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アウシュヴィッツの様々な議論(12):否定派は、感動的な話ですら否定論へと捏造する。アウシュヴィッツの3,000件の出産、助産師スタニスラワ・レズチンスカの話。

ホロコースト否定派は、非常に卑怯なことをします。あまり否定派のサイトは紹介したくないのですが、ここ(註:2022年7月頃にこのサイトは消えてしまったようです。アーカイブはこちらです。)に以下のような箇条書きがあります。

・首都ベルリンからエリート医師団が参加しているキャンプ医院
・急患のための予約なしでOKなクリニック
・アウシュビッツでもっとも大きな施設の一つである、当時の最新鋭の設備が整ったダイエット・キッチン
・囚人の食事の内容は赤十字にモニターされていた(前述の2750カロリーの数字はモニターの結果である)
・囚人用のキャンプ郵便局(WWⅡ当時、外部への手紙が許されていたのはドイツの収容所だけである)
・キャンプオーケストラ
・キャンプ劇場では囚人による演劇が行われ、囚人による彫刻作品が使用されていた
・囚人用のキャンプ芸術学校
・太陽の下で、衛生、芸術、哲学、科学経済などのあらゆる論題を講義するキャンプ大学
・毎週内容が変わるキャンプ映画館
・囚人用のキャンプ売春宿
・売春宿では性交前に医師による健康診断がなされ、性病が予防された
・宗教の自由が許され、各宗教のための設備があった
・5000冊から借りられる囚人用のキャンプ図書館
・囚人用のキャンプ遊泳プール
・サッカーやハンドボールができるキャンプ運動場
・収容所はクーポン券が利用できるシステムになっていて、より多く働いた者にはクーポン券が与えられた。
 それらはキャンプ・バーでお菓子やアイスクリーム、化粧品などと交換できた。
・キャンプ苦情オフィスがあり、囚人は待遇の不満を申告したり、待遇をよくする意見を提案することができた
・アウシュビッツ収容所所長ルドルフ・ホェッスは囚人に対して不平不満や、ブーヒェンヴァルト収容所司令官カール・コッホ(ユダヤ人を虐待した罪で死刑)のように囚人を虐待するSSについて記録しておくように命令していた
・囚人はもちろん、SSも法を破れば厳しい罰が与えられるシステム(SSが無許可で囚人を殴ると罪になる)
・キャンプ裁判所とキャンプ拘置所(In-Camp COURT & Jail)があり、拘置所の反対側には婦人科の施設があった
アウシュビッツ産科病院には3000人の出産記録があり、一人も死んでいない
・託児所があり、母親が働いている間は子どもを預かってくれた
・チフスが流行して多くの死者が出たため、新たな焼却棟が建設された(これがビルケナウの焼却棟Ⅱ、Ⅲである)
・地下水は伝染性の犠牲者の埋葬によって汚染されており、その結果ドイツのスタッフの間の伝染病を引き起こした(SSが埋葬した死体を掘り起こして焼却した理由は、絶滅計画の隠蔽ではなく、地下水の汚染の防止である)
・地下水汚染による犠牲者の中には、初期のキャンプ司令官の妻がおり、周囲の地区からのポーランドの農夫もアウシュビッツで焼却された。
・アウシュビッツ内での妊娠は自由が許された運営方針の結果だった。
 囚人同士が自由に恋愛をして××××したため、女性の囚人が妊娠することがあったのである。
 このようなラブラブカップルは結婚式をあげることが許された。

これは、「『Greetings From Auschwitz』 著Historical Review Press」からの引用だそうですが、多分、昔はネットにあったのでしょう。元ネタ自体がネットにあったのは調査済みです。例えばここから見つけることもできます。ともかく、卑怯なのは、一体その個々の内容は、どのソースから見つけた内容なのか全然わからないことです。もちろん、これらのネタは元々は、否定派の誰かが何かのネタから引っ張ってきてまとめたに間違いありません。否定派は元ネタのある巧妙な嘘はつきますが、全くの嘘は滅多に言いませんからね。そして、いつの間にかこのようにまとめられ、ネタ元がわからない状態でネットで流布されるに至るのです。しかも、後述もしますが、この馬鹿サイトの箇条書きは翻訳すら悪意に満ちた意訳です。

