アウシュヴィッツの様々な議論(12):否定派は、感動的な話ですら否定論へと捏造する。アウシュヴィッツの3,000件の出産、助産師スタニスラワ・レズチンスカの話。
ホロコースト否定派は、非常に卑怯なことをします。あまり否定派のサイトは紹介したくないのですが、ここ(註:2022年7月頃にこのサイトは消えてしまったようです。アーカイブはこちらです。)に以下のような箇条書きがあります。
これは、「『Greetings From Auschwitz』 著Historical Review Press」からの引用だそうですが、多分、昔はネットにあったのでしょう。元ネタ自体がネットにあったのは調査済みです。例えばここから見つけることもできます。ともかく、卑怯なのは、一体その個々の内容は、どのソースから見つけた内容なのか全然わからないことです。もちろん、これらのネタは元々は、否定派の誰かが何かのネタから引っ張ってきてまとめたに間違いありません。否定派は元ネタのある巧妙な嘘はつきますが、全くの嘘は滅多に言いませんからね。そして、いつの間にかこのようにまとめられ、ネタ元がわからない状態でネットで流布されるに至るのです。しかも、後述もしますが、この馬鹿サイトの箇条書きは翻訳すら悪意に満ちた意訳です。
この箇条書きのうちいくつかはこちらで確認出来ます。
ただ、上の日本語で紹介している馬鹿サイトは、元ネタの翻訳すらきちんとしていません。
上で、強調した箇所はこうあります。
An Auschwitz Maternity Ward - Over 3,000 live births were registered there, with not a single infant death while Auschwitz was in operation under German rule -
訳すとこうです
「アウシュヴィッツの産科病棟-そこでは3,000人以上の生児が登録されており、アウシュヴィッツがドイツの統治下で活動していた間、乳児の死亡は一人もありませんでした」
馬鹿サイトの翻訳だと、乳児だけでなく「母子共に」と読めてしまいます。元ネタの英語の方だって酷いのに、さらに酷くなっています。ただし、翻訳のこの酷さとは別に、理解としては「母子とも」にで合ってはいるようです。もちろん、元文章が意図して誤解させようとしている、「ずっと死ななかった」という意味ではありません。以下を読めばわかりますが、そんな「出産記録」も存在するわけありません。
さて、今回は記事としては短いですが、この3,000人の出産の話を紹介したいと思います。この話は、STANISŁAWA LESZCZYŃSKA(スタニスラワ・レズチンスカ)という、ポーランド人の助産師の話なのです。
これだけ読んでも、否定派というのは本当に人間の屑だと言いたくなりませんか? スタニスラワは「収容所当局の明確な命令を無視」して、母子を救ったのです。スタニスラワ・レズチンスカはポーランド本国ではよく知られているようで、検索するとポーランド語のサイトばかりヒットします。そこで、いくつか調べてみて、以下のサイトがわかりやすいのではないかと思ったので今回はそれを翻訳してみます。
▼翻訳開始▼
アウシュビッツ生まれ。
ホロコースト時代の不動の助産師と3,000人の出産の物語。
スタニスラワ・レズチンスカは、助産師という職業が彼女をアウシュビッツの門に連れて行くとは想像もしていませんでした。彼女は自宅や定期的に出産をしていた地域から連れ去られ、出産までに何キロも歩いて移動することもあり、死のキャンプの悪夢のような風景の中に放り込まれました。先に殺害された夫の死と、別の収容所に送られた息子との残酷な別れを経て、スタニスラワと娘に残された希望はただ一つ、生き延びることだけだった。
ほとんどすぐに、スタニスラワの職業が彼女の救いにもなり得ることが判明した。アウシュビッツの女性ブロックでは、妊娠中の母親への支援はもちろんのこと、基本的な医療さえも不足していました。実利的で機知に富んだスタニスラワは、兵舎の中で最も暖かい場所にある寝台を「労働病棟」のために確保した。アウシュビッツに連れてこられた多くの女性は、すでに妊娠していた(このことを知らない人もいる)。これは、収容所の現実の中で多くの犠牲を意味していました。出産直前の妊娠中の母親は、(余分なシートと引き換えに)食事の配給を減らすことを余儀なくされていた。スタニスラワはこの指示の執行を命じられた。新生児を包むためのシートとオムツのためのシートが必要でした。時間内に入手できなかった場合、赤ちゃんは汚れた紙に包まれていることが多かった。
スタニスラワの唯一の使命は、彼女を取り巻く悪夢にもかかわらず、戦前の昔のように、労働する女性たちに最善のケアを施すことだった。キャンプの仲間たちは、彼女のことを、休むことなく実質的に休むことなく、疲れを知らずに分娩室を支えた人だと覚えていました。彼女は平和のオアシスであり、投獄されたすべての女性のための石でした。すぐに人々はスタニスラワを「お母さん」と呼ぶようになりました。
