示した8月25日の写真の詳細を拡大したもの。チクロン穴の位置に沿った暗くなった道と、最北の穴から西に伸びる短い道に注意。道はSS隊員の移動に対応している(下記参照)。

ガス室の長さは30mで、穴のカバーは約60×60cmである。写真の解像度が低く、粒状性が非常に強いため、このサイズの物体を直接観察することはできない。しかし、穴に関連する一定の現象は確認することができる。また、屋根を含む2枚の写真が重なっている場合、ステレオ画像(フォージェラ画像)の原理により、1枚の画像では見えない部分が見えることがある。これについては、後で詳しく説明する。最も画質が良く、注目を集めたのは、1944年8月25日に米軍機が撮影した写真で、その一部を図7図24で紹介している[19]。1944年7月8日、ドイツ軍機から撮影された写真(図25)は、あまり質が良くないが、やはり興味深い。

図25:ドイツ空軍の写真の詳細、火葬場IIエリア。写真の画質が悪いが、屋根の中央に沿った暗い道(図7図24を比較)がわずかに見える。(NARA, RG-373, Auschwitz Box, envelope 17, security set GX DT/TM-3/Germany-East Auschwitz/neg. no. 38 N50 K19.)

図24のガス室の屋根にある四つの暗くて不規則な汚れは、「列車写真」(図3)と物理的所見(本論文の主要部分を参照)の両方で穴の位置に対応している。しかし、実際の穴を表現するには、大きすぎるし、形も正しくないことは明らかである。写真の解釈については、航空写真や衛星写真の解析で50年以上の経験を持つ第一人者であるキャロル・ルーカス氏の助言を得た[20]。

ルーカス氏は、8月25日に撮影された火葬場Ⅱの屋根を写した2枚の写真を分析した。2枚の写真が重なって見えることで、ステレオ画像による物体の立体像の復元が可能になるのである[21]。ルーカス氏は、拡大鏡、ボシュロム社の実体顕微鏡ズーム70を取り付けたリチャーズ社のライトテーブル、カールツァイス社のN-2ミラーステレオスコープ、エイブラムス社の2-4ステレオスコープモデルCB-1を使用して、図24の写真と同じ飛行中に撮影した連続した前のフレームを分析した。ルーカス氏は慎重に調査した結果、汚れの中に4つの小さな物体を確認した。いずれも屋根の高さよりわずかに高い位置にある。ステレオ画像は、「ランダムドットステレオグラム」[22] で実証されたように、個別の画像では非常に困難または不可能な、粒状の小さな物体も観察することが可能である。おそらく、列車写真(図4)にもはっきりと写っている、屋根の穴の上にある4本の「煙突」に対応するものであろう。このように、航空写真は、目撃者の証言と列車写真の裏付けとなる。暗い汚れとそれに関連する所見について、ルーカス氏は次のように結論をまとめている。

a) 「火葬場の一部地下棟の屋根には4つの盛り上がった通気口があり、おそらくその出口より大きなカバーが付いている」

b) 「火葬場Ⅱの屋根で観察された4つの暗い部分(ポジプリント)は、屋根に配置された職員が通気口のまわりで作業するときに、絶えず動いたために生じた圧縮された土である」 この点については、後述する。

c) 「暗い部分を相互につなぐ細い暗線のようなもの(ポジプリントの場合)は、人がベントからベントに移動する際に生じた圧縮土の道である」(図24参照)

d) 「火葬場の屋根に一番近い通気口から屋根の端までこの道をつなぐ暗い部分は、職員が屋根に寄りかかった短いはしごを使って屋根にアクセスした場所を示す道の延長である」(図24参照)

e) 「この分析によって得られた証拠は、ベントが存在し、複数の目撃者の証言と一致する方法で使用されていたという事実を信用させるものである」

例えば、「列車写真」では、部屋の西端に断面が三角形の未完成の土手があり、屋根には土の覆いがないことがよくわかる。1944年5月31日の写真にも、このような土手が写っている(図26)。

