見出し画像

蒼い月夜の死神 其の二「風薫る 若葉見ていた 勾引かし」

 廉太郎れんたろう頼乃輔よりのすけは、早瀬はやせ川で釣りをしていた。

 あまりの天気の良さに、廉太郎は舟の上で寝転がり、青空を眺めたまま動こうとしない。

「おい、廉さん…少しは、真剣にやってくれんか」

 そう言う頼乃輔を廉太郎はちらっと見上げたが、再び視線を空へと移した。

 溜息をついた頼乃輔が釣り糸を垂らそうとした途端、廉太郎は突然勢い良く跳ね起きた。

「ばっ、莫迦っ!落ちるじゃないかっ!」

 揺れる舟に慌てる頼乃輔を見ながら、自分の釣竿を引き上げた廉太郎は、釣った魚を魚籠の中に入れた。

「ほーら見てみろ、頼さん。何もしなくたって、魚はちゃーんと食いついてくれるんだぞ?」

「くっ…き、気に食わん…」

 頼乃輔は納得が行かない様子で、釣り針を遠くへ投げた。



 水生みおの国青空あおぞら白雲はくうんにある、九士くじちょう

 その中央を流れる早瀬はやせ川沿いに、世見せみ道場は建っていた。

 剣術を学ぶべく、沢山の子供達が毎日元気に通っている。

 道場の創設者である二人の内、一人は世良せら廉太郎れんたろう

 明るくとっつきやすい男ではあるが、女好きで惚れ易い性格が難点。

 一寸いい女を見ると、すぐに声を掛けたがる。

 だが、廉太郎程のいい男ともなると、彼自身が声を掛けるまでもなく、女達の方から寄って来るのであった。

 同じく創設者であるもう一人は、見須奈みすな頼乃輔よりのすけ

 真面目でしっかりしており、廉太郎とは正反対の堅物な男だ。

 いつもふらふらとして頼りない廉太郎の、御守り役でもある。

 彼は過去、剣術の他に拳法も学んでいた。

 なので道場では、剣の苦手な子や剣だけでは物足りない子達に、拳法も教えている。

 十五年前に故郷の風切かざきり藩が取り潰され、敢え無く浪人となってしまった二人がその二年後、生計を立てる為に建てたこの道場。

 朝昼夕と三回練習時間が設けられており、現在通っている門下生は七十七名に上る。

 門下生の内、七割は町人の子供で三割が武士や百姓の子供だ。

 二人で始めたこの道場も、今は二人を含め五人の師範と、二人の師範代を抱えるまでになった。

 まずは、一人目。

 無口で無表情、自分の事は決して語らない謎の男、大神おおがみ欣司きんじ

 八年前の春、早瀬川の河川敷に血で染まった櫻の花びらに、埋もれるようにして倒れていたのを、廉太郎と頼乃輔に拾われた。

 胸に大きな刀傷を負っていた為、二人はすぐに欣司を知り合いの医者に診せた。

 その時、咄嗟に見せた鋭い目付きと、抜いた刀から放たれた殺気、そして血の匂い。

 二人は何も訊く事無く、欣司に道場の師範にならないかと誘った。

 最初は怪しんでいた欣司も、文句を言わずに此処にとどまり、現在に至る。

 二人は、未だに欣司の事を何も知らない。

 彼が一体何者なのか、八年前のあの日何故早瀬川の河川敷に倒れていたのか、そして彼を斬った人物は今何処に。

 訊きたい事は山程あったが、子供達を相手に仕事はきちんとこなしていたので、今はそれでいいと思っている。

 次に、二人目。

 つかさ嗣之進つぐのしんは、此処青空藩白雲奉行所の与力をしている父親、良左衛門りょうざえもんの一人息子である。

 父親の口利きで、二十歳で同心となった嗣之進。

 だが、正義感の強い彼は上役の意見が間違っている場合でも、黙って頷かなければならぬ苦を強いられる奉行所勤めを負担に感じ、五年間勤めた後に辞職する。

 新たな職を求めて、口入屋「遊作屋ゆさや」に立ち寄った嗣之進は、主人の迅壱じんいちから世見道場の代稽古だいげいこを紹介された。

 其処で嗣之進は、あっと言う間に道場の子供達の人気者となる。

 奉行所にいた頃から人に良く相談事をされたり、男やもめの同僚が夜勤の時にはその子供を預かったりしていたので、それらの経験が役に立ったとでも言うべきか。

 最初は一月ひとつきだけの臨時雇いだったが、二月ふたつき三月みつきと徐々に長引いて行き、一年後には正式に師範となる事を許されたのである。

 昔も今も、相変わらず子供にだけは甘い嗣之進だが、相手が大人となると話は別。

 物事をはっきり言い過ぎる傾向もある為、彼を慕う者と嫌う者とは、きっぱり二分されるのだった。

 そして、三人目。

 風の吹くまま気の向くままに、ぶらりと旅をしていた身寄りのない浪人、八重樫やえがし朔也さくや

 大きな屋敷の勝手口から残り物をくすねたり、百姓から握り飯を分けてもらったりして何とか食い繋いでいたのだが、ついに困り果てた朔也が三年前に叩いた門が、この道場だった。

