アウシュヴィッツの様々な議論(5):ゾンダーコマンドによる野外火葬の地上写真に関する偽造疑惑
前回と今回のトプ画写真で、有名なゾンダーコマンドによるアウシュヴィッツの野外火葬の写真をあげていますが、この写真はあまりに有名になりすぎで、私自身は誰がいつどうやって撮ったのかすらもよくは知っていませんでした。映画『サウルの息子』には、この写真撮影の話も取り入れられています。
これらの写真を撮影したのは、ギリシャ人の軍人でユダヤ人であったアルベルト・エレーラだとされているようで、偽造疑惑記事翻訳後に、これらの写真の撮影経緯などに関する記事をヤド・ヴァシェムのサイトから翻訳紹介します。
それにしても、ホロコースト否定派たちは、ほとんど脊髄反射的にホロコーストに少しでも肯定的な情報はなんでも否定したがるのですね。否定派たちの狙いは「ホロコーストは捏造されたもの」と示したいことだと推測されるので、こうした写真を捏造だと言いたい気持ちはわからなくはありません。もちろん、野外火葬の写真も証拠の一つではありますが、しかしこの写真、ホロコーストやガス処刑それ自体を決定づけるほどの強力なものではありません(しかし、他の航空写真証拠や野外火葬をやっていたとする証言などを総合して判断すれば、この写真はそれら証拠の裏付け証拠になります)。
例えば、誰かが言ってたと思いますけど、疫病などで死んだ人の遺体を焼いていたのだとか、その可能性もなくはない程度にはあり得ますしね。
しかし問題は、この写真が本物かどうかにあるわけではありません。それは、否定派の言い分がほとんど言いがかりに近い、断定的決めつけに他ならない事です。実態は、ろくな検証も行っておらず、否定派の単なる疑いの眼差しのみがその写真の証拠性を否定しているだけなのです。これは、歴史修正主義者には結構多い話で、とにかく証拠になりそうな写真は何が何でも否定するのです。
ところでしかし、私自身だけの話ですが、いわゆる歴史修正主義者が、写真の捏造を指摘するケースでは、誤用例はいくつか知っていますが、写真それ自体をレタッチや合成などで捏造したケースとして指摘されたもので、それが本当に捏造写真だと完全に証明されたケースは寡黙にして知りません。ないとは言いませんが、あるとしても相当珍しいのではないでしょうか?
しかし、歴史修正主義者と言うか、その手の人たちが写真を捏造したケースならいくらでもあるようです。要するに、私たちもやってるのだからお前らもやってるはずだ!とでも言いたいのでしょうか?
なお翻訳記事を紹介する前に一つだけ、元記事には書いていないこととして、「写真のレタッチ」の理由があります。簡単に説明します。昔の出版物は印刷品質が現代ほどは良くないので、印刷されても悪い状態にならないように、編集段階でレタッチ(つまり写真に手書きで輪郭を強調したり塗り絵をするようなこと)しておくことはよくあったそうです。これの論拠をソースとして示したいところですが、今のところは私の記憶に基づくとしか言えません。ただ、昭和年代中頃以前の出版物を図書館で確認してみると良いかと思います。
しかしながら、現代でもさまざまな商業印刷物で行われている(現代ではスマホ上ですら容易に編集できてしまう)ように、写真それ自体を「いじる」ことは普遍的に行われていることであり、写真を証拠扱いしたい場合は、それら(邪悪な意図のない)編集の可能性について慎重に配慮する必要があるのは、ある意味当然のことだと言えます。