図26:1944年5月31日に撮影されたアメリカの航空写真の詳細、火葬場IIエリア。ガス室西側の縁に三角形の断面を持つカモフラージュ土手があることに注目。図4の左側に表示されているものと一致し、東からの太陽光が当たっていることがわかる。ガス室の屋根に続く道らしきものにも注目。この写真の解像度は8月25日の写真より低い。カメラは実際に煙突を覗き込んでいる。 明るい部分は、火葬が行われていることを示しているのだろう。NARA, RG-373, DIA, Mission: 60 PRS/462 60 SQ; can: D1508, exposure 3056. Scale: 1/16,167; focal length: 20 inches; altitude: 27,000 feet.

注:この図はHGS(『ホロコーストとジェノサイド研究』オックスフォード大学出版局、第18巻、第1号、2004年春号)の論文では誤ったキャプションがつけられている。

したがって、5月31日から7月8日の間に、土手を平らにし、屋根を土で覆ったと考えるのが妥当である。この新しく置かれた土は、SS隊員が屋根に登って穴の間を歩いたために圧縮され、その結果、部屋の中央を通る暗い道(ルーカスの分析では項目3)になり、最北の穴から西に伸びる短い暗い線はSS隊員が屋根に登った地点に相当する(ルーカスの分析では項目4)。この道は一番南の穴で終わっているので、SS隊員は確かに北端の屋根に登り、南北に横断していたことがわかる。SS隊員は穴の周辺を移動する時間が長いので、穴と穴の間を歩く道よりも広い範囲で土が固まってしまったのだ。

さらに、写真の「にじみ」ができたと思われる要因もある。

a) チクロンを溶かして誤吸入の危険を減らすために、抽出されたチクロンペレットに水がかけられた可能性がある。また、ペレットをホースで流したことで、土被りの湿った部分が暗く見えるようになり、さらに屋根上の草の生え方が変わって色が濃くなった可能性もあり、写真で緑のある部分が濃く見えることもそれを裏付けている(図7)。

b) 航空写真が撮影されたとき、チクロンが挿入された金網の柱のインナーコアは室内になく、一時的に取り外されて、チクロン挿入装置を収容していた小さな煙突に立てかけられていた可能性がある。インナーコアを取り外す理由として、次のようなことが考えられる。ガス室はガス注入のたびにホースで洗浄されたので[23]、乾燥状態を保つために、ホース洗浄中にこれらの内部コアを取り外すことは理にかなっていた。このインナーコアが小さな煙突に寄りかかることで、にじみの中央のような外観の影パターンになる可能性がある。

第四部:火葬場Iのチクロン導入穴

ガス処刑がビルケナウの「ブンカー」と4つの大きな火葬場に移される前に、毒ガスによる殺人は、いわゆる「旧火葬場」あるいは「小火葬場」のある主収容所で行われた(ガス室および火葬場としての使用が停止された後、「火葬場I」という名称は、現在通常「火葬場II」と名付けられているビルケナウの火葬場を指すこともある。ここでは、「火葬場Ⅰ」は「旧火葬場」を指すものとする)。チクロンBのペレットは天井に開けられた穴から室内に落とされた。収容所の生存者(フィリップ・ミュラーなど)や元SS隊員(司令官ルドルフ・ヘス、ペリー・ブロード、自分の手でチクロンを注入したことを述べたハンス・シュタルク[24]など)は、これらのガス処刑について証言している。収容所の他のガス処理施設と同様に、クラクフ法医学研究所の法医学的検査が示すように、部屋の壁からシアン化合物が検出されることがある[25]。