 何でもするから食わしてくれと言う朔也を、廉太郎と頼乃輔は小間使いとして雇い、道場の掃除や皿洗いをさせるつもりだった。

 だが、朔也は根っからの怠け者らしく、どれをやらせても三日坊主。

 働きもしない者に、ただ飯を食わせる訳には行かないと、困り果てていたある夜。

 たまたま開いていた朔也の部屋の隙間から、中の様子を垣間見た廉太郎と頼乃輔は、思わず目を見開いた。

 自分の刀を手入れしていた朔也は、普段の物臭な彼とは違い、凄まじく強い気を放っているように感じた。

 小間使いよりは、遙かに役に立つであろう事を確信した二人は、それ以来彼をこの道場の師範として雇う事にしたのであった。

 続いて、師範代の一人目。

 青空藩旗本はたもと五十嵐いからし翔内しょうないの長男、鞍悟あんご

 十三年前、この道場が出来た頃から通っていた鞍悟は、去年その剣の腕を見込まれて師範代となった。

 素直で正直、上の者の言う事も良く聞く心優しい青年だ。

 しかし少々のんびりしている面があり、危なっかしい所も多々あるので、廉太郎達も心配で目を離せずにいる。

 そして、師範代二人目。

 青空藩旗本長谷はせ竜次郎りゅうじろうの長男、わたる

 鞍悟とは幼馴染みで、十二年前からこの道場に通い続けて来た彼は、今年師範代として引き抜かれた。

 のんびり屋の鞍悟とは正反対の性格である亙は、何事にも前向きに取り組み、諦めずに頑張り通す粘り強い青年である。

 だが自信過剰で向こう見ず、猪突猛進型なので何かと世話が焼けるのであった。

 とにかく、まだまだ新米の鞍悟と亙は、毎日休む事無く道場に通っては、子供達に剣の指導をしていた。

 残りの五人はと言うと、師範は一度にそう何人も要らないので、交代で教える事になっていた。

 ちなみに、道場の二階は鞍悟と亙を除く五人の寝所となっている。

 そして、彼らを語るのに忘れてはならない事実。

 世見道場には、裏の顔があった。

 それは、殺し屋。

 蒼い月夜の晩に多く現れるので、通称蒼い死神と呼ばれている。

 しかし、その事はその筋の者のみが知る事であって、道場に通う子供達や近所の町人達が知るような事ではない。

 新米の二人は師範代になった今も、その事実を知らされてはいなかった。

 だが二人とも、もう大人しく言われるがままに竹刀を振るだけだった頃の子供ではない。

 師範達が、道場以外の表沙汰には出来ない仕事を請け負っているであろう事は、嫌でも感じざるを得なかった。

 しかし十三年、あるいは十二年もの間、師範達を信頼してついて来た二人は、たとえそれが殺しであったとしても、決して間違った行いではないのであろう事を信じていた。

 だからこそ、敢えてこちらからは何も訊く事なく、今後も共に歩んで行こうと心に決めたのだ。

 勿論、二人は実際に人を殺めた事はまだない。

 廉太郎達も、二人が殺しの依頼を引き受けるか否かを決めるのは、俺達が死んでからでいい…と考えている。

 尤も、剣の腕も五人の師範に比べれば遙かに未熟な為、殺しはまだ無理だった。

 兎にも角にも、依頼が無い時の道場は至って平和であり、門下生達も伸び伸びと練習に勤しんでいるのである。



 廉太郎と頼乃輔が釣りに集中していると、土手を亙が走って行くのが見えた。

「おい、亙!」

 廉太郎が叫ぶと、気が付いた亙はこちらへ駆け下りて来た。

 頼乃輔が、舟を岸へ近付ける。

 亙は、息を切らしながら言った。

「先生方、こちらにいらしたのですか…」

「どうした、亙。今、昼練習の真っ最中だろう?」

 廉太郎に訊かれて、亙は答えた。

「実は、おふゆちゃんがまだ来ていなくて…」

「お冬が?」

 眉間に皺を寄せる、頼乃輔。

 お冬は十五歳、米問屋「たわら屋」の長女で昼練習に参加している道場の門下生だ。

「宰様に見て来るよう言われましたので、これから行って参ります」

 頭を下げた亙は、土手を駆け上って行ってしまった。

「どうしたのだろうな、お冬は…」

 腕を組む頼乃輔に、廉太郎はにやけながら言う。

「そうだなあ。我が道場の師範代から、手取り足取り御指導して頂くのを楽しみにしつつ、毎日休み無く通っていたと言うのに…一体、どうしたと言うのだろうなあ?」

 それを聞いた頼乃輔は、はっとしながら言葉を失っている。

 廉太郎は、肩を竦めて言った。

「やれやれ…知らなかったのか、頼さん?わざわざ亙を使いにやった所からして、嗣之進は既に気付いていたようだな」

 亙の去って行った方向を指差す廉太郎を見て、頼乃輔は頭を抱えた。

「まさか、そうだったとは…いや、全く気付かなかった」

 廉太郎は勝ち誇ったように頼乃輔の肩を叩くと、釣竿をすっと上げた。

「ほーら、また来たぞ…な?」

「くっ…益々、気に食わん…っ」

 頼乃輔は、ただただ悔しそうな顔をするばかりであった。



 亙は、俵屋を訪れた。

 しかし戸口は閉まっており、辺りはしんと静まり返っている。

 亙は、戸口を叩いた。

「御免下さい」

 反応が無いので、もう少し強く叩いてみる。

「御免下さい!御免下さい!」

何方どなたですか…」

 戸口の向こうから、微かな声。

「あ、あの、世見道場の長谷と申しますが…」

 亙が名乗った途端、戸口がすっと開いた。

 そして、何と腕だけがぬっと出て来たのである。

 その腕は亙の袖口を掴むと、物凄い力で中へ引きずり込み、即座に戸口をばたんと閉めた。

「ばっ、番頭…さんっ?」

 引っ張られた勢いで地面に尻餅をついた亙が、やっとの思いで声を出す。

 腕の正体は俵屋の番頭、卯之吉うのきちだった。

 戸口にしっかりと錠をかけた卯之吉は、亙に小声で言った。

「長谷先生…後生ですから、今からの会話は小声でお願い出来ませんか…どうか、お頼み申します」

 訳も分からず亙が頷くと、卯之吉は無言で中へ入るよう勧めた。

 亙は立ち上がり、着物に付いた砂埃を払って店の中へ入った。

 そして座敷に通された亙は、一瞬入るのを躊躇った。

 其処には、お冬の祖父である大旦那の政吉まさきち、祖母で大女将のおその、父で旦那の政五郎まさごろう、母で女将のおつる、そしてお冬本人と妹のおたえ…とまあ使用人を除く俵屋の住人が、全員総出で神妙な顔付きをしながら、並んで座っていたからである。

「亙さ…あ、は、長谷先生!」

 お冬が顔を上げると、父親の政五郎が立ち上がった。

「いやあ、亙さん…ああ、今は長谷先生で御座いましたね。何の御連絡もせず、勝手に娘を休ませてしまいまして、誠に申し訳御座いません。ほらお冬、先生にお茶の一つも出せないのか」

「は、はい、只今…」

 慌てて、お冬が立ち上がる。

 政五郎は、苦笑いした。

「全く、気の利かない娘で…さあ長谷先生、こちらへどうぞ」

 亙は言われるがまま、奥に座った。

 暫く沈黙が続き、お冬がお茶を持って来る。

「ど、どうぞ…」

「ああ、有り難う…」

 亙は、茶を一口飲んでから言った。

「それで、その…あ、きょ、今日はお店、お休みですか?」

 質問するも、誰も答えようとしない。

 亙が困っていると、祖父の政吉が口を開いた。

「折角来て下さったのだ、先生に御相談してみるかね?」

「で、でも、お前さん…」

 祖母のお園は、迷っているようだ。

「お祖父ちゃんの言う通り、亙様に御相談してみましょうよ」

 そう言ったのは、妹のお妙だった。

「お、お妙っ!」

 お冬が、頬を赤らめて注意する。

 お妙は、気にせず言った。

「ねえ、おとっつぁん。こうして、内輪だけで悩んでたってしょうがないじゃない」

「確かに、そうだな…長谷先生、道場の方は宜しいので?」

 政五郎に突然訊かれ、亙は慌てて答えた。

「だ、大丈夫…です」

「では…お鶴、例のものを」

 政五郎に言われ、母親のお鶴は側にあった箪笥の抽斗から一通の文を取り出して、机の上に置いた。

「これは…」

「どうぞ、お読みになって下さい」

 政五郎がそう言うので、亙は頷いて文を読んだ…そして。

「なっ、何と言う事っ…」

 亙は、唖然とした。

 政吉は、途方に暮れた様子で言う。

「そのような訳で今日は急遽店を休みましたが、明日はいつも通り開こうと思っております。ですがその文の事もありますし、このままでは我々もどうなってしまうのか心配で…」

 亙は言った。

「あの、わ、私の一存では何とも…ですが、先生方ならきっと良い知恵を貸して下さる筈です」

「左様で御座いますか!」

 政五郎の表情が、ぱっと明るくなる。

 お園も、頷いて言った。

「亙さんを始め、道場にはお強い先生方がいらっしゃるのですもの、きっと守って下さるに違いないわ」

「では、お願い出来ますか?」

 政吉に言われ、亙は力強く頷いた。



 道場の台所では、昼の練習を終えた嗣之進と鞍悟、そして早瀬川から戻った廉太郎と頼乃輔が、釣って来た魚を捌いていた。

「焼魚、煮魚、佃煮…あ、干物もいいなあ」

 廉太郎がそう呟くと、鞍悟は驚いて言った。

「世良先生、それ全部作られるのですか…流石ですね、尊敬致します!」

「いや…口だけなのだよ、廉さんは。実際は、私や嗣之進が作ったものを黙って食べているだけだ」

 そう言って、頼乃輔はちらりと廉太郎を見やった。

「それを言うな、頼さん…」

 廉太郎は、肩を竦めながら黙って魚を洗っている。

 嗣之進は、ちらちらと道場の方を気にしながら言った。

「それにしても…長谷は、何処で油を売っていやがるんだ」

「確かに…少々、遅いですね。私、其処まで見に行って来ます」

 鞍悟がそう言って濡れていた手を拭いた時、道場の方から慌てふためく亙の声がした。

「たっ、大変ですっ!大変なんですっ!」

 皆が、顔を見合わせる。

 亙は、台所に飛び込んで来て言った。

「ああ、皆さんこちらにおいでで…って、そのように悠長な事を言っている場合ではないっ!とにかくもう、本当に大変なのですよっ!」

「一体、何が大変だと言うのだ…」

「まずは、これをお読み下さいっ!」

 呑気に訊いて来る廉太郎に、亙は先程俵屋から預かった文を渡した。

 廉太郎は文を開き、声に出して読んだ。


   『 俵屋江

             今すぐ、商売から手を引け。
             さもなくば、天罰が下るであろう。 』

 


 皆は、黙り込んでしまった。

 亙は言う。

「今朝、戸口に挿んであったそうなのです。店は今日は休みましたが、このまま何も無ければ、明日はいつも通り開くとか。ですが皆さん、何かと心配なさっていて…先生方、何か良い案は御座いませぬか?」

「店の者に、差出人の心当たりは無いのか?」

 頼乃輔の質問に、亙は首を横に振って答える。

「いえ、何方も心当たりは無いと…」

「それでは、どうにも手の付けようが無いな……」

 と、廉太郎が腕を組んだ時。

「ったく、参るよなあ…」

 朔也が、何やらぶつぶつ言いながら帰って来た。

「あれ?何してんだ、皆して」

 台所で固まっている皆を見て、立ち止まる朔也。

「今日、お冬が練習を無断で休んだ」

「でぇーっっっ?」

 廉太郎の言葉に、朔也は驚き叫んだ。

「だっ、だぁーって、お冬の奴、こいつが目当てで毎日休まず…ふがっ!」

 亙を指差す朔也の口を、慌てて嗣之進が押さえる。

 きょとんとする、亙。

 頼乃輔は一人、頭を抱えて呟いた。

「まさか、朔也まで知っていたとは…不覚…っ」

 ようやく嗣之進の手を口から引き剥がした朔也は、息巻いて言った。

「だぁーっ、たくっ!どうでもいいが、嗣ちゃんっ!てめえの手ぇ、思いっきし生臭ぇっ!」

「ああ、魚を捌いていたからな…あれ、そう言やあ手ぇ洗ったっけなあ?」

 とぼける嗣之進に、朔也は怒りの炎を燃え上がらせる。

「つっ、嗣ちゃん、てめえ…痛っ!」

「いいから、お前はこの文を読め」

「へ、へーい…」

 廉太郎に頭を叩かれ、朔也は椅子に座ると渡された文を渋々読んだ。

 その途端、さっと顔付きが変わる。

「なっ、何なんだよ、これっ!薄気味悪ぃ…」

「お冬の様子を見に行った亙が、俵屋から預かって来たのだ。そのせいで、今日は店を休んでいるらしい」

「はーん…あ、そうそう!俵屋と言えば…」

 廉太郎の話を聞いて、朔也は思い出したように言った。

「他の米屋が、今日から一斉に値上げ宣言したらしくてよお…近所の連中も、かんかんになって米屋に抗議して回ってたぜ」

「一体、どう言う事でしょうか…」

 眉を顰める鞍悟を見ながら、頼乃輔は腕を組んで言う。

「まあ、俵屋の件と米屋の値上げは、関係無いとは思うが…」

「それ、全部の米屋がそうなのか?」

 嗣之進が訊くと、朔也は頷いて言った。

「詳しい事は分からんが、九士町の米屋は全部と見ていいようだな」

「まさかこの文の差出人は、米の値上げに反対している者では…」

 亙はそう言ったが、嗣之進は首を横に振る。

「いや…値上げは、今日からだったんだろ?文は、昨晩から今朝の間に俵屋に届いてたってえ話だから、その時点では値上げの事なんて誰も知らねえ筈だぜ?」

「だったら値上げを知っている内部の人間か、それとも単純に俵屋に恨みのある人間の仕業か…」

 そう呟いて、廉太郎も考え込む。

「商売から手を引け、って部分が引っ掛かるな…同じ、米を扱う商売をしている連中とも考えられるぞ」

 その頼乃輔の意見を聞いて、朔也は言った。

「取り敢えず、手始めに米屋を当たってみた方がいいんじゃねえの?」

 廉太郎は、そうだな…と頷いた。

「じゃあ、俺と頼さんで当たってみよう。朔也は壽美すみ屋へ行って、お三音みね達に話をつけて来てくれ」

「合点承知!」

 朔也は、膝を叩いて立ち上がった。



 その頃欣司は、人だかりの中に紛れていた九士町目明しの全吉ぜんきちの襟元を掴み、路地裏へ引っ張って来た。

「いてててて…かっ、勘弁して下さいよお、大神さぁーんっ!」

 全吉は、情け無い声を出しながら襟元を直している。

 欣司は、静かに言った。

「おい…あの人だかりは、何だ」

 路地裏から顔を出した全吉は、遠巻きに米屋に群がる人だかりを眺めた。

「ああ、あれですか?何でもね、今朝から突然米が値上がりしたそうなんですよ。何と、倍近くも…しかも、あの米屋だけじゃなくてほとんどの米屋がそうだってんですから、そりゃあ近所の連中だってああやって文句を付けに行きたくもなりまさあな」