この箇条書きのうちいくつかはこちらで確認出来ます。

ただ、上の日本語で紹介している馬鹿サイトは、元ネタの翻訳すらきちんとしていません。

上で、強調した箇所はこうあります。
An Auschwitz Maternity Ward - Over 3,000 live births were registered there, with not a single infant death while Auschwitz was in operation under German rule -

訳すとこうです
「アウシュヴィッツの産科病棟-そこでは3,000人以上の生児が登録されており、アウシュヴィッツがドイツの統治下で活動していた間、乳児の死亡は一人もありませんでした」

馬鹿サイトの翻訳だと、乳児だけでなく「母子共に」と読めてしまいます。元ネタの英語の方だって酷いのに、さらに酷くなっています。ただし、翻訳のこの酷さとは別に、理解としては「母子とも」にで合ってはいるようです。もちろん、元文章が意図して誤解させようとしている、「ずっと死ななかった」という意味ではありません。以下を読めばわかりますが、そんな「出産記録」も存在するわけありません。

さて、今回は記事としては短いですが、この3,000人の出産の話を紹介したいと思います。この話は、STANISŁAWA LESZCZYŃSKA(スタニスラワ・レズチンスカ)という、ポーランド人の助産師の話なのです。

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スタニスラワ・レズチンスカ(Stanisława Leszczyńska、1896年5月8日、ウッチ生まれ、1974年3月11日、同地で死去) - アウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所に収監されたポーランド人助産師、「母」と呼ばれたボランティア、カトリック教会の神の奉仕者。彼女は仕事Raport położnej z Oświęcimia [アウシュビッツからの助産婦の報告]で収容所での彼女の経験を説明し、これはレズチンスカの引退後に書かれています。この回顧録は1965年に プレゼグルąd レカルスキで初めて出版されました。

若い頃

ヤン・ザンブルジッキとヘンリカ・ザンブルジッキの娘である。父親は大工、母親は織物工場「I.K. Poznański」で働いていた。1908年、スタニスラワ一家は母方の近親者が住むリオデジャネイロに向けて出発しました。1910年にポーランドに戻り、中学校で学び、1914年に修了した。 第一次世界大戦中は、貧しい人々を助けるための委員会で働いた。

1920年にワルシャワに移り、産科学校で学び始め、1922年に優秀な成績で卒業しました。 第二次世界大戦勃発の直前、レズチンスカ一家はウッチのバウルチ地区のジュラヴィア通り7番地に住んでいましたが、この地区にユダヤ人ゲットーが設立されると、近くのヴスポルナ3番地に移り住みました。

第二次世界大戦

ドイツ軍がウッチを占領していた時、レズチンスカ家の男性は、ウッチの国民軍の組織で活躍しました。

1943年2月19日から20日の夜、この組織の大規模な襲撃で一家全員が逮捕された。スタニスラワとその娘はグダニスカ通り13番地の女子刑務所に収監され、父親とその息子たちはスターリンガ通り16番地(当時はロベルト・コッホ通りと呼ばれていました)に収監されました。 女性はKLアウシュヴィッツ・ビルケナウ(1943年4月17日)に強制移送され、男性は調査と判決の後、ラドゴシュツ刑務所を経由してKLグロス・ローゼン(ここでは1943年6月23日から)に送られました。

KLビルケナウでは助産婦として働いていた(囚人番号41335)。彼女は赤軍による収容所の解放(1945年1月27日)までこの機能を果たした。この立場で、収容所当局の明確な命令を無視して、約3000人の赤ちゃんを出産しました。

晩年

彼女は、1957年にレズチンスカが引退してから書かれた「Raport położnej z Oświęcimia [Report of a midwife from Oświęcim]」という本の中で、収容所での経験を述べています。 彼女の回想録の初版は1965年にPrzegląd Lekarskiで出版されました。この本は、アンナ・ジャーマンとイェルジー・マクシミウクの音楽による狂詩曲「Oratorium Oświęcimskie」の基礎となった(1970年初演)。

また、レズチンスカ家の男性陣も幸運にも生き残った[2]。

1974年3月11日に癌のため死去し、ラドゴシュツ(Radogoszcz)の聖ロッシュ墓地(St.Roch Cemetery)に埋葬されました。1996年に、彼女の遺骨はBVMの被昇天教会に転送されました。1996年、彼女の遺骨は聖母マリア被昇天教会に移されました。