ナチス占領前にポーランド軍が建設したガス室の本来の目的は、弾薬庫としてであった。そのため、その壁は重い土の盛土で守られている(爆風を上に流すため)。1944年末、殺戮に使われなくなったガス室は、SSのための防空壕に改造された[26]。改造の主な内容は、チクロンの挿入口を塞ぐことと、爆発した爆弾の影響を防ぐための仕切り壁を室内に設けることであった。さらに、2つの小さな通気口が追加された(これは、隣接する火葬室の大きな通気口と混同しないように)。戦後、この部屋は、仕切り壁を取り払い、4つのチクロン導入孔を再開して、殺人ガス処理に使われた当時の姿に復元された。

このセクションの目的は、クレマトリウムIのガス室、とくに、チクロン穴の位置に関する一般的な誤解を正すことである。否定派は、これらの穴は「戦後の捏造」だと主張することが多い。重要な証言だが、ほとんど引用されていないのが、ポーランド人のアダム・ズロブニッキの証言である。「火葬場の屋根にあるチクロンBの導入孔も、1946/47年に再建されたことをよく覚えています。導入孔の跡がはっきり残っていたので、復元するのは簡単でした……こうして、同じ場所に再び小さな煙突の開口部を作ったのです」[27]。証人の言う「小さな煙突」とは、チクロンが流し込まれた穴の周りに建てられた低い木造の構造物のことである。それらもまた、戦後の証言に基づいて復元された(図29)。

図29:図2728と同じ表記をした今日の屋根。Z1は再開されなかったが、その位置は図28とチャンバー内の測定から判断できる(図31と関連する考察を参照)。

図27はガス室の屋根の模式図であり、Z1〜Z5が5つのチクロン穴の位置を、A1〜A2が前述の2つの空気口の位置を示している。


図27:火葬場Iのガス室のチクロン穴と通気口の模式図。「X」は、図28の画像を撮影した写真家のおおよその位置を示している(以下の詳細な考察を参照)。Z4の左端からZ5の右端までの距離は8.5m。

後述するように、証人ズロブニツキが説明した復元作業では、Z2〜Z5が再び開かれたが、Z1は封印されたままであった。1945年以降、屋根は厚いタール紙で覆われているが、図31に示すように、Z1の位置は密閉痕によって室内に確認することができる。チクロン穴が再開される前に、火葬場の屋根の重要な写真が撮影された(図28)。この画像は、封印された4つのチクロン穴の位置を示しており、復元された穴の位置と比較することができる。

図28a:火葬場Iの屋根の写真(「修復前の写真」)、部屋の修復前に撮影(アウシュヴィッツ国立博物館、Stanislaw Luczko Series, sygn.) Z5は写真の外側にある(図30a33参照)。Z1-Z4は封印の跡で容易に識別可能である。
図28b:コントラストを強調したクローズアップと、封印された穴の最も識別しやすい箇所を示す矢印を表示。

図29は、現在の屋根の様子を示している。図30は、現在の写真(a)と修復前の写真(b)を並べたものである。

図30a:現在の写真の詳細
図30b:修復前の写真を拡大・縮小して並べたもの。いずれもZ5は画像の外側にある(30aでは木製カバーのごく隅とその影だけが見える)。全く同じ位置から撮影していないため、画像は正確に対応していない(図33および関連する考察を参照)。現在は防水塗装が施されているため、屋根が高く見える。

ガス室内部のチクロン穴Z1の正確な位置を復元することは容易である。Z1は、Z2 と Z3 を結ぶ直線の交点と、屋根の縦辺に垂直でZ4を通る直線(図27図28参照)にある。まさにこの場所には、四角い穴を塞いだ跡がはっきりと残っている(図31)。

図31:戦後の修復で再開されなかった密閉されたままのチクロン穴Z1。室内にて撮影。屋根の上からでは、厚い防水シートで覆われているので、封印の跡を見ることはできない。