 欣司が路地裏から顔を出すと、店の者が大勢の客に対して平謝りしているのが見えた。

「全吉…理由は、分からんのか」

「それを探る為に、あっしもあの人だかりん中に紛れ込んでたんすよ?なのに、大神さんが無理矢理…」

 口を尖らす全吉を見て、欣司は溜息をついた…その時。

 突然何者かが背後から音も無く忍び寄り、欣司の首筋に冷たい刃物を押し当てた。

 咄嗟に相手の腕を掴んで捻り上げた欣司は、同時に突き付けられた刃物を素早く叩き落とした。

「ひぃーっっっ!」

 側でそれを見ていた全吉が、小さな悲鳴を上げる。

 欣司のあまりにも強い握力で、今にも腕の骨がへし折れそうな様子の相手は、顔を歪めて言った。

「いったぁーいっ…きっ、欣さん、手え放してよぉーっ!」

 何と相手の正体は、欣司達蒼い死神の専属密偵として働いてくれている一人である、料理茶屋「壽美すみ屋」の使用人、忍びのお三音みねだった。

 壽美屋の女将お壽美の夫である鬼一きいちのような忍びに憧れて、この水生の国へやって来たお三音は、いつも欣司を相手に忍びの技を磨く練習をしているのだ。

 お三音曰く『何があっても死ななそうなのが、欣さん』だからである。

「ああ、痛かった…やっぱ欣さんには敵わないわ、悔しいけど」

 ぶつぶつ言いながら刃物を拾うお三音に、欣司が訊く。

「お三音…お前、このような所で何をしている」

「何って…米買いに来たのよ、米。なのに、あの騒ぎでしょう?他の店も回ってみたけど、何処もみーんな同じ。しかも俵屋なんか、開いてすらいないんだから」

 お三音の話に、欣司は黙って目を見開く。

 全吉は、腕を組んだ。

「成程。そりゃあ俵屋さん、ある意味利口な選択だったねえ。きっと、こうなる事を読んでいたんでしょうよ…あ、って事はお三音ちゃん。今日の壽美屋、炊き込み御飯無しかい?」

 お三音は、微笑んで言う。

「それは大丈夫、まだお米残ってるから。しんさんのお弁當べんとうも、ちゃーんと用意しときます」

 眞さんとは、全吉が付いている白雲奉行所同心の富田とみた眞太郎しんたろうの事である。

「良かったあ…富田の旦那、壽美屋の炊き込み御飯にゃあ目がないからさあ」

 そう言って、全吉は辺りを見回しながら路地裏を出た。

「そいじゃあお二人さん、あっしはこれで…お三音ちゃんはまた昼、弁當取りに行く時にな」

 再び人だかりの中へ入って行く全吉を見送りながら、お三音は言った。

「ねえ欣さん、取り敢えずうちに寄ってかない?」

 欣司は、黙って頷いた。



 朔也は、壽美屋で茶をすすっていた。

「あら、そうだったの…だったらお三音、困ってるかもねえ」

 朔也から米屋の一件を聞いたお壽美は、使いにやったお三音を心配している。

「でもお三音姉さんなら、他の客押し退けてでも買って来ますよ」

 そう言ったのは、使用人のお由奈ゆなだ。

「お、お由奈ちゃん、そんな事…で、でも、私もそう思います」

 同じく使用人のお璃乃りのも、遠慮しつつ同意する。

 お壽美は、そんな二人を見て大笑いした。

「二人とも、お三音の性質を良く分かっているじゃないか。あたしも、その意見に賛成だよ」

 朔也は、茶をすすりながら言う。

「けっ、皆して人が悪いでやんの…んな事言ってっと、今に本人が帰って来るぞ。ちなみに俺は、なーんも言ってねえかんな」

 すると途端に戸口が開き、本当にお三音が帰って来た。

「只今、帰りました!あ、欣さん入って」

「何ぃ、欣ちゃんだとっ?」

 驚いた朔也が、後ろの戸口を振り返る。

 無言で入って来る欣司を見て、朔也は言った。

「欣ちゃん…朝から姿が見えねえと思ったら、お三音と一緒だったのか?」

 黙って頷いた欣司は、椅子に座った。

 茶を用意しながら、お三音が言う。

「あ、そうだ。女将さん、今日米屋が大変な事になっててね…」

「何だか、そうらしいわねえ。さっき、朔さんから聞いたわ。それで…」

 お壽美は、お三音をじろじろと見回した。

「あら、結局買わずに帰って来たのねえ…」

 残念そうに言うお壽美を、今度はお三音がじっと見つめる。

「だ、だって、まだ残ってるから、無理矢理今日買わなくてもいいかと思って…いけなかった?」

 脇で、お由奈とお璃乃がくすくすと笑う。

 お壽美も、苦笑いして言った。

「い、いいのよ、別に。ところで、朔さん…まさか、米屋の話聞かせる為だけに来た訳じゃないんでしょ?」

 朔也は、はっとした。

「そ、そうだった…これだよ、これ!すぐに、読んでみてくれよ!」

 慌てて懐から取り出した文をお壽美が受け取り、声に出して読んだ。

「俵屋へ。今すぐ、商売から手を引け。さもなくば、天罰が下…って、な、何なの、これ!」

 皆も、目を丸くしている。

「どうしたんだ、この文」

 欣司が訊くと、朔也は詳細を話し始めた。

「今日の昼練習にな、お冬が来なかったんだと。で、わた坊が俵屋へ行ってみた所、店は休み。おまけにこんな文が今朝方届いてたってんで、店の連中がわた坊を通じて俺らに相談して来たって訳よ」

「じゃあ俵屋が店を休んだのは、値上げとは関係が無いんだな?」

 欣司の質問に、朔也は首を傾げる。

「それはまあ、何とも言えねえわなあ。これから、色々と調べてみねえと…あ、廉ちゃんと頼ちゃんはそんな訳で、他の米屋を当たってる。文の内容が商売絡みなんで、同業者の仕業じゃないかと睨んでんだ」

 お三音も、頷いて言う。

「とにかく、早々に俵屋の近辺を洗ってみる必要があるかも。ふうさんととびさん、上?あたし、呼んで来……」

「聞いていましたよ、全部」

 何処からともなく、風佑ふうすけの声がする。

 皆がきょろきょろしていると、天井の板が一枚外れて風佑と飛朗とびろうが、くるりと一回転しながら下りて来た。

「ちょっ…ど、何処から下りて来てんのよ!」

 お三音が驚くと、飛朗は笑って言った。

「いやあ、この真上の屋根裏を掃除していたら、皆さんの話し声が聞こえちまったもんで、つい…ね」

「我々も協力して、調べてみる事にします。世良の旦那方にも、そうお伝え下さい」

 風佑の言う事に、欣司と朔也は黙って頷いた。



「さーてと…何処から行く?」

 廉太郎はそう言って、呑気に伸びをしている。

 頼乃輔は、歩きながら言った。

「そうだな…其処の、なか屋から行くか」

 先程、欣司が全吉を見つけたのもこの仲屋と言う米屋で、あの人だかりは多少減ったものの、まだまだ文句は絶えないようである。

「これは、店の中に入るのも大変そうだぞ…」

 頼乃輔がそう言って困った顔をしていると、突然後ろから声を掛けられた。

「よお、廉と頼じゃねえか」

 廉太郎は、振り返って言った。

「あれ…やすさんに、あまさん」

 白雲奉行所与力の若村わかむら靖臣やすおみと、天城あまぎ右門うもんだった。

「お二人とも、着流し姿で颯爽と…様になってますねえ」

 頼乃輔がそう言うと、靖臣はにやりと笑った。

「けっ、てめえらの見え透いた世辞なんぞ、聞きたかねえや…それよりどうした、二人して米屋の前をうろうろしやがって」

「靖さん…知っているんでしょう、米屋の件」

 小声で訊く廉太郎に、靖臣は肩を竦めて見せる。

「さあなあ…」

 右門は、静かに言った。

「我々も、現在取り調べ中だ」

「与力のお二人が、自ら出向かれていると言う事は…何かあるんでしょうねえ、この件には」

 そう言う廉太郎の肩を、靖臣はぽんと叩いた。

「廉、それから頼も…あんまり、暴れ過ぎんじゃねえよ?欣、嗣、八重樫にもそう言っとけ」

「そうそう。先月の佐取屋の件、靖さんがお口添えなさって下さったそうで…有り難う御座いました」

 頼乃輔が礼を言うと、靖臣はふふんと鼻で笑った。

「あん時は、宰さんがいらっしゃらなかったからなあ…とにかく、てめえら二人ともいい大人なんだ。餓鬼みてえに、辺り構わずはしゃぎ回られたんじゃあ、とばっちり喰らうこっちの身が持たねえやな」

 恐縮する廉太郎と頼乃輔に、右門が言う。

「まあ正直な話、助かっている面もあるのだ。罪人は生きたまま捕らえ、罪をきちんと償わせて更生させるのが我々の役目ではあるのだが…お前達の事に関しては我々も目を瞑り、毎回上にはごまかしごまかしやっている。ただ、だからと言って調子に乗ってはいかん。靖臣の言う通り、無茶だけはするなと言う事だ」

 素直に頷く、廉太郎と頼乃輔。

「じゃあ、またな」

 軽く手を上げ去って行く二人に頭を下げた廉太郎と頼乃輔は、仲屋の前の人だかりに近付いて行った。

「あ…あれ、全吉じゃないか?」

 人だかりの中に全吉の姿を見つけた廉太郎は、襟首を掴んで引っ張り出した。

「よお、全吉」

 呑気に挨拶して来る廉太郎に、全吉は言う。

「いてててて…ったく、誰かと思えば今度は世良さんですかい。もう、皆して人を猫みたいに扱うのはやめて下さいよぉ!」

「皆?」

 頼乃輔が訊き返す。

 全吉は、襟を直しながら言った。

「ええ、そうですよ。さっきも大神さんに襟を引っ張られて、路地裏へ引きずり込まれたんです。それで、米屋の値上げの事を訊かれて…」

 廉太郎は、目を丸くした。

「そうか。朝から、姿が見えないと思ったら…あいつも、何やら嗅ぎ回ってんだな」

「で、欣司は何処へ行った?」

 頼乃輔が訊くと、全吉は首を傾げた。

「さあ…ああ、そう言えばその後にお三音ちゃんが来ましてね、暫く三人で喋ってたんですが、あっしも富田の旦那に頼まれてこの米屋の件を調べている最中でしたんで、二人とはすぐに別れたんですよ」