記念

1983年以来、クラクフの助産師学校は、スタニスラワ・レズチンスカの名を冠しています。彼女の像は、1982年5月3日の祝賀会で、聖母の奇跡的な絵が描かれた600周年記念の奉納品として、ジャスナ・ゴラの看護師たちによって置かれた「国家の生命と変容の聖杯」にも描かれています。 10年後、スタニスラワ・レズチニンスカの聖化のプロセスが始まりました。オシュライチムの旧アウシュビッツ強制収容所の近くの通りとウッチの通りの一つには、スタニスラワ・レズチンスカの名前があります。

Wikipediaより)

これだけ読んでも、否定派というのは本当に人間の屑だと言いたくなりませんか? スタニスラワは「収容所当局の明確な命令を無視」して、母子を救ったのです。スタニスラワ・レズチンスカはポーランド本国ではよく知られているようで、検索するとポーランド語のサイトばかりヒットします。そこで、いくつか調べてみて、以下のサイトがわかりやすいのではないかと思ったので今回はそれを翻訳してみます。

▼翻訳開始▼

アウシュビッツ生まれ。
ホロコースト時代の不動の助産師と3,000人の出産の物語。

スタニスラワ・レズチンスカは、助産師という職業が彼女をアウシュビッツの門に連れて行くとは想像もしていませんでした。彼女は自宅や定期的に出産をしていた地域から連れ去られ、出産までに何キロも歩いて移動することもあり、死のキャンプの悪夢のような風景の中に放り込まれました。先に殺害された夫の死と、別の収容所に送られた息子との残酷な別れを経て、スタニスラワと娘に残された希望はただ一つ、生き延びることだけだった。

ほとんどすぐに、スタニスラワの職業が彼女の救いにもなり得ることが判明した。アウシュビッツの女性ブロックでは、妊娠中の母親への支援はもちろんのこと、基本的な医療さえも不足していました。実利的で機知に富んだスタニスラワは、兵舎の中で最も暖かい場所にある寝台を「労働病棟」のために確保した。アウシュビッツに連れてこられた多くの女性は、すでに妊娠していた(このことを知らない人もいる)。これは、収容所の現実の中で多くの犠牲を意味していました。出産直前の妊娠中の母親は、(余分なシートと引き換えに)食事の配給を減らすことを余儀なくされていた。スタニスラワはこの指示の執行を命じられた。新生児を包むためのシートとオムツのためのシートが必要でした。時間内に入手できなかった場合、赤ちゃんは汚れた紙に包まれていることが多かった。

スタニスラワの唯一の使命は、彼女を取り巻く悪夢にもかかわらず、戦前の昔のように、労働する女性たちに最善のケアを施すことだった。キャンプの仲間たちは、彼女のことを、休むことなく実質的に休むことなく、疲れを知らずに分娩室を支えた人だと覚えていました。彼女は平和のオアシスであり、投獄されたすべての女性のための石でした。すぐに人々はスタニスラワを「お母さん」と呼ぶようになりました。

スタニスラワは、自分の飢えと疲労だけでなく、戦いもしなければならなかった。助産師である彼女には、包帯でさえもない医療器具がありませんでした。出産時に鎮痛剤を投与することは不可能であり、すべての行為はナチスの医師によって慎重に監督されていた。医学を知っていたのはスタニスラワだけではありませんでした。彼らは拷問を受けた者に詳細な報告をしなければならなかった。病人は回復の見込みがないと、すぐにガス室に送られた。

チフスは収容所での死因として非常に一般的でした。病人を治療している医師は、回復時間を最大化するために、患者の状態をナチスに騙された。最後の手段として、チフスの被害者が死んだとしても、少なくともキャンプのオーブンからは離れた場所での死亡だった。スタニスラワに与えられた指示は似たようなものだった。彼女は拾った新生児を全て溺れさせるよう命じられた。アウシュビッツの管理者たちは、女性囚人の妊娠は妊娠しても出産には至らないと考えていました。

