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アウシュヴィッツの絶滅に関する証拠一覧

ネット上のホロコースト否定論者はしばしば次のように言います。

信じ難いことにホロコーストには証拠が全くないのです。これは本当なのです

実際、Yahoo!知恵袋で見たことがあります。修正主義者の代表者であるロベール・フォーリソンが「たった一つでいい!ガス室の証拠を見せてくれ!」みたいなことを言っていたのは有名な話です。

実際には、これはホロコースト否定論者による単純なトリック論法で、膨大な証拠があるにも関わらず、それらを一切合財証拠と認めない(ネットのホロコースト否定派はそもそもどんな証拠があるかも知らないことが多い)態度を取ることによって成立している詭弁に他なりません。つまりは、否定論者が証拠を証拠とは認めないが故に「証拠が全くない」などと戯言を言っているだけなのです。

その上でさらに、ガス室の存在を否定する証言者はほとんどいないのにも関わらず、僅かながらに存在するガス室の存在を否定する証言者を取り上げて、「ガス室の存在を否定する証言者さえ存在するのである!」と心象膨大に表現するのです。

では具体的にどんな証拠があるのでしょうか? 

今回はホロコーストの証拠のうち、アウシュヴィッツでのユダヤ人絶滅に関する膨大な証拠リストの紹介です。これは、Holocaust Controversiesブログサイトの中の人気記事の一つであり、500項目以上のリストになっています。著者のハンス・メッツナーが書いているように、当然ですが膨大な量のある証拠の中の一部でしかありません。特に証言は、もっとずっと多いことはよく知られていると思います。例えば、以下で私が翻訳してまとめているものもあります。

今回の記事はリストだけなので、それを読むだけでは何のことか分かりにくいものも多くあります。リンクは含めてありますし、いくつかは私の方で日本語訳をしたものをリンクでつけていますので、ぜひそちらなどを参考に、内容の理解に努めていただけるといいかと思います。

強調表示や、資料画像などはこちらで独自に追加したものです。

追記:元記事の各情報説明の元となっている参照文献のいくつかは、元記事にあるその文献名でググると、ネットで公開されているものもいくつかありますので、気になる方はググって探してみてください。

▼翻訳開始▼

アウシュビッツおよびアウシュビッツ・ビルケナウでの大量殺戮に関する公開証拠の索引

以下は、アウシュヴィッツ収容所複合体における大規模な殺戮、とくに(これに限定されるわけではないが)殺人ガス処刑に関する証拠のリストである。その目的は、アウシュヴィッツでの大量絶滅に関して公表されている証拠の範囲、多様性、規模を明らかにすることである。

この索引にはすでに多くの資料が含まれているが、まだ完全、あるいはほぼ完全とは言い難い。そのため、新しい資料が入手されれば、さらに項目が追加される予定である。このブログの読者も、追加や訂正があれば提供していただきたい。また、未発表の資料がここに公開されるのであれば、喜んで掲載したい。

参考文献は可能な限り短縮した。DVD「Digitale Bibliothek 101: Der Auschwitz-Prozess(デジタルライブラリー101:アウシュビッツ裁判)」 は [Auschwitz trial DVD] と表記しており、 この情報源から引用された説明はすべて、こちらからもアクセスできる。ホロコースト否定論者カルロ・マットーニョの著書は以下のように略されている: ACI - アウシュヴィッツ: 火葬場I、ASS - アウシュヴィッツ:健康管理、ATFG - アウシュヴィッツ: 最初のガス処刑、ATCFS-アウシュヴィッツ: 健全な真相、IFCDA - アウシュヴィッツの火葬炉、STIA - アウシュビッツでの特別処置、TBOA - アウシュヴィッツのブンカー。


当時のドイツ文書(102)

  • 1941年7月14日、トプフ社の技術者パウル・エルドマンからマウトハウゼン建設事務所宛の書簡で、2マッフル炉に「過負荷をかけずに」遺体1体あたり33~40分の火葬速度であったことが書かれている。[アウシュビッツに関するマットーニョの反論 その1:屋内火葬日本語訳)]

  • 1941年10月30日、アウシュヴィッツ建設局からの、トプフ社の3マッフル炉5基で1時間以内に「60体を火葬することができる」という報告[バートシク、ビルケナウ収容所の起源、p.170、または アウシュビッツに関するマットーニョの反論 その1:屋内火葬日本語訳)]

  • 1942年3月31日の「5つの馬小屋バラック|特別処置」の建設リスト[マットーニョ、STIA、p.36]

  • 1942年6月9日、アウシュヴィッツ中央建設局からSS-WVHAへの書簡「ユダヤ人の特別処置のために、私物(註:これは原文には「effect」とあるもので、ナチス強制収容所内では、ユダヤ人から奪った荷物をそれ専用の「カナダ」と呼ばれる区画で整理していたのだが、その作業項目を「エフェクテン・カンマー」と当時呼んでいたことを知っていたので、そこから類推した訳語である)の収容のための4つの馬小屋バラックの建設」[バートシク、『ユダヤ人絶滅の始まり...』、p.109

The Beginnings of the Extermination of Jews in KL Auschwitz in the Light of the Source Materials
  • 1942年6月30日、「特別処置のための私物バラック3組」のバラックリスト[バートシク、『ユダヤ人絶滅の始まり...』、p.118

  • 1942年7月8日付のレンツ社による「第2[?]ガス室の2つのドア」工事リスト[バートシク、『ユダヤ人絶滅の始まり...』、p.66

  • アウシュヴィッツ建設局からシュトゥットホーフ建設局への、3つのマッフル炉での「トプフ社によると、焼却にかかる時間は約半時間」についての書簡[マットーニョ、IFCDA, p.424

  • 1942年7月15日の「ビルケナウの囚人の特別処置のための4つのバラック」に関する費用見積もり[バートシク、『ユダヤ人絶滅の始まり...』、p.114

  • 1942年7月15日の「被拘禁者の特別処置」のための5つのバラック」に関する説明報告書[マットーニョ、STIA、p.37]

  • 1942年7月17日の「目的:特別処置、タイプ: 260/9、必要数:5、建設済み:3、まだ建設中、2」に関するバラックのリスト[バートシク、『ユダヤ人絶滅の始まり...』、p.121]

  • 1942年8月17日の「ゾンダーコマンドの475人の囚人と25人の幹部」に関する囚人の詳細リスト [バートシク、『ユダヤ人絶滅の始まり...』、p.69

  • 1942年8月21日付「特別行動のための入浴施設」に関するフリッツ・アートルのメモ[シューレ、『産業とホロコースト』、p. 440;カラースキャン、p.1 & p.2

Internationale Wanderausstellung Industrie und Holocaust: Topf & Söhne – Die Ofenbauer von Auschwitz
  • 1942年8月20日から22日にかけての「ゾンダーコマンドのための設備および供給ライン」に関する電気技師部隊の作業[バートシク、『ユダヤ人絶滅の始まり...』、p.75

  • 1942年8月26日、「特別処置用の材料(チクロンBバックアップリンク)」に関するラジオ信号[アウシュビッツからの死の本:残り物、第1巻、p.144]

  • 1942年9月8日付クルト・プリュファーからの書簡マッフルの数(37基、1日あたり1850体の死体処理能力)はまだ十分ではない;一刻も早く、より多くのオーブンを届けるべきだ」[シューレ、『産業とホロコースト』、p. 442]

  • 1942年9月14日、アーサー・リーベヘンシェルの「特別行動用トラック5台」旅行許可証 [マットーニョ、STIA、p. 135]

  • 1942年9月14日のフリッツ・サンダースによる「個々のマッフルに数体の死体を詰め込む」という報告[シューレ、『産業とホロコースト』、p. 443]

  • 1942年9月15日、「野外炉実験ステーション ラインハルト作戦」に関するラジオ信号[ヨハネス・トゥヘル、『強制収容所監察官 1938-1945』、p. 176, back-up link

  • 1942年9月17日、ヘウムノの「特別施設の視察」と「物質用ボールミル」の発注に関する報告書 [シュムエル・クラコフスキ、『ヘウムノ/クルムホフ死のキャンプ:「最終的解決」の始まり』、p. 120, 英訳

  • 1942年9月23日、オズワルド・ポールの「特別な任務、それについて我々は言葉を発する必要はない」というスピーチ。[ヴァンペルト報告書『VI ジェノサイドの青写真』(日本語訳)]

  • 1942年9月23日、オズワルド・ポールによる「ラインハルト・ステーション2」でのアウシュビッツ訪問スケジュール[バートシク、『ユダヤ人絶滅の始まり...』、p.81

  • 1942年10月5日、「ユダヤ人の特別処置のための扉」に関する命令[マットーニョ、STIA、p. 48]

  • 1942年10月13日、カール・ビショフからSS-WVHAへの書簡「特別行動によって生じた状況のために、火葬場の建設はこの7月に直ちに開始されなければならなかった」[バートシク、『ユダヤ人絶滅の始まり...』、p.226

  • 1942年10月26日、フリッツ・サンダースによる「大量使用のための連続作動式死体火葬炉」に関する特許草案 [シューレ、『産業とホロコースト』、 p.450]

J-C・プレサック、『アウシュヴィッツ ガス室の技術と操作』、p.101より
  • 1942年10月28日の「アウシュヴィッツ捕虜収容所(特別処置の実施)」の建設プロジェクトのリスト[フロリアン・フロイントら、「アウシュヴィッツ・ビルケナウ死の収容所の建設」]

  • 1942年11月4日、カール・ビショフによる火葬場2の「特別な貯蔵室」に関する報告書 [ビルケナウの第2、第3火葬場の「特別な貯蔵室」(Sonderkeller)について書かれた新しい文書日本語訳)]

  • 1942年11月27日、火葬場2の「特別な貯蔵室」に関するフリッツ・ヴォルターのメモ[シューレ、『産業とホロコースト』、p. 180]

  • 1942年12月8日、ビルケナウの「目的:特別処置、(旧)タイプ:260/9、必要:5、建設済み:5」のバラックの割り当て[バートシク、『ユダヤ人絶滅の始まり...』、p.130

  • 1942年12月9日の当直士官による「特別部隊Iから6人の捕虜が脱走」についての報告[チェヒ、『カレンダリウム』、p.355]

  • 1942年12月16日のハインリッヒ・キンナの報告書(12)「収容所の負担を軽減するために、身体障害者、馬鹿者、不具者、病人を短期間のうちに清算によって収容所から排除しなければならない...ポーランド人は、ユダヤ人に適用された措置に反して、自然死しなければならない」[IPN GK 69/169、ジャジンスカ、『親衛隊特別研究所』、 p.423に掲載、 「キンナ報告-アウシュヴィッツにおける不適格ユダヤ人の殺害に関するドイツ文書」(日本語訳)も参照。]

  • 1942年12月16日のカール・ビショフによる「個々の火葬場とその他の特別施設」に関する説明報告書 [マットーニョ、STIA、p.61]

  • 1942年12月18日、「ゾンダーコマンド2」へのコークス納入の領収書[バートシク、『ユダヤ人絶滅の始まり...』、p.205

  • 1943年1月5日の「アウシュヴィッツにおけるユダヤ人問題の解決」に関するルドルフ・ヘスの指示[チェヒ、『カレンダリウム』、p.845]

  • 1942年10月26日付書簡で発注された捕虜収容所の火葬場Iのドアは、特別措置の実行のために緊急に必要である」に関する1943年1月13日付カール・ビショフからの書簡[マットーニョ、STIA、p.91]

  • 1943年1月21日、火葬場2の「脱衣室」に関するエドワード・ヴィルツからの書簡[マットーニョ、ATCOS, vol. 1, p. 72]

  • 1943年1月27日、ビルケナウでの「特別行動の実施」に関するカール・ビショフからハンス・カムラーへの書簡[マットーニョ、STIA, p. 131]

  • 1943年1月29日、ハインリヒ・スウォボダによる火葬場2での「同時特別処理による火葬」に関するメモ

  • 1943年1月29日、火葬場2の「ガス処理用地下室(Vergasungskeller)」に関するカール・ビショフからの書簡[プレサック、『技術』、p. 432日本語訳)]。

https://phdn.org/archives/holocaust-history.org/auschwitz/19430129-vergasungskeller/
  • 1943年2月6日のオズワルド・ポールによる「ユダヤ人再定住による織物サルヴェージの実現」に関する報告[NO-5742、英文

  • 1943年2月10日のカール・ビショフのメモ、「特別部隊1、馬小屋3棟」と「特別部隊2、馬小屋3棟」を「身の回り品の保管用」として利用できるようにする[バートシク、『ユダヤ人絶滅の始まり...』、p.135

  • 1943年2月10日、「ビルケナウのゾンダーコマンドのために」200キロの塩素化石灰の注文 [バートシク、『ユダヤ人絶滅の始まり...』、p.203

  • 1943年2月10日、「特別行動のための歯科医の要請」に関する収容所の雇用記録簿[バートシク、『ユダヤ人絶滅の始まり...』、p.209

  • 1943年2月12日、カール・ビショフからルドルフ・ヘスへの「第6の火葬場...48.75×3.76mの開放型焼却室」に関する書簡。 [シューレ、『産業とホロコースト』、p. 450]

  • 1943年2月17日の第2火葬場の「ガス室」に関するフリッツ・ザンダーからのメモ[シューレ、『産業とホロコースト』、p. 456、バックアップ12ページ目]

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  • 1943年2月13日、火葬場4と5のための「12個のガス気密ドア約30/40」に関する命令[プレサック、技術、p. 444日本語訳)] 

  • 1943年2月15日、火葬場4の「ガス気密ドア用210アンカー」に関する命令 [プレサック、技術、p.448日本語訳)]

  • 1943年2月15日、ヨゼフ・ヤニシュによる、火葬場2の「脱衣のために、地下室の入り口の前に馬小屋のバラックが建てられた」というメモ[マットーニョ、ATCFS、vol.1、p.74]

  • 1943年2月19日、第4火葬場の「4つのタイトな扉」に関する命令[プレサック、技術、p. 452日本語訳)]

  • 1943年2月20日、ハインリッヒ・シュヴァルツからSS-WVHAへのテレックス。「男性は病弱であったため、女性はほとんどが子供であったため、特別に収容された」[アウシュヴィッツの死の本、文書56、バックアップ

  • 1943年2月24日、火葬場4と5用の「ガス気密ドア12枚、約30/40」に関する資料リスト[プレサック、技術、p. 444日本語訳)] 

  • 1943年2月24日付、火葬場4および5用の「ガス気密ドア12枚」の納品書[プレサック、技術、p. 443日本語訳)] 

  • 1943年2月28日の火葬場4の「ガス気密窓の取り付け」に関する作業時間表[プレサック、技術、p.445日本語訳)]

  • 1943年3月2日の火葬場4の「ガス室のコンクリート」に関する作業時間表 [プレサック、技術書、p.446日本語訳)]

  • 1943年3月2日、火葬場2の「シアン化水素残留物の表示装置」に関するトップフからアウシュヴィッツ中央建設事務所への書簡[プレサック、『アウシュビッツの火葬場』、p. 92]

  • 1943年3月5日、火葬場2用の「ガスドア用ハンドル」の注文[プレサック、技術、p. 433日本語訳)]

  • 1943年3月5日、ハインリッヒ・シュヴァルツからSS-WVHAへの「特別処置に送られた918人の女性と子供」に関するテレックス[ブルメンタール、ドキュメント・資料、第1巻、p. 109

  • 1943年3月8日、ハインリッヒ・シュヴァルツからSS-WVHAへの「 151人の男性と492人の女性と子供が特別処置を受けた」ことについてのテレックス。[ブルメンタール、ドキュメント・資料、第1巻、p. 110

  • 1943年3月6日、カール・ビショフからトップフへの、火葬場2と3の「予熱室1」と「脱衣室」に関する書簡[プレサック、『技術』、p.433日本語訳)]。

  • 1943年3月14日のハインリヒ・メッシングによる、火葬場2の「脱衣室2」に関する作業時間表[プレサック、『技術』、p. 434日本語訳)]

  • 1943年3月20日の火葬場2のバラックを示すビルケナウ収容所の平面図[プレサック、『技術』、p. 226日本語訳)、p. 462日本語訳)]

  • 1943年3月25日の火葬場2の「死体安置用地下室1への熱風供給装置」に関するメモ[プレサック、『技術』、p. 230日本語訳)]

  • 1943年3月29日、火葬場4と5の30×40cmの窓(すなわちガス気密窓)用の4つの「鉄格子」に関する中央建設事務所からの発注[マットーニョ、ATCFS、p. 169]

  • 1943年3月30日の[ハンス?]キューネマンの「「ユダヤ人の再定住」行動に関する当直証言。彼は、特別区画1[So. Kdo. I]と火葬場2に蓄積された私物類を監督し、収集し、追い払った」[ペルツとサンドキューラー、『アウシュヴィッツと「ラインハルト作戦」1942-45年』、p. 296]

  • 1943年3月31日のカール・ビショフによる、火葬場4と5の「3つのガス気密ドア」と、火葬場2と3の「死体安置室1のガスドア100/192...二重8mmガラスと覗き穴付き」に関する命令[プレサック、『技術』、p. 436日本語訳)]

  • 1943年3月31日の火葬場2の「ガスドア」に関する移送文書[プレサック、『技術』、p.437日本語訳)]

  • 1943年3月31日、火葬場2地下の「4つの金網のスライド装置」と「木製のカバー」に関する移送目録[プレサック、『技術』、p. 430日本語訳)]

  • 1943年4月6日、火葬場4と5のための「ガス気密ドア用の24個のアンカーボルト」に関する命令[プレサック、『技術』、p. 454日本語訳)]

  • 1943年4月13日のハインリヒ・メッシングによる、火葬場3の「脱衣室」に関する作業時間表[プレサック、『技術』、p. 439日本語訳)]

  • 1943年4月13日の火葬場IIの吸気・排気装置(温風供給)の拡張」に関する資材リストルドルフ報告、第2版]

  • 1943年4月16日、火葬場4と5のための「5つのガスドアのための金具用鉄」の発注[プレサック、『技術』、p. 438日本語訳)]

  • 1943年4月16日、火葬場3のための「ガスドア1つ取り付け」に関する指示[プレサック、『技術』、p. 439日本語訳)]

  • 1943年4月16日、火葬場5の「ガスドアの取り付け」に関する作業時間表[プレサック、『技術』、p.454日本語訳)]

  • 1943年4月17日付のカール・ビショフからルドルフ・ヘスへの書簡「特別部隊(Sonderkommando)IIと火葬場IIIに建てられた馬小屋バラックは、部隊の宿泊施設として緊急に必要である...特別部隊IIの稼働が停止し、火葬場IIIの対応する宿舎も利用できるようになった後、バラックをいつ解体できるかについて情報を求む」[バートシク、『ユダヤ人絶滅の始まり...』、p.139

  • 1943年4月20日の「ゾンダーコマンドから逃亡した2名のユダヤ人」に関するルドルフ・ヘスからの命令[Standort- und Kommandanturbefehle, p.251]

  • 1943年4月27日の中央建設事務所からの「50 x 70 cmの窓格子12枚」(すなわちガス気密窓用)に関する命令[プレサック、『技術』、p. 441日本語訳)]

  • アウシュヴィッツでの労働に適さないユダヤ人の絶滅に関する1943年5月のアルフレッド・フランケ=グリクシュの報告アウシュヴィッツ・ビルケナウでのユダヤ人の大量絶滅に関するナチス文書を参照(日本語訳)]。

  • 1943年5月9日のカール・ビショフの「『特別行動1』からの2つの馬小屋バラック」に関するメモ[バートシク、『ユダヤ人絶滅の始まり...』、p.144]