その意味でも、今回のゾンダーコマンドの写真の修正主義者の検証で、誰一人としてアウシュヴィッツ博物館にある元写真を確認しに行ってないと言う事実は、極めて杜撰な検証しか行っていない、と言えると思います。ちなみに、ジャン・クロード・プレサックはもちろん、アウシュヴィッツ博物館で直接現物写真を見た上で、現地で撮影場所の確認まで行っています。ちなみに現在ではアウシュヴィッツ・ビルケナウ国立博物館のサイトでこれら写真がインターネット公開されてはいますが、解像度が悪いので議論には使えません。もうちょっとどうにかならなかったのでしょうか。
▼翻訳開始▼
アウシュビッツ野外焼却場の写真と修正主義者の贋作疑惑
1944年夏、アウシュヴィッツ・ビルケナウの囚人部隊ゾンダーコマンドは、第5火葬場の4枚の写真(ここでは、アウシュヴィッツ国立博物館の資料番号で、写真278/280、277/281、282、283として参照)をひそかに撮影し、収容所から密かに持ち出すことに成功した。写真の詳細な歴史的分析は、ジャン=クロード・プレサックの『アウシュヴィッツ・ガス室の技術と操作』(日本語訳)に掲載されている。
予想通り、修正主義者たちは、野外焼却の写真は捏造であると主張した―不都合な証拠を突きつけられたときの彼らの定番の反応である。
レタッチされた変種
リビジョニストによる贋作疑惑は、写真280には実に4つの異なるバージョンが知られていることに端を発している。
バージョンAは、1946年9月26日のローマン・ダウィドフスキの専門家報告の一部として、ヘス裁判の証拠として提出された(カルロ・マットーニョ、『アウシュヴィッツ:野外火葬』:上記リンク先の写真278は、本誌にも転載されている)。アウシュヴィッツ国立博物館(ASM)に保存され、ASMの書籍に掲載され、ほとんどすべての出版物で使用され、コントラスト、明るさ、彩度を変更したものも入手可能である。
バージョンBは、タデウシュ・クラコフスキー『もしもヒトラーが勝っていたら...』(1960年)に掲載された。バージョンAと比較して、ゾンダーコマンドの囚人の強い輪郭や、背景のフェンスポストの鉄条網/絶縁体のディテールが追加されている。
バージョンCは、サリー・ウェスリーの『SSの処刑人とその犠牲者』(1965年)に再現されている。バージョンAと比較して、ゾンダーコマンドの囚人の輪郭や女性の死体のディテールが追加されている。左の男性は真っ黒になった。
最後に、バージョンDはウド・ヴァレンディの『歴史学のための「ドキュメント」を描く?(Bild-"Dokumente" für die Geschichtsschreibung?)』(1973年)にしか追跡できない。ヴァレンディは、このクローズアップはクラコウスキーから取られたものだから、バージョンBと同一であるはずだと書いているが、そうではない。レタッチされた死体はバージョンCと同じように見えまるが、ゾンダーコマンドの囚人の輪郭は強調されていないか、いくらか淡くなっている。
どれがオリジナル?
バージョンAは、いくつかの理由で元の写真と特定することができる:
a) 年代的には、1946年までさかのぼることができる。
b) この写真はアウシュビッツ国立博物館のアーカイブに保存され、ヘス裁判の証拠として提出され、コンタクトプリントとして認識される。一方、トリミングされたバージョンBとCは、60年代に他の写真にコラージュやレタッチを施した無名の出版物で初めて表面化した。
b)バージョンB、C、Dは、明るいバージョンAから、いくつかのペンのストロークで得ることができる。バージョンAからどのように生まれたかを想像し、再構築するのは簡単でわかりやすい。
c)バージョンBとCのゾンダーコマンドの囚人の追加輪郭とバージョンCの人物の黒化は不自然に見え、写真の明るさの条件には合わない。
d)バージョンB、C、Dの追加された特徴は、このシーンの2枚目の写真(ASM neg.281)では欠落している。
なぜ、写真をレタッチしたのか?