「と言う事は、壽美屋か…」

 全吉の話を聞いて、廉太郎が呟く。

 頼乃輔も、頷いて言った。

「ああ、恐らくな…それで全吉、何か分かった事はあったのか?」

 すると全吉は辺りを見回し、二人を路地裏へ連れ込んだ。

「それがね、今回の値上げはどうやら、仲間内の寄合かなんかで決まった事らしいんですよ」

「仲間内の寄合?じゃあ、米屋同士で話し合って決めた事って訳か?」

 廉太郎の言う事に、全吉は黙って頷いた。

 頼乃輔は、眉を顰める。

「しかし…こう値が上がってしまっては、逆に売上が下がってしまうのではないか?」

 全吉は、小声で言う。

「いやね、どうも米自体が店に無いようなんですよ…」

「ど、どう言う意味だ?」

 廉太郎が訊き返す。

 全吉は言った。

「つまりね、いつも仕入れている量の半分しかねえって話で…」

 全吉の話に、顔を見合わせる廉太郎と頼乃輔。

「ちょ、一寸、待ってくれよ。売りもんが半分しかないって、そりゃ一体どう言う…だ、大体、昨日までは普通に売っていたではないか!」

「其処に、何やら裏がありそうなんですよ…」

 廉太郎にそう答えた全吉は、路地裏から仲屋をじっと見張っている。

 廉太郎と頼乃輔は、再び顔を見合わせた。




 翌日、頼乃輔と嗣之進は壽美屋へ行った。

「旦那方、奥にお座敷御用意しときましたよ」

 お壽美にそう言われ、二人は奥の座敷に入った。

 続けて、茶を盆に乗せたお三音が入って来る。

「御免なさいね、表の席混んでるから…まあ、話をするにはこっちの方がいいでしょ?」

 机の上に茶を並べた所で、今度は風佑と飛朗が入って来た。

 嗣之進が、心配そうに言う。

「お前達まで来てしまって、表の方の人手は足りるのか?」

 風佑は、頷いて言った。

「ええ、注文された物は全て出して来ましたので」

「そうか。では全員揃った所で、早速…」

 頼乃輔がそう言うと、まずは飛朗が話を切り出した。

「俵屋なんですがね、昨日お聞きしました通り、今日は店を開いてましたよ。ですが…何と驚いた事に、値上げをしちゃあいねえんですよ」

 嗣之進は、眉間に皺を寄せた。

「しかし、昨日の全吉の調べじゃあ、米の値上げは寄合で決まった事だと…」

「ですが、どうも俵屋だけは納得しなかったようでね…一体どう言うつもりなんだと、他の米屋からも相当叩かれてるみたいっすよ」

 飛朗に続けて、風佑も言う。

「まあ我々客の立場からしてみれば、値上げに同意しなかった店があると言うのは、大変有り難い事なんですが、同じ米屋達からしてみれば、協調性は無いわ、自分勝手だわ、客にいい顔をしているわで…叩かれても仕方の無いような事を、俵屋はしてしまった訳ですよね」

 頼乃輔は、腕を組んだ。

「それが理由で他の米屋が結託し、あの文を出したのだろうか…」

「いえ…俵屋をあのような文で脅した所で、何の問題の解決にもなりはしませんよ」

 風佑の話に頷きながら、嗣之進は訊いた。

「そもそも、値上げの理由は何なんでえ?全吉の話じゃあ、売りもんの米自体が半減したってえ事だが…」

「百姓衆にも訊いて回ったんですがね、自分達は普段通りの量を出荷して、普段通りの報酬を頂いてるって言うんすよ。何か変わった事でもあったのかなんて、逆にこっちが訊かれる始末でしてねえ…」

 と、飛朗。

「てえ事は、百姓達は何も知らねえ訳だな」

 嗣之進の意見に、頼乃輔も頷いて言う。

「だったら、やはり米屋達の間で何かがあったと…」

「それに関しては、おもよちゃんと千郎太さんが調べてるから…あ、そうだ。頼さんも嗣さんも、お昼此処で食べて行きなよ。ね?」

 お三音の厚意に、頼乃輔と嗣之進は甘える事にした。



 昼練習の始まる時間になった。

 ほとんどの門下生達は、既に自主練習を始めている。

 師範の欣司は、苛ついた声で言った。

「五十嵐、長谷…お冬は、どうした」

「それが…ま、まだ、来ておりません」

 鞍悟が、困った顔で答える。

「一体、どうしたと言うのだろう。今日は、来ると申しておったのだが…」

 亙も、心配そうに呟く。

 欣司は言った。

「仕方が無い…二人とも、練習始めるぞ」

 鞍悟と亙は、渋々頷いた。

「それじゃあ、始めようか。いつもの通り、それぞれの組に分かれてくれ」

 鞍悟の指示で、門下生達が練習を始める。

 亙は、欣司に言った。

「大神さん…私、俵屋へ行ってみます」

 欣司は少し考えた後、静かに言った。

「好きにしろ」

 亙は頭を下げ、道場を後にした。

 仁王立ちになり、黙ったまま目玉だけを動かして門下生を見つめる欣司。

 欣司の胸の内は、何やら落ち着かなかった。



 廉太郎と朔也は、俵屋を張っていた。

 路地裏に隠れ、店の様子をじっと窺う。

 朔也は、欠伸あくびをしながら言った。

「なあ、廉ちゃん…これ、一日中続ける気ぃ?」

 廉太郎は頷く。

「いつ、怪しい奴が近付くか分からんだろ?文の差出人が、突然現れるかもしれんし…」

「でもそんなの、俺達が見たって分かる訳ないじゃーん」

 朔也の尤もな意見に、口を噤む廉太郎。

 俵屋は、朝から店を開けていた。

 他の店が文句をつける客で一杯なのに対し、俵屋は唯一値上げをしていない店と言う事で、米を買いに来た客で一杯だった。

「大体、何で俵屋だけ値上げしてねえんだよお。見た感じ、売り米も十分あるみたいだしさあ…」

 そう朔也が言った時、廉太郎が何かに気付いた。

 繁盛している俵屋の前を、行ったり来たりする人物が。

「なっ…ありゃあ、銀介ぎんすけじゃねえか」

「え、銀っ?おーい、銀っ!」

 朔也が、すぐさま叫ぶ。

 その人物は、隣町飛沫しぶきちょう目明しの銀介だった。

 呼ばれてきょろきょろする銀介に、朔也は路地裏から手を振った。

「なあ、銀ってばよ!此処だ、此処っ!」

 すると、銀介は物凄い形相で路地裏へ飛び込んで来た。

「おい、朔っ!てめえは、いつもいつもいつもいつも…やたらでけえ声で、人の名前呼ぶんじゃねえっ!」

 息巻く銀介を、廉太郎が宥める。

「ま、まあ、落ち着け、銀介…」

「あれ、せ、世良の旦那、いたんですかい…こんな所で、一体何を?」

 そう訊く銀介に、廉太郎は言った。

「ああ、其処の俵屋に用があって……お前も、俵屋の前をうろついていたようだが、何かあったのか?」

 銀介は、俵屋の方を見た。

「いや、俵屋だけじゃ無く米屋という米屋を、全部見て回ってたんでえ。飛沫町の米屋が一斉に値上げを始めやがったもんだから、こっちの九士町はどうかと思ってな」

「何だ、飛沫町もか?となると…こりゃあいよいよ、藩全体の米屋が値上げしている可能性が高くなって来たなあ」

 朔也の意見に、廉太郎も頷く。

「ああ。それなら、与力の靖さんや天さんが自ら動いていたのも、納得が行く…藩全体となると、上の人間が絡んでいる場合も考えられるからな。もしかしたら、靖さん達もその事に気付いていたのかもしれん」

「うちの曾野津田そのつだの旦那なんて、値上げで困って米が買えねえ近所の連中に自分の米譲って、てめえは安い麦飯食って我慢してんだぜ?もう呆れ返って、物も言えねえっての!」

 そう言って、むすっとする銀介。

 ちなみに曾野津田とは、銀介が付いている白雲奉行所同心の、曾野津田勘兵衛かんべえの事である。

 勘兵衛の人の良さは白雲奉行所内でも有名であり、その名をもじって「そのつだ、かんべえ」「その都度、勘弁」してもらえると、罪人共の間では捕まるなら勘兵衛がいい等と言われる始末である。