  • 1943年6月2日の地図、ブンカー1と2の絶滅施設付近の「禁止区域」[プレサック、『アウシュヴィッツの火葬場』、文書21、「ビルケナウの立ち入り禁止区域」も参照]

  • 1943年6月15日、グリュックスからリーベヘンシェル経由で、「特別な建物」は「その目的に従って、あらゆる人に見つめられることのないようにオフサイドに配置されるべきである」という命令が出された。[NO-1242]

  • 火葬場3の「14のシャワー」と「1つのガス気密ドア」に関する1943年6月24日の移送目録[プレサック、『技術』、p. 430日本語訳)]

  • 1943年6月28日、カール・ビショフからハンス・カムラーへの「既存の火葬場の収容能力...24時間で...4756人」についての報告[シューレ、『産業とホロコースト』、p. 460]。

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  • 1943年8月6日、ハンス・オーマイヤーの「特別行動に際して行われた作業」に関する命令[Standort- und Kommandanturbefehle, p. 320] 。

  • 1943年8月21日の「特別収容」(ドイツ語ではG.U.と略記)された女性囚人のリスト(マリア・マンデルの署名)[『アウシュヴィッツの死の本』、文書32、「1943年8月21日のアウシュヴィッツ・ビルケナウ選別リスト」も参照のこと]

  • 1943年12月24日、中央建設部から収容所管理部への「特別行動の貯蔵品」に関する書簡[マットーニョ、STIA、p. 74]

  • 1943年12月24日、「狭軌の資材、すなわち線路と貨車が第1ゾンダーコマンドに提供された」という収容所管理部から中央建設部への書簡[バートシク、『ユダヤ人絶滅の始まり...』、p.144

  • ハンス・コリからマイダネク強制収容所宛の書簡、複数体の火葬を採用することによって、彼のオーブンの火葬時間を死体1体につき30分に半減できること[マットーニョ、IFCDA、p. 422

  • 1944年2月4日、アウシュヴィッツ中央建設部から収容所管理部への「ゾンダーコマンド1の貸与バラックはもはや必要ない」という書簡[バートシク、『ユダヤ人絶滅の始まり...』、p.147

  • 1944年2月9日付の「毎日の遠征を終えた後、シュランメは「特別任務 」のために遠征に使われた、」ディレフスキは「収容所での「特別任務」の遂行に大きく関与し、昼夜を問わず勤務していた」についての提案リスト

  • 1944年3月18日、アウシュヴィッツ中央建設部宛の収容所管理部の書簡「ビルケナウのブンカーIに4 x 6 m² [sic] 1 KVのケーブルを提供することを要請するが、これはもはや必要ない」[バートシク、『ユダヤ人絶滅の始まり...』、p.101

  • (註:1944年5月21日)カムラーからアウシュヴィッツ中央建設事務所への電報「特別行動ハンガリーのために、外れの壕に馬小屋3棟を直ちに建設」[バートシク、『ユダヤ人絶滅の始まり...』、p.149

  • 5月20日付のアウグスト・ビエリッシュの職務記録[リーデ、『NS-Verbrecher und Staatssicherheit』、p.262]、1944年5月24日のゴットフリート・ヴァイセと5月25日のゲルハルト・アッペル[『ファシズム - ゲットー - 大量殺戮』、p. 373]:「私はユダヤ人の疎開を実行するための措置の間、そして私の同志に対しても、無条件で秘密を保持する

  • 1944年5月25日、ハンス・カムラーから中央建設事務所への電報「特別行動ハンガリー/プログラム3馬小屋バラックを外れの壕に直ちに建てる」[バートシク、『ユダヤ人絶滅の始まり...』、p.150

  • 1944年6月17日、ヴェルナー・ヨータンからの「火葬場のカモフラージュと第二の柵の設置による保安対策」に関するメモ[『アウシュヴィッツ 1940-1945]、第3巻、p. 183]

  • アウシュヴィッツ・ビルケナウの火葬場の「807名のストーカー」と「30名の木材搬出作業員」に関する1944年7月28日の労働力報告[同様の報告は、それ以降の日付にも存在する、こちらを参照]

  • 1944年9月7日(実際には10月)の「特別詳細(火葬場)」に関する脱出報告[原文はアウシュヴィッツ国立博物館のウェブサイトから]

  • 1944年10月のビルケナウの女性収容所における、捕虜の損失としての「特別処置(略称SB)」に関する人数レポート

  • 1944年10月3日[『アウシュヴィッツの小冊子 8』、p.115]

  • 1944年10月4日[アウシュヴィッツの死の本: 画像はアウシュヴィッツ博物館ウェブサイトより]

  • 1944年10月6日[バウム、『アウシュヴィッツでの抵抗』、p.28]

  • 1944年10月8日[コゴン、『毒ガスによるナチスの大量殺人』、 p. 223

  • 1944年10月15日[バウム、『アウシュヴィッツでの抵抗』、p.29]

  • アウシュヴィッツへの不適格ユダヤ人の送還」および「アウシュヴィッツへの病人移送」に関する1944年10月25日付ダッハウ収容所管理者への書簡[バックアップはこちら

  • 1944年10月31日付、ダッハウ収容所管理官宛書簡「病気と不適格の囚人1020人のアウシュヴィッツ移送」[バックアップはこちら

ドイツ軍と親衛隊員の当時の証言(2)

  • 1942年8月から11月にかけての親衛隊医師ヨハン・クレーマーの「特別行動」と「絶滅収容所アウシュヴィッツ」に関する日記[アウシュヴィッツ国立博物館、SSが見たKLアウシュヴィッツ]

ヨハン・パウル・クレマーの日記
1942年9月1日~5日

この文書は、ナチスの絶滅プロセスに関する最も有名な「内部情報」見解の1ページである。

クレーマー医師は1942年8月30日にアウシュビッツに到着し、病気になった医師の代わりを務めた。彼の日記が注目に値するのは、ガス処刑のプロセスが明確に記されていることだけでなく、クレーマーがどの日記にも見られるような日常的な事柄(どこで昼食をとったか、何を食べたか、どんな映画を見たか、等)を綴り続けているからである。

この日記のページはわずか5日間で、彼が初めて目撃した「特別行動」(ガス処刑)も含まれている。

1942年9月1日
将校の帽子、ベルト、サスペンダーをベルリンに送る。午後には、シラミに対するチクロンBによるブロック・ガス処刑に立ち会った。
1942年9月2日
初めて、午前3時に外で特別行動に参加した。ダンテの『地獄篇』は、これに比べるとほとんど喜劇のようだ。彼らはアウシュビッツを無意味に絶滅の収容所とは呼ばない!
1942年9月3日
初めて、嘔吐を伴う下痢と疝痛発作に襲われた。この収容所にいる全員を襲った。一滴も飲んでいないのだから、水のせいではあるまい。また、白いパンしか食べていない人(特別食)も発症しているので、パンにも責任はない。おそらくその理由は、不健康な大陸性気候と非常に乾燥した熱帯性気候、そして埃と大量の害虫(ハエ)だろう。
1942年9月4日
下痢対策:1日お粥とペパーミントティー、その後1週間の特別食。炭とタナルビンを間隔をあけて服用。すでにかなり良くなっている。
1942年9月5日
午前中は、女性強制収容所(ムスリム(註:ガリガリに痩せこけた囚人を指す俗語))の特別行動に参加した; 最も恐ろしい恐怖だ。ティロ軍曹(軍医)が私に、これは「世界の肛門」だと言ったのは正しかった。夕方8時ごろ、オランダからの特別行動に参加した。シュナップス1リットルの5分の1、タバコ5本、サラミ100g、パン1個という特別な配給があるため、男たちは皆、このような行動に参加したがっている。今日と明日(日曜日)は仕事だ。

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  • ハインリヒ・キッテル(軍司令官)の証言、1944年12月のハンス・シェーファー(中将)との会話(イギリス軍捕虜)、「上部シレジアでは、彼らは単に組織的に人々を虐殺した。彼らは大きなホールでガス処刑された」[アンドリュー・ロバーツ、『ジェノサイドの将軍たち』]。

ドイツの当時の写真(4)

  • アウシュヴィッツの火葬場5前で行われた、労働不適格者として選別されたユダヤ人の身分証明係による写真

  • アウシュヴィッツの火葬場2の前で、労働不適格者として選別されたユダヤ人の身分証明係の写真

  • ハンガリー系ユダヤ人から押収した靴のアウシュヴィッツ身分証明係による写真、背景は火葬場5からの大煙。

当時のゾンダーコマンドの写真(2)

  • 火葬場5前の迷彩フェンスで囲まれた区域で服を脱ぐ女性たちの写真クローズアップ:テレサ・シヴィエボッカ、『写真で見るアウシュヴィッツの歴史』、この写真についての考察はこちら日本語訳)を参照]。

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当時の航空写真(アウシュビッツ・ビルケナウの航空写真も参照(日本語訳))(6)

  • 1944年5月31日の連合国側航空写真

  • 1944年6月26日の連合国側航空写真

  • 1944年7月8日のドイツ空軍による写真

  • 1944年8月20日および23日の連合国航空写真

  • 1944年8月25日の連合軍航空写真

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  • 1944年9月13日の連合軍航空写真

当時のゾンダーコマンドの手書き文書(アウシュヴィッツ・ビルケナウでの大量絶滅に関する当時のゾンダーコマンドの手書き文書日本語訳)も参照のこと)(6)

  • チャイム・ハーマン、1945年2月発見[『残虐な犯罪の中で』、p.259ff.]

  • ザルメン・グラドウスキ、1945年3月5日に第2火葬場で発見[『残虐な犯罪の中で』、p. 136 ff.]、1945年夏に発見された第2稿[グラドウスキ、『地獄の中心で』](ザルマン・グラドウスキーの原稿の一部はこちらで読めます)

  • 1945年4月、第3火葬場で発見されたレェブ・ラングフュス[『残虐な犯罪の中で』、p.68ff.]

  • 作者不詳またはレェブ・ラングフュス、1952年に発見[『残虐な犯罪の中で』、p. 177 ff.]

  • ザルメン・ルヴェンタール、1961年7月28日発見[『残虐な犯罪の中で』、p. 193 ff.]

  • マルセル・ナジャリ、1980年10月24日、第3火葬場で発見[アウシュヴィッツ・ゾンダーコマンドの囚人マルセル・ナジャリの現代の手書きの手紙が解読される日本語訳)]

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当時の囚人の手紙と報告書(7)

  • 1942年1月のポーランド人囚人コンラート・シュヴェーダの秘密の手紙「一晩中、ガス処刑された者のうめき声が聞こえていた」[クロジンスキ、「捕虜への最初のガス処刑は...」、『アウシュビッツの小冊子』に所収、p. 270]

  • 1942年7月14日のポーランド人囚人ヤヌシュ・ポゴノフクシの秘密の手紙昨日、隣のラージスコ収容所(ビルケナウのこと)で318名のポーランド人と834名のユダヤ人がガス処刑された」[ピーパー編、ヤヌシュ・ポゴノフスキ著、『アウシュヴィッツからの違法な手紙』p. 17]

  • 1943年6月28日付の「ラージスコ(ビルケナウのこと)では、前の金曜日か木曜日に3000人がガスに送られた。」に関するスタニスワフ・クロジンスキからテレサ・ラソッカ(クラクフ)への秘密の手紙[チェヒ、『カレンダリウム』、p. 529]

  • 1944年8月30日、スタニスワフ・クロジンスキがテレサ・ラソッカ(クラクフ)にあてた「ユダヤ人のガス処刑は続いている。ウッチ、オランダ、イタリアからの移送。火葬場で処理しきれなくなったガス処刑者が焼かれた穴は、痕跡を消すために埋められている。」という秘密の手紙[チェヒ、『カレンダリウム』、p. 866]

  • 1944年10月6日、ヨゼフ・チランキエヴィチがテレサ・ラソッカ(クラクフ)にあてた「ガス処刑は終わらない: テレジエンシュタットの収容者3000名、アウシュヴィッツI、II、IIIの収容者2500名、ハンガリー系ユダヤ人6000名、ウッチ・ゲットーのユダヤ人500名、ブーヘンヴァルトの囚人400名」という秘密の手紙」[チェヒ、『カレンダリウム』、p. 897]

  • 1944年11月13日のレナータ・ラクール(ベルゲン・ベルゼン捕虜)の日記「アウシュビッツで焼かれた女性の腕のナンバーを見た、ガス処刑の話を聞いたが…」[レナータ・ラクール、「ベルゲン・ベルゼン日記 1944/45」、ケラー、『ベルゲン・ベルゼン強制収容所』、1995年、p. 116より引用]

  • 1944年、エレオノーレ・ホディスがドイツSS検事のために行った「私はガスのためにビルケナウに送られなければならない」という証言日本語訳

アウシュヴィッツ脱獄囚の当時の報告(5)

  • 1944年4月に逃亡したルドルフ・ヴルバとアルフレッド・ヴェッツラーの報告書[シヴィエボッカ、『ロンドンに報告…:アウシュヴィッツ脱走者の報告』](日本語訳

  • 1944年5月に逃亡したアルノスト・ロジンとチェスワフ・モルドヴィッチによる報告書[シヴィエボッカ、『ロンドンに報告…:アウシュヴィッツ脱走者の報告』]

  • アナニジ・シロヴィチ・ペトコとウラジーミル・ヤコヴレヴィチ・ペゴフによる報告(1944年5月脱走

  • 1943年11月に脱出したイエジー・タボーのレポート[シヴィエボッカ、『ロンドンに報告…:アウシュヴィッツ脱走者の報告』]

  • 1944年夏の脱走したハンガリー人ユダヤ人女性の報告[ゲルラッハ、『最終章』、p.287 - 288]

当時のポーランドの出版物および報告書(40)

ポーランド亡命政府

  • 1941年10月24日、「850人のソ連軍将校と下士官(捕虜)が、新型の戦闘用ガスのテストとして、ガスで殺害された」[「ポーランド政府代表部のファイルに照らしたアウシュヴィッツ強制収容所」、マットーニョ、ATFG、p.31より引用]

  • 1941年11月15日「9月5-6日、ソ連人収容者約600名、軍の「政治委員」、ポーランド人約200名がバンカーに押し込められ、バンカーが密閉された後、ガスで毒殺され、死体は火葬場に運ばれ、焼却された」[「ポーランド政府代表部のファイルに照らしたアウシュヴィッツ強制収容所」、マットーニョ、ATFG、p.31より引用]

  • 1941年11月17日 「1941年9月5-6日、そこで捕虜となった約600人のソ連民間人捕虜が、腕や足を折られた状態でオシフィエンチムのバンカーに押し込められた。250人ほどのポーランド人がそれに加わった。壕の開口部は密閉され、閉じ込められた収容者はガスで毒殺された」[「ポーランド政府代表部のファイルに照らしたアウシュヴィッツ強制収容所」、マットーニョ、ATFG、p.32より引用]

  • 1941年12月15日、「コンクリート・シェルターで500人の捕虜が戦闘用ガスで毒殺された」[「ポーランド政府代表部のファイルに照らしたアウシュヴィッツ強制収容所」、マットーニョ、ATFG、p.32より引用]

  • 1942年7月1日(『ポーランド週報』)、1941年9月5日から6日の夜に700人のロシア人捕虜と300人のポーランド人がガス処刑されたことについて[ヴァンペルト・レポート電子版「III 予感」(日本語訳)]

  • 1943年8月(ナタリア・ザレンビーナ、『死の収容所』) アウシュヴィッツ本収容所11ブロックでのロシア人捕虜と病人収容者のガス処刑について[マットーニョ、ATFG、p.33f]

Kraj(ポーランド地下国家秘密出版物)

  • 1943年7月15日「強制収容所のガス室」と「マイダネク、アウシュヴィッツ、ソビボルの火葬場からの煙雲」について[フリードリッヒ・クラウス=ペーター、『ポーランドから見たナチスによるユダヤ人殺害:ポーランドの報道機関の姿勢 1942-1946/47』、p.114]

  • 1944年6月14日、アウシュヴィッツでの10万人のハンガリー系ユダヤ人のガス室による殺害、4つの火葬場での死体処理、2000人のユダヤ人囚人による火葬について[フリードリッヒ、『ユダヤ人殺害』、p.116]

  • 1944年6月26日 「アウシュヴィッツでのユダヤ人殺害」から入手した約40キロの金塊[フリードリッヒ、『ユダヤ人殺害』、p.116]

  • 1943年9月9日 「登録なしに、輸送全体がガスに送られる。殺された人々の数は50万人を超えた...新しい火葬場では、毎日約5000人が焼却され、そのほとんどがユダヤ人であった」[フリードリッヒ、『ユダヤ人殺害』、p.151]

Biuletyn Informacyjny(ポーランド地下国家)

  • 1942年9月17日 「ガス室では1日に1000人のユダヤ人が殺される。死体は3つの火葬場で焼かれる」[フリードリッヒ、『ユダヤ人殺害』、p.115]

  • 1942年10月8日 「死の収容所」アウシュビッツにて[フリードリッヒ、『ユダヤ人殺害』、p.115]

  • 1943年1月14日 アウシュヴィッツにおけるユダヤ人と捕虜のガス処刑について[フリードリッヒ、『ユダヤ人殺害』、p.115]

  • 1943年7月29日 「ヨーロッパ全土から集まった数千人のボリシェヴィスト捕虜とユダヤ人が死亡」について[フリードリッヒ、『ユダヤ人殺害』、p.115]

  • 1943年10月7日、アウシュヴィッツでの1943年8月1-3日の囚人へのガス処刑、1943年9月までの47万人のユダヤ人の殺害、ベジンとソスノヴィッツのユダヤ人の殺害について[フリードリッヒ、『ユダヤ人殺害』、p.115]

  • 1944年6月29日 アウシュヴィッツにおける「ユダヤ人の怪物的殺人」について[フリードリッヒ、『ユダヤ人殺害』、p.116]

Dziennik Polski (政治的左派)

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  • 1943年4月20日、「殺人工場」と「90万人以上のユダヤ人」のガス処刑、殺害されたユダヤ人の1日平均9000人について[フリードリッヒ、『ユダヤ人殺害』、p.176]

  • 1943年5月27日、1週間以内に8000人のギリシャ系ユダヤ人が殺害され、1940年6月中旬から1943年3月1日までにユダヤ人を除いて76,721人が死亡したことについて[フリードリッヒ、『ユダヤ人殺害』、p.176]

  • 1943年8月7日、マイダネクから強制送還された7500人のユダヤ人のガス処刑について[フリードリッヒ、『ユダヤ人殺害』、p.176]

  • 1943年9月11日「アウシュヴィッツとベウジェツのガス室」について[フリードリッヒ、『ユダヤ人殺害』、p.176]

WRN: Polka Partia Socjalistyczna - Wolność, Równość, Niepodległość(ポーランド社会党 - 自由、平等、独立:政治的左派)

  • 1942年12月4日、アウシュヴィッツにおける「直ちに清算されるユダヤ人の移送-おそらくガスによる清算」について[フリードリッヒ、『ユダヤ人殺害』、p.175]

  • 1942年12月18日、クラクフからアウシュヴィッツへのユダヤ人の強制送還と1日以内のガス処刑について[フリードリッヒ、『ユダヤ人殺害』、p.175]

  • 1943年2月5日 アウシュヴィッツでの「大量殺人」と「1200人ずつのガス室2つの建設」について[フリードリッヒ、『ユダヤ人殺害』、p.176]

  • 1943年6月4日 「到着後すぐにガスに入る未登録輸送」について[フリードリッヒ、『ユダヤ人殺害』、p.176]