他の2カ所では穴が塞がれていたが、これは円形の換気口だった(図32)[28]。

図32aと32b:火葬場Iの天井にある換気口の密閉化。これらの開口部には、ガス室内の空気を入れ替えるために使われた円形の通気口がある。なぜ、いくつかの鉄筋が32bの開口部を横切っているのかは不明である。(翻訳者註:鉄筋が開口部を横切っているのは、換気口を粗雑に開けただけで、換気のためには考慮する必要のない鉄筋の切断を行わなかっただけだろう。aは鉄筋を切断しているようであるが、作業が雑なので切れ端が残っている)

最後に、ズロブニッキの証言を検証するために、屋根の写真(図28)と復元された穴、通気口A1、A2、オリジナルZ1の寸法がよく一致する位置を探し出してみた。これは、カメラの数学的モデルをシミュレートし[29] 、最適化プログラムを用いて、写真内の特定の目印と数学的モデル内の対応する位置の最適な一致を求めることによって実現された。図33に描かれているランドマークは、Z1〜Z4とA1、A2の角が最も判別しやすい。

図33:計測したランドマーク(穴の角)と修復前の写真を数理カメラモデルでマッチングさせたレンダリング。青色で描かれた座標系をZ4コーナーに配置した場合の計算結果。赤い四角で示したレンダリングの目印は、現在の屋根の状態で測定した通気孔とチクロン穴に対応する。写真とレンダリングが一致し、チクロンホールが確かに元の位置で再開されたことが証明された。Z5は写真の外側にあり、レンダリングと一致する(写真左の赤い四角)。

我々はこれらの目印に相当する位置を、現状の屋根の上でメジャーを使って計測している。最適化プログラムにより、モデルの目印の位置は小さな赤い四角で示され、写真と非常によく一致していることが確認された。

図34:カメラ/目の画像へのワールド ポイントの投影。実際には、像面は光学中心の後方に位置している。しかしながら、現実世界のオブジェクトと順序が逆転しないように、像面より手前に描くのが通例である。

Z5の位置は、写真外(左)の赤い四角に相当し、実際、写真では見えない(図30も参照)。撮影者の位置は、Z4のコーナーの目印と比較して、直交座標系を屋根に合わせ、x軸を屋根の横(幅)方向に、y軸を屋根の長手方向に、z軸を上向きにした以下の位置に決定した。この座標系に対して、撮影者の回収位置は (-2.675, -5.575, 0.75 m) であり、カメラ平面に対する屋根の角度は x-y 方向で 0.725, y-z 方向で 0.175 である(角度はラジアンで表される)。つまり、撮影者は屋根の角(図27参照)の左側、やや手前の傾斜した土手の上に立っていたことになり、z座標の値が低くなっている(撮影者も膝をついていたか、カメラを三脚に取り付けていた可能性がある)。

このレンダリング図では、元の屋根の穴と既存の屋根の穴が見事に一致しており、ズロブニッキの証言が確かに正確であることが証明されている。屋根にあったチクロン穴は、防空壕に転用された際に塞がれ、修復の際に(Z1を除いて)再び開かれたのである。


翻訳者註:この旧火葬場のチクロン穴の位置・個数に関する議論にはいくつかの問題がある。最も大きな問題は、何人かの証言者の証言によって示されているチクロン穴の数と合っていないことである。少なくとも、著者らの言うように穴が五つとする証言はないようである。これは、ビルケナウの火葬場Ⅱ、Ⅲのガス室のチクロン穴の数について多くの証言から4つと推定できる状況とは異なっている。これに関しては、この記事の翻訳後に、Holocaust Controversiesブログサイトの記事を紹介する。また基本的な問題としては、ズロブニッキは確かに天井の状態を確認して穴を開けたかもしれないが、その塞がれていたかに見えた跡が、実際に使用されたチクロン穴だったかどうかは不明である。別の目的で開けた穴を塞いだだけかもしれず、また穴を開けた時期・塞いだ時期についての記録もない。更なる問題は、後で見るHolocaust Controversiesブログサイトの記事についても問題があり、チクロン穴の数が時期によって違っていた可能性もあることである。例えば、あくまで検証不能の仮説だが、最初は二箇所くらい開けたものの、処刑効率を考慮して後で追加で何箇所か新たに開けた可能性もある(とするなら、証言者によって数が異なっても矛盾ではないことになる)。なお、旧火葬場のチクロン穴についてのマットーニョの議論もあるが、その位置についてはマットーニョは単に「穴の位置が偏っていて不自然」と言っているだけであることに注意したい。マットーニョの議論では火葬場1にあったガス室・チクロンの穴を否定できないことはこちらで示されている通りである。


