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【ルーツ旅🌺高知編・夏祭り🎐⑤】Z村の伝承~家系図でわかった本当の移住者とは?

私がはじめて春日神社のお祭り(秋祭り)に参加したあと、神社の総代さんが、村に伝わる家系図のコピーを送ってくれたので、私は業者にこれを現代語訳してもらいました。

明治18年に書かれたようですが、かなりボロボロです。

▼定次の切腹の後、一族郎党はどうなったのか

家系図の内容に触れる前に、定次の死後、筒井一族がどうなったのかについて書いておきます。

定次の改易と切腹により、すぐに筒井一族が滅びたわけではありません。順慶の養子はあと3人いたからです(前に書いた図解はこちら)。

1608年、定次が徳川家康によって改易された後、すぐに定慶が筒井家を相続し、郡山城で1万石を領しました。弟の慶之は、兄のサポート役です。

しかし、1615年4月(定次の切腹の翌月)、大坂夏の陣が勃発したことで、兄弟の運命は大きく変わります。以下、Wikipedia 「筒井定慶」の項目より。

慶長20年(1615年)4月には、大坂夏の陣が勃発。豊臣方からこちらに付くようにとの誘いがあったが、これを断った。やがて豊臣方の大野治房軍が来襲、郡山城を包囲し城下町に放火した(郡山城の戦い)。大野勢が2,000余だったのに対し定慶の手元には与力36騎があるのみで、定慶は敵わずと見て城を放棄、福住に落ち延びた。のちに逃亡を恥じて切腹したと伝わるが、自害と称して福住村に逼塞したとも伝えられる。

辞世の歌は、
「世の人のくちはに懸る露の身の 消えては何の咎もあらじな」

伝承では、定慶かその子が隠棲し、その後、尾張国に行ったと言われるが、確証は無い。定慶の死(または逼塞隠棲)により、大名としての筒井氏は断絶した。

定慶と慶之はそれぞれ切腹し、最後に残った順斎は、徳川家康に江戸に連れて行かれて旗本となりました。

▼Z村の家系図に書かれていたのは……

私が受け取った家系図の翻訳はこちらです。

つまり、この村にやってきたのは、慶之の子孫ということになります。

村の資料では、いずれも「筒井定次が市正と名前を変えた」と記載されていましたが、おそらく当時よく知られていた定次の名前が独り歩きしてしまっただけで、実際には慶之の子孫がこの村にたどり着いたと考えたほうが自然な気がします。慶之は、定次と違ってマイナーな存在だったので、名前が残らなかったのではないでしょうか。

ただ、「滅亡した大名家の一族が地方に落ち延びる」なんていうのは、よくある平家の落ち武者伝説のようなものなので、正直いって当時の私はあまり本気にしていませんでした

(続く)
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