  • 1943年8月13日、1943年8月中旬に3000人のユダヤ人輸送(19人を除く)がガス処刑され、1943年6月20日にはポーランド人の小輸送がガス処刑されたことについて[フリードリッヒ、『ユダヤ人殺害』、p.177]

  • 1943年12月30日、アウシュヴィッツでの「ユダヤ人の継続的殺害」について[フリードリッヒ、『ユダヤ人殺害』、p.177]

Robotnik w walce(政治的左派)

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  • 1944年5月7日、1944年3月25日のテレージエンシュタットでのユダヤ人ガス処刑について、殺害された人々は親族に宛てた古い手紙を書かなければならなかった[フリードリッヒ、『ユダヤ人殺害』、p.177]

  • 1944年4月23日、「死の収容所」アウシュヴィッツにおける「ガス処刑されたユダヤ人輸送からの100万人」について[フリードリッヒ、『ユダヤ人殺害』、p.218]

Robotnik(政治的左派)

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  • 1942年11月15日、1941年6月以来のアウシュヴィッツでのガス処刑、ソ連軍捕虜とユダヤ人のガス処刑のためのビルケナウのガス室について。94,140人のユダヤ人が殺害された[フリードリッヒ、『ユダヤ人殺害』、p.175]

Informator (政治的右派)

  • 1944年6月7日 「死の工場」アウシュヴィッツの「ガス室」について[フリードリッヒ、『ユダヤ人殺害』、p.240]

Sanacja(権威主義、民族主義)

  • 1943年6月25日「アウシュビッツ-拷問され、虐待され、殺害され、焼かれた数十万人の殉教者の集団墓地」について[フリードリッヒ、『ユダヤ人殺害』、p.289](Sanacjaはアウシュビッツのガス室については触れていないことに注意)

Prawda(カソリック)

  • 1943年3月3日 ポーランドのユダヤ人2万人、フランス、ベルギー、オランダのユダヤ人50万2000人のガス処刑について[フリードリッヒ、『ユダヤ人殺害』、p.308]

  • 1943年7月、アウシュヴィッツにおける1万人の未登録ユダヤ人とロシア人捕虜の殺害について[フリードリッヒ、『ユダヤ人殺害』、p.309]

Narod(カソリック)

  • 1943年8月~9月、トレブリンカ、ベウジェツ、マイダネク、アウシュヴィッツのガス室について[フリードリッヒ、『ユダヤ人殺害』、p.328]

Przez walke do zwyciestwa(農民運動)

ダウンロード (28)
  • 1942年8月10日、病人や衰弱した囚人の地下室でのガス処刑について[フリードリッヒ、『ユダヤ人殺害』、p.338]

  • 1942年10月10日、アウシュヴィッツにおけるユダヤ人の「特別な処刑方法」とガスによる殺害のための新しい建物について[フリードリッヒ、『ユダヤ人殺害』、p.334]

  • 1942年10月20日、アウシュヴィッツの複数のガス室が稼動し、3000-4000名が同時に殺されたことについて[フリードリッヒ、『ユダヤ人殺害』、p.334]

  • 1943年10月20日、アウシュヴィッツでの643,000人の殺害について、そのうち95,000人のポーランド人については、1942年12月15日まで[フリードリッヒ、『ユダヤ人殺害』、p.334]

Wies(農民運動)

  • 1943年5月8日、アウシュヴィッツの火葬場の1日の火葬能力3000死体について[フリードリッヒ、『ユダヤ人殺害』、p.352]

  • 1944年3月1日、ビルケナウにおける150万人のユダヤ人ガス処刑について[フリードリッヒ、『ユダヤ人殺害』、p.335]

親衛隊とドイツ軍関係者の解放後の証言 [目撃者](35)

  • ハンス・オーマイヤー(収容所長)[目撃の可能性が非常に高い]

・1945年7月(?)オスロでの原稿(英国の調査官)

 […]

2)ガス処刑(Vergasung)の前に、部屋はコマンドによって清掃された。ガス処刑(Vergasung)が予定されている人々が到着すると、彼らはバラックに連れて行かれて、すでに第2報で述べたように、服を脱がされ、その後、消毒と入浴の指示とともに、収容所に案内された。ガス処刑(Vergasung)自体は、当直医師の監視のもとで、1名か2名のSDGによって行なわれた。SDGはガスマスクを固定し、上から、あるいは密封可能な空気穴を通して横から、ガスを壕の中に投入した。壕が開けられたとき、安全リーダーは通常、もはやその場にいなかった。

個人的な感情は、恐怖と内なる癒しであった。壕を閉めた後、私はこの奉仕を終えたことを喜び、もう目の前の光景を見ることがないよう、可能な限り早くその場を離れた。自分の親族に何が起こるか、その可能性について懸命に考えたが、無理に考えるのを止めなければならなかった。禁止されているために他人と話すことができず、常に重い精神的負担にさらされていた。上官たちは、総統によるユダヤ人絶滅(Vernichtung der Juden)が演説で公に発表されたばかりであり、この奉仕を行うことが自分たちの義務であることを再度明確にした。アウシュビッツから移送されたときは、みんな解放されて喜んでいた。今の私の気持ちは、当時と同じように精神的に圧迫されている。

3)私の知る限りでは、ガス処刑(Vergasungen)を実行したのは、RFSS、収容所責任者、主任医師であった。当直医師だけが選別に関与していた。

[…]

・1945年7月25日の原稿(オスロ)

(註:以下、証言内容の細部には誤りも多いようであるが、記憶の誤りと、おそらく文書に書かれた筆記が読み取り難かったためではないかと考えられる。但し、大筋では他の証言などから判明している事実と一致している)

[…]

秋にはチフスが両収容所で発生し、1943年春にはパラチフスがそれに続いた。死亡率は大幅に上昇した。それまでは、収容所創設以来死亡した囚人はすべてビルケナウ収容所近くに埋葬され、死亡したドイツ人とポーランド人の囚人だけが、第1収容所エリアにあった火葬場(2つの炉)で焼却された。L.K.が私に言ったように、ベルリンの親衛隊全国指導者は、埋葬された捕虜はすべて掘り起こして火葬にしなければならないという命令を下した。

この目的のために、ブロムルかプロベル親衛隊大佐(註:パウル・ブローベル大佐のこと)がアウシュヴィッツに同席し、火葬場と穴での焼却を指示した。ユダヤ人囚人からなる共同体が結成され、L.K.からヘスラー親衛隊少尉がその実行を委託された。彼はL.K.の直属の部下で、30人のSS隊員をガードマンや監督官として従えていた。私の知る限り、掘り起こされ焼却された人は1万2千人から1万5千人いた。その間に死んだ囚人もすべてそこで火葬された。私の推定では、私が移送されるまで4~5000人ほどいた。既存の火葬場は第2政治部の責任者、グラブナー親衛隊少尉の管轄下にあった。 1942年の冬から1943年の春にかけて、ビルケナウではさらに 3 つの火葬場が建設中だった。

私の記憶によれば、約50-80人のユダヤ人捕虜に対する最初のガス処刑が行われたのは、1942年11月か12月のことだった。これは、第1収容所の火葬場の死体保管室で、収容所医師、グラブナー親衛隊少尉、L.K.、さまざまな衛生兵の指示のもとに行われた。当時、私自身はその場にいなかったし、このガス処刑が行われていることも事前に知らなかった。L.K.はいつも私に対して非常に疑い深く、秘密主義だった。収容所医師、グラブナー、ヘスラー師、シュヴァルツと私がL.K.に行ったのはその翌日のことであった。シュヴァルツ軍医と私がL.K.に行くと、軍医は、RFSSがベルリンR.S.H.A.から、これ以上の伝染病を防ぐために、労働に適さないすべてのユダヤ人囚人と、軍医の評価によると、もはや労働に適さない病人囚人をガス処刑するようにとの命令を受けたと教えてくれた。彼は、最初の囚人は前夜にガス処刑されたが、火葬場が小さすぎて、火葬される死体の数に対応できなかったので、ビルケナウの火葬場が再建されるときにガス室が建設されることになった、と続けた。

私たちはみな非常に怯え、興奮したが、彼は続けて、この件はすべて帝国の機密事項であり、もしこの件を漏らせば、服務の宣誓に基づき、RFSSによって死罪に処されると告げた。私たちはまた、その旨の宣言書に署名しなければならず、その宣言書はL.K.に保管された。この後、コマンドに対処しなければならなかった者は全員、グラブナー少尉の指示を受け、宣言書に署名しなければならなかった。

その後、旧火葬場では3~4回ほどガス処刑が行われた。これはいつも夕方に行われていた。死体安置室には2~3本のエアダクトがあり、ガスマスクをつけた1~2人の救急隊員がそこからブルーガスを流し込んだ。バンカーは翌日まで開放されなかった。医師が言ったように、人々は1/2~1分で死んでいただろう。

一方、ビルケナウの埋葬地に近い2軒の空き家には、建設管理者によってガス室が設置された。一軒は2部屋、もう一軒は4部屋だった。その家にはブンカーIとIIと書かれていた。それぞれの部屋には50人から150人ほどが収容されていた。最初のガス処刑は1月末か2月に行われた。 Kommando hiehs SK (Sonderkom.)は、グラブナー少尉の指揮の下、L.K.に直接従属し、ヘスラー少尉が指揮・配備した。周囲は板で囲まれ警備区域に指定され、8人からなる警備隊を引き連れた特殊部隊も取り囲んだ。

このときから、輸送が到着すると、収容所の医師たちは、荷揚げされるとすぐに囚人を選別し、ガス処刑される者を選んだ。障碍者、病人、55歳以上の労働に適さない者を選別するよう指示され、それ以降、11~12歳以下の子供もガス処刑された。毎回、保護収容所の異なる指導者が、責任ある保安指導者として移送に割り当てられた。彼の任務は、輸送車の周囲の警備網を引き継ぎ、荷降ろしのためにブロック長を組織し、選別された囚人を収容所とブンカーに運ぶことだった。捕虜は荷揚げ場からL.K.W.で収容所や壕に運ばれた。保安要員として配属された(移籍するまで)のは、シュワルツ、ホフマン、シュヴァルツフーバー、セル、ミュラー、グラブナー、ヨースティンガー、ヘスラー、プリッチェ、そして私だった。

ブンカーIとIIには2つのバラックが設置され、囚人はそこで服を脱ぎ、脱衣と入浴のために来たと告げられた。その後、チャンバー内に誘導された。空気穴はチャンバーの側壁に取り付けられていた。

医師の指示の下、ガス処刑は上記のように行われた。ブンカーが開放されたのは翌日だった。翌日、歯科医か救急隊員の指導の下、死体の金歯が折られ、後に女性の髪も切り落とされた。遺体は前述のように穴の中で焼かれた。

医師たちはまた、収容所の医務室から重病のユダヤ人捕虜を選び出し、ときどきガス処刑に追いやった。ビルケナウの火葬場I(火葬場2)が完成し、使用されるようになったのは、1943年4月中旬のことだったかもしれない。地下の火葬場(炉は8基だったと思う)にはコンクリート・バンカーが併設され、約600〜800人を収容できるスペースがあった。火葬場の前には脱衣用のバラックも設置された。

ガス処刑は上からのエアシャフトを通しても行われた。バンカーには新鮮な空気を供給するシステムがあり、ガス処刑中は5~8時間後にバンカーを開けることができた。遺体はその後、焼却のために直接リフトで炉に運ばれた。

また、ユダヤ人の貴重品が持ち去られ、管理局を経由してベルリンのSS-W.u.V.H.Amtに届けられたことにも触れておかなければならない。衣服の一部は害虫駆除した後、収容所で分配され、一部は他の収容所に送られた。

1943年5月初めには、火葬場IIも完成し(5基の火葬炉)、そこで順番にガス処刑が行われた。ガス室はもっと小さく、おそらく400〜500人は収容できただろう。新鮮な空気が供給されず、側壁の穴からガスが発生した。

私が赴任した当時、第3火葬場はまだ建設中で、完成していなかった。Kr.IIとほぼ同じ設計(5オーブン)で計画された。

私がアウシュビッツにいた間に、15~18,000人のユダヤ人捕虜がガス処刑されたと推測している。私の後任はHptstfhr.シュヴァルツが私の後継者に任命された。


・1945年オスロでの原稿

  • シュテファン・バレツキ(ブロック長)[目撃者]、1960年4月12日の尋問、プレイド(西ドイツ調査官)、1964年1月20日、7月27日、10月1日の尋問、1965年2月18日、5月3日の尋問、フランクフルト(西ドイツ裁判手続き)[アウシュヴィッツ裁判DVD]

  • ペリー・ブロード(政治部)[目撃者]

    • 1945年7月13日の報告書[SSが見たKLアウシュビッツ、ブロード・レポートの信頼性と信憑性は?

    • 1945年12月14日の宣誓供述書[NI-11397]

    • 1946年3月2日の尋問[NI-11954]

    • 1947年10月20日の宣誓供述書 [NI-11984] 

    • 1959年4月30日と5月1日の尋問、ブラウンシュヴァイク(西ドイツ警察)[アウシュヴィッツ裁判DVD]

    • 1960年12月21日、フランクフルト(西ドイツ警察)での尋問

    • 1960年12月22日の尋問、フランクフルト(西ドイツの捜査官)

    • 1961年2月7日と8日の尋問、デュッセルドルフ(西ドイツの調査官)

    • 1964年1月13日の尋問、フランクフルト(西ドイツの裁判手続き)[アウシュヴィッツ裁判DVD]

    • 1964年4月20日の尋問、フランクフルト(西ドイツの裁判手続き)[ラングバイン、『アウシュビッツ裁判』、p. 539 ff.]

  • リヒャルト・ベック(SSモータープール)[目撃者]、1960年11月2日のギュンブルグでの尋問(西ドイツの調査官)、1964年8月3日のフランクフルトでの尋問(西ドイツの裁判手続き)[アウシュヴィッツ裁判DVD]

1960年11月2日、フランクフルト地方裁判所、ギュンブルクにて。
-特別委員会 -
Az.: 4 Js 444/59
尋問
未熟練労働者の運転手が召喚される

リヒャルト・ベック、
(Pers. Bl. 439 a d.A.)
そして、以下の追加情報を提供している:

私はすでに、1959年2月5日、バーデン・ヴュルテンベルク州犯罪捜査局-特別委員会-中央事務局の将校から、アウシュヴィッツ強制収容所でのSS隊員としての勤務について詳しく尋問されている(ファイルの439a-455頁参照)。

私の尋問をもう一度読んでもらったので、以下の情報を追加する:

1941年にアウシュビッツに来たとき、私はモータープールに配属された。当時、この部隊は正式には「Fahrbereitschaft - Verwaltung」と呼ばれていた。1944年の初めごろ、モータープールは「Wehrmachtsfahrbereitsschaft」(ドイツ国防軍のモータープール)と改名された。

1941年当時、運転チームはまだそれほど強力ではなく、10~12人のSS隊員で構成され、6~7台の貨物車、司令官の車、さらに2台のキューベルワーゲン、2~3台の乗用車、3~4台のオートバイを所有していた。

何年もかけて、モータープールは大幅に拡張された。最終的に、モータープールは約40人のSS隊員、約40台のトラック、8台の自動車、2台の救急車(囚人用救急車1台とSS隊員用救急車1台)、数台のオートバイで構成された。

モータープールの責任者は親衛隊上級曹長だった。

コンラート・ヴィーガントは1943年に親衛隊少尉に昇進した。彼がどこから来たのかは知らないが、カッセル地区出身だという噂が流れていた。彼は1941年から収容所が疎開するまで、モータープールの責任者だった。

彼の副官はSSオッシャだった。

ウィリー(?)・オッペルマン
-2 -

  • アドルフ・アイヒマン(RSHA)[目撃者]、1957年(?)のウィレム・サッセンによるインタビュー[アドラー、Zeugnisse und Berichte(アウシュヴィッツからの証言と報告)、p.203]、 1959年9月6日の原稿(イスラエル裁判での弁護の準備)、アヴナー・レッスによる(?)の尋問(イスラエルの調査官)

翻訳を読み続ける。
...そして、このエンジンのガスは内部に送られ、ユダヤ人は毒殺されることになります。これは私にとって恐ろしいことでした。この種のことが......この種のことが、何の反応もなく私の上を通り過ぎるような、そんな不動な性質は私にはありません。

今日、切り傷が開いているのを見たら、私はそれを見ることができません。そんな私は、医者にはなれなかったとよく言われます。今でも、どうしてそのことをすぐに自分に思い浮かべたのか、そして自分の態度が、まるで何か動揺したかのように、どこか不確かなものになったのかわかりません。これで私の任務は完了し、私はベルリンに戻り、保安警察署長とSDにそのことを報告しました。