「相変わらず人がいいんだな、勘さんは」

 そう言って廉太郎が笑うと、朔也も大きく頷いた。

「ほんっと勘ちゃんって人は、思いやりのあるお人だよ。何たって三年前、俺が飛沫町の三角さんかく稲荷いなりで…」

「やい、朔っ!てめえのそのくたびれ話は、もう耳にタコでいっ!誰も、聞きたかねえんだよっ!」

 銀介が、憎まれ口を叩く。

 朔也は、憤慨して言った。

「なっ、何だとっ!てめえは、いつもいつもいつもいつも…やたらと、人を小莫迦にすんじゃねえやいっ!」

「けっ…莫迦を莫迦にして、何が悪いんでえ!この、とんちんかんっ!」

「くっ、くっそおーっ!毎回毎回、銀にだけは勝てない自分が情け無い…」

 がっくりと肩を落とす朔也を見ながら、廉太郎は言った。

「ところで銀介、勘さんは値上げの件について、何か仰っていたかい?」

「ああ、飛沫町じゃあ何でも米屋同士の寄合で、値上げが決まったらしいんだけどよお…」

「その話、九士町と一緒だな。寄合で決まったって…なあ?」

 銀介の話を聞いて、朔也が同意を求める。

 廉太郎は、頷いて言った。

「ああ。それで、売り米の量だが…」

「おお、それがいつもの半分しかねえのよ。お陰で、値段は倍。昨日は、朝から米屋に文句つけようと、人がわんさかと…って、あれ?」

 其処まで言って、銀介は俵屋の方を振り返った。

「そう言やあの店、値上げしてねえなあ…米も、大量に売っていやがるようだし」

「ああ、それは俺達も不思議に思っていた所だ」

 廉太郎がそう言った時、朔也が俵屋を指差した。

「廉ちゃん、あれ…」

 何と亙が人だかりを押し退け、俵屋の中へ入って行くではないか。

 廉太郎は、腕を組んだ。

「どうしたんだ、一体…お冬の奴、また練習を休んだのか?」

「用心に越した事はねえだろうから、店だけ開けてお冬は休ませたんじゃねえのか?」

 と、朔也。

「何でえ…俵屋に、何かあったのか?」

 銀介がそう訊いた時、先程店へ入って行った亙が再び出て来た。

 一緒に出て来た番頭の卯之吉に何かを耳打ちされ、頷いた亙が焦った様子できょろきょろし始める。

 卯之吉も酷く不安そうな表情を浮かべ、仕方無しに店の中へ戻って行く。

「おい、わた坊!わた坊!」

 朔也が呼ぶ。

 それに気付いた亙は、慌ててこちらへ走って来た。

「ああ、偶然にもこのような所に先生方が居て下さるなんて…私は、何て運が良いのだっ!」

「どうした、亙…何か、あったのか?」

 廉太郎が訊くと、亙はぐっと拳を握り締めて言った。

「それが…お、お冬ちゃんが、いなくなってしまったのですっ!」

 はっと顔を見合わせる、廉太郎と朔也。

「お、お冬ってなあ、誰なんでえ…」

「俵屋の、一番目のお嬢さんです」

 銀介にそう答えた亙は、詳細を話し始めた。

「先程から昼練習が始まっているのですが、お冬ちゃんの姿が中々見えなかったものですから、大神さんにお許しを頂いて俵屋へ参ったのです。番頭さんに尋ねましたら、お冬ちゃんはとうに道場へ向かったとか…」

「そ、それで、どうしたんだ?」

 朔也が、話の先を促す。

「私が、お冬ちゃんはまだ道場には来ておりませんがと答えると、番頭さんの顔色がさっと変わって…まさか例の文の差出人が、お嬢様を連れ去ったのではないでしょうか、等と言われまして」

「文の差出人?お、おい、一体何の話だ?」

 銀介が問う。

 朔也は、苛ついて言った。

「おい、銀…大事な話してんだから、黙っててくんねえか?」

「何だとっ?これが黙ってられるか、こん畜生っ!」

 銀介は怒鳴った。

「こちとら、お上から十手を預かってる身なんでえっ!その俺が、娘が消えたって聞いて黙ってられますかってんだよ、このうすらとんかちっ!」

 その勢いに、思わずひるむ朔也。

 亙は言った。

「有り難う御座います、銀介さん。ですが先程店を出た時、番頭さんに耳打ちされたのです。まだ、勾引かどわかされたと決まった訳では無いので、お役人様には届け出ないで欲しいと…」

「騒ぎを、大きくしたくないって事なのか…まあとにかく分かったか、銀。曾野津田の勘ちゃんにも、絶対に言うんじゃねえぞ!」

「だが、残念ながら聞いてしまったのだよ…」

 そう言って、朔也の後ろから肩の上にぽんと手を乗せたのは、先程から皆が口にする曾野津田勘兵衛、その人であった。

「そっ、曾野津田の旦那っ…」

 銀介が、呆然とする。

 勘兵衛は、笑って言った。

「とにかく、手分けしてその娘さんを捜そうではないか…なあ、世良殿?」

「え…あ、ああ、そうだな、勘さんの言う通りだ。亙、勘さんと銀介にも協力してもらおう」

 廉太郎の言う事に、亙は黙って頷いた。

「よし…では、その娘さんの特徴を詳しくお教え願おうかな?」

 勘兵衛に言われて廉太郎と朔也、そして亙はお冬の特徴を話し始めた。



 夕方の練習が終わり、亙が戻るまでは残ると言い張る鞍悟を、欣司は無理矢理帰した。

 それからいくら待っても、廉太郎と朔也と亙の三人は帰って来なかった。

 暫くして、頼乃輔と嗣之進が壽美屋から帰って来たので、今晩は三人だけの夕餉となった。

「大神さん…世良さんと八重樫はともかく、亙は昼練習の時に出て行ったきりなんですよね?」

 食べ終えた器を片付けながら、嗣之進が訊く。

 黙って頷く欣司を見て、頼乃輔は言った。

「まさか、俵屋で何かあったんだろうか…だとしたら、三人は一緒にいるかもしれん。亙はお冬の様子を見に俵屋へ、廉さんと朔也も俵屋を見張りに行くと言って出て行ったのだからな」

 その時、道場の戸を何者かが強く叩いた。

 頼乃輔、欣司、嗣之進が一斉に刀に手をかける。

「俺が出よう…」

 立ち上がった頼乃輔は、部屋を出ると道場を突き抜け、表の戸口へ向かった。

 欣司は裏口へ、嗣之進は表へ回った頼乃輔と裏へ回った欣司を、それぞれ見張る。

「誰だ」

 頼乃輔が声を掛けると、戸口の向こうから女の声が返って来た。

「あたしですよ、頼の旦那!」

「その声は…おもよか?」

 そう呟いた頼乃輔が、嗣之進に合図を送る。

 嗣之進は欣司に合図を送り、それぞれが出しかけていた刀をしまった。

 頼乃輔が戸を開けると、其処にはおもよと千郎太せんろうたが酷く疲れた様子で立っていた。

 おもよはめん引き(女掏摸おんなすり)、十六太は鍵師かぎしをしている。

 この二人も壽美屋のお三音、風佑、飛朗同様、廉太郎達の助っ人だ。

「ど、どうしたんだ、一体…ま、まあ入れ」

 頼乃輔は、二人を奥の部屋へ通した。

 嗣之進が、茶を出す。

 一口飲んで息を整えたおもよは、頼乃輔達に言った。

「実は、世良の旦那方から繋ぎを頼まれましてね…」

「と言う事は…廉さんと朔也と亙は、一緒にいると言う事だな?」

 頼乃輔の問いに、おもよが答える。

「亙さんは先程まで御一緒でしたが、世良の旦那の命により帰られましたよ」

「で、何があった?」

 欣司に先を促され、おもよは静かに言った。

「俵屋のお嬢さんが…消えちまったんです」

 皆が、目を丸くする。

「か、勾引かされたのか?」

 頼乃輔の質問に、おもよは首を横に振って答える。

「詳しい事は、まだ分からないんですよ。店の者の意向でまだ役人には知らせちゃいませんがね、成り行きで知られてしまったとかで、曾野津田の旦那と銀の親分が一緒なんです」

 嗣之進は、驚いて言った。

「協力してくれてんのは有り難えが、八重樫と銀介が一緒じゃあ、大した成果も上がってねえんだろうなあ」

 苦笑いするおもよに、欣司が言う。

「しかしこれだけ捜していないのでは、勾引かされたとしか考えられんだろうが。でなければ、とっくにあの世へ逝っちまったか…」

「おい欣司、冗談が過ぎるぞ」

 欣司を注意した頼乃輔は、おもよに言った。

「とにかく、廉さん達には一旦戻って来るよう伝えてくれ。明日の朝になれば、向こうから何かしらの反応があるだろう。こちらも、それなりに計画を立てねばならん」

 黙って頷いたおもよは、千郎太と共に道場を後にした。

 嗣之進は、溜息をついて言う。

「まさか、こんな事になっちまうとはな…大神さんが言ったような事にならぬよう、祈るばかりだが」

「しかし、何が目的でお冬を…例の文の差出人の仕業だとしたら、そいつは相当俵屋を恨んでいるのだな」

 頼乃輔はそう呟き、静かに眼を閉じた。




 翌日、道場は臨時の休みを取った。

 門下生達には、昨夜の間におもよと千郎太から連絡が行っている筈である。

「あれ…迅壱じゃねえか」

 霧谷きりたに神社の前を通り掛かった嗣之進は、賽銭箱の前で手を合わせる迅壱を見つけた。

 口入屋「遊作屋」の主人迅壱は五年前、同心を辞めた嗣之進に世見道場の代稽古の口を紹介した男である。

「これはこれは、宰様…」

 振り返った迅壱は、頭を下げて言った。

「どうも、御無沙汰致しております。お仕事の方も、順調なようで…」

「まあな。そもそも道場の代稽古は一月限りの予定だったから、てっきりまたお前の世話になるものと思っていたが…ま、こう言う事になったってえ訳だ」

 そう言って笑った嗣之進は、後ろに建つ社を見上げた。

「それよりどうした、こんな朝早くから…お前も見掛けによらず、信心深えんだな」

 すると、迅壱は微笑んで言った。

「何を仰います、宰様。私は毎朝、この時刻に此処でこうして手を合わせているのですよ。世の中の人々が良い仕事に恵まれ、幸せな生活を送る事が出来ますようにとね…」

「まあお前はその周旋料で食ってんだ、当然と言やあ当然じゃねえか」

「また、意地の悪い事を仰る…しかし、敢えて否定も致しませんがね」

 二人は、同時に笑った。

「ところで、宰様こそこのような時刻からどちらへ?」

 迅壱に訊かれ、嗣之進は答えた。

「まあ、ちょっと明門寺めいもんじへな」

「でしたら、宰様こそ慈悲深いお方ではありませんか。朝早くから仏を参りに行くなど、並の人間には真似出来ますまい…いやあ、是非とも見習いたいもので御座いますね」

「ああ、分かった分かった。俺が悪かったよ、迅壱。この通り謝るから、お互い厭味の言い合いは無しにしようじゃねえか」

 困った顔をする嗣之進に、迅壱は笑って言った。

「左様で御座いますね…それより宰様、米屋の一斉値上げの件は御存知で?」

 嗣之進の眉が、ぴくりと上がる。

「ああ…それが、どうかしたのかい?」

「実は米が値上がりした途端、私の店に職を求めて頻繁に来るようになった客が、何人かいましてね…それが皆、元は米屋にいた人間なのですよ」

 嗣之進が、はっとして迅壱を見る。

 迅壱は、話を続けた。

「要するに、高くなった米が以前のように売れなくなり、店の方も金銭的に厳しくなって来た訳です。そうなると、当然使用人の給金にも影響が出る…其処で、先を見越した者達が次々に米屋を辞め、うちへ来ていると言った状況なのです」