第五部:透視投影と鉄道写真

図5図6のレンダリングでは、穴の上に「煙突」が見えるので、読者は混乱するかもしれない。透視投影に慣れている人は、穴1〜4はカメラからの距離が長くなっているので、見かけ上の距離は短くなると思うかもしれない。

図35:ジグザグに配置された穴のレンダリング(左)と、直線上に配置された穴のレンダリング(右)。左のレンダリングの距離(視線に対して直交的に引かれた線上での間隔)は、図5図6の穴と穴の間の距離(各図の平面上での間隔)に対応する。

その代わり、1番と2番は比較的近いが、3番は2番よりずっと遠くに見え、4番は3番にとても近く見える。

その理由は、穴の配置がジグザグしているからである。ここで、透視投影について簡単に説明する。画像を取り込む行為は、図34の考え方でモデル化することができる[30]。現実世界の点(「世界点」)を「像面」の点に投影する。この後者の点は、世界点と光学中心、つまり人間の目を結ぶ直線と像面との交点となる。それら図(図5、6)は、上記のモデルと本稿で紹介したデータ(図35)による、「列車写真」の穴の位置のレンダリングである。

終わりに

デイヴィッド・アーヴィングは、ペンギン・ブックスとデボラ・リプシュタットに対する英国高等法院の訴訟において、弁護側の専門家証人であるロバート・ヤン・ヴァン・ペルト教授に対する反対尋問の中心は、チクロン導入穴の問題であった。アーヴィングは疑念を抱かせることができなかった。グレイ判事は、穴が存在したこと、第2火葬場と第3火葬場のガス室が殺人施設として機能していたことを示す十分な証拠があると判決している。

しかし、アーヴィングがガス室に関する証拠に再び挑戦し、自分の主張を裏付ける新しい証拠を約束して、判決を上訴しようとしたとき、ヴァンペルト教授は、それまでに火葬場跡の独自調査を終えていたこの論文の著者にコンタクトをとったのである。ヴァンペルトは、上訴が行われた場合、私たちの仕事(この記事の初期の草稿)を彼自身の専門家による報告書に添付する可能性を示唆した。彼はトロントのヨールズ・エンジニアリングのポール・ズッキが書いた報告書を添付した[31]。その中でズッキは、私たちの穴に関する研究を評価し、「著者らは、開口部が建設中に設置されたという強力で持続可能なケースを提示している」と結論づけたのである。

2001年6月21日、アーヴィングの弁護士エイドリアン・デイビスは、約束したアウシュビッツに関する「新証拠」を取り下げると控訴院に告げた。ヴァンペルト教授は、アーヴィングを抑止したのは弁護側報告の強さであったと考えている。控訴院は、アーヴィングの上訴要求を却下した[32]。

謝辞

ホロコースト歴史プロジェクトは、アウシュビッツ・ビルケナウ国立博物館から許可を得て、チクロン導入孔No.1からクレマトリウムIIのガス室跡に降りた。イエジー・ワロブスキー館長、スタッフ、そして最も親切なガイドであるヴォイチェフ・スモレン氏に非常に感謝している。本研究の貢献者は、ミケル・アンダーソン氏、アルブレヒト・コルトフ氏、ジェリー・マザール氏、マイケル・スタイン氏、および筆者らである。調査は、1998年6月に著者2名(ケレンとマザール)を含むグループによる探索的訪問から始まり、2000年6月と7月にはより大規模なチームによって行われた。2000年10月、ジェリー・マザール氏とハリー・W・マザール氏が3度目の訪問をし、計測を確認した。

© 『ホロコーストとジェノサイド研究』、オックスフォード大学出版局、第18巻、1号、2004年春、68-103ページ。Used with permission.