L:ミューラーにですか?
E:もちろんミューラーも。
L:ハイドリヒは?
E:はい、ハイドリッヒにも。でもミューラーは私の直属の上司でしたから、私は旅のことを彼に報告しなければなりませんでした。私は彼に今述べたことを話しました。おそらく、私はいくつかの事柄を混同しているのでしょう。
L:はい、続けてください。
E:この数年間は、秩序を保とうとしたためか、自分自身にメモを取るようになりました。というのも......以前、夏の終わり--今でも覚えていますが、秋--にこれらの木造小屋があったに違いないと言ったからです。それらは落葉樹の多い地域にあり、落葉樹の生い茂る森林地帯で、大きな木々が葉を茂らせていました。
L:何年ですか?
E:41年です。
L:それで、その後...
E:独ソ戦が勃発した41年、つまり41年の秋でした、その後、私はヴァルテガウのクルムに送られました…今、私は考えなければなりません:いつヴァルテガウに?
L:クルビン?
E:クルム、クルムへ、です。
L:クルム
E:ヴァルテガウのクルムです。しっかり思い出さなければ:ヴァルテガウのクルムはいつのことだったか?
L:それから私は...このようなものを見なければならなかったのは初めてだったのですが、今回はミューラー親衛隊中将の差し金でした。
すぐに言わせてほしい:ヴァルテガウは...41年のことですが、とにかくこの出来事の後、冬ではなかったし、雪もありませんでしたが、寒かったことを覚えています。41年の秋だったか、それとも42年の今だったかはわかりません。しかし、次のように簡単に再構築できます:リッツマンシュタットのゲットーが処理されたときの証言や、一般的にヴァルテガウのユダヤ人が絶滅されたときの証言は他にもあるはずです。というのも、だいたいこの最初の時期に、私はミューラーから、リッツマンシュタットに行き、そこで起こっていることを報告せよとの命令を受けたからです。彼は、ハイドリヒのように正確に、無愛想に、私にこう言ったわけではありません:
「あそこでユダヤ作戦が行われている」ミューラーのような人なら、このようなあからさまに残酷な表現は決してしません。彼はおおよそ次のように言いました:
「そこではユダヤ作戦が行われている、アイヒマン君、そこに行って、そこで何が起きているのか調べ、私に報告しなさい」
私はそこに行き、リッツマンシュタットのStapoleitに報告し、そこで問い合わせたところ、彼らは私に次のような説明をしてくれました:これは全国指導者が詳しく説明された特別部隊で、その指揮下にあったのは...今となっては、ヴァルテガウのSS・警察指導者なのか、ヴァルテガウの高等SS・警察指導者なのかはわかりません。覚えているのはここまでで、しかし、クルムがどこにあるのか、正確な説明を受けました。おそらく、彼らは私の道を見つけるために役人を同行させたのでしょう、確かに、私はある権威に近づかなければならなかったからで、ミューラー親衛隊中将に代わって帝国保安総局から来たということ、ミューラー親衛隊中将に報告するために私がこれを見るべきだということ、この調停はもう私にはわかりません。私が知っているのは、次のようなものを見たということだけです:
私の記憶が正しければ、おそらくこの部屋の5倍、あるいは4倍の広さしかないでしょう。中にユダヤ人がいて、彼らは服を脱ぐことを要求されました。その後、完全に閉まったトラックが到着し、前のドアが開けられ、プラットホームのようなものまで来ました。その後、トラックは閉じられ、動き始めました。
L:トラックには何人乗っていたのですか?
E:正確には言えません。何が起こっているのかさえ正確に見ることができませんでした;私はあまりにも動揺していました。報告した当時、私はミュラー氏にもこのことを伝えました。
彼は私の報告からあまり利益を得ようとはしませんでした。その後、私は道を知っている男の一人と一緒にトラックを追いかけました。そこで私は、これまでの人生で見たこともないような恐ろしいものを見ました:
それは長い溝のところまで車を走らせ、ドアが開けられると、体が投げ捨てられました。まるでまだ生きているかのように手足が柔らかかったのです。体は溝に投げ込まれました。その後、私は一般市民がペンチで歯を抜いているのを見ました。そしてそこから離れました。車に乗り込み、何も話さずに立ち去りました。その後、運転手の隣に何時間も座っていましたが、一言も交わしませんでした。その頃には「定まって」いて、「終わって」いました。さらに、白衣を着た医者が私に、仕切りの覗き穴から車内の様子を見るように言ったことを覚えています。私はそれを拒否しました。できませんでした...もう一言も言えませんでした。とにかくその場を離れなければなりませんでした。
ベルリンに来て、ミューラー親衛隊中将に報告しました。今しているのとまったく同じように、私はこれらのことを彼に説明しました:もっと正確に言えば、私は彼にこう言った......:
「ひどい」と私は言いました。「地獄だ...できない...これは...できない...」私は彼に言いました。
L:ミュラーは何と?
E:私が...ミューラーは、これらの問題でも他の問題でも、決して何も言わない習慣がありませんでした。彼はいつも言葉を控え、静かで、最も重要なことだけを言いました。彼は「はい」か「いいえ」と答え、または「はい」でも「いいえ」でもないときは、通常「アイヒマン同志」と言っていました。つまり、「はい」か「いいえ」かはわかりませんでした。彼は言葉を控えていました。
L:報告書は提出しましたか?
E:いいえ、そうする権限はありませんでした。私には禁止されていました。
L:ミュラーから?
E:しかし、私は…
L:ミューラーはそれを禁じたのですか?
E:はい...いいえ...ハイドリッヒだと思います ハイドリッヒです。
L:彼に報告したことは?
E:この件ではありません、いや、この件ではありません。その時は、私は到着できませんでした...その後、ミュラーが私をそこに送りました...ミュラーは、まず何よりも時間を知りたかったのです...どれくらいの時間がかかったか。私にはそう言うことができませんでした。どれくらいかかるか彼に言うことができませんでした...私は...私は...私はこれを聞くことができませんでした。これは私の手に負えませんでした、私はそれをすることができませんでした...その時...私は2度目にそこへ行く義務がありましたが、当然のことながら、私は自ら進んで行かず、何も言われませんでした。
したがって、私がこうしたことに関わるのは2度目でした;最初のときは、密閉されたトラックがあり、潜水艦のエンジンからの排気ガスのようなものが聞こえました。2回目に見たときはそうでした。というのも、この経験を私の副官に......私の正副官に話したからです。
司法長官:レス氏 - 210 ページの「アイヒマンさん、そうしましょう...」で始まり、221 ページの「... ここにこの件について意見を述べなさい」まで続く抜粋を法廷で再現していただけますか。
レス:アイヒマンさん、あなたは...への訪問について話したがっていましたね。
アイヒマン:はい。
L:絶滅収容所について
E:はい、確かに、はい確かに、そう思います。それで、3と4、ミンスクとリヴィウ - なぜなら私はミンスクとリヴィウに送られました。確かに、以前にも言ったように、リヴィウで何をしなければならなかったのか全く覚えていないのです。そして確かに、これを結びつけていたでしょう。ミュラーは私に「リンツで...リンツで」と言いました。つまり「ミンスクではユダヤ人を射殺している。どうやってこれが行われているのか報告が欲しい」と。

その後、私はミンスクに行きました。ミンスクでは私に何もすることがなく、誰とも知り合うこともありませんでした。私は二重の戦闘が行われた最初の地域を横断しました。それは二か所で行われていたのです。おそらくそれは...想像するに:ミンスクとビャウィストクです。最初にビャウィストクに行き、その後ミンスクに行ったと推測しています - もう正確には分かりません。ミンスクに着き、同じ権威のもとに行きました - その名前は何でしたか - どう呼ばれていましたか?「保安警察司令官」か、もしくは「アインザッツコマンド」と呼ばれていたかもしれません。本当にどう呼ばれていたのか分かりません、そこで司令官を探しましたが、彼は不在でした。名前を全く思い出せない別の人と話し、私はミュラー親衛隊中将に報告するために監視する命令を受けたことを伝えました。それがそれでした。

次の日 - その夜はその都市に泊まりました - 次の日にそこに行きましたが、遅れてしまいました。なぜならその日の朝にその事件はすでに終わっていて、ほぼ完了していたからです。これについては、個人的には喜んでいました。そこに着いたとき、若い射手たちが、たぶん彼らのコートの襟に死の頭をつけた射手たちが、大きな穴に向かって撃っているのを見ただけでした。その穴はこの部屋の4倍か5倍の大きさ、あるいは6倍か7倍の大きさだったかもしれません。私は...私は...この場面についての記憶は不確かです。なぜなら私はただこの出来事を見ただけで、何も考えずに、何の考えも形成しなかったからです。ただ見ただけです - それ以上のことはありません:彼らは穴に向かって発砲していました。そして私はまだ覚えています、腕を後ろにした女性がいて...そして彼女の膝が折れ、その後私はその場を去りました。
L:溝の中を見ませんでしたか?
E:いいえ、そこに立っていました。彼らが発砲するのを見て、そしてその場を離れました...
L:溝はいっぱいでしたか?
E:何ですか?
L:溝はいっぱいでしたか?
E:はい、いっぱいでした。私は車に向かいました。車に乗り込み、運転を始めました - リヴィウに向かって運転しました。リヴィウに行く命令はありませんでした...今思い出しましたが、どうやら道がリヴィウを通っていました。どういうわけかリヴィウにたどり着き、そこで見た最初の励みとなる光景は、私がそこで見たひどいものの後でした:それは、皇帝フランツ・ヨーゼフの治世60周年を記念して建てられた鉄道駅の建物でした。その時代のことを私自身も非常に喜んでいました。おそらく、両親の家でこの時代やこの時代に起こった出来事について素晴らしい話をたくさん聞いたからでしょう... 私の義母の親族は、この時期、いわゆる高い社会的地位にありました...その建物は黄色に塗られていました。

これが初めて、今日でも覚えているのは、あの60周年記念の数字が駅舎の壁に刻まれていて、その恐ろしい考えがミンスク以来私を離れなかったことです。そこに行き、地元の国家警察司令官を訪ねました...どうぞ... おそらく私は命令を受けていたかもしれないし、そうでなかったかもしれない。好奇心からだけでそこに行き、通り過ぎる途中で司令官に会い、「はい」と言って「そこで起こっていることはひどいです」と言いました。「これらの若者はサディストとして育てられている」と言いました。ちなみにこれは後にミュラーにも正確に言ったことです。

また、ギュンターにも言いましたし、みんなに言いました。スールにも、みんなに言いました。フンシュにも言いました... 誰にでも言いました。「どうしてこんなことが可能なのか? 女性や子供に向かってただ撃つだけ? どうしてこんなことが可能なのか?」と言いました。「こんなことはできません。この人たちは狂人かサディストになってしまうでしょうし、彼らは我々の仲間です。」すると彼は「まったくその通りです。ここでも同じことが起きています。ここでも撃っています。見てみたいですか?」と言いました。私は「いや、何も見たくありません」と言いました。彼は「とにかく通り過ぎるので」と言いました。そして私はもう一つ恐ろしいものを見ました:そこには溝があり、もしかしたらすでに閉じられていたかもしれません。そこから血が噴き出していました...どう言えばいいのでしょうか...血の噴出です。こんなものは見たことがありません。私にとってはこの任務は十分で、ベルリンに向かい、ミュラー親衛隊中将にこれを伝えました。
L:リヴォフであなたと一緒に旅行したのは誰ですか?誰ですか?
E:何でしょう?
L:リヴォフにいたのは誰ですか?
E:これは司令官でしたが、「Stapolei」と呼ばれていたかどうかはわかりません。これが国家警察の長であったはずはなく、確かにアインザッツコマンドだったに違いありません。おそらくレンベルクのアインザッツコマンド、国家保安本部とSDのアインザッツコマンドだったのでしょう。これが正式な名称でした。国家警察事務所よりもこちらの方があり得ます。国家警察事務所は当時のリヴィウには確かに存在していませんでしたが、作戦部隊は存在していました。確かにリヴィウはかつては総督府に属していたはずですか? あるいは、この時点で総督府に属していたかどうか、または他の区域に属していたかはわかりません、大尉。とにかく、私はミュラーに言いました、「これはユダヤ人問題の解決策ではありません、これは解決策ではありません」と。

私は彼にそう言いました。何よりもまず、私たちは人々をサディストとして育てているのです。彼らが犯罪者になっても驚くべきことではありません、全員が犯罪者になることを驚くべきではありません。私は今でも覚えていますが、ミュラーは私を見つめ、その表情から彼が私に何を言おうとしているのかがわかりました。

「アイヒマン、君は正しい、これは解決策ではない」と。しかし、彼には何もできませんでした。ミュラーには何もできませんでした、何も、まったく何もできなかったのです。この件について誰が命令を出したのか、私はもうわかりませんが...その事について命令を出したのは...そう、もちろん、保安警察とSDの長官が命令を出したのです。これは絶対に明確です。しかし彼もまた、親衛隊全国指導者、すなわちヒムラーから指示を受けなければならなかったはずです。彼が独自にそのようなことをすることは絶対にできなかったでしょう。そしてヒムラーもまた、ヒトラーからの詳細な指示を受けていたに違いありません。さもなければ、ヒトラーがこの命令を出さなかったならば、彼は直ちに解任されていたでしょう。
L:しかし、ヒトラーはユダヤ人問題の最終解決について書面で命令を出さなかったのですか?
E:書面で?…彼らを絶滅させるために?…物理的に絶滅させるために?
L:物理的に絶滅させるために?
E:そのような命令を見たことはありません、大尉。私が知っているのは、ハイドリヒが私に「総統がユダヤ人の物理的な破壊を命じた」と言ったことです。これは彼がはっきりと、そして確かに言ったことです。そしてこれが今...これが最初の結果でした。これらは...これらは今私が説明した些細な事柄でした。私は親衛隊中将に、「どうか私をそこに送らないでください。もっと強い誰かを送ってください。前線に行かせてもらったことは一度もありませんでした、私は兵士ではありません。」と言いました。

「これを見ることができる他の多くの人々がいます。彼らは倒れません - 私には見えません。」と言いました。「夜、眠れません。夢を見てしまう - 親衛隊中将、私は無理です!」しかし、これは認められませんでした。

L:それで、この後、アウシュビッツに行かなければならなかったのですか?
E:私は戻って命令を受けました。アウシュビッツも訪問せざるを得ませんでした...なぜなら...まず第一にそれを見るためではなく...しかし偶然にも、その件についても報告する義務がありました。私は彼に、彼らがそこで拡張工事をしているのを見に行くと伝えました - 他の建物があるとは全く知らなかったのです - その点についても彼に報告しなければなりませんでした...はい、さらに言わなければならないのは、これらの人々は、オフィスの机から直接来た人間に最も恐ろしい説明をして、できる限り唐突に事態をほのめかし、時折、その神経が切れた場合に楽しんでいたのです...彼らはそう呼んでいました、そうではありませんか?

ヘスは一度言いました...私はアウシュビッツに三回、二回か三回行ったと思います。三回行きました、ストーファーのために一度行きました...彼が言いました、ヘスは私にヒムラーがそこに来てすべてを見た、すべてを正確に見た、そして彼の膝が震えたとヘスは言いました。彼はこれを取り上げました...彼は明らかにこれを非難として意図していました、なぜならヘスは非常に硬かったからです。同じ日にヘスは私に、ヒムラーがこれを見たと言いました、彼は - 確かに彼自身の精神を鼓舞するため、そして彼の収容所のSS兵士たちが彼の弱さを気づかないようにするために - これを言いました、事実ヘスはこれを気づいたのです、そうでなければ私にこれを言うことはできなかったでしょう - 彼は「これは後世の世代が戦わなければならない戦いではない」と言いました、戦わなければならない戦いではないと。私は言いました、大尉、私はアウシュビッツに三回行きました。私はハンガリー問題のために二回アウシュビッツに行き、ハンガリーにいる間に、ウィーンのコマーシャルラートのストーファーがウィーン地区の警察司令官エブナーによって逮捕され、その後アウシュビッツの収容所に送られたので、アウシュビッツに一度行きました。

この件について、私はエブナーと共同会議に参加しました。エブナーは、ストーファーがローベンヘルツと同様に、何年もユダヤ人社会で活動していたことを知っており、収容所に収監することは許されていませんでした。私はこれを他の誰とも行いませんでした。長年にわたり...私は「協力していた」とは言いたくありません - これは今日でも批判されるでしょう - これは「協力」ではありませんでした。ユダヤ人、これらのユダヤ人の職員は実際に彼らのコミュニティのために働いていました。確かにこのグループの誰かが私と会ってこれらの問題を話し合う必要がありました、そしてそれがこれらの人々でした。彼らは、私が何かを約束すれば、それを実行することを知っていました。

ドクター・ローテンベルクが、最初の時点で、いくつかの問題が整理され始めた後、適切な時期にパレスチナへの移住を可能にしてほしいと頼んだとき、私は彼に「少し待ちましょう、数ヶ月の問題かもしれませんが、これと他の問題が整理された後 - もちろん」と言いました。そして実際そうなり、彼が再び私に頼んだとき、私は「はい、確かに、ドクター・ローテンベルク、どうぞ、すべて準備が整いました」と言いました。彼は行きました。ローベンヘルツも同じように、事が片付いた後にイギリスに旅行できるように頼みました。彼の子供たちと親族がそこにいたので、私は彼に「もちろん、そうできます」と言いました。彼はどこへでも旅行できました。これが実行されなかったのは私のせいではありません、戦争の出来事がこれを妨げたからです。

アドルフ・アイヒマンの裁判
セッション10
(2回目/全4回)

■フリードリヒ・エントレス(SS医師)[目撃者]、1946年1月29日の宣誓供述書(アウシュヴィッツでの不適格囚人のガス処刑について)、1947年4月14日のランツベルクの宣誓供述書[マットーニョ、TBOA、p.141](ブンカーの絶滅収容所でのガス処刑について)

■ヨゼフ・エルバー(政治部)[目撃者]、1977年7月12日のインタビュー(ジョン・スタイナーとギュンター・ビアブラウアー)[トランスクリプトはオンラインで入手可能、2003年6月8日アクセス、HCフォーラムでバックアップ]、1979年のエッボ・デマントによるインタビュー[デマント、『タラップからすぐに...』、p.31 ff.]、1981年9月14日のジェラルド・フレミングへの手紙[フレミング、『最終解決』、p.204、ここで引用](ビルケナウの火葬場でのユダヤ人のガス処刑について)

■ホルスト・フィッシャー(SS医師)[目撃者]、1965年9月4日、7日、18日、25日の原稿、1965年9月2日と29日の尋問[東ドイツの調査官][ディルクス、『他人の犯罪について』](ビルケナウの火葬場での作業に適さないと選別されたユダヤ人へのガス処刑について)

■マクシミリアン・グラブナー(政治部部長)[目撃者]、1945年9月1日と26日の尋問(オーストリア警察)[マットーニョ、Mattogno, ACI: マットーニョ、ATFG, p.65:マットーニョ、TBOA, p.132 ff.]、1947年9月17日の報告(ポーランドの捕虜)[マットーニョ、ATFG, p.65](本収容所のブロック11と火葬場、ビルケナウの火葬場でのガス処刑について)

■オスカー・グレーニング(SS看守)[目撃者]、BBCのインタビュー[Rees, Auschwitz](ビルケナウのブンカー絶滅場でのガス処刑について)

■エミール・ハントル(医療班員)[目撃者]、1961年5月26日マルクトレッドヴィッツでの尋問(西ドイツの調査官)、1961年5月29日フランクフルトでの尋問(西ドイツの調査官)、1961年9月20日フランクフルトでの尋問(西ドイツの調査官)、1965年3月29日フランクフルトでの尋問(西ドイツの裁判手続き)[アウシュヴィッツ裁判DVD](ビルケナウの火葬場でのガス処刑について)

■ゲルハルト・ヘス[目撃者]、1962年5月15日、ケル・アム・ラインでの尋問(西ドイツの調査官)、1964年9月11日の尋問、フランクフルト(西ドイツの裁判手続き)[アウシュヴィッツ裁判DVD](主要収容所の火葬場とビルケナウの「大きなバラック」でのガス処刑について)

■フランツ・ホフマン(収容所のリーダー)[目撃者](アウシュヴィッツ・ビルケナウの火葬場で病気の収容者や作業に適さないと選別されたユダヤ人をガス処刑したことについて)。

・1959年4月22日にヘヒンゲンで、1960年3月3日にロッテンブルグで行われた尋問(西ドイツ警察)
・1961年4月27日、28日、10月25日、ミュンヘンでの尋問(西ドイツの捜査官)
・1964年1月17日、3月23日、9月3日、1965年5月3日の尋問、フランクフルト(西ドイツの裁判手続き)[アウシュヴィッツ裁判DVD]

■カール・ヘルブリンガー(SSモータープール)[目撃者]、1961年5月24日、ウィーン(オーストリア当局)での尋問、1964年7月3日、フランクフルト(西ドイツ裁判の進行)での尋問[アウシュヴィッツ裁判DVD](ビルケナウのブンカーサイトでの不適格ユダヤ人のガス処刑について)

■ルドルフ・ヘス(アウシュビッツ司令官)[目撃者]

・1946年3月14日の供述(英国)[NO-1210]
・1946年4月1日と2日のニュルンベルクでの尋問(米国の調査官)
・1946年4月3日および4日の尋問、ニュルンベルク(米国の調査官)
・1946年4月5日の宣誓供述書、ニュルンベルク(アメリカの調査官)[PS-3868](註:宣誓供述書の内容はこちらの裁判時の証言で読むことができます)
・1946年4月8日、ニュルンベルクでの尋問(アメリカ側調査官)
・1946年4月16日、ニュルンベルクでのオットー・モールとの共同尋問(アメリカ側調査官)
・1946年4月24日、ニュルンベルクでの宣言(刑務所心理学者グスタフ・ジルベール)
・1946年11月の原稿「強制収容所アウシュヴィッツにおけるユダヤ人問題の最終的解決」と「親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラー」(ポーランドの捕虜)[フィッツギボン、『アウシュヴィッツ司令官』]
・1947年2月の自伝的メモ(ポーランドの捕虜)
本収容所のブロック11と火葬場でのガス処刑、ブンカーの絶滅場、ビルケナウの火葬場でのガス処刑について)