 嗣之進は、考え込んで言う。

「先を見越して辞めるってえ事はこの先、米の値段が元に戻る見込みもねえと…そう言う事、なんだな?」

「まあ…そう受け取っても、良いのではないでしょうかねえ」

「値上げの理由については、そいつら何か言ってたかい?」

 嗣之進が訊くと迅壱は辺りを見回した後、小声で言った。

「それが…どうやら、節戸せちど屋ってのが一枚噛んでいるらしいのですよ」

「節戸屋ってえと、あの白雲はくうんちょうの?」

「ええ。御存知の通り、この青空藩で最も大きな米問屋です」

 其処まで言って、迅壱は社の裏手へ嗣之進を引っ張り込んだ。

「此処半月ほど、各町の米屋に酒に酔ったのが何人かで嫌がらせに来るようになりましてね、お役人様も酔っ払いなんぞに構っていられるかと相手にもして下さらなかったそうで、米屋達もほとほと参っていたらしいのですよ。それを見るに見兼ねた節戸屋が、人を雇って追っ払ってくれたとかで…」

「へえ…」

「それ以来、節戸屋は総元締になってくれと頼まれる程、米屋同士の間では大変な信頼を得るようになったそうなんです」

 嗣之進は言う。

「その節戸屋が、各町の米屋に値上げをしようと言い出したのかい?」

「そのようですね。しかし、節戸屋がどのような意図で値上げを提案したのか…その理由までは、私も訊けませんでしたよ」

 迅壱の話を聞きながら、嗣之進は黙ったまま腕を組んだ。



 廉太郎は、壽美屋の戸口を叩いた。

 まだ朝早いせいか、錠が開いていない。

「はい…どちら様でしょう」

「その声は、お三音か?俺だ、開けてくれ」

 お三音は、急いで戸を開けた。

「ど、どうしたんです、世良の旦那!こんな早くから…ああ、旦那ってば朝からいい男だわぁ」

「そうかな…ははは、有り難うよ」

 いつもの会話を繰り広げる、二人。

「何してんだい、お三音。お客さんでも、いらっしゃったの?」

 奥から、お壽美が出て来る。

「いえ、世良の旦那ですよ。あまりのいい男っぷりに、つい見れちゃって…」

 はははと笑うお三音に呆れながら、お壽美は言った。

「済みませんねえ、旦那。さあ、中へ…って、あらほんと。やっぱり旦那は、いつ見たっていい男だねえ」

 ぽーっと見惚れるお壽美に対し、今度はお三音が呆れ顔。

 廉太郎は、苦笑いして言った。

「済まんな、早くから…」

「旦那なら、大歓迎ですよ。今、風佑と飛朗を呼びますから」

 そう言って、お壽美は階段の下から二人を呼んだ。

『お早う御座います』

 下りて来た二人が、廉太郎に頭を下げる。

「おう、風佑と飛朗も悪いな。じゃあ、早速…」

 頷いた風佑は、座って言った。

「俵屋のお嬢さんは、まだ居所が掴めておりません。ですが…米屋を当たってみた所、節戸屋の名が浮かび上がって参りまして」

「節戸屋か…この藩内で、一番大きい米問屋だな?」

「ええ。米屋連中を仕切る総元締でもありまして、今回の値上げも各町の寄合で、節戸屋が提案したんだとか」

 風佑に続いて、飛朗が話す。

「節戸屋ってのは以前、各町の米屋に押し掛けていた酔っ払いを退治してやった事がありましてね、それで信頼を得て米屋の総元締を任されるようになったんすよ。だから、寄合で値上げの件を提案された時も、他の米屋はそれが節戸屋さんのお考えならと、二つ返事で引き受けたとか」

「それで、どうして売り物まで半減する羽目に?」

 廉太郎の質問に、お三音が答える。

「節戸屋がね、うちなら看板も大きいし他藩にも顔が利くから、皆さんとこの米を半分でも委託して下されば、普段の売値の四割五割増で取引して差し上げますよ、なーんて言ったんだって!」

 廉太郎が、眉を顰める。

「残りの米は、それぞれの店で倍値で売ればいい。値上げした米がたとえ売れなくとも、自分達が委託させてもらった米の売上はそっくり皆さんに返すから、心配は要らない。この提案は、どの米屋にとっても悪い話じゃないと思うけど、どうかって…なーんか、怪しくない?」

 と、お三音。

「確かにな…何故、急にそんな提案をしたんだろうか」

 廉太郎が考え込んだその時、戸口を叩く音がした。

「壽美屋さんっ!私ですっ、五十嵐ですっ!」

「あら、鞍ちゃんの声…」

 お壽美は、戸口を開けた。

「お、女将さん、お早う御座いま…ああ、世良先生っ!」

 頭を下げた鞍悟は、廉太郎の姿を見つけるなり、慌てて店の中へ飛び込んで来た。

「どうした、慌てて…」

 廉太郎が訊くと、鞍悟は懐から取り出した文を廉太郎に渡した。

「き、来たのですよ、文が!先生方に言われた通り、私とわた坊は今朝一番に俵屋へ向かったのです。そうしたら、この文が戸口に挟まっていて…わた坊は今、俵屋で待機しております!」

 頷いた廉太郎は、文を読んだ。


  『 俵屋江

          娘は、預かった。
          返して欲しければ、今すぐ商売から手を引け。
          さもなくば、更なる天罰が下るであろう。
          娘の命も、保証はしない。          』

 


「何て、酷い事を…」

 お三音が、悔しそうに拳を握り締める。

 廉太郎は言った。

「いいか、鞍悟。亙と俵屋に、心配せずともお冬は必ず助けると伝えろ。あと念の為、店は休むように。今日は道場も休みだ、お前と亙はそのまま店仕舞いの時刻まで俵屋にいてやれ」

 頷いた鞍悟は、皆に頭を下げると壽美屋を急いで出て行った。

「あの、こんな時に何だけど…腹が空いてちゃ戦も出来ない訳だし、取り敢えず朝餉にしない?」

 お三音の提案に、廉太郎は笑って言う。

「お三音らしいな…確かに、此処で焦ったって事件が解決する訳でも無い。俺も、馳走になるとしよう」

 それを聞いた風佑と飛朗は朝餉の支度をする為、二人で台所へ入って行った。



 朔也は、勘兵衛と銀介との待ち合わせ場所である、飛沫町の三角稲荷に来た。

 鳥居をくぐると、既に二人は来ていた。

「ぎぃーんちゃーん…」

 耳元で名を囁かれ、銀介は背中に悪寒が走るのを感じた。

「さっ、朔っ、てめえっ…」

 じわじわと苛立って来る銀介を宥めながら、朔也は言う。

「だって、遠くから大声で呼ぶなっつったの、銀じゃん。だから近くで、しかも小声で呼んでやったんだろ?」

 拳を震わせる銀介を見ながら、隣にいた勘兵衛は言った。

「まあそんな事より、早く俵屋の件を解決に導かねばなあ?」

「そうだぞ、銀っ!」

「てめえに言われたかねえんだよ、くそったれっ!」

 朔也に怒鳴りつけた銀介は、少し落ち着いて言った。

「でえ…何か、分かった事はあんのか?」

「今、皆で手分けして調べてる所だ。分かった事があれば、それぞれの所に繋ぎがつく事になってる」

 朔也の言う事に頷いた勘兵衛は、稲荷に手を合わせた。

「どうぞ、お冬と言う娘さんを御守り下さい…と。では、ぼちぼち参るとするかな?」

「何処へ行く気だ、お前達」

 三人を、呼び止める声。

 後ろを振り返ると、其処には白雲奉行所同心富田眞太郎と、全吉が立っていた。

「あれ、眞さんに全吉…一体どうしたのだ、こんな朝早くから」

「それはこちらの台詞ですよ、曾野津田さん」

 眞太郎は、呆れながら言う。

「他の同心達は、周りと少しずれの生じている貴方を莫迦にしているようだが、私は違います!昨夜も銀介と二人で、遅くまで何かをなさっていた事は分かっているのです。何があったのか、話しては下さいませぬか。場合によっては、私も御協力致します!」

「あっしもですよ、曾野津田の旦那!」

 全吉も意気込む。

 勘兵衛は、困った顔で言った。

「し、しかしなあ…この事は役人にも知らせるなと、当事者から言われておってな。拙者は偶然にも知ってしまった故、放っておく訳にも行かずにこうして関わっている訳だが」

 眞太郎は、朔也にも言った。

「おい、八重樫っ!どうせ、お前達世見道場の者共が、また何か厄介事を…」

 朔也は、首を横に振る。

「ちっ、違う違う!俺達だって、こんな事が身近に起きちまって、正直驚いてんだからよお。たださあ、大事な門下生が巻き込まれてるってのに…あ」

 慌てて口を押さえる、朔也。

 銀介は、無言でぽかりと朔也の頭を殴った。

「門下生だと?」

 眞太郎の眉が、ぴくりと上がる。

 全吉は、はっとして言った。

「そう言やあさっき、曾野津田の旦那が稲荷の前でお冬がどうとかって…お冬ちゃんってなあ俵屋の上の娘ですぜ、富田の旦那!」

 眞太郎が、ぐるりと三人を見回す。

「成程?俵屋お冬はお前達の所の門下生だったなあ、八重樫…」

「そ、そうだったです、かねえ…?」

 苦笑いする朔也を見て、銀介は頭を抱えている。

 勘兵衛も、肩を竦めて言った。

「どうするよ、八重樫殿…」

 朔也は苦笑いしたまま、冷や汗を拭った。

「言うな、って言われてたのになあ…わた坊の奴に、殺されそう」



 頼乃輔と欣司は、飛沫町の向こうにある白雲町の米屋を回っていた。

 何処の店も皆、朝の準備に忙しそうである。

「やはり、今日も米の値は上がったままだな。此処は…米問屋見嵜みさき屋か。丁度いい、あの子に訊いてみよう」

 丁稚の小僧が、表を掃除している。

 頼乃輔は、声を掛けてみた。

「まだ、米は値上げしたままかい?」

 丁稚は、手を止めて言った。

「は、はい…左様で御座います」

「それで…あ、あれ?」

 ふと見ると、欣司の姿がない。

「お、おい、欣司!欣司!」

 頼乃輔がきょろきょろしていると、欣司はすっと路地裏から出て来た。

「今、おもよと千郎太が…」

 そう言って、頼乃輔に何やら耳打ちする。

 頷いた頼乃輔は、再び丁稚に訊いた。

「ところでこの店も、かつては酔っ払いの嫌がらせって奴に、遭ってたのかい?」

 丁稚は、思い出しながら言う。

「酒に酔った人達が大勢押しかけて来て、大変恐ろしゅう御座いました…他の町の米屋も同じ被害に遭ったとかで、米屋を営む旦那方はどうしたものかと、町の垣根を越えた寄合を度々開いていなさりました」