スタニスラワは、自分の飢えと疲労だけでなく、戦いもしなければならなかった。助産師である彼女には、包帯でさえもない医療器具がありませんでした。出産時に鎮痛剤を投与することは不可能であり、すべての行為はナチスの医師によって慎重に監督されていた。医学を知っていたのはスタニスラワだけではありませんでした。彼らは拷問を受けた者に詳細な報告をしなければならなかった。病人は回復の見込みがないと、すぐにガス室に送られた。
チフスは収容所での死因として非常に一般的でした。病人を治療している医師は、回復時間を最大化するために、患者の状態をナチスに騙された。最後の手段として、チフスの被害者が死んだとしても、少なくともキャンプのオーブンからは離れた場所での死亡だった。スタニスラワに与えられた指示は似たようなものだった。彼女は拾った新生児を全て溺れさせるよう命じられた。アウシュビッツの管理者たちは、女性囚人の妊娠は妊娠しても出産には至らないと考えていました。
スタニスラワがキャンプに来て以来、一人の母子の命も奪われていないことが明らかになると、彼らの反応は不信感に包まれ、直後に「新生児は生後すぐに樽の中で溺れさせろ」という命令が下された。スタニスラワは命がけで断った。彼女の後任はドイツ人の助産師で、以前は乳児殺処分で有罪判決を受けていた。
酷い状況にもかかわらず、スタニスラワの助けにより、何千人もの子供たちが生まれ続けました。アーリア人の「良い」乳児がドイツの孤児院に送られるようになる。別居という悲劇を経験した母親たちは、スタニスラワと一緒に、新生児の体に目立たないように刺青を入れる方法を発明しました。これは将来の再会への希望を与えてくれました。
アウシュヴィッツに収監されていた間、3,000人以上の赤ちゃんを出産することに成功したスタニスラワは、このテーマについて公に話すことはほとんどありませんでした。スタニスラワの子供たちは、出産後数時間後にガス室に召喚された若い母親の話を覚えている。スタニスラワが用意してくれた湿った紙に包まれた子供を胸に抱いて、女は死の淵へと向かった。
仲間の女性たちは助産婦の効果を理解していただけでなく、キャンプの管理者たちもそれを理解していた。「分娩ブロック」を訪れたメンゲレ博士は、スタニスラワが新生児を生け捕りにしているのを見て激怒した。彼女は母親が食べ物を持たない赤ちゃんのために授乳器を組織したこともありました。その結果、アウシュビッツの最後に生まれた赤ちゃんたちが生き残った。メンゲレはユダヤ人の母子を生け捕りにすることに強く反対していた。それにもかかわらず、彼はナチスの同僚たちに、スタニスラワは並外れた技術を持つ助産婦であり、仲間の囚人たちの自由への希望の象徴であることを認めた。
アウシュヴィッツが解放されたとき、スタニスラワはなんとか子供たち(二人とも後に医者になった)を見つけることができました。助産師が戦時中の経験を共有するようになったのは、1950年代に引退してからです。スタニスラワとその仲間の囚人たちの回想録はすべて、スタニスラワ・レズチンスカが聖人として聖人になるまでの過程で使用されました。2010年から始まった取り組み。
不屈の助産師は1974年に亡くなりましたが、彼女の物語はおそらくホロコースト時代の人間の勇敢さを示す最も注目すべき証言の一つでしょう。アウシュビッツで生まれた3,000人の新生児の多くは、ナチスに殺されたり、恐ろしい状況のために亡くなったりしましたが、彼らは皆、スタニスラワ・レズチンスカの愛情に満ちた温かい手の中に生まれてきました。
▲翻訳終了▲
別のサイトでは、以下のようにあります。
否定派が誤解させようとしているであろう、「母子ともに3,000人も無事に出産して幸せにアウシュヴィッツで暮らしました」なんて話は完全に嘘であるというわけです。分娩時に死ななかった、それだけでもすごい話だとは思いますが、それがレズチンスカに出来た精一杯のことだったのであり、現実は如何にも残酷な話だったのです。
付け加えると、ホロコースト否定派は、「証言には嘘の可能性もあるから証言は証拠にならない」と言って証言を全面却下する筈なのに、そもそもこの3,000人の出産の話は、ルドルフ・ヘスなどの回想と同じで、否定派が禁止しているはずの証言です。否定派は、ホロコースト否定の材料になるなら、ダブルスタンダードもお構いなしです。
あと、「アーリア人の「良い」乳児がドイツの孤児院に送られるようになる」というのは、レーベンスボルン計画と言って、ユダヤ人などの劣等民族は始末するが、アーリア人は逆に増やそうとする計画であり、この計画の中に、こうした収容所からもアーリア人の子供をドイツ人として育てるために母親から奪い去る、というのもあったと。そしてレーベンスボルン計画における優秀なドイツ人を育成するための養護施設で育てるなり養子縁組などを行なったようです。
ともあれ、話としては否定派のいうようなオメデタイ話では全くないのでした。
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