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■アダム・フラディル(SSモータープール)[目撃者]、1963年8月13日の尋問(西ドイツの調査官)[フリードラー、『デス・ゾーンの目撃者』、p.70](ビルケナウでのガス処刑について)

■クルト・ユーラセック(医療部門)[目撃者]、1964年7月6日、フランクフルト(西ドイツの裁判進行)[アウシュヴィッツ裁判DVD](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■オズワルド・カドゥク(報告リーダー)[目撃者]

・1959年7月21日、ベルリンでの尋問(西ドイツの警察?)
・1961年9月1日と4日の尋問、フランクフルト(西ドイツの調査官)
・6月22日、7月9日、8月28日、1964年11月5日、1965年3月4日の尋問、フランクフルト(西ドイツの裁判の進行)[アウシュヴィッツ裁判DVD]
・エボ・デマントによる1979年のテレビ・インタビュー(デマント、『タラップからすぐに...』、p.65)(基幹収容所とビルケナウの火葬場でのガス処刑について)

■ヨセフ・クレア(SS医療班員)[目撃者]

・1960年9月17日、ブラウンシュヴァイクでの尋問(西ドイツの調査官)
・1961年9月22日および25日、フランクフルトでの尋問(西ドイツの調査官)
・1964年1月30日、6月12日、6月18日、9月18日、1965年5月3日の尋問、フランクフルト(西ドイツの裁判手続き)[フランクフルト・アウシュヴィッツ裁判DVD](基幹収容所の火葬場とビルケナウの火葬場における病気の収容者と不適格ユダヤ人のガス処刑について)

■フリッツ・クライン(SS医師)[目撃者]、1945年の宣誓供述書(イギリスの調査官)(アウシュヴィッツの火葬場でのガス処刑について)

■ヨハン・パウル・クレーマー(SS医師)[目撃者]、1947年8月18日のクラクフ(ポーランド調査官)での尋問[SSが見たKLアウシュヴィッツ]、1964年6月4日のフランクフルト(西ドイツ裁判の進行)での尋問[アウシュヴィッツ裁判DVD](ビルケナウのブンカーでのユダヤ人のガス処刑)

■オットー・モル(野外死体処理場の責任者)[目撃者]、1946年4月14日のニュルンベルクでの尋問(アメリカの調査官)、1946年4月16日のニュルンベルクでのルドルフ・ヘスとの合同尋問(アメリカの調査官)(ビルケナウでのユダヤ人のガス処刑

■コンラード・モルゲン(SS調査官)[目撃者]、1946年7月13日および16日の宣誓供述書(連合軍調査官)[SS-65およびSS-67、国際軍事法廷での主要戦争犯罪者の裁判、ニュルンベルク、1945年11月14日~1946年10月1日。証拠となる文書およびその他の資料、p.551 ff.およびp.563 f.]、1946年8月8日、ニュルンベルクでの尋問(連合国側の裁判手続き)、1964年3月8日、フランクフルトでの尋問(西ドイツ側の裁判手続き)[アウシュヴィッツ裁判DVD](ビルケナウの火葬場での不適格ユダヤ人のガス処刑)

■ハンス・ミュンヒ(SS医師)[目撃者]、1964年3月3日と5日の尋問、フランクフルト(西ドイツ裁判の進行)[アウシュヴィッツ裁判DVD]、1995年1月27日の宣言、アウシュヴィッツ、1995年2月28日の手紙、1995年6月15日のインタビュー、ゲルマー・ルドルフ[ルドルフ、アウシュヴィッツ・クロンツェーゲ](ビルケナウの火葬場でのユダヤ人ガス処刑について)

■エーリッヒ・ミュースフェルト(火葬場の責任者)[目撃者]、1947年9月8日(ポーランドの調査官)[マットーニョ、TBOA、142 - 143頁](ブンカーの絶滅場でのガス処刑)

■アントン・シーバルド(SSモータープール)[目撃者]、1962年3月19日と1963年7月15日の尋問(西ドイツの調査官)、1964年9月17日の尋問、フランクフルト(西ドイツの裁判手続き)[アウシュヴィッツ裁判DVD](ビルケナウでのユダヤ人のガス処刑、明らかにブンカーの絶滅場所である)

■ハンス・シュタルク(政治部)[目撃者]、1959年4月23日と24日のケルンでの尋問(西ドイツ人調査官)、1962年9月3日のフランクフルトでの尋問(西ドイツ人調査官)、1964年1月16日と1965年1月25日のフランクフルトでの尋問(西ドイツ人裁判手続)[アウシュヴィッツ裁判DVD](基幹収容所のブロック11(ロシア人捕虜)と火葬場(ユダヤ人)でのガス処刑、ビルケナウのブンカーの絶滅場でのガス処刑)

■ヘンリー・ストーチ(SS薬局)[目撃者]、1961年3月29日の尋問(ドイツ当局)[Mattogno, ATFG, p.66]1964年7月13日の尋問(西ドイツ裁判の進行)[アウシュヴィッツ裁判DVD](ブロック11でのガス処刑とメインキャンプの火葬場でのガス処刑)

■ジョセフ・トゥール(ドイツ空軍軍曹)[目撃者]、1945年3月29日の尋問(米軍)[スティーブン・タイアス、『連合国諜報機関とホロコースト:ドイツ人捕虜から得た情報』](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■フランツ・トマシェフスキ(SSモータープール)[目撃者]、1964年9月28日の尋問、フランクフルト(西ドイツの裁判手続き)[アウシュヴィッツ裁判DVD](ブンカーの絶滅場でのガス処刑)

■ゲルハルト・ヴィーベック(SS調査員)[目撃者]、1964年10月1日の尋問、フランクフルト(西ドイツ裁判の進行)[アウシュヴィッツ裁判DVD](ビルケナウの火葬場でのガス処刑)

■ヴィリー・ヴィルデルムート(SSモータープール)[目撃者]、1964年9月17日の尋問、フランクフルト(西ドイツの裁判手続き)[アウシュヴィッツ裁判DVD](ビルケナウのブンカー絶滅場でのユダヤ人ガス処刑)

■アントン・ウィルヘルミー(医療部門)[目撃者]、1965年1月21日の尋問 フランクフルト(西ドイツの裁判手続き)[アウシュヴィッツ裁判DVD](基幹収容所の火葬場でのガス処刑)

■マーティン・ウィルクス(医療部門)[目撃者]、1965年9月17日フランクフルト(西ドイツ裁判手続)[アウシュヴィッツ裁判DVD]の尋問(基幹収容所の火葬場でのロシア人捕虜のガス処刑、ビルケナウでのユダヤ人のガス処刑)

■エドゥアルド・ヴィルス(SS医師)[目撃者の可能性が高い]、1945年7月(?)の原稿[『小さな人々』、ヴィルス、p.38]、1945年7月20日のハンブルグでの尋問(西ドイツ警察)[『小さな人々』、ヴィルス、p.59]、1945年9月15日の尋問(イギリスの調査官)[ビーシュル、『SSサイトの医師』、p.227]

解放後の民間人の証言[目撃者](2)

■クルト・プリュファー(トプフのエンジニア)[目撃者]、1946年3月5日、19日、11日、13日、15日、21日、25日(グスタフ・ブラウンとの共同尋問)、1948年3月4日、9日、13日(ソ連情報部)の尋問[ユルゲン・グラーフ、ソ連のトプフ技術者への質問

■カール・シュルツ(トップフのエンジニア)[目撃者]、1946年3月4日、14日、20日、1948年3月18日の尋問(ソ連情報部)[グラーフ、ソ連のトプフ技術者への尋問

解放後のゾンダーコマンドの囚人たちの証言 [目撃者] (29)

■ダニエル・ベナミアス(ゾンダーコマンド)[目撃者]、1993年に本として出版された証言[フロマー、ダニエル・ベナミアスのホロコースト・オデッセイ、ヴァン・ペルト、『アウシュビッツをめぐる議論』、p.193からの引用]

■モーリス・ベンルービ(ゾンダーコマンド、1942年)[ガス処刑場とガス処刑された死体の目撃者]、ジャン・クロード・プレサックによる証言とインタビュー(80年代?)[プレサック、技術、p162

■ミルトン・ブキ(ゾンダーコマンド)[目撃者]、1946年1月7日、ウィーン(オーストリア警察)での供述[マットーニョ、TBOA、118頁]、証言(正確な日付は不明、戦後まもなく)[1965年1月14日、アウシュヴィッツ裁判で読み上げられた]、1965年1月14日、フランクフルト(西ドイツ裁判の進行)での尋問[アウシュヴィッツ裁判のDVD]、1980年12月15日、エルサレムでの宣言[プレサック、技術、p.163](ブンカーの絶滅場所とビルケナウの火葬場について)

■チャールズ・ベンデル(ゾンダーコマンド)[目撃者]、1945年10月1日の尋問、リューネブルク(イギリス軍事裁判所)[ベルゼン裁判]、1946年3月2日の尋問、ハンブルク(イギリス軍事裁判所)[テッシュ裁判、NI-11953]、1946年の記録、パリ[アウシュヴィッツに関する回顧録、p.159 ff.](ビルケナウの火葬場でのガス処刑について)

■シャウル・チャザン(ゾンダーコマンド)[目撃者]、インタビュー(イスラエルの歴史家ギデオン・グライフによる)[グライフ、『涙なしで泣いた』、p.257 ff.]

■レオン・コーエン(ゾンダーコマンド)[目撃者]、インタビュー(イスラエルの歴史家ギデオン・グライフによる)[グライフ、『涙なしで泣いた』、p.286 ff.]。

■シュロモ・ドラゴン(ゾンダーコマンド)[目撃者]、1945年2月26日の尋問(ソ連軍調査官)[マットーニョ、TBOA、p.71]、1945年5月10日と11日の尋問(ポーランド調査官)[プレサック、技術、p.171、またマットーニョ、TBOA、p. 73]、1972年3月1日のウィーンでの尋問(オーストリアの裁判手続き)[プレサック、技術、p. 172]、1993年のエイブラハム・ドラゴンとの共同インタビュー(イスラエルの歴史家ギデオ・グライフによる)[グライフ、『涙なしで泣いた』、p. 122 ff.](ブンカーの絶滅収容所とビルケナウの火葬場でのガス処刑について)。

■アブラハム・ドラゴン(ゾンダーコマンド)[目撃者]、1993年のシュロモ・ドラゴンとの共同インタビュー(イスラエルの歴史家ギデオ・グライフによる)[グライフ、『涙なしで泣いた』、p.122 ff.]

■エリーザー・エイゼンシュミット(ゾンダーコマンド)[目撃者]、インタビュー(イスラエルの歴史家ギデオン・グライフ)[グライフ、『涙なしで泣いた』、p. 215 ff.]

■ダリオ・ガバイ(ゾンダーコマンド)[目撃者]、インタビュー(BBC)[リース、アウシュヴィッツ](ビルケナウでのガス処刑について)。

■ヤアコブ・ガバイ(ゾンダーコマンド)[目撃者]、インタビュー(イスラエルの歴史家ギデオン・グライフ)[グライフ、『涙なしで泣いた』、p. 181 ff.]

■サミュエル・ヘジブルム(ゾンダーコマンド、1942年)[目撃者]、2000年12月17日のインタビュー(バーバラ・シーベルトによる)[フリードラー、『デスゾーンの目撃者』、p.81](ビルケナウのブンカー絶滅収容所でのガス処刑について)

■スタニスワフ・ヤンコウスキー(ゾンダーコマンド)[目撃者]、1945年4月16日のクラクフでの尋問(ポーランド人調査官)[『凄惨な犯罪の中で』、p. 25 ff. ]、1980年9月29日のパリでの宣言(フランス人公証人の前で)[プレサック、技術、p. 124 ](基幹収容所のクレマトリウムでのガス処刑、ブンカーの絶滅場所、ビルケナウのクレマトリウムについて)

■モリス・ケッセルマン

■アンドレ・レティッチ(1943年3月までゾンダーコマンド)[目撃者]、1946年の記述[レティッチ、『強制収容所での34ヶ月間の生活』、マットーニョ、TBOA、p.97 及びコゴン、大量殺戮、p.210も参照]

■ガブリエル・マリンスキ

■ヘンリク・マンデルバウム (ゾンダーコマンド)[目撃者]、書籍化された記録[ポリュドニヤック、ゾンダー:ゾンダーコマンドのメンバーであるヘンリク・マンデルバウムへのインタビュー]

■フィリップ・ミュラー(ゾンダーコマンド)、1947年12月の尋問、クラクフ(ポーランドの裁判手続)[マットーニョ、ACI、p.33 ff.]、説明(日付は? )[クラウス&クルカ、Todesfabrik]、1963年12月2日のプラハ(チェコ当局)での尋問[1964年10月5日のフランクフルト・アウシュヴィッツ裁判で読み上げられた]、1965年10月5日と8日のフランクフルトでの尋問[アウシュヴィッツ裁判DVD][アウシュヴィッツ裁判]、1979年の記述[ミュラー、特別処置]、1980年1月24日の書簡[ルイス・ブランドン、ジャーナル・オブ・ヒストリカル・レビュー、vol. 1, issue 3]、[日付?]のインタビュー(クロード・ランズマン)(本陣の火葬場でのガス処刑、ブンカーの絶滅場、ビルケナウの火葬場について)

■デビッド・ネンセル(ゾンダーコマンド)[目撃者]、1995年7月15日のインタビュー(アンドレアス・キリアンによる)[フリードラー、『デスゾーンの目撃者』、p. 138、p. 155、ペトロプーロス、『グレーゾーン』、p. 62も参照]

■ミクロス・ニーシュリ(ゾンダーコマンド)[目撃者]、1945年7月28日の宣誓供述書(ハンガリー当局)[チャールズ・プロヴァン、穴はないのか、ホロコーストはないのか]、本として出版された1946年の記述[ニーシュリ、『アウシュビッツの火葬場でメンゲレの検死医をしていた』、英語版:ニーシュリ、『アウシュヴィッツ:医師による目撃談』、あるいはプレサック、技術、p. 473]、1947年初頭の記述(ハンガリーの新聞Vilagに掲載)[チャールズ・プロヴァン、『ミクロス・ニースリ博士と彼のアウシュビッツの本に新しい光が当たる』]、1947年10月8日のニュルンベルクでの宣誓供述書(連合軍の戦争犯罪調査官)[チャールズ・プロヴァン、『穴がない?ホロコーストがない?』]

■デビッド・オレーレ(ゾンダーコマンド)[目撃者]

・1945年のブンカー(1番かもしれない)の絶滅場の

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・火葬場3の炉室の

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・ガス室内部と歯の除去の

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・1946年、ガス室の入り口と死体除去の

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・1946年、第3火葬場の脱衣場の

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・1945年の骨砕きの(火葬場で?)

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・第3火葬場の概要の

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・第3火葬場のガス室の(側面図)

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・クレマトリウム3のガス室の(側面図)

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・第3火葬場における犠牲者の荷降ろしの

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・第3火葬場に入場する犠牲者の

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・火葬場5の野外焼却場での銃殺の

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■ドブ・パイシコビッチ(ゾンダーコマンド)[目撃者]、1963年10月17日のウィーンでの宣誓証言[マットーニョ、TBOA、p.106]、1964年8月10日の宣誓証言(アウシュヴィッツ州立博物館のため)[マットーニョ、TBOA, p.107]、1964年10月8日の尋問(西ドイツ裁判の進行)[アウシュヴィッツ裁判DVD](ブンカー2の絶滅場とビルケナウの火葬場でのガス処刑について)

■レムコ・プリシュコ(ゾンダーコマンド)[目撃者]、2003年12月16日インタビュー(イスラエルの歴史家ギデオン・グライフによる)[ペトロプーロス、『グレーゾーン』、p. 50]

■ジェホスア・ローゼンブルム

■ヨセフ・サッカル(ゾンダーコマンド)[目撃者]、インタビュー(イスラエルの歴史家ギデオン・グライフ氏)[グライフ、『涙なしで泣いた』、p. 87 ff.]

■ヤアコフ・シルベルベルク(ゾンダーコマンド)[目撃者]、1971年6月2日の尋問 (西ドイツの調査官) [フリードラー、『デスゾーンの目撃者』]1985年のインタビュー (カール・フルクトマン)[カール・フルクトマン、『単純な男』]、(1998?) のインタビュー (ギデオン・グライフ)[グライフ、『涙なしで泣いた』、p.310 ff.]

■ヘンリク・タウバー(ゾンダーコマンド)[目撃者]、1945年2月27日と28日の尋問(ソ連の調査官)[マットーニョ]、ATCFS, p. 375 ff.]、1945年の供述書(ユダヤ人歴史委員会)[ボルヴィッチ、『殉教者の罪のドキュメント』、マットーニョ、ATCFS, p. 374 ff.の引用]、1945年5月24日の尋問(ポーランドの調査官)[プレサック、技術、p. 482

■モリス・ヴェネツィア(ゾンダーコマンド)[目撃者]、インタビュー(BBC)[リース、アウシュヴィッツ](ビルケナウでのガス処刑について)

■シュロモ・ヴェネツィア(ゾンダーコマンド)[目撃者]、2007年に本として出版された証言[シュロモ・ヴェネツィア、ガス室の中で]

解放後の囚人の証言(ゾンダーコマンドを除く)[目撃者](47)

■イェフダ・バコン(ユダヤ人囚人)[目撃者]、1961年の尋問(イスラエルの裁判手続き)、1964年10月30日フランクフルトでの尋問(西ドイツの裁判手続き)[アウシュヴィッツ裁判DVD]、西ドイツ放送による(60年代?)インタビュー[アドラー、証明書とレポート、p.123]、火葬場4/5火葬場2/3ガス室の図面(ビルケナウの火葬場でのガス処刑について)

■ルドヴィック・バナハ(政治犯)[ガス室とガス処刑された死体の目撃者]、1947年7月18日の宣誓供述書(ポーランド人調査官)[マットーニョ、ATFG、p.45](主要収容所のブロック11でのロシア人捕虜のガス処刑について)

■アダ・ビムコ(ユダヤ人囚人)[ガス処刑場の目撃者]、(?)の宣誓供述書、1945年9月21日の尋問、リューネブルク(英国の裁判手続き)(ビルケナウの火葬場でのガス処刑について)

■カール・ブラハト(政治犯)[目撃者]、1959年10月15日の尋問、メシェデ(西ドイツの調査官)[アウシュヴィッツ裁判DVD](ビルケナウの火葬場でのガス処刑について)

■フランシシェク・ブロル(政治犯)[目撃者]、1964年9月28日の尋問、グリヴィツェ(ポーランド当局)[アウシュヴィッツ裁判DVD](基幹収容所のブロック11でのロシア人捕虜のガス処刑について)

■オタ・ファビアン(ユダヤ人囚人)[ガス室とガス処刑された死体の目撃者]、1964年11月6日、フランクフルトでの尋問[アウシュヴィッツ裁判DVD](基幹収容所の火葬場でのガス処刑について)

■モシェ・ガルバルツ(ユダヤ人囚人)[目撃者]、1983年に本として出版された証言[ガルバルツ、『生存者』;プレサック、技術、p.163での引用](ブンカー絶滅収容所でのガス処刑について)

■アレクサンダー・ゲルマンスキ(ポーランドの政治犯)[ガス処刑された死体の目撃者]、スタニスワフ・クロジンスキ宛の書簡[クロジンスキー、「囚人への最初のガス処刑...」、アウシュビッツ・ブックレット、p. 264](基幹収容所のブロック11でのガス処刑について)

■ルドルフ・ギビアン(ユダヤ人囚人)[ガス室とガス処刑された死体の目撃者]、1964年11月13日フランクフルトでの尋問[アウシュヴィッツ裁判DVD](ブンカー2絶滅地区とビルケナウの火葬場でのガス処刑について)