レタッチされたバージョンは、オブジェクトを追加または削除しておらず、シーンの異なる解釈を強制するものではない。したがって、邪悪な理由を支持する証拠はない。
レタッチ版はすべてAを明るく再現したものがベースになっている。最も合理的な説明は、光の条件や写真の質の悪さを補うために、輪郭や細部(または、レタッチャーが元の輪郭であると想定したものが、再現が不十分なために細部が消えてしまったもの)を強調したことであると思われる。
ウド・ヴァレンディ
1973年、ヴァレンディはこの写真の異なるバージョン280が存在することを指摘した(『歴史学のために「資料」を描く?(Bild-"Dokumente" für die Geschichtsschreibung?)』)。しかし、彼自身の複製品の分析には重大な欠陥がある。
彼はクラコフスキーの複製したものがオリジナル(最初に来たという意味で)であり、これを描かれたものとみなすと主張した。彼は、バージョンAはBの改良版だと思い込んでいた。実際はその逆で、バージョンBではバージョンAを改良しようとしたのである。ヴァレンディは、どれがオリジナルで、どれがそこから派生したバージョンなのか、まったく認識できていない。
さらに、彼はバージョンDを発表し、クラコフスキーのものと一緒に参照したが、この複製は『もし、ヒトラーが勝っていたら…』や『SSの処刑人とその犠牲者』のレタッチしたバリエーションと一致しない。だから、彼はその正しいソースを提供できなかったか、もっと悪いことに、自分でレタッチしたかのどちらかだ。
ヴァレンディの、レタッチ版の特徴だけに基づいて写真の信憑性を否定する議論は、左側の完全に黒くなった男や、左端のゾンダーコマンドの「第2の肘」など(ヴァレンディ、『歴史的資料集「炎のヨーロッパ」の特別絵画版 1939-1945』、Band IIより)、直ちに却下することが可能である。彼の他の反論、すなわち、死体がゾンダーコマンドの囚人に比べて小さすぎる、一番左のゾンダーコマンドの腕が右腕に比べて長すぎる、ゾンダーコマンドの囚人の陰影が異なっている、などは根拠がなく、事実上虚偽である。
ルドルフの『ホロコーストを解剖する』で最も広く知られている論文で、ヴァレンディは再びバージョンDを示したが、彼が言及した資料、シェーンベルナー『黄色い星』は、レタッチした変形版を出したのではなく、実際にはオリジナルを出したのであった。
ゲルマー・ルドルフ
『歴史と偽史 - 修正主義に対抗するマイケル・シャーマー教授の論文への返答』のそれぞれの図のキャプションにあるルドルフのコメントは、彼がこの写真を偽物と考えていたことを強く示唆している。彼は、「背景に見えるフェンスの支柱は、アウシュビッツにあのような形状のものは存在しなかった」と主張した。本物の支柱は上部が湾曲していた」と主張した。
ビルケナウの柵の柱は確かに上部が曲がっており、きれいにクローズアップすれば容易に見ることができるが、ある程度の距離、角度、写真の質によって、これはますます見えにくくなる(例1、2、3)。ルドルフは、良質のクローズアップ写真とかなり遠くから撮影した粗悪な写真とを比較するのは、欺瞞に近いものがある。
また、ルドルフはレタッチしたバージョンCを図で示し、マイケル・シャーマーの『人はなぜ奇妙なことを信じるのか』, p. 232を引用している。しかし、シャーマーは実際にはオリジナルであるバージョンAを再現している。
カルロ・マットーニョ
マットーニョは、写真が第5火葬場で撮影されたことを認めているが、「ほとんどの死体がねじれ、不明瞭で」、「形のない山」を形成しているので、両方の野外焼却写真が「著しくレタッチされている」ことは「疑いない」と主張している(マットーニョ、『アウシュヴィッツ:野外焼却』、p.38)。
それは決定的で説得力のあるものとは程遠い。死体の塊の外観については、もっと邪悪な説明が他にある。
まず、写真の質が低いこと(マットーニョが指摘したように、背景にフェンスポストの絶縁(有刺鉄線のこと)の痕跡が見えるという事実は、この観察を覆すものではないし、絶縁も解像度が低いだけである)である。
第二に、撮影者はほとんどの死体からかなり離れた位置でローアングルから撮影していた。そのため、正面に並んだ数体の死体を除いては、死体の一部しか見えていなかったと思われる。
第三に、死体はガス処刑された犠牲者のものであり、平和的に横たわった人々のものではない、ゾンダーコマンドによってそこに捨てられたものであり、実際に、ぞっとするほど不自然でねじれた状態であったかもしれない。
アンドリュー・アレン
アレン(通称Ceacaa)は、焼却場写真が撮影された窓口の前の段差がないことから、贋作であると主張した。
撮影時は南西から西日が当たり、火葬場5の北側ファサードが日陰になっていた。 窓口前の段差は、建物の陰になっているようである。
翻訳者註:これは、写真280や281で、窓枠から風景が撮影されているが、この窓枠の縁になる部分の四辺の部分に、「太陽光が照らしているはずだから枠の部分に光が当たってないのはおかしい」と言う主張である。この主張はしばしば見受けられるもので、たとえばツイッターには以下のようなものがある。
https://twitter.com/2D6x0xJJ2I6DV7q/status/1568438933595504640
写真・カメラの性能が良ければ多少は写ったかもしれないが、この写真は1944年8月、つまり真夏に撮られたものだとされている。この事実だけでも、真夏の日差しが厳しいことはわかるので、コントラストが強すぎて、明るい外の景色とのコントラスト差が付き過ぎ、たとえ窓枠の縁に日差しがあったとしても写真には写らなかった可能性もある。窓枠に使われた素材の色が濃ければなおさらだろう。その上、記事にもある通り、ビルケナウの航空写真を見ると以下の通りである。
写真は回転させていないので、当然上が北である。この写真を見て、火葬場Ⅴがどこだかわからない人や、火葬場Ⅴの裏手にあった野外火葬場の位置が想像できない人は、自分で調べてほしい。つまり、南側から日光が指すとどうなるかである。左にあるセントラルサウナから伸びている日陰をよく見てもらいたい。つまり、この状況で写真280や281の撮影を行うとどうなるか、想像できないだろうか?