脚注省略)

▲翻訳終了▲

この調査報告はフォーリソンらをはじめとする修正主義者たちの多くの主張である「No hole?, No Holocaust!」に対応したものであることは明らかです。もちろんこの報告については、修正主義者の反論もいくつかあります。記事中で紹介したマットーニョによる反論がその一つです。

穴がなければホロコーストもなかったことになる、とする修正主義者の言い分は、ホロコースト・ガス室に関する証言、あるいは文書資料などの大量の証拠を一挙に無効化しようとする悪あがきのようなものです。リップシュタットとアーヴィングの裁判では、リップシュタット側の証人であるヴァンペルト教授とアーヴィングがこのチクロン穴を巡ってほぼ一日中議論をしていたというのですから、どれほど修正主義者がチクロン穴に執着しているかが窺い知れます。

このマザールら反修正主義者による調査報告書は見事だと思うのですが、若干不満もあります。その一つは記事中で示した旧火葬場のチクロン穴についてですが、もう一点は反修正主義者の主張に応えていない部分があることです。高い確率で本当のチクロン穴だったと推定される箇所を発見したのはもちろん素晴らしい発見だとは思うのですが、修正主義者がよく主張している「穴はあるがチクロン穴ではない」穴については、ほんの僅かに言及しているだけで、修正主義者のそれらの穴についての主張もまるで紹介しないので、批判・反論にすらなっていません。

オーストラリアの修正主義者であるフレデリック・トーベンが「チクロン穴にしては大きすぎる」穴に降りていく様子。

こうした穴は二箇所あるそうですが、修正主義者の主張している穴は無関係であるとはっきりわかるように示して欲しかったです。なお、以下の自称航空写真専門家であるジョン・ボールの図面は失笑ものです。

ボールは、航空写真で示される3の位置に現地では実際に穴が開いていた、と主張し、当時の航空写真にそれが写っていないことから、穴は戦後の捏造だと主張している。しかし、50センチ四方の穴は当時の航空写真では解像度の限界以下なのでほとんど写るわけはないし、戦後のこのガス室跡は上で示したようにダイナマイトで破壊後なので、穴とされる位置が当時とはズレている可能性すらボールは考慮していない。もちろん、ボールが現地にあった穴と称するものが、戦後に開けられたものであったとしても、報告書にある通りチクロン穴とは無関係のものである可能性もあるので、ボールのこの解析は何の意味もない。失笑を禁じ得ない甚だしい藁人形ぶりである。

とまれ、昨今ではドローン撮影なんかは一般市民ですら簡単に行えるのですから、誰か現地でビルケナウ火葬場の跡地を詳細画像で丁寧に低空撮影してくれないかな?とか思ったりしています。アウシュヴィッツ収容所のドローン撮影動画自体はそこそこあるのですが。

さて、今回は最後に、記事中で紹介したHolocaust Controversiesブログサイトの記事を追加で紹介します。こうした証言を日本では素人が非常に辿りにくいのが難点(ほとんど日本語文献がない)なので、有難いものです。

▼翻訳開始▼

火葬場Iの屋根にあるチクロンB導入孔の数について

ダニエル・ケレン、ジェイミー・マッカーシー、ハリー・W・マザールの論文「ガス室の廃墟:アウシュヴィッツIとアウシュヴィッツ・ビルケナウの火葬場の法医学的調査」(『ホロコーストとジェノサイド研究』、2004年、第18巻、no. 1)の出版によって、アウシュヴィッツ主収容所の火葬室Iの死体安置所のチクロンB導入口数に関するノロノロと燃えていた議論が前進したのである。これはこのトピックに関する最後の言葉にはならなかったが、非常に顕著な貢献であった。