■ボグダン・グリンスキ(政治犯)[ガス室とガス処刑された死体の目撃者]、1947年9月17日の宣誓供述書(ポーランドの調査官)[マットーニョ、ATFG、p.46](基幹収容所のブロック11でのロシア人捕虜と病気の収容者へのガス処刑について)

■スタニスワフ・グロワ(政治犯)[ガス処刑場とガス処刑された死体の目撃者]、1964年6月11日の尋問(フランクフルト)[アウシュヴィッツ裁判DVD](基幹収容所のブロック11でのガス処刑について)

■チャスラフ・グロヴァツキ(政治犯)[ガス処刑場とガス処刑された死体の目撃者]、1964年4月13日、フランクフルトでの尋問[アウシュヴィッツ裁判DVD](基幹収容所のブロック11と火葬場でのガス処刑について)

■イグナシー・ゴリク(政治犯)[目撃者]、1964年6月8日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD](大収容所とビルケナウの火葬場でのガス処刑について)

■フランシシェク・グルバ(ポーランドの政治犯)[ガス処刑場の目撃者]、1970年12月2日の証言[マットーニョ、TBOA、p.110]、ワルシャワの国際アウシュヴィッツ委員会への1974年12月30日の書簡[マットーニョ、TBOA、p.112](ブンカー絶滅収容所でのガス処刑について)

■カジミエシュ・ハルガス(政治犯)[ガス処刑場とガス処刑された死体の目撃者]、スタニスワフ・クロジンスキ宛の書簡[クロジンスキー、「囚人への最初のガス処刑...」、アウシュビッツ・ブックレット、p. 265、270、 272](基幹収容所の第11ブロックでのロシア人捕虜と病人の大量殺戮について)

■ヴィエスワフ・キエラール(ポーランドの政治犯)[ガス処刑場とガス処刑された死体の目撃者]、スタニスワフ・クロジンスキーへの手紙[クロジンスキー、「囚人への最初のガス処刑...」、アウシュビッツ・ブックレット、p. 273](基幹収容所のブロック11での病気の収容者とロシア人捕虜のガス処刑について)

■ミハエル・クラ(政治犯)[目撃者]、1945年6月11日の宣誓書(ポーランド人調査官)[マットーニョ、ATFG、p.42]、1947年3月15日のクラクフでの宣誓書(ポーランド人調査官)[マットーニョ、ATFG, p.43]、1947年の尋問[ポーランドの裁判手続](基幹収容所のブロック11でのロシア人捕虜と病気の収容者へのガス処刑について)

■タデウシュ・クラント(ポーランドの政治犯)[ガス処刑された死体の目撃者]、スタニスワフ・クロジンスキへの手紙[クロジンスキー、「囚人への最初のガス処刑...」、アウシュビッツ・ブックレット、p.274](基幹収容所のブロック11でのガス処刑について)

■ヘルマン・ラングバイン(政治犯)[目撃者]、1949年に本として出版された証言[ラングバイン、『強いものは』]、1964年3月6日フランクフルトでの尋問[アウシュヴィッツ裁判DVD](基幹収容所の火葬場でのガス処刑とビルケナウでのガス処刑について)

■カール・リル(政治犯)[目撃者]、1962年8月9日の手紙、1964年9月18日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD](基幹収容所のクレマトリウムとビルケナウのクレマトリウムでのガス処刑について)

■ズジスラフ・ミコライスキー(政治犯)[目撃者]、1964年9月25日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD](大収容所の火葬場とビルケナウでのガス処刑について)

■バルトシュ・オジエムコウスキー(政治犯)[ガス処刑場とガス処刑された死体の目撃者]、1964年6月18日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD](基幹収容所のブロック11でのロシア人捕虜と病気の収容者へのガス処刑について)

■ヨゼフ・パシンスキ(ポーランドの政治犯)[目撃者]、BBCのインタビュー[リース、アウシュヴィッツ](本陣の火葬場でのガス処刑について)

■ロジャー・ペリソン(政治犯)[ガス処刑現場の目撃者]、1947年8月20日の手紙、パリ[バウム、『アウシュビッツの抵抗』、p.60](ビルケナウのクレマトリウム4と5でのガス処刑について)

■ヴァルター・ペツォルド(政治犯)[目撃者]、1945年5月17日の報告、1964年3月26日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD](基幹収容所のブロック11でのロシア人捕虜と病気の収容者へのガス処刑について)

■ヘンリク・ポレブスキー(政治犯)[目撃者]、1964年12月18日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD](ブンカーの絶滅収容所とビルケナウの火葬場でのガス処刑について)

■オットー・プレスバーガー(ユダヤ人囚人、墓掘り人の詳細)[ガス処刑された死体の目撃者]、BBCのインタビュー[レス、アウシュヴィッツ](ブンカー絶滅収容所でのユダヤ人のガス処刑について)

■アレクサンダー・プリンツ(ユダヤ人囚人)[目撃者]、1964年11月12日と19日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD](ビルケナウの火葬場でのガス処刑について)

■フリッツ・アドルフ・プツカー(政治犯)[目撃者]、1964年6月4日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD](ビルケナウの火葬場でのガス処刑について)

■エドワード・ピス(政治犯)[目撃者]、1959年10月23日のフランクフルトでの尋問(西ドイツの調査官)、1964年6月12日のフランクフルトでの尋問[アウシュヴィッツ裁判DVD](ブロックでのロシア人捕虜と病人のガス処刑、主収容所の火葬場でのガス処刑、ビルケナウでのガス処刑について)

■アドルフ・レーグナー(ドイツ人刑事囚)[ガス処刑場の目撃者]の証言(1946年3月以降)[マットーニョ、TBOA、p.101](ブンカー絶滅収容所でのユダヤ人のガス処刑とビルケナウの火葬場でのガス処刑について)

■アルノスト・ローザン(ユダヤ人囚人、墓掘り人の詳細)[目撃者]の説明(?)[フリードラー、『デスゾーンの目撃者』、p.78](ブンカー絶滅収容所でのガス処刑について)

■スタニスワフ・ロスペンク(ポーランドの政治犯)[ガス室装填の目撃者]、スタニスワフ・クロジンスキ宛の書簡[アウシュヴィッツ裁判DVD](基幹収容所のブロック11での病人収容者のガス処刑について)

■ゼノン・ロザンスキ(政治犯)[ガス室とガス処刑された死体の目撃者]、1948年に本として出版された記録[ロザンスキ、Mützen ab, p. 40 ff.、マットーニョ、ATFG、p. 47での引用](基幹収容所のブロック11でのロシア人捕虜と病人のガス処刑について)

■モーリス・シェルケス(ユダヤ人囚人、墓掘り人の詳細)[目撃者]、1981年のハイファでの供述[レオ・ベック研究所、メモワールコレクション、ME 1001. MM II 23]、(?)の記述[フリードラー、『デスゾーンの目撃者』、p.79](ビルケナウのブンカー絶滅収容所でのガス処刑について)

■カロル・シエネク(ポーランドの政治犯)[ガス処刑された死体の目撃者]、スタニスワフ・クロジンスキ宛の書簡[クロジンスキー、「囚人への最初のガス処刑...」、アウシュビッツ・ブックレット、p.274](基幹収容所のブロック11でのガス処刑について)

■ヤン・シコルスキ(政治犯)[目撃者]、1960年5月16日フランクフルトでの尋問(西ドイツの調査官)、1964年6月19日フランクフルトでの尋問[アウシュヴィッツ裁判DVD](本陣の火葬場でのガス処刑とビルケナウでのガス処刑について)

■スタニスワフ・スリゾウスキ(ポーランドの政治犯)[ガス処刑された死体の目撃者]、スタニスワフ・クロジンスキへの手紙[アウシュヴィッツ裁判DVD](基幹収容所でのガス処刑について)

■エドガー・シュタインメッツ(囚人)[ガス処刑現場の目撃者]、(?)の宣誓供述書[バウム、『アウシュヴィッツの抵抗』、p.62](ビルケナウの火葬場でのガス処刑について)

■ヘルベルト・ティシュラー(政治犯)[目撃者]、1962年9月25日のウィーンでの尋問(オーストリア当局/西ドイツの調査官)[アウシュヴィッツ裁判DVD](ビルケナウでのガス処刑について)

■ウラディスワフ・トンドス(ポーランドの政治犯)[ガス処刑場とガス処刑された死体の目撃者]、スタニスワフ・クロジンスキ宛の書簡[クロジンスキー、「囚人への最初のガス処刑...」、アウシュビッツ・ブックレット、p. 274](基幹収容所のブロック11での病人収容者とロシア人捕虜のガス処刑について)

■ヨセフ・ヴァチェク(政治犯)[ガス室とガス処刑された死体の目撃者]、1945年5月8日の尋問(アメリカの調査官か)[イェッケル、『第二次世界大戦中のユダヤ人殺害について』、p. 167、マットーニョ、ATFG、p. 37での引用](アウシュヴィッツ基幹収容所のブロック11でのロシア人捕虜のガス処刑について)

■ルドルフ・ヴルバ(ユダヤ人囚人)[目撃者]、1964年11月30日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD](ビルケナウの火葬場でのガス処刑について)

■ヨゼフ・ヴェーバー(ポーランド人政治犯)[ガス処刑場とガス処刑された死体の目撃者]、スタニスワフ・クロジンスキ宛の書簡[クロジンスキー、「囚人への最初のガス処刑...」、アウシュビッツ・ブックレット、p. 274]。基幹収容所のブロック11でのガス処刑について)

■ウィルヘルム・ヴォルファルト(ポーランドの政治犯)[目撃者]、1947年3月の尋問(ポーランドの裁判手続)[マットーニョ、TBOA、103頁](ブンカーの絶滅場所でのガス処刑について)

■ヤン・ウォルニー(ポーランドの政治犯)[ガス処刑場とガス処刑された死体の目撃者]、(?)のクロジンスキへの手紙[クロジンスキー、「囚人への最初のガス処刑...」、アウシュビッツ・ブックレット、p. 265, 272](基幹収容所のブロック11での病人収容者とロシア人捕虜のガス処刑について)

■アダム・ザカースキ(ポーランドの政治犯)[ガス処刑場とガス処刑された死体の目撃者]、(?)のスタニスワフ・クロジンスキ宛の手紙[クロジンスキー、「囚人への最初のガス処刑...」、アウシュビッツ・ブックレット、p. 274](基幹収容所のブロック11でのロシア人捕虜のガス処刑について)

解放後の親衛隊関係者の証言[伝聞] (46)

■リヒャルト・ベーア(アウシュヴィッツの司令官)[伝聞]、1960年12月22日の尋問、フランクフルト(西ドイツの調査官)[アウシュヴィッツ裁判DVD](ビルケナウでのガス処刑について)

■ハインリッヒ・ビショフ(ブロック・リーダー)[伝聞]、1961年11月24日の尋問、フランクフルト(西ドイツの調査官)[アウシュヴィッツ裁判DVD](ビルケナウでのガス処刑について)

■ヘルムート・バルチュ(SS調査官)[伝聞]、1964年3月13日の尋問、フランクフルト(西ドイツの裁判進行)[アウシュヴィッツ裁判DVD](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■シャルロット・バルチュ(女性補助部隊)[伝聞]、1964年8月3日の尋問、フランクフルト(西ドイツ裁判手続)[アウシュヴィッツ裁判DVD](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■ウィルヘルム・ボーガー(政治部)[伝聞とされているが、1959年5月1日の尋問でペリー・ブロードによる目撃証言]、1945年7月10日のルートヴィヒスブルク(アメリカの調査官)の報告、1958年10月9日のシュトゥットガルト(西ドイツの警察)の尋問、1959年4月13日のルートヴィヒスブルク(西ドイツの調査官)の尋問、1961年5月30日のフランクフルト(西ドイツの警察)の尋問、1964年11月27日のフランクフルト(西ドイツの裁判手続き)の尋問[アウシュヴィッツ裁判のDVD](ビルケナウでのガス処刑に関するもの)

■アーサー・ブライトヴィーザー(収奪物室の消毒細部)[伝聞を主張]、1961年6月9日の尋問、バート・ゴデスベルク(西ドイツの調査官)、1964年1月24日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD](ビルケナウでのガス処刑について)

■カール・ブロッチ(政治部)[目撃者]、1963年12月19日デュッセルドルフでの尋問(西ドイツの調査官)、1964年11月2日フランクフルトでの尋問[アウシュヴィッツ裁判DVD](基幹収容所の火葬場でのガス処刑について)

■ウィルヘルム・ブルガー(アウシュヴィッツ管理責任者)[ヘスからの伝聞]、1947年4月17日の尋問(アウシュヴィッツでの人々のガス処刑について)

■ヴィクトル・カペシウス(SS医師)[伝聞と主張しているが、立場上、目撃している可能性が高い]、1959年12月4日、ゲッピンゲンでの尋問(西ドイツの調査官)、1959年12月7日、フランクフルトでの尋問(西ドイツの調査官)、1964年1月27日、フランクフルトでの尋問[アウシュヴィッツ裁判DVD](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■クラウス・ダイレフスキ(政治部)[伝聞を主張]、1959年4月25日、クレーフェルト(西ドイツの調査官)の尋問、1961年2月9日、カッセル・ヴェールハイデン(西ドイツの警察)の尋問[アウシュヴィッツ裁判DVD](ビルケナウでのガス処刑について)

■フリッツ・アートル(中央建設事務所)[明らかに伝聞を主張]、1972年1月21日の尋問、ウィーン(オーストリアの裁判手続)[ヴァン・ペルト、『アウシュビッツの場合』、 p.302](ビルケナウでのガス処刑について)

■ウィリー・フランク(SS医師)[伝聞と主張しているが、立場上証人の可能性が高い]、1959年9月18日のルートヴィヒスブルク(西ドイツ警察)での尋問、1960年1月15日と1961年10月13日のシュトゥットガルト(西ドイツ捜査官)での尋問、1964年1月24日と10月2日のフランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD]での尋問(ビルケナウのクレマトリウムでのガス処刑について)

■フリッツ・ガアー(SSモータープール)[伝聞、噂を信じなかった]、1964年8月28日の尋問、フランクフルト[西ドイツ裁判の進行][フランクフルト・アウシュヴィッツ裁判](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■アントン・グレーザー(SSモータープール)[伝聞を主張したが、おそらく目撃者であろう]、1964年9月11日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD](バンカーの絶滅収容所でのガス処刑について)

■レオポルド・ヘーガー(SSモータープール)[伝聞]、1964年9月11日、フランクフルトでの尋問[アウシュヴィッツ裁判DVD](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■カール・ヘッカー(准尉)[伝聞を主張]、1961年1月30日の尋問、リュベッケ(西ドイツの調査官)、1962年2月16日の尋問、フランクフルト(西ドイツの調査官)、1964年1月10日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD](ビルケナウでのガス処刑について)

■フランツ・ヘスラー(保護管理者)[伝聞であると主張しているが、収容所内での立場上、目撃者である可能性が高い。また、SS医師ヨハン・クレーマーの戦時中の日記によっても大いに非難されている]、1945年5月17日の宣誓供述書(イギリスの調査官)(アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■ヨセフ・ホーファー(政治部)[伝聞]、1964年12月4日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■ハンス・ホフマン(政治部)[伝聞]、1964年12月11日、フランクフルトでの尋問[アウシュヴィッツ裁判DVD](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■ルートヴィヒ・ホルツェ(SSモータープール)[伝聞]、1964年9月4日、フランクフルトでの尋問[アウシュヴィッツ裁判DVD](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■ホルスト・ヒューリー(看守)[伝聞]、1964年9月11日、フランクフルトでの尋問[アウシュヴィッツ裁判DVD](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■カール・ハイクス(収容所管理者)[伝聞]、1964年6月22日、フランクフルトでの尋問[アウシュヴィッツ裁判DVD](ビルケナウの火葬場でのガス処刑について)

■カール・カール(SS将校)[伝聞]、1945年9月19日、ランツフートでの尋問[マットーニョ、ATFG、p.68](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■オスカー・キーゼルバッハ(看守)[伝聞]、1964年8月13日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■アウグスト・クレーア(看守)[伝聞]、1965年1月28日、フランクフルトでの尋問[アウシュヴィッツ裁判DVD](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■ギュンター・クレイマー(看守)[伝聞]、1964年8月17日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■ヨゼフ・クラマー(ビルケナウ司令官)[伝聞を主張]1945年10月8日の尋問(英国の裁判手続き)(ビルケナウのクレマトリアでのガス処刑について)

■テオドール・キュッパー(SSモータープール)[伝聞]、1964年9月14日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■カート・ライショウ(看守)[伝聞]、1961年3月14日のハンブルグでの尋問(西ドイツの調査官)、1964年7月17日のフランクフルトでの尋問[アウシュヴィッツ裁判DVD](ブロック11でのロシア人捕虜のガス処刑と本収容所の火葬場について)

■エドワード・ローレンツ(SSモータープール)[引用されたエキスからは不明、おそらく目撃者]、1964年9月17日の尋問(西ドイツの調査官)[フリードラー、『デス・ゾーンの目撃者』、 p.70](ビルケナウのブンカー絶滅収容所でのガス処刑について)

■フランツ・ルーカス(SS医師)[伝聞とされているが、立場上、目撃者である可能性が高い]、1962年2月14日のフランクフルトでの尋問(西ドイツの調査官)、1964年1月27日、1965年3月11日、5月3日のフランクフルトでの尋問[アウシュヴィッツ裁判DVD](ビルケナウでのガス処刑について)

■ボド・フォン・メイデル(ドイツ兵)[伝聞]、1979年に本として出版された証言[メイデル、イム・バンネ・デ・ティックン](アウシュヴィッツでのガス処刑)

■ロベルト・ムルカ(裁定官)[伝聞を主張]、1960年11月8日、ハンブルグ、1961年9月11日、フランクフルト(西ドイツの調査官)の尋問、1964年1月9日、7月24日、11月6日の尋問[アウシュヴィッツ裁判DVD](ビルケナウのブンカー絶滅収容所でのガス処刑について)

■ゲルハルト・ノイベルト(SS医療班員)[伝聞]、1962年6月5日の尋問、ディフォルツ(西ドイツの調査官)、1964年2月3日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■ハンス・ニェシュヴィッキ(SS医療班員)[伝聞]、1960年9月19日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■フリードリヒ・オントル(医療部門)[伝聞]、1964年6月4日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■クリスチャン・プファウスト(SSモータープール)[伝聞]、1964年9月14日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■ヘルムート・ポムラインケ(SSモータープール)[伝聞]、1964年8月13日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■ヴィリー・シャッツ(SS医師)[伝聞であると主張しているが、立場上、目撃者である可能性が高い]、1961年4月11日ハノーファー、1961年11月2日フランクフルトでの尋問(西ドイツの調査官)、1964年1月24日フランクフルトでの尋問[アウシュヴィッツ裁判DVD](ビルケナウの火葬場でのガス処刑について)

■ヘルベルト・シェルプ(SS医療班員)[伝聞]、1961年8月15日のマンハイムでの尋問(西ドイツの調査官)、1964年1月31日のフランクフルトでの尋問[アウシュヴィッツ裁判DVD](本陣とビルケナウの火葬場でのガス処刑について)

■ブルーノ・シュラーゲ(ブロック・リーダー)[伝聞]、1962年2月5日と3月22日の尋問、バート・アイゼンハウゼン(西ドイツの調査官)[アウシュヴィッツ裁判DVD](基幹収容所のクレマトリウムでのガス処刑について)