そういうことである。
CODOHフォーラム
この偽造疑惑は、CODOHのフォーラムで少なくとも8つのスレッド(既に存在しないのでリンクは省略)においてなされたものである。 しかし、このリビジョニストの集中的なブレーンストーミングは、たった一つの新しい議論にしかつながっていない。残りは、基本的に、ヴァレンディとルドルフの繰り返しである。
トルピッツ(これも存在しないのでリンクは省略)は、このフェンスの柱にはビルケナウのセキュリティフェンスで知られている絶縁が欠けていると主張した。しかし、この主張は、絶縁が全く識別できないはずなのか(複製品の品質を考えると少なくとも疑問が残る)、まともな分析に基づいていないのである。しかも、柱には絶縁(マットーニョ、アウシュビッツ野外焼却)がぼんやりと観察できるため、この主張も事実無根である。
野外焼却の写真のうち1枚は、明らかにレタッチされている。しかし、写真の原本は明確に遡ることができ、特定することができるため、証拠として利用することができる。このレタッチが邪悪な理由で行われたということはない。
オリジナル写真の偽造・変造疑惑を正当化する修正主義者の主張は、明らかに誤りであるか、弱いものである。野外焼却の写真のオリジナルがレタッチされていると仮定する、あるいは結論づける納得のいく理由は今のところない。
投稿者:ハンス・メッツナー 2012年7月22日(日)
▲翻訳終了▲
▼翻訳開始▼
アウシュビッツのゾンダーコマンドの写真(1944)
ゾンダーコマンドの写真は、1944年8月、ドイツ占領下のポーランドにあったアウシュビッツ強制収容所内で密かに撮影された4枚の不鮮明な写真である。「アウシュビッツ・アルバム」に収められている数枚の写真とともに、ガス室周辺の出来事を撮影した現存する唯一の写真である。
この画像は、アウシュビッツ・ビルケナウの収容者が15分から30分以内に撮影したもので、通常ギリシャ出身のユダヤ人囚人アレックスとしか名乗らない。複数の情報源は、彼を、SS将校を殴って射殺されたギリシャ海軍将校アルベルト・エレラと同定している。彼は、ガス室の内側から2枚、外側から2枚、腰を落として撮影し、カメラの狙いを正確に定めることができなかった。
エレラのコードネームはアレコス・アレキサンドリディスだった。収容所の火葬場Vにいた他のゾンダーコマンドのメンバー、アルター・ファインジルベルク(スタニスワフ・ヤンコフスキーとも)、シュロモとヨゼルのドラゴン兄弟、ダヴィド・スミュレフスキは、カメラの入手と隠蔽を助け、見張り役として活躍したのである。
ファインジルベルク氏は、「ドイツのライカみたいなカメラだった」と回想している。バケツの中に隠して、火葬場の屋上で見張りをしながら撮影していた。ファインジルベルクは、アレックスがシャッターを押したとはいえ、5人全員がその場にいて、一緒に行動していたことを強調した。1987年にジャン・クロード・プレサックに語ったスミュレフスキーによると、この4枚の写真は互いに15〜30分以内に撮影されたものであるとのことだ。
このフィルムは、SSの食堂で働いていたヘレナ・ダントンが歯磨き粉のチューブの中に隠し、ポーランドの地下組織によって収容所から密輸されたものである。政治犯ヨゼフ・チランキェヴィッチとスタニスワフ・クウォジンスキーが書いた1944年9月4日付のメモと「Stakło」の署名(註:おそらくスタニスワフ・クウォジンスキー(Stanisław Kłodziński)の事)がフィルムに添付されていた。その写真を、クラクフの地下組織の「テル」と呼ばれていた、テレサ・ラソッカ・エストライヒャーに送るよう依頼したのだ。