著者は、(確かに矛盾する)すべての証言証拠に反して、下の図に示すように5つのチクロンBホールがあったという、新しい仮説を紹介した(著作権は著者にある)。

マザールらは、1945年の写真の検証をもとに結論を出した。この写真には、防空壕となっていたかつてのガス室の屋根の上の跡が、現在見られる小さな煙突と、まだ封印されている一つの開口部(Z1)と一致しているように見えるのである。

Z1の位置に関する議論には加わらないが(いつもの容疑者(註:これはマットーニョのことだろう)から異論がある)、いずれにせよ、この穴をチクロンB導入孔と呼ぶのは時期尚早であることを指摘しておきたい。死体安置所がガス室として使用されたときにこの穴が存在したと仮定すると、この穴が他の機能としてではなく、導入口の一つとして機能したことはまだ明らかではない。また、その写真(マザールらの論文の図31)を見ても、丸い形も四角い形もあり、どのような形をしていたのかがわからない。そして、実際、ポーランド人によって再建されたわけでもない。したがって、私としては、これをチクロンBの導入孔の証明として受け入れることはできない。残るはZ2-Z5の穴である。

ハンスは以前、この記事の中日本語訳)でクレマ1の穴に関するいくつかの証言を集め、分析しており、私はそれに依拠している。

穴の数が最も多かったのは6個で、ブロードとミュラーが証言している。ブロード(比較的「外部」の観察者)の主張は、同じ大きさと形の密閉された穴が十分にないので、いずれにせよ誇張されたものである。そして、これに関するフィリップ・ミュラーの証言は、ブロードの影響を受けているようだ。さらに、フランクフルト・アウシュヴィッツ裁判でのミュラーの証言によると、(後の著書とは逆に)彼は、アウシュヴィッツ滞在の最初のころ、アウシュヴィッツI「Fischl-Kommando」でわずか6週間ほど過ごしただけである。その後、ブナ、ビルケナウと移動して、火葬場でかなり集中的に働いたので、その前の時期の記憶については、おそらくあまり信頼できないだろう。

ゴリクとパイスは4つの穴について証言した。ただし、4つの穴については、ポーランド復興後の物理的な状況に影響された可能性があることに注意が必要である。

また、穴が2つだったという証言もいくつかある。私は、この中に、二人のSS隊員がチクロンBペレットを注入したというだけのものは含めていない-これだけでは、それ以上の数の穴があった可能性を排除できない。2つの穴について明確に証言したのは、シュタルクとヤンコフスキーである。ハンス(シュタルク)が指摘したように、どちらも穴の数を観察するのに適した配置にあった。しかし、シュタルクは、2名のSS隊員がチクロンBを注入するという一般的な手順によって証言に影響を受けた可能性があり、ヤンコフスキーも、ガス室内部からの観察者でありながら、ほとんど1つか2つのチクロンBの山(1つか2つの開放煙突も)を見る必要があったので、このことが証言に影響を与えた可能性が排除できない。

それから、「2〜3」の開口部について証言したオーマイヤーも、穴の数を知ることができる立場にあった。

最後に、グラブナーが1945年に発表した声明の中で、フリッチェの主導で作られた3つの四角い穴について、非常に明確に言及していることがある。上記の中で、私はグラブナーの発言が最も正確であることを期待している。該当期間の政治部部長として、火葬場の責任者であったからであり(G.モルシュ、「強制収容所の組織・管理構造」、in W. ベンツ、B. ディステル(編集)、『恐怖の場所-国家社会主義者強制収容所の歴史』, 2005年、Band 1、S.66;A. レーシック、「アウシュビッツ強制収容所の組織構造」 in W. ドゥルゴボルスキー、F. ピーパー(編集)、『アウシュビッツ1940-1945 収容所史の節目となる問題』, 1995年、tom I、s.129)、そして、その技術的な細部にまで積極的に参加し(彼の書簡から知ることができる)、そこでのガス処刑にも参加したのである。