■フリードリヒ・オットー・シュルッパー(収容所管理者)[伝聞]、1964年7月13日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD](本収容所の火葬場でのロシア人捕虜のガス処刑について)

■ルートヴィヒ・カール・シュミット(ルートヴィヒ・カール・シュミット)[知識の源泉は不明、伝聞か目撃者か]、尋問は日付不明(西ドイツの調査官)[アウシュヴィッツ裁判DVD](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■ヨハン・ショベルト(政治部)[伝聞]、1960年6月10日の尋問、Aufseß(西ドイツ調査官)、1964年1月16日の尋問[アウシュヴィッツ裁判DVD](ビルケナウでのガス処刑について)

■ヨハネス・テュムラー(カトヴィッツの治安警察とSDの司令官)[伝聞]、1964年11月2日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD][アウシュヴィッツでのガス処刑と大量殺戮について)

■ヤコブ・ヴェンデル(看守)[伝聞]、新聞インタビュー、シュトゥットガルト(アウシュビッツでのガス処刑について)

■ディーター・ヴィスリセニー(RSHA)[アドルフ・アイヒマンからの伝聞]、1946年1月3日の尋問、ニュルンベルク(連合国の裁判手続き)(アウシュヴィッツのクレマテリアでのガス処刑について)

解放後の民間人の証言 [伝聞] (7)

■ヒルデガルト・ビショフ(民間人、SS中央建設事務所長カール・ビショフの妻)[伝聞]、1964年7月24日の尋問、フランクフルト(西ドイツ裁判手続)[アウシュヴィッツ裁判DVD][アウシュヴィッツでのガス処刑について]

■ギュンター・ブーフ(民間人、アウシュヴィッツ准尉ロベルト・ムルカの知人)[伝聞]、1964年10月22日の尋問、フランクフルト(西ドイツの裁判手続)[アウシュヴィッツ裁判DVD][アウシュヴィッツでのガス処刑について]

■エリーゼ・ハイニッシュ・ウットナー(民間人、アウシュヴィッツ町の歯科医師)[伝聞]、1964年10月22日の尋問、フランクフルト(西ドイツの裁判手続)[アウシュヴィッツ裁判DVD][アウシュヴィッツでのガス処刑について]

■ロジーナ・クラマー(民間人、ビルケナウ司令官ヨゼフ・クラマーの妻)[伝聞]、1945年の尋問、リューネブルク(イギリスの調査官)(アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■オイゲンラザール(民間人、ビルケナウのSSブロック・リーダーであるシュテファン・バレツキの知人)、1965年2月18日の尋問、フランクフルト(西ドイツの裁判手続)[アウシュヴィッツ裁判DVD][アウシュヴィッツでのガス処刑について]

■ヴィクトリア・レイ(民間人、SS医師ヴィクター・カペシウスとフリッツ・クラインの知人)[伝聞]、1965年1月15日の尋問、フランクフルト(西ドイツ裁判手続)[アウシュヴィッツ裁判DVD][アウシュヴィッツでのガス処刑について]

■フリッツ・ザンダー(トップフ技師)[伝聞、トップフ技師クルト・プリュファーから]、1946年3月7日の尋問(ソ連情報部)[ユルゲン・グラーフ、ソ連のトプフ技術者への質問](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

解放後の囚人の証言(伝聞)194

■マリアナ・アダム(ユダヤ人囚人)[伝聞]、1963年2月20日の宣言[フランクフルト・アウシュヴィッツ裁判で1964年11月16日に読み上げられた][アウシュヴィッツ裁判DVD](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■ヴェラ・アレキサンダー(ユダヤ人囚人)[伝聞]、1964年4月6日の尋問、フランクフルト(西ドイツ裁判の進行)[アウシュヴィッツ裁判DVD](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■エーリヒ・アルトマン(ユダヤ人囚人)[伝聞]、1964年3月5日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■フェリックス・アマン(ユダヤ人囚人)[伝聞]、1964年9月18日、フランクフルトでの尋問[アウシュヴィッツ裁判DVD](ビルケナウでのガス処刑について)

■アウグスタ・アムラム(ユダヤ人囚人)[伝聞]、1946年7月1日の記述[レオ・ベック研究所、ME 1170. MM II 36](アウシュヴィッツのガス化について)

■ヴォイチェフ・バルツ(政治犯)[伝聞]、1964年4月9日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■ダニエル・バルド(ユダヤ人囚人)[伝聞]、1964年8月17日、フランクフルトでの尋問[アウシュヴィッツ裁判DVD](ビルケナウでのガス処刑について)

■エルヴィン・バルテル(政治犯)[伝聞]、1959年の尋問(西ドイツの調査官)、1964年8月17日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD](ブロック11でのロシア人捕虜へのガス処刑とアウシュヴィッツでのガス処刑について)

■ヨハン・ベックマン(政治犯)[伝聞]、1965年2月12日、フランクフルトでの尋問[アウシュヴィッツ裁判DVD](ビルケナウでのガス処刑について)

■エミール・ベドナレク(政治犯)[伝聞]、1964年2月6日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD](ビルケナウの火葬場でのガス処刑について)

■アロン・ベジュリン(ユダヤ人囚人)[伝聞]、1964年8月28日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD](ビルケナウの火葬場でのガス処刑について)

■ジリ・ベラノフスキー(政治犯)[伝聞]、1945年初頭の尋問(ソ連の調査官)[マットーニョ、ATFG、p.37]、1964年4月17日の尋問(フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD])(ビルケナウの火葬場でのガス処刑について)

■ポール・バーグマン(ユダヤ人囚人)[伝聞]、1964年11月30日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■マウリチウス・ベルナー(ユダヤ人囚人)[伝聞]、1964年8月17日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■サイラ・オニマン・ビーダマン(囚人)[伝聞]、1945年の記録[レオ・ベック研究所、ME 1120. MM II 32](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■イェジ・ビエレツキ(ポーランド人政治犯)[伝聞の可能性あり]、BBCによるインタビュー[リース、アウシュヴィッツ](基幹収容所の火葬場でのガス処刑について)

■ウォルター・ブラス(囚人)[伝聞]、1945年の尋問(米軍)[ハケット、ブッヘンヴァルト報告書、 p.?](アウシュヴィッツでのガス処刑について)。

■ミリヤム・ブリッツ(ユダヤ人囚人)[伝聞]、本の説明[ブリッツ、アウシュヴィッツ13917、ケラー『コンツェントレーションスラガー・ベルゲン・ベルゼン』1995年、123頁から引用](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■ヨゼフ・ボデック(政治犯)[伝聞]、1964年11月20日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判](ビルケナウの火葬場でのガス処刑について)

■ギゼラ・ベーム(ユダヤ人囚人)[伝聞]、1964年11月19日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■フリッツ・ブッフホルツ(政治犯[不明]、1945年4月2日の尋問(米軍)[スティーブン・タイアス、『連合国諜報機関とホロコースト:ドイツ人捕虜から得た情報』](ビルケナウの火葬場でのガス処刑について)

■ピーター・ブダン(政治犯)[伝聞]、1964年6月16日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■エドワード・ブラコウスキー(政治犯)[伝聞]、1965年4月26日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD](ビルケナウでのガス処刑について)

■ロジェ・コルペル・ブリク(ユダヤ人囚人)[伝聞]、1965年4月12日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD](ビルケナウでのガス処刑について)

■ヘレネ・クーグノ(ユダヤ人囚人)[伝聞]、1964年7月17日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD](大収容所の火葬場とビルケナウでのガス処刑について)

■チャールズ・カワード(イギリス人捕虜)[伝聞]、1965年2月19日、フランクフルトでの尋問[アウシュヴィッツ裁判DVD](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■レオン・チェカルスキー(政治犯)[伝聞]、1964年5月8日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD](ブロック11でのガス処刑と主要収容所の火葬場について)

■アブラハム・デ・ラ・ペンハ(ユダヤ人囚人)[伝聞]、1965年3月26日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■エミール・ド・マルティーニ(政治犯)[伝聞]、1964年6月4日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD](ブロック11のロシア人捕虜と病人、ユダヤ人へのガス処刑について)

■ヘルマン・ディアマンスキー(政治犯)[伝聞]、1964年3月19日、フランクフルトでの尋問[アウシュヴィッツ裁判DVD](ビルケナウでのガス処刑について)

■ヴィトルド・ダウギント・ニエチュンスキ(政治犯)[伝聞]、1965年1月29日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■ワクロー・ダウジン・ニエシウンスキ (政治犯) [伝聞], 1965年3月8日の尋問、フランクフルト [アウシュヴィッツ裁判DVD] (ビルケナウでのガス処刑について)

■ハインリッヒ・デュルメイヤー(政治犯)[伝聞]、1964年6月22日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD](ビルケナウでのガス処刑について)

■アルベルト・エーレンフェルド(ユダヤ人囚人)[伝聞]、1964年8月17日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■アロイス・アイゼンヘンドラー(ユダヤ人囚人)[伝聞]、1964年9月24日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD](ビルケナウの火葬場でのガス処刑について)

■ヤン・ファーバー(ユダヤ人囚人)[伝聞]、1964年10月2日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■ウォルター・ベンジャミン・フェイデン(ユダヤ人囚人)[伝聞]、2010年3月16日のインタビュー[レオ・ベック研究所、AHC 4114](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■ウラディスワフ・フェイキエル(政治犯) [伝聞]、1964年5月29日、フランクフルトでの尋問 [アウシュヴィッツ裁判DVD](ロシア人捕虜と病人の収容ブロック11でのガス処刑とアウシュヴィッツでの一般的なガス処刑について)

■ハンス・ヴェルナー・フィーゲ(政治犯)[伝聞]、1964年10月13日の尋問、フランクフルト(西ドイツの調査官)[アウシュヴィッツ裁判DVD](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■ハンス・フランケンタール(ユダヤ人囚人)[伝聞]、1964年3月9日の尋問、フランクフルト[[アウシュヴィッツ裁判DVD](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■ルートヴィヒ・フランク(ユダヤ人囚人)[伝聞]、1946年の報告書(ビルケナウの火葬場でのガス処刑について)

■オナス・フリードリッヒ(ユダヤ人囚人)[伝聞]、1962年8月31日の尋問、キッシンゲン(西ドイツの調査官)、1964年12月11日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■マックス・フリードリヒ(ジプシーの囚人)[伝聞]、1964年12月11日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■アリー・フクス(ユダヤ人囚人)[伝聞]、1964年10月16日、フランクフルトでの尋問[アウシュヴィッツ裁判DVD](ビルケナウでのガス処刑について)

■アドルフ・ガワレヴィッチ(政治犯)[伝聞]、1964年6月11日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD](ビルケナウでのガス処刑について)

■レオン・ゲルベルガー(ユダヤ人囚人)[伝聞]、(?)の供述(アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■ヨゼフ・グリュック(ユダヤ人囚人)[伝聞]、1964年8月20日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■ヘレン・ゴールドマン(ユダヤ人囚人)[伝聞]、1964年9月13日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■シモン・ゴットランド(ユダヤ人囚人)[ガス処刑に関する伝聞、墓掘り人]、1964年7月27日、フランクフルトでの尋問[アウシュヴィッツ裁判DVD](ビルケナウでのガス処刑について)

■ゲルハルト・グランデ(ユダヤ人囚人)[伝聞]、1964年7月10日、フランクフルトでの尋問[アウシュヴィッツ裁判DVD](ビルケナウでのガス処刑について)

■ヴォルフ・グロスマン(ユダヤ人囚人)[伝聞]、1959年9月11日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■イスラエル人グットマン(ユダヤ人囚人)[伝聞]、1957年に本として出版された記述(グットマン、Anashim ve Efer、アドラー、 『証言とレポート』、p. 213に引用)(アウシュヴィッツでの大量絶滅について)。

■エリザベート・グッテンベルガー(ジプシーの囚人)[伝聞]、1965年2月2日、プフォルツハイム(西ドイツの裁判所)での尋問[アウシュヴィッツ裁判DVD]、西ドイツ放送による(?)インタビュー[アドラー、 『証言とレポート』、p. 131](ビルケナウの火葬場でのガス処刑について)

■ヴラディミール・ハナック(政治犯)[伝聞]、1964年11月13日と19日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■キティ・ハート(ユダヤ人囚人)[おそらく伝聞]、1962年に本として出版された証言[ハート、私は生きている、アドラー、『証言とレポート』、p. 82に引用](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■フェニー・ハーマン(ユダヤ人囚人)[伝聞]、1964年7月9日フランクフルトでの尋問[アウシュヴィッツ裁判DVD](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■ハインツ・ハーマン(ユダヤ人囚人)[伝聞]、1964年8月28日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■フレデリック・ハーシュ(政治犯)[伝聞]、1964年8月7日、フランクフルトでの尋問[アウシュヴィッツ裁判DVD](主収容所のブロックでのロシア人捕虜のガス処刑とアウシュヴィッツでのガス処刑について)

■ハンナ・ホフマン(ユダヤ人囚人)[伝聞]、証言[ラングバイン、、『アウシュヴィッツの人びと』、p. 66](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■タデウシュ・ホルジ(政治犯)[伝聞]、1962年2月27日のフランクフルトでの尋問(西ドイツの調査官)、1964年6月12日のフランクフルトでの尋問[アウシュヴィッツ裁判DVD](ビルケナウでのガス処刑について)

■ベンジャミン・ジェイコブス(ユダヤ人囚人)[伝聞]、1995年の(アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■ヴェルナー・ヤコブ(ユダヤ人囚人)[伝聞]、1964年8月13日のフランクフルトでの尋問[アウシュヴィッツ裁判DVD](ビルケナウの火葬場でのガス処刑について)

■ナタン・ヤクボヴィッツ(ユダヤ人囚人)[伝聞]、1960年5月24日のフランクフルト(西ドイツ警察)での尋問、1964年9月3日のフランクフルトでの尋問[アウシュヴィッツ裁判DVD](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■ラヤ・カガン(ユダヤ人囚人)[伝聞]、1947年に本として出版された証言[カガン、地獄のオフィスの女たち]、1964年7月31日の尋問、フランクフルト(西ドイツ裁判の進行)[フランクフルト・アウシュヴィッツ裁判](本収容所の火葬場でのガス処刑について)

■ジェルジ・カナル(ユダヤ人囚人)[伝聞]、1964年7月16日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD](ビルケナウでのガス処刑について)

■アダム・カルウォフスキ(政治犯)[伝聞]、1964年12月3日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■マックス・カスナー(ユダヤ人囚人)[伝聞]、1964年10月15日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■ルドルフ・カウアー(政治犯)[伝聞]、1964年7月6日、フランクフルトでの尋問[アウシュヴィッツ裁判DVD](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■ベネディクト・カウツキー(オーストリアの政治犯)[伝聞]、1961年に本として出版された証言[カウツキー、Teufel und Verdammte、アドラー、『証言とレポート』、p. 88に引用](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■ミエチスラフ・キエタ(政治犯)[伝聞]、1964年8月31日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■カレル・クライン(ユダヤ人囚人)[囚人]、1965年1月28日、フランクフルトでの尋問[アウシュヴィッツ裁判DVD](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■スタニスワフ・クロジンスキ(政治犯)[伝聞]、1964年5月22日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD](本収容所のブロック11でのロシア人捕虜と病人のガス処刑、ビルケナウでのガス処刑について)

■クルト・クヌース・シーベンリスト(政治犯)[伝聞]、1959年12月3日の尋問、ハンブルク(西ドイツの調査官)[アウシュヴィッツ裁判DVD](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■ジェノ・ケーヒー(ユダヤ人囚人)[伝聞]、1962年10月1日の手紙(アウシュヴィッツでのユダヤ人のガス処刑について)

■ジョー・クープマン(ユダヤ人囚人)[伝聞]、1945年の記録[クープマン、『一握りの男たち。アウシュヴィッツの生存者のメモ』;レオ・ベック研究所、ME 370. MM 46]を参照のこと。(アウシュヴィッツのガス処刑について)

■アルフレッド・コルン(ユダヤ人囚人)[伝聞]、1964年7月9日フランクフルトでの尋問[アウシュヴィッツ裁判DVD](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■ルートヴィヒ・コワルチク(政治犯)[伝聞]、1960年5月14日、クラクフ(ポーランド当局)での尋問[アウシュヴィッツ裁判DVD](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■タデウシュ・コワルチク(政治犯)[伝聞]、1963年8月19日の尋問、ハンブルグ(西ドイツの調査官)[アウシュヴィッツ裁判DVD](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■ジョゼフ・コズロウスキー(政治犯)[おそらく伝聞]、1946年9月6日の宣誓供述(ポーランドの調査官)[マットーニョ、ATFG、p.44](主要収容所のブロック11でのロシア人捕虜と病気の収容者へのガス処刑について)

■エルナ・クラフト(政治犯)[伝聞]、1964年11月2日の尋問(フランクフルト)[アウシュヴィッツ裁判DVD](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■ヨゼフ・クラル(政治犯)[伝聞]、1964年5月21日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD](主収容所の火葬場でのガス処刑について)

■メンネ・クラッツ(ユダヤ人囚人)[伝聞]、1964年12月21日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD](ビルケナウでのガス処刑について)

■アドリアン・クラウス(ユダヤ人囚人)[伝聞]、1964年10月29日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■アルトゥル・クルゼトゥスキ(ポーランド人政治犯)[おそらく伝聞]、スタニスワフ・クロジンスキ宛の書簡[クロジンスキ、「囚人への最初のガス処刑...」アウシュビッツのノート、p. 263]

■ヤン・クロコウスキー(政治犯)[伝聞]、1946年7月17日の宣誓証言(ポーランド人調査官)[マットーニョ、ATFG、44頁](基幹収容所のブロック11でのロシア人捕虜と病人のガス処刑について)

■ヨハン・クロコウスキー(政治犯)[伝聞]、1964年9月10日の尋問(フランクフルト)[アウシュヴィッツ裁判DVD](ビルケナウでのガス処刑について)

■ミヒャエル・クルチェク(政治犯)[伝聞]、1964年10月22日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD](大収容所でのロシア人捕虜のガス処刑について)

■ヴェルナー・クルム(政治犯)[伝聞]、1963年1月7日のミュンヘンでの尋問(西ドイツの調査官)、1964年7月9日のフランクフルトでの尋問[アウシュヴィッツ裁判DVD](ビルケナウでのガス処刑について)

■ハーシュ・クーゲルマン(ユダヤ人囚人)[伝聞]、1964年8月21日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■エーリヒ・クルカ(ユダヤ人囚人)[伝聞]、1964年4月16日と23日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD](ビルケナウの火葬場でのガス処刑について)

■オットー・ドフ・クルカ(ユダヤ人囚人)[伝聞、ゾンダーコマンド・フィリップ・ミュラーから]、1962年6月13日のエルサレム(イスラエル当局)での尋問、1964年7月30日のフランクフルトでの尋問[アウシュヴィッツ裁判DVD](ビルケナウの火葬場でのガス処刑について)

■ヘルベルト・クルツ(刑事囚)[伝聞]、1964年3月16日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■ヤコブ・ラクス(ユダヤ人囚人)[伝聞]、1964年7月9日、フランクフルトでの尋問[アウシュヴィッツ裁判DVD](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■シモン・ラクス(ユダヤ人囚人)[伝聞]、1948年に本として出版された証言[ラクス、『もうひとつの世界の音楽』、アドラー、『証言とレポート』、p. 179に引用されている](ビルケナウの火葬場でのガス処刑について)