 頼乃輔は、頷きながら言う。

「それで、その酔っ払い達はどうなったのだ?」

「その後、節戸屋さんのお陰で酔っ払い達は、いつの間にかいなくなりました」

 其処で、欣司が訊く。

「その酔っ払い共は、何処のどいつだったのか心当たりは無いのか?」

「それが…実は酔っ払いの内の一人は、私の実家の近所に住んでいる与平よへいさんだったのです」

 丁稚の話に、顔を見合わせる頼乃輔と欣司。

「その与平ってのは、どんな男なのだ?」

 頼乃輔の質問に、丁稚が答える。

「多分、四十は越えていると思うのですが未だに一人身で、仕事もせず酒や博打に明け暮れているような人です。でも性格は温和で、長屋の住人にも愛想がいいし…あのように柄の悪い人達と一緒になって、店を荒らすような人では無いのです。ですがあれ以来、すっかり無口になってしまって」

 俯く丁稚を見て、頼乃輔は優しく言った。

「与平に、その時の事を詳しく訊きたいのだが…居場所を、教えてはもらえまいか?」

 丁稚は、静かに頷いた。



 嗣之進は迅壱と別れ、目的地である明門寺に来ていた。

「米の値上げ、とな…ええ、知っておりますよ」

「この件に関して、何か御存知ねえですかい?」

 嗣之進にそう訊かれて、和尚の光英こうえいは笑って言った。

「宰殿…私の事を、噂話が趣味の物好きなじじい、とでもお思いですかな?」

「その通り…御自分の事を、よーく分かっていなさる。流石は和尚、有り難えお方だ」

 そう言って手を合わせる嗣之進を見て、光英は大笑いした。

「はっはっは!いやあ参りましたよ、宰殿…では、お話致しましょう」

 光英は、茶を一口飲んで言った。

「白雲町にある節戸屋と言う大店おおだなが絡んでいるのは、御存知かな?」

「はい」

「では、話が早い。全ては、節戸屋が企んだ事なのですよ。無論、俵屋の件も…」

 嗣之進は、目を見開いた。

「ま、まさか、其処まで御存知だったとは…」

「節戸屋の手の者が、境内裏で相談事をしよってのお…節戸屋は、各町内の米屋の寄合に顔を出してある提案したが、俵屋だけは首を縦に振らなかった。其処で見せしめの為、何か良からぬ事を計画していたようじゃが」

「ええ、その計画は既に実行されちまいましてね…」

 肩を落とす嗣之進を見て、光英も頷く。

「いや、儂も計画の内容までは良く聞き取れなかったのじゃが…そうか、既に実行されてしまったのか。しかし、節戸屋の企みさえ暴いてしまえば、後は心配要らんじゃろう」

「ですが、節戸屋は他の米屋からも、厚い信頼を得てるって言うじゃねえですかい。そんな店を叩いて、果たして埃が出るのかどうか…」

「其処が、お前さん達の腕の見せ所では無いのかな?」

 光英にそう言われ、嗣之進は黙って肩を竦めた。



 壽美屋を出た廉太郎は、朔也達と合流していた。

 先程鞍悟が持って来た文を、皆に見せる。

「そうか…やはりお冬は、何者かに勾引かされたのだな」

 そう言って腕を組む眞太郎を、廉太郎がじっと見つめる。

「と言うか、富田…おぬし、何故此処にいる」

「この莫迦が、喋っちまいやがったんだよっ!」

 銀介が、苛々しながら朔也の頭を殴る。

 朔也は、頭を押さえて言った。

「だーって、しょうがないじゃんかよーっ!眞ちゃんってば顔も濃いけど、性格もしつこいんだもん!」

「煩いぞ、八重樫っ!」

 今度は、眞太郎がぽかりと朔也の頭を殴る。

 勘兵衛は、皆を宥めながら言った。

「まあまあ、二人とも落ち着かんか。世良殿も、八重樫殿を許してやってくれ。これは、仕方の無い事だったのだよ。それに、眞さんも全吉も我々に協力すると言ってくれておるのだ。人数は、少ないよりは多い方がいいだろうし…な?」

「か、勘ちゃーんっ…くすん」

 目を潤ませながら、勘兵衛を見つめる朔也。

 廉太郎は、溜息をついて言った。

「まあ、勘さんがそう言うなら…で、先程の話の続きだが、皆の情報を合わせると、どうも節戸屋が怪しいと言う事なのだ」

「節戸屋だってっ?とっ、富田の旦那っ…」

 全吉が、咄嗟に眞太郎を見る。

 眞太郎は、黙ったままだ。

「どうした、富田…何か、心当たりでもあるのか?」

 廉太郎が訊く。

 すると、朔也が思い出したように言った。

「そう言やあ、廉ちゃんもこの前、靖ちゃんと天ちゃんに会ったっつってたよなあ?って事は、眞ちゃん…あんたら役人連中は、今回の件について何か握ってんじゃねえのか?」

「拙者も、こう見えて役人と言う職に就いておるのだが…はて、何も聞いてはおらぬぞ」

 そう言ってきょとんとする勘兵衛に、銀介が怒鳴りつける。

「今更何言ってやがるんでい、このすっとこどっこいっ!旦那は仲間内からも莫迦にされてるから、どうせ話に入れてもらえなかっただけだろっ?お陰で、旦那に付いてる俺まで村八分にされちまって…ったく、とんだとばっちりだぜっ!」

 それを聞いた眞太郎は、申し訳なさそうに言った。

「すまぬ、せめて私だけでも曾野津田さんに話しておけば良かったのだが…分かった、皆にも打ち明けよう」

 こうして眞太郎は、事の真相を語り始めた。

「実は…節戸屋は以前から不審な行動をとっており、我々役人が何とか尻尾を掴もうと、ずっと探りを入れていたのだ」

「不審な行動とな?具体的に、どのような?」

 勘兵衛が訊く。

 眞太郎は言った。

「どうやら、代官金山かなやま主膳しゅぜん様の屋敷へ頻繁に出入りしておるようなのだ…金山様にも我々役人は目を付けていてな、恐らく米屋値上げの件も、金山様と節戸屋が何か関係しているのではないか、と睨んでおるのだ」

 廉太郎は、考え込んで言った。

「では、米の値上げは代官の差し金…とも、考えられる訳だな?」

「委託がどうとかっつって、他の米屋から巻き上げた米を他国へ横流しして、儲けた金を二人で山分けしようとでも、思ってんじゃねえのか?ひっでえ話だぜ…」

 朔也の意見に、銀介も同意する。

「ああ、全くだ!そんな野郎、代官の風上にも置けねえよ!」

「ですが、売上はそっくり米屋達に返すって話じゃ…」

 そう全吉は言ったが、勘兵衛は首を横に振る。

「いや…恐らく、返す気はないと思うぞ。まあ、詳しい内容は直接米屋達に訊いてみるしかあるまい」

「頼さんと欣司が、先に米屋を当たっている筈だが…俺達も、行ってみるとするか」

 廉太郎の言う事に、皆は揃って頷いた。



 頼乃輔と欣司は、先程見嵜屋の丁稚から聞いた長屋を捜して、更に隣にある松水まつみちょうまで来ていた。

「此処ら辺の筈、なのだが…なあ、其処の坊や!」

 頼乃輔は、側で遊んでいた子供に訊いた。

「この長屋に、与平と言う男が住んでいると聞いたのだが…場所を、教えてくれないか?」

「またかい?」

 子供は、訝しげに二人を見た。

 顔を顰めた欣司が、子供に訊く。

「おい、餓鬼…またとは、どう言う意味だ」

「さっきも、同じ事訊かれたんだよ」

 その答えに、顔を見合わせる頼乃輔と欣司。

「さっきって…どんな人達に、訊かれたんだ?」

 頼乃輔の問いに、子供は思い出しながら答える。

「うーんと…着流し姿のおじちゃんが、二人だよ」

「おじちゃんって言っても、色々なおじちゃんがいるだろう?一体、どんなおじちゃんだったんだ?」

「おじちゃんは、おじちゃんだよ。おじちゃん達だって、おいらから見れば二人ともおじちゃんだいっ!」

 頼乃輔は、それ以上何も訊く事が出来なかった。

 欣司も、唖然としている。

 子供は、あっけらかんとして言った。

「与平おじちゃんちは、こっから五軒目だよ。さっきのおじちゃん達にも言ったんだけど、ああ見えても与平おじちゃんは気のいい人なんだ。おじちゃん達も、あんまり苛めないでやってくれよな!」