これまでのところ、2、3、4つという証言は、現在4つの「復元」された煙突が存在することと矛盾しない。もちろん、2つ、3つの穴である場合は、復元が部分的に間違っていたと結論づけざるを得ない。ポーランド人が復元に際して犯した他の過ちを考えると、ズロブニッキの説明にもかかわらず、この仮説はあながち間違ってはいない。このような場合、以前からあった穴が別の機能を持つようになったのか、それとも新たな穴が作られたのかは、現在の証拠ではわからないままである。

『資料から見るKLアウシュヴィッツにおけるユダヤ人絶滅のはじまり』(2014年)で、バルトシークらは、1941年9月25日の作業カードに記載されているクレマIの「luftdichte Klappen」が4本の煙突のカバーであると主張している(p.27、p.52)。しかし、著者はそれを立証せず、単に主張しているに過ぎない。私たちは、完全に分離可能なカバーが「Klappe」と呼ばれるとは思わない。Klappeとは、通常、一端が固定されているものである。

[Klappe:] bewegliche Vorrichtung zum Schließen einer Öffnung; Gegenstand, mit dem sich etwas verdecken, auf- und zumachen lässt
(開口部を閉じるための可動装置;何かを隠したり、開いたり閉じたりすることができる物体)
[klappen:]etwas, was mit etwas auf einer Seite verbunden ist, in eine bestimmte Richtung bewegen(片側にあるものとつながっているものを、ある方向に動かすこと)

この場合、klappeは換気フラップであることが容易に想像できる。このことは、文書の裏面に記載されているように、それが黒い鉄板から作られることになっていたことからも確認できる(C.マットーニョ、『アウシュヴィッツ:火葬場Ⅰ』2005年、p.121 に掲載されている)。したがって、この文書は、チクロンBの穴の数の問題では証拠となり得ない。

では、現存する4本の煙突(Z2〜Z5)の位置を、改築前の火葬場内の状況と比較してみよう。

短い分析をする前に、普通なら使わないようなshould-woulda-coulda(たられば)タイプの議論であり、「確かな」証拠と並べると、それに勝てないことを警告しておきたい。しかし、まさに証拠の希少性と不確実性を考えると、そのような議論は「確率の推定値」を計算する上で役割を果たすことができる。

Z3の位置がそれほど意味をなさないので、4穴の仮説が最も弱いように思える。 確かに、これを説明するためにその場しのぎの仮説を立てることはできる(例えば、ドアの前にいた人々が先に死んだはずだ)。しかし、この配置は、一応、オリジナルの穴の一つでないことを示している(前述のように、本当に明確で優れた証拠によって真正性が確認されない限り、この場合、それはないのだが)。

我々には、2穴か3穴が残されている。しかし、2穴の組み合わせもそれほど合理的とは思えない。Z4とZ5は屋根の片側にある。そして、Z2&Z4やZ2&Z5は、チクロンBペレットを適切に分配するためには良い組み合わせとは言えない。そのため、最も対称的で良好なガス分布が得られるのは、Z5&Z2&Z4と思われる。

結論から言うと、上記の組み合わせはそれぞれ可能だが、最も理にかなっているのは3穴のものである。これは、この詳細を知るのに最も適した立場にあった証人、グラブナーの証言とも一致する。

したがって、クレマIの屋根にはもともと3つの穴があったと推測される。もちろん、出典の性質上、新しい証拠が確認されるか反論されるまでは、推測にとどめなければならないだろう。

投稿者セルゲイ・ロマノフ  2016年02月14日(日)

▲翻訳終了▲


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?