スタニスラワがキャンプに来て以来、一人の母子の命も奪われていないことが明らかになると、彼らの反応は不信感に包まれ、直後に「新生児は生後すぐに樽の中で溺れさせろ」という命令が下された。スタニスラワは命がけで断った。彼女の後任はドイツ人の助産師で、以前は乳児殺処分で有罪判決を受けていた。

酷い状況にもかかわらず、スタニスラワの助けにより、何千人もの子供たちが生まれ続けました。アーリア人の「良い」乳児がドイツの孤児院に送られるようになる。別居という悲劇を経験した母親たちは、スタニスラワと一緒に、新生児の体に目立たないように刺青を入れる方法を発明しました。これは将来の再会への希望を与えてくれました。

アウシュヴィッツに収監されていた間、3,000人以上の赤ちゃんを出産することに成功したスタニスラワは、このテーマについて公に話すことはほとんどありませんでした。スタニスラワの子供たちは、出産後数時間後にガス室に召喚された若い母親の話を覚えている。スタニスラワが用意してくれた湿った紙に包まれた子供を胸に抱いて、女は死の淵へと向かった。

仲間の女性たちは助産婦の効果を理解していただけでなく、キャンプの管理者たちもそれを理解していた。「分娩ブロック」を訪れたメンゲレ博士は、スタニスラワが新生児を生け捕りにしているのを見て激怒した。彼女は母親が食べ物を持たない赤ちゃんのために授乳器を組織したこともありました。その結果、アウシュビッツの最後に生まれた赤ちゃんたちが生き残った。メンゲレはユダヤ人の母子を生け捕りにすることに強く反対していた。それにもかかわらず、彼はナチスの同僚たちに、スタニスラワは並外れた技術を持つ助産婦であり、仲間の囚人たちの自由への希望の象徴であることを認めた。

アウシュヴィッツが解放されたとき、スタニスラワはなんとか子供たち(二人とも後に医者になった)を見つけることができました。助産師が戦時中の経験を共有するようになったのは、1950年代に引退してからです。スタニスラワとその仲間の囚人たちの回想録はすべて、スタニスラワ・レズチンスカが聖人として聖人になるまでの過程で使用されました。2010年から始まった取り組み。

不屈の助産師は1974年に亡くなりましたが、彼女の物語はおそらくホロコースト時代の人間の勇敢さを示す最も注目すべき証言の一つでしょう。アウシュビッツで生まれた3,000人の新生児の多くは、ナチスに殺されたり、恐ろしい状況のために亡くなったりしましたが、彼らは皆、スタニスラワ・レズチンスカの愛情に満ちた温かい手の中に生まれてきました。

▲翻訳終了▲

別のサイトでは、以下のようにあります。

レズチンスカが分娩した3,000人の赤ちゃんのうち、半数は溺死、1,000人は飢餓や寒さで即死、500人は他の家族に送られ、30人は収容所で生き残ったと医学史家のスーザン・ベネディクトとリンダ・シェイルズは書いています。母親と新生児は全員出産後も生き残ったと考えられています。

否定派が誤解させようとしているであろう、「母子ともに3,000人も無事に出産して幸せにアウシュヴィッツで暮らしました」なんて話は完全に嘘であるというわけです。分娩時に死ななかった、それだけでもすごい話だとは思いますが、それがレズチンスカに出来た精一杯のことだったのであり、現実は如何にも残酷な話だったのです。

付け加えると、ホロコースト否定派は、「証言には嘘の可能性もあるから証言は証拠にならない」と言って証言を全面却下する筈なのに、そもそもこの3,000人の出産の話は、ルドルフ・ヘスなどの回想と同じで、否定派が禁止しているはずの証言です。否定派は、ホロコースト否定の材料になるなら、ダブルスタンダードもお構いなしです。

あと、「アーリア人の「良い」乳児がドイツの孤児院に送られるようになる」というのは、レーベンスボルン計画と言って、ユダヤ人などの劣等民族は始末するが、アーリア人は逆に増やそうとする計画であり、この計画の中に、こうした収容所からもアーリア人の子供をドイツ人として育てるために母親から奪い去る、というのもあったと。そしてレーベンスボルン計画における優秀なドイツ人を育成するための養護施設で育てるなり養子縁組などを行なったようです。

ともあれ、話としては否定派のいうようなオメデタイ話では全くないのでした。


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