ポーランドのレジスタンスによって最初に配布されたとき、写真は人物に焦点を当てるためにトリミングされ、2つの焼却壕の写真の黒いフレームは取り除かれた。写真史家のヤニナ・シュトルクによると、ラソッカ・エストレイヒャーはポーランド人写真家スタニスワフ・ミュシャにプリントを依頼し、トリミングを決めたのはミュシャだと推測される。
この写真はアウシュビッツ・ビルケナウ国立博物館によって280-283と番号付けされた。280番と281番は、ガス室の出入り口や窓の黒い枠を通して撮影された、焼却壕での死体の火葬の様子である。No.282は、ガス室に入る直前の裸の女性の一団を撮影している。No.283は樹木の画像で、撮影者が高い位置を狙いすぎた結果である。
切り取られた画像の一部は、1945年、ポーランド人判事ヤン・セーンによるアウシュビッツ・ビルケナウに関する報告書の中で、ゾンダーコマンドのダヴィド・スミュレフスキのものとされて発表された。一つは1947年にアウシュビッツで展示され、その他は1958年にワルシャワでスタニスワフ・ウルゾス・グリンカ、タデウス・マズール、イェジー・トマシェフスキによって『1939-1945:私たちは忘れてはいけない』として英文で出版されている。
また、ブシェスツェのレジスタンス運動のヴワディスワフ・ピトリクが1960年にアウシュビッツ・ビルケナウ国立博物館で戦時中の体験を証言し、切り取られた写真のプリント3枚を持参したとストルックさんは付け加えた。美術館がそれまで見ていたプリントがトリミングされていたことに気づいたのは、ピートリク氏が亡くなり、奥様がトリミングされていない写真も含めて美術館に寄贈された1985年になってからであった。
▲翻訳終了▲
さて、冒頭では、写真はそれほどには証拠能力は高くはないとは言いましたが、しかし、写真が提供する情報量は馬鹿にはならないことがしばしばあります。例えば、写真278は多くの情報を提供してくれます。この写真が野外火葬のものであるというのは自明ですが、場所が火葬場5の裏手だというヘスらの述べていたことに一致する、煙が上がっているところから類推するに壕が掘られていてそこで死体焼却をやっている、などの他にもわかることがあります。
右手にいるゾンダーコマンド五人ほどのグループの左端に立っている人が右手に持っているのはおそらくガスマスクであろうことも分かります。また、左端の奥にいるゾンダーコマンドは、何かを両手に持って作業をしている風に見えます。これの可能性があります。
こちらから画像を引用しましたが、同じくゾンダーコマンドだったデビッド・オレーレによる絵です。おそらく、このような道具で骨を砕いているのです。写真を部分拡大するとこうなります。
もちろん、「そう見える気がしなくもない」というくらいの解像度しかないので、はっきりそうだと断定できるわけではありません。ですが、ウド・ヴァレンティが使った画像よりは確度は高いと思われます。もっと拡大した以下の写真とヴァレンディの用いたヴァージョンDを見比べてみてください。
写真278はヴァレンディの写真のように、ゾンダーコマンドの足元に見える遺体は奇妙な形に見えるでしょうか? ヴァレンディの写真はレタッチが酷すぎるようにしか見えないのですがねぇ……。そもそも論ですけど「描いた」とするならそんな変な絵をわざわざ描くでしょうか?
私には否定派の脳内がなかなか理解できません。
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