■ラスカー・ウォールフィッシュ(ユダヤ人囚人)[伝聞]、[レオ・ベック研究所、ME 305. MM 47]の証言(アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■アレクサンドル・レベデフ(政治犯)[伝聞]、1964年10月1日、フランクフルトでの尋問[アウシュヴィッツ裁判DVD](ブロック11と本陣の火葬場でのロシア人捕虜のガス処刑、ビルケナウでのユダヤ人のガス処刑について)

■ヴィクトール・レデラー(政治犯)[伝聞]、1964年11月5日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■ヤン・レイトナー(チェコ人囚人)[不明確]、1945年3月17日の尋問(米軍)[スティーブン・タイアス、連合国諜報機関とホロコースト:ドイツ人捕虜から得た情報](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■プリモ・レーヴィ(ユダヤ人政治犯)[伝聞]、1947年に本として出版された証言[レーヴィ、『これが人間か』][ビルケナウの火葬場でのガス処刑について)

■エラ・リンゲンス・ライナー(オーストリア人政治犯)[伝聞]、1948年に本として出版された証言[リンゲス・ライナー、『恐怖の囚人』、アドラー、『証言とレポート』、p. 100に引用]。アウシュヴィッツでの大量殺戮について)

■ウォルター・レブナー(ユダヤ人囚人)[伝聞]、1945年5月14日クレメンでの証言、1964年8月20日フランクフルトでの尋問[アウシュヴィッツ裁判DVD](ビルケナウのブンカー絶滅場でのガス処刑について)

■ジークベルト・ロフラー(ユダヤ人囚人)[伝聞]、1964年12月21日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD](ビルケナウでのガス処刑について)

■サロ・ルーザー(囚人)[伝聞]、1946年6月5日の宣誓供述書、ライプツィヒ(東ドイツ当局)[ヘンリー・スタントンの手稿、『アウシュビッツの犠牲者、ポール・ヒンリクセンの物語』:レオ・ベック研究所、MS 244. MSF 17](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■カート・ロウ(ユダヤ人囚人)[伝聞]、1964年11月30日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD](ビルケナウでのガス処刑について)

■サミュエル・ルボウスキ(ユダヤ人囚人)[伝聞]、1964年8月21日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD](ビルケナウでのガス処刑について)

■マックス・マールベルク(刑事囚)[伝聞]、1959年12月21日の尋問(西ドイツの警察・調査員)[アウシュヴィッツ裁判DVD](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■ワンダ・マロッサニ(囚人)の証言(アウシュヴィッツでのガス処刑と火葬場について)

■ダヴィド・マッツナー(ユダヤ人囚人)[伝聞]、[レオ・ベック研究所、ME 825. MM II 8]の証言(アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■マリアン・ミコライツ(ポーランドの政治犯)[不明、ガス処刑場とガス処刑された死体の目撃者かもしれない]、スタニスワフ・クロジンスキへの手紙[クロジンスキ、囚人への最初のガス処刑...、アウシュヴィッツノート、p.274]。(主収容所でのガス処刑について)

■リリー・スポラ・マジェールチク(ユダヤ人囚人)[伝聞]、1964年4月17日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■エーリヒ・マルコヴィッチュ(ユダヤ人囚人)[伝聞]、1965年2月4日、フランクフルトでの尋問[アウシュヴィッツ裁判DVD](ビルケナウでのガス処刑について)

■ヘレン・メーラー(ユダヤ人囚人)[伝聞]、1960年8月16日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■アルバート・メナーシェ(ユダヤ人囚人)[伝聞]、1947年に本として出版された記述[アルバート・メナシェ、ビルケナウ:アウシュヴィッツII、アドラー、『証言とレポート』、p. 59にて引用](ビルケナウの火葬場での絶滅について)

■ヨゼフ・ミクー(政治犯)[伝聞]、1965年4月26日、フランクフルトでの尋問[アウシュヴィッツ裁判DVD](基幹収容所のブロック11でのガス処刑とアウシュヴィッツでのガス処刑について)

■ピョートル・ミーシン(ロシア人捕虜)[伝聞]、1964年10月29日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■マレク・モンターク(ユダヤ人囚人)[伝聞]、1964年7月23日の尋問、フランクフルト([アウシュヴィッツ裁判DVD](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■ポール・モルゲンシュテルン(ジプシーの囚人)[伝聞]、1964年7月16日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■ユージン・モッツ(政治犯)[伝聞]、1964年11月20日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD](基幹収容所のブロック11でのロシア人捕虜と病人のガス処刑について)

■フェリクス・マイリク(政治犯)[伝聞]、1964年9月21日の宣誓証言(ポーランド人調査官)[マットーニョ、ATFG、p.45]、1964年8月31日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD](主要収容所のブロック11でのロシア人捕虜と病人収容者のガス処刑、ビルケナウでのガス処刑について)

■サラ・ネーベル(ユダヤ人囚人)[伝聞]、1964年10月2日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■ヨゼフ・ノイマン(ユダヤ人囚人)[伝聞]、1964年11月2日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD](ビルケナウでのガス処刑について)

■エウゲニウシュ・ニエドヤドロ(政治犯)[おそらく伝聞]、スタニスワフ・クロジンスキ宛の書簡[クロジンスキ、囚人への最初のガス処刑...、アウシュヴィッツノート、p.271](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■ダグマー・オスターマン(囚人)[伝聞]、1959年11月15日の手紙(アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■タデウシュ・パチュラ(政治犯)[伝聞]、1964年4月30日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■ウィリバルド・パジャク(政治犯)[伝聞]、1964年10月9日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■ポール・パジョラン(ユダヤ人囚人)[伝聞]、1962年11月10日の手紙(アウシュヴィッツでの労働に適さないユダヤ人のガス処刑について)

■アンナ・パラルチク(政治犯)[伝聞]、1964年10月15日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD](ビルケナウのクレマトリアでのガス処刑について)

■スタニスワフ・パヴリチク(ポーランド人政治犯)[伝聞]、スタニスワフ・クロジンスキ宛の手紙[クロジンスキ、囚人への最初のガス処刑...、アウシュヴィッツノート、p. 264]

■ボリス・ピェクニー(ユダヤ人囚人)[伝聞]、1965年4月22日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■ヤン・ピレツキ(政治犯)[伝聞]、1964年5月14日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■ヨゼフ・ポラック(政治犯)[伝聞]、1964年9月28日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■ラディスラフ・ポレドニク(政治犯)[伝聞]、1964年11月12日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■カート・ポゼナー(ユダヤ人囚人)[伝聞]、1964年3月26日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■バーバラ・ポジムスカ(ユダヤ人囚人)[伝聞]、1965年3月4日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD](アウシュヴィッツでのガス処刑について)[フランクフルト・アウシュヴィッツ裁判](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■フリッツ・プツカー(囚人)、証言(ビルケナウの火葬場でのガス処刑について)

■ジョージ・プレストン(ユダヤ人囚人)[伝聞]、1965年3月4日フランクフルトでの尋問[アウシュヴィッツ裁判DVD](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■ウィルヘルム・プロコップ(政治犯)[伝聞]、1962年7月4日の手紙、1964年6月18日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■アンドレイ・ラブリン(政治犯)[伝聞]、1959年6月24日、クラクフ(ポーランド当局)での尋問[[アウシュヴィッツ裁判DVD](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■アルトゥル・ラドバンスキー(ユダヤ人囚人)[伝聞]、1964年10月9日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■マチャ・ラヴィーン(ユダヤ人囚人)[おそらく伝聞]、(?)の説明[ポズナー、『地獄への降下』、p.87、フリードラー、『デスゾーンの目撃者』、p.139に引用](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■ルドヴィク・ラジェフスキ(政治犯)[おそらく伝聞]、1946年9月7日の宣誓供述書(ポーランド人調査官)[マットーニョ、ATFG, p.44](基幹収容所のブロック11でのロシア人捕虜のガス処刑について)

■ヘルマン・ライネック(政治犯)[伝聞]、1964年6月5日の尋問(フランクフルト)[アウシュヴィッツ裁判DVD](ビルケナウの火葬場でのガス処刑について)

■ミヒャエル・ライゼンホーファー(政治犯)[おそらく伝聞]、1964年2月7日の説明(アウシュヴィッツでのユダヤ人のガス処刑について)

■ハンス・レーリヒ(政治犯)[伝聞]、1964年10月14日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■パウラ・ローゼンバーグ(ユダヤ人囚人)[伝聞]、1964年9月24日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■イズラエル・ローゼンボーン(ユダヤ人囚人)[伝聞]、1945年5月24日の宣誓供述書、Lod

■アレックス・ローゼンストック(ユダヤ人囚人)[伝聞]、1964年10月2日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■マリーラ・ローゼンタール(ユダヤ人囚人)[伝聞]、1964年3月13日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■フランツ・ルプレヒト(政治犯)[伝聞]、1964年7月23日、フランクフルトでの尋問[アウシュヴィッツ裁判DVD](ビルケナウの火葬場でのガス処刑について)

■ルドルフ・リブカ(政治犯)[伝聞]、1964年10月19日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■ポール・シャファー(ユダヤ人囚人)[伝聞]、1965年1月11日、フランクフルトでの尋問[アウシュヴィッツ裁判DVD](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■エラ・サロモン(ユダヤ人囚人)[伝聞]、1964年11月19日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■グレテ・サルス(ユダヤ人囚人)[おそらく伝聞]、1958年に本として出版された証言[サルス、『ある女性の話』、アドラー、『証言とレポート』、p.95に引用](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■ジェニー・シャナー(ユダヤ人囚人)[伝聞]、1964年4月20日と1965年2月5日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD](本収容所の火葬場でのガス処刑について)

■エリカ・ショプフ(刑事囚)[伝聞]、1945年10月4日の葉書、ベルゼン裁判での1945年10月13日の尋問(アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■ピンチャス・シュワルツバウム(ユダヤ人囚人)[伝聞]、1965年3月4日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD](ビルケナウの火葬場でのガス処刑について)

■ルドルフ・フォン・セベスティエン(ユダヤ人囚人)[伝聞]、1964年8月20日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■ゲオルク・セヴェラ(政治犯)[伝聞]、1964年3月20日、フランクフルトでの尋問[アウシュヴィッツ裁判DVD](ビルケナウでのガス処刑について)

■ジョセフ・セヴェリン(政治犯)[伝聞]、1964年5月22日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD](ビルケナウでのガス処刑について)

■セヴェリナ・シュマグレフスカヤ(ポーランドの政治犯)[伝聞]、1946年2月27日の尋問、ニュルンベルク(連合国側の裁判手続き)

■フリードリヒ・スクライン(政治犯)[伝聞]、1964年7月13日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■カジミエシュ・スモレン(政治犯)[伝聞]、1964年5月25日、フランクフルトでの尋問[アウシュヴィッツ裁判DVD](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■ジグムント・スムゼフスキ(政治犯)[おそらく伝聞]、1946年2月5日の宣誓証言(ポーランドの調査官)[マットーニョ、ATFG、p.45]

■タデウシュ・スニェシュコ(政治犯)[伝聞]、1965年1月11日の尋問(フランクフルト)[アウシュヴィッツ裁判DVD](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■チャズワフ・ソヴール(政治犯)[伝聞]、1964年12月30日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD](ビルケナウでのガス処刑について)

■ブルーノ・シュタイン(ジプシーの囚人)[伝聞]、1965年4月22日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■サミュエル・シュタインバーグ(ユダヤ人囚人)[おそらく伝聞]、「?(戦後間もなく)[強制収容所のドキュメント F 321] (アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■ルドルフ・シュタイナー(政治犯)[伝聞]、1964年4月3日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■ズデネルとジリ・シュタイナー(ユダヤ人囚人)[伝聞]、1945年夏の証言(ユダヤ人庁、プラハ)[アドラー、『証言とレポート』、p.126](ビルケナウの火葬場でのガス処刑について)

■スタニスワフ・スリボルスキ(ポーランドの政治犯)[伝聞]、スタニスワフ・クロジンスキ宛の手紙[クロジンスキー、囚人への最初のガス処刑...、アウシュビッツ・ノート、p. 268](基幹収容所のブロック11でのロシア人捕虜と病気の収容者のガス処刑について)

■マリア・スウィデルスカ・スウィラトワ(政治犯)[伝聞]、1964年5月25日の尋問、[アウシュヴィッツ裁判DVD](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■タデウシュ・シェフチク(政治犯)[伝聞]、1964年8月27日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■ダウィド・シュミット(ユダヤ人囚人)[伝聞]、1964年7月31日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■ヤン・シュパレルスキ(ユダヤ人囚人)[伝聞]、1964年10月15日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD](ビルケナウの火葬場でのガス処刑について)

■コンラッド・シュヴェーダ(ポーランド人囚人)[不明、伝聞の可能性あり]、(?)の手稿[クロジンスキー、囚人への最初のガス処刑...、アウシュビッツ・ノート、p. 270](基幹収容所のブロック11でのガス処刑について)

■タデウシュ・シマンスキー(政治犯)[伝聞]、1965年1月11日フランクフルトでの尋問[アウシュヴィッツ裁判DVD](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■アンナ・シラー=パルシコワ(囚人)[伝聞]、証言(アウシュヴィッツの火葬場でのガス処刑について)

■イエジー・タボー(政治犯)[伝聞]、1964年6月12日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD](ビルケナウの火葬場でのガス処刑について)

■アブラハム・タミール(ユダヤ人囚人)[伝聞、1964年8月20日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD](ビルケナウでのガス処刑について)

■フランシス・ターゴシュ(政治犯)[伝聞]、1962年8月23日の尋問、ビエルスコ・ビャワ(チェコ当局)[アウシュヴィッツ裁判DVD](大収容所でのロシア人捕虜と病気の収容者へのガス処刑、大収容所の火葬場でのガス処刑、ビルケナウでのガス処刑について)

■ローマン・タール(政治犯)[不明確、おそらく目撃者]、1946年9月10日の宣誓供述書(ポーランド人調査官)[マットーニョ、ATFG、p.45]、スタニスワフ・クロジンスキーへの手紙[クロジンスキー、囚人への最初のガス処刑...、アウシュビッツ・ノート、p.271](主収容所のブロック11でのロシア人捕虜と病気の収容者のガス処刑について)

■A. トラウトマン(ユダヤ人囚人)[伝聞]、(?)の説明[レオ・ベック研究所、ME 645、MM 78](ビルケナウの火葬場でのガス処刑について)

■レオン・トゥラルスキ(ポーランド人政治犯)[伝聞]、スタニスワフ・クロジンスキへの手紙[クロジンスキー、囚人への最初のガス処刑...、アウシュビッツ・ノート、p. 265](基幹収容所のブロック11での病気の収容者のガス処刑について)

■レオン・ウチワト(政治犯)[伝聞]、1964年9月10日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD](ビルケナウでのガス処刑について)

■マリー・クロード・ヴァイヤント・クチュリエ(フランスの政治犯)[伝聞]、1946年1月28日の尋問、ニュルンベルク(連合国側の裁判手続き)

■セリーヌ・ヴァン・デル・フーク(ユダヤ人囚人)[伝聞]、1965年4月12日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■アントン・ヴァン・ヴェルセン(政治犯)[伝聞]、1964年3月23日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD](ビルケナウの火葬場とブンカーの絶滅場でのガス処刑について)

■ドニア・ザルタ・ワッサーストローム(ユダヤ人囚人)[伝聞]、1964年4月23/24日の尋問[アウシュヴィッツ裁判DVD](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■ヘルマン・ヴァイフラウフ(政治犯)[伝聞]、1964年3月16日フランクフルトでの尋問[アウシュヴィッツ裁判DVD](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■ヤン・ヴァイス(ユダヤ人囚人)[伝聞]、1964年11月6日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■ベルタ・ヴァイス(ユダヤ人囚人)[伝聞]、1963年4月4日、ウィーンでの尋問(オーストリア当局/西ドイツ調査官)[アウシュヴィッツ裁判DVD](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■ヤンダ・ヴァイス(ユダヤ人囚人)[おそらく伝聞]、1945年の尋問(米軍)[ハケット、ブッヘンヴァルト・レポート、p. 351](ビルケナウの火葬場でのガス処刑について)

■アルフレッド・ヴェッツラー(ユダヤ人囚人)[伝聞]、1964年11月5日の尋問(フランクフルト)[アウシュヴィッツ裁判DVD](ビルケナウでのガス処刑について)

■マイン・ウィンター(ユダヤ人囚人)[伝聞]、1965年の説明[レオ・ベック研究所、ME 688.MM 82](ビルケナウでのガス処刑について)

■オットー・ヴォルケン(ユダヤ人囚人)[伝聞]、1964年2月24日、フランクフルトでの尋問[アウシュヴィッツ裁判DVD](ビルケナウの火葬場でのガス処刑について)

■ルートヴィヒ・ヴェルル(政治犯)[伝聞]、1964年4月6日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■アルフレッド・ヴォイシツキ(政治犯)[伝聞]、1964年5月29日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD](ビルケナウでのガス処刑について)

■アダム・ザカースキ(政治犯)[伝聞]、スタニスワフ・クロジンスキへの手紙[クロジンスキー、囚人への最初のガス処刑...、アウシュビッツ・ノート、p.271]。(アウシュヴィッツでのガス処刑について)

■リリ・ゼルマノヴィッチ(ユダヤ人囚人)[伝聞]、1964年12月3日の尋問、フランクフルト[アウシュヴィッツ裁判DVD](アウシュヴィッツでのガス処刑について)

現場での化学的・物理的調査

■1945年12月25日、ポーランドの調査判事ヤン・セーンが第2火葬場または第3火葬場に割り当てたシート状の亜鉛製換気グリルからシアン化合物を検出したヤン・ロベール(クラクフ法医学研究所)による法医学的報告

■ヤン・マルキェヴィッチ、ヴォイチェフ・グバラ、イェジ・ラベズ(クラクフ法医学研究所)によるガス室跡の化学的調査と、ガス室の壁に残留する(非プルシアン・ブルーの)シアン化合物の定量的決定[マルキェヴィッチほか、『旧アウシュヴィッツおよびビルケナウ強制収容所のガス室の壁に含まれるシアン化合物に関する研究』(翻訳記事)](関連する修正主義者の議論は、化学者リチャード・グリーンがここ翻訳記事)で論じている)

■Hydrokop社(クラクフ)によるビルケナウの地面の穴掘りと化学分析による調査、ポーランドの歴史家フランチシェク・ピーパーによると303箇所のうち42箇所で「人間の灰、骨、髪の毛の種」が確認された[ピーパー、 『アウシュビッツ死のキャンプの解剖』、p.179]。

■ハリー・マザル、ダニエル・ケレン、ジェイミー・マッカーシーによるビルケナウのクレマトリウム2の廃墟の調査では、屋根にガス導入口とみなされる3つの開口部が発見されている[マザルほか、『ガス室の廃墟:アウシュヴィッツIおよびアウシュヴィッツ・ビルケナウの火葬場の法医学的調査』(翻訳記事)](関連する修正主義者の議論はここ(翻訳記事)で議論されている)。

投稿者: ハンス・メッツナー at 2012年10月07日(日)

▲翻訳終了▲

分量が多くて訳すのも大変でしたが、これをまとめたハンス・メッツナーの力量恐るべしですね。これがアウシュヴィッツだけの証拠であり、もちろん全てではありません。しかもこれらは、「ガス室」などの直接的な言及があるものかそれに近いものに限られているので、アウシュヴィッツだけでも膨大な情報量があると言うことになります。

ところで、ホロコースト否定の陰謀論者は困ったことに、「これだけ証拠があるんだぞ!」と示すと、それを逆に捉えて「そうか、そんなに壮大な陰謀なんだ」と考えるようです。奴らの説得は不可能です。以上。



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