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【ルーツ旅🌺高知編・夏祭り🎐④】Z村の伝承~戦国大名と7人の郎党の行方

Z村には、江戸時代初期、ある戦国大名が7人の郎党とともに落ち延びてきたという伝承があります。

そう、それは私がたびたび書いている大和の戦国大名・筒井順慶……ではなく、今回は、その後継ぎである筒井定次のお話です。

筒井順慶の死後、定次を含む4人の養子がどうなったのかについては、以前、こちらの記事に書きました(ただ1人を除き、悲惨な最期に……💦)。

▼切腹したはずの定次が生きていた?

1584年、筒井順慶の死により家督を継いだ筒井定次は、翌年、豊臣秀吉により大和から伊賀への国替えを命じられました

その後、定次はキリシタンに改宗したり、酒色におぼれるなどの問題行動を起こしたあげく、1608年、幕府により改易されてしまいます。

そして1615年、大坂冬の陣で豊臣氏に内通したとの理由で、定次は嫡男の順定と共に自害させられました(享年54歳)

しかし、高知のZ村には、その定次が実は生きていて、「筒井市正」と名前を変えてZ村に落ち延びてきたという伝承があるのです。

定次の伝承が刻まれた春日神社の石灯篭

▼村娘に子どもを産ませたあと、姿を消した

Z村の『筒井氏由緒伝記』には、次のように書かれています。

天正16(1588)年、定次は所領を没収せられて浪人となる。長宗我部の一族を頼り、土佐に下向、市正と名を変えて土佐に知行をたまわる

定次は「市正」と名前を変え、郎党7人を引き連れて、Z村に家屋敷を構えました。また、氏神である春日大明神を祀るため、春日神社を建立します。

その後、市正は地元の有力者の娘の婿となり、娘は懐妊。しかし、市正はそのことを恥ずかしく思い、あとのことを舅に頼んで、7人の郎党を連れて行方をくらましてしまいました。

私がわからないのは、なぜ市正が妻の妊娠を恥ずかしく思い、家を出たのかということです。普通、そんなことをする必要はどこにもありません。もしかしたら、実は未婚の娘さんに手を出し、それがバレたから居づらくなったとか、そういうことなのかもしれません😅

ともあれ、娘はその後、男児を生み、男児は父親と同じく「市正」と名付けられました。この男児が成長して、この地の筒井氏の祖となったのです。

Z村に移住した筒井氏について書かれた資料

▼彼らが筒井氏の末裔であるという証拠は?

現在、Z村で筒井を名乗る人々が、大和の筒井一族の末裔であることを示すものとして、織田信長から筒井順慶にあてた書状(朱印状)が存在します。

以前、私がZ村で聞いた話では、書状を持った人は愛媛県に引っ越してしまい、行方がわからないとのことでしたが、その後、書状が高知県内の博物館で保管されていることがわかりました。

Z村の資料集より

この書状、火事で上半分が焼けてしまっていますが、他の資料と照らし合わせて、書かれている内容が判明したそう。

それによると、書状の日付は天正4(1576)年7月13日。織田信長が安土城の築城に取りかかった年です。内容は、次の通り。

安土城の普請が終わり次第、京都に天守を造営したいから、大和国中の大木は一本たりとも伐ってはならない。ただし、特別に許可を受けた木は使用を許すが、他は造営の用材として確保し、将来に備えよ。

  天下布武(信長の朱印)  筒井順慶へ

信長は、よほど立派な天守を作るつもりだったんでしょうね。

▼Z村に落ち延びてきたのは、いったい誰なのか?

伝承によると、この村に落ち延びてきたのは筒井定次ということですが、もちろん定次が切腹したのはまぎれもない史実なので、そんなわけがありません。

それでは、Z村に来たのは一体誰だったのでしょうか?

私がZ村の人からもらった家系図のコピーに、その答えが書いてありました。

(続く)
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