「餓鬼、てめえ…おじちゃん、おじちゃん言うなっ!」

「お、落ち着かんか、欣司!」

 怒鳴る欣司を、頼乃輔が慌てて宥める。

「子供から見れば、俺達も皆おじちゃんだ…と言うか、柄にも無くこんな事で腹を立てるな!」

 怯える子供に、頼乃輔は苦笑いしながら言った。

「あ、有り難うよ、坊や。心配しなくても、与平おじちゃんを苛めたりはしないから…な?」

 黙って頷いた子供は、すっと側の家の中へ入ってしまった。

「まあ、苛めたりはしないが…場合に寄っちゃあ、殺しはあるかも…」

 そう思いつつちらりと欣司を見た頼乃輔は、五軒先にあると言う与平の家を訪ねた。

「御免よ…与平とやらは、此処にいるかい?」

 頼乃輔が戸を開けると、奥で酒を飲んでいる与平の姿があった。

「こっ、今度は誰なんでえ…いい加減、勘弁してくれよ!俺は、頼まれただけなんだからよお!」

 少し怯えた様子の与平に、頼乃輔は言う。

「い、いや、我々は何も、お前さんを取って食おうとしている訳では無いのだ。ただ、少々訊きたい事があってな…先程も、此処に誰かが尋ねて来たようだが、どんな風体の男だった?」

 与平は、酒を飲みながら言う。

「そ、それがよお、二人とも着流し姿で、てっきりどっかの素浪人かと思いきや、役人だなんて抜かしやがってよお…いやあ、驚いたのなんのって!」

「役人?」

 欣司が、頼乃輔を見る。

 頼乃輔も欣司を見ると、頷いて言った。

「恐らく、靖さんと天さんだな…それでその二人、何を訊いて来た?」

「だからよお、どうして米屋に押し入ったのかって事よ。俺はただ、飲み屋で酒を飲んでたの。そしたら、ちょこっと米屋脅すだけで金くれる口があるけどどうだって、節戸屋の使いとか言う男に誘われてな…」

「それで、貴様は引き受けたのか?」

 欣司の質問に、与平は頷いて言う。

「だって金も底を尽きそうだってのに、中々いい職が無くてよお…其処へあんた、お前さんは適任だから頼むよなんて、楽に稼げる仕事持って来られちゃあ、断わる道理もねえだろうよ」

 黙って話を聞く、二人。

「何もしなくていい、各地の米屋の店先で軽く暴れてくれればこの金はお前のもんだ、なんつって五両も顔の前ちらつかされちゃってよお…俺ぁ、すぐさま引き受けたさ。節戸屋なら、きちんとした所だしな」

 頼乃輔は、溜息をついて言う。

「そ、それで…約束通り、金はもらったのか?」

 途端に、与平はぐったりとした。

「それがよお…まあ半月くらい続けたっけなあ、米屋への嫌がらせ。他で雇われた野郎共も一緒になってさ、十人くらいで。そしたら驚く事に、俺達みたいに節戸屋に雇われたっつう浪人集団が現れて、いきなりばっさりと俺達に斬り掛かって来やがったんだよ!」

 頼乃輔と欣司は、目を見合わせた。

「いやあ、道理で節戸屋の名前は出すなだの、この仕事の話は誰にもするなだのって、決め事が多いと思ったぜ。まさか、最終的に殺される羽目になるとはなあ…」

「じゃあ、お前が此処にいると言うのは一体…」

 頼乃輔の問いに、与平は頷く。

「そう、俺はやっとの思いで何とか逃げ帰った。そして、節戸屋にどう言う事だって文句つけに言ったら、節戸屋は素直に謝って来て、倍の十両を寄越して来たんだ。十両だぞ、十両!あんた、これだけありゃあ遊んで暮らせるってもんよ!俺はそれを貰って、家へ帰ろうとした。だけど…」

 与平は、持っていた杯を力無く床に置いた。

「その帰り道、突然何者かに襲われて、十両丸々盗られちまった…おまけに斬り掛かって来たもんだから、俺は斬られた振りをして早瀬川に身を投げ、流れ流れてこの松水町に辿り着いたって訳よ」

「た、大変だった…な」

 苦笑いする、頼乃輔。

 与平は、頷いて言う。

「今も、怯えながら暮らしてんだ。だから、さっきお役人が来た時には、本当にたまげたが…いやあ、あの時十両を盗ってった連中は、絶対節戸屋の差し金に違いねえ!」

「成程…いや、色々と話を聞かせてもらって助かった。邪魔したな」

 頼乃輔は、欣司と共に与平の家を出ようとした。

 其処で、与平が二人を引き止める。

「お前さん方、役人じゃないんだろう?だったら、一体何者なんだ?」

「別に、名乗る程の者でもない…ただ、節戸屋の悪事だけは見逃せ無くてな」

 そう言って、頼乃輔と欣司は静かに出て行った。



 夕餉を食べながら、五人は今後の事について話し合った。

「つまり…節戸屋は米屋連中の信頼を得る為、わざと酔っ払い共を雇って、他の米屋を襲わせたと?」

 朔也が訊くと、頼乃輔は頷いて言った。

「しかも更に浪人共を雇い、その酔っ払い達をも殺してしまったと言うのだからな。おまけに、一度与平にやった礼金までも、後から根こそぎ取り返すとは…汚いやり口だ」

「証拠隠滅の為か、それとも用無しになったから、始末してしまおうと思ったのか…どっちにしろ節戸屋の自分勝手な、人を人とも思わぬやり方には、納得出来ねえな」

 嗣之進も、怒りを隠せずに言う。

「うまく信頼を得た節戸屋は、まんまと総元締の地位に収まった。後は米屋連中をそそのかし、巻き上げた米を何処かで金に変えて、裏で手を引く代官と山分け…と、此処までが話の筋書きだが」

 そう言う廉太郎に続いて、欣司も意見を述べる。

「その内、売上分が中々返って来ないと、節戸屋に不信感を抱き始めた米屋連中が、動き始めるに違いない。そうなれば、間違い無くその米屋連中も節戸屋の手によって、酔っ払い共のような運命を辿るだろう」

 皆は、黙って顔を見合わせた。

 嗣之進は、難しい顔をして言う。

「俵屋だけは、節戸屋のやり方に反対していた。それで、見せしめにお冬を勾引かした、と…こいつぁ、いよいよお冬の身が、心配になって来やがったな」

 廉太郎は、考えながら言った。

「とにかく、お冬の安全を確保する事が第一だ。俵屋には明日も休んでもらって、他の米屋にも下手に動かぬよう、根回ししておかなくては…」

「そうだな。お冬の身柄が節戸屋にあるのは、まず間違いないとは思うが…探りを入れるよう、お三音達にも頼んでみよう」

 頼乃輔の言う事に、皆は黙って頷いた。




 翌日、道場はいつも以上に活気があった。

 昨日練習出来なかった分、門下生達に熱が入っていたからだ。

 しかし、師範頼乃輔の心中は穏やかでは無い。

「とにかく、お冬が無事でいてくれると良いのだが…」

 と、頼乃輔が考え込んでいた時。

「見須奈先生」

 鞍悟に呼ばれ、顔を上げる。

 戸口の前に、おもよと千郎太が立っていた。

「鞍悟、二人を奥へ通してくれ。茶はいいから、お前と亙は門下生を見るように」

 頷いた鞍悟は戸口まで戻り、おもよと千郎太に奥の部屋へ行くよう指示した。

 頼乃輔は難しい顔をしたまま、奥の部屋へ入る。

「失礼致します、頼の旦那」

 おもよが来て、頭を下げた。

 その後ろで、千郎太も頭を下げる。

「入ってくれ」

 頼乃輔に言われて部屋に入ったおもよは、座って言った。

「九士町内の米屋が、一斉に動き出しましたよ」

 頼乃輔は、驚いて言う。

「廉さんと朔也が、食い止めている筈では…」

 おもよは、顔を顰めて言った。

「お二人だけでは、無理がありますよ。節戸屋は、三日以内に売上分を返して寄越す約束を、他の米屋達としていたんですが、それが返って来ないんでおかしいって話になって。節戸屋さんのようなお方が、約束を違える筈は無い。だとしたら、何か訳があるに決まっている。そう言って今、団体で節戸屋へ向かっているんですよ」

「そうか…米屋達に責められた節戸屋がどう出るのか、それが問題なのだが」

 考え込む頼乃輔に、おもよが言う。

「今、お三音ちゃんと風佑さんと飛朗さんが、節戸屋へ偵察に行ってるんです。お冬ちゃんの無事を確認したら、今夜にでも忍び込むつもりだとか」

「分かった。では二人は、引き続きそれぞれの様子を見に行ってくれ」

 頷いた二人は、足早に道場を去って行った。

 頼乃輔は立ち上がると、静かに溜息をついた。



 九士町の米屋達は、節戸屋へ行く前に俵屋を訪れていた。

 俵屋は廉太郎達の指示通り、今日も休んでいる。

 閉められた戸口から顔を出したのは、番頭の卯之吉だった。

「これはこれは、皆さんお揃いで…一体、どのような御用でしょうか?」

 米屋達は、一斉にまくし立てた。

「俵屋さん、もう二日も店を開けていなさらないようだが、どうなさったと言うのです?」

「確か、値上げ当日も休まれましたよねえ?翌日開けたかと思えば、米を値上げしていないではありませんか!おまけに約束分の米を、節戸屋さんへ届けもしないで…これは、既に寄合で決まった事なのですよ?」

「そう言えば、寄合の時も俵屋さんだけは、節戸屋さんの意見に反対なさっていたようですなあ…」

「いいですか?節戸屋さんは、我々米屋の総元締なのですよ?いつぞやは、酔っ払いから我々を救って下さったではありませんか!俵屋さん、貴方達は恩を仇で返すつもりですか?」

 米屋達の騒ぎに、卯之吉は手が付けられない様子である。

「あのお…ちょーっと、宜しゅう御座いますかねえ?」

 其処で出て来たのは、朔也だ。

 隣に、廉太郎も立っている。

 二人は何とか米屋達を足止めしようと、先程から後をつけて様子を窺っていたのだ。

「あの…どちらの、お武家様でしょうか」

 米屋の一人が、訊ねる。

 朔也は答えた。

「いや、俵屋さんの知り合いですけどね…あんた方、当たる相手が違うんじゃねえですかい?」

 廉太郎も言う。

「皆さん、どうして節戸屋さんの言いなりになっているんです?」

「言いなりとは、聞き捨てなりませんなあ。節戸屋さんは、私共米屋の総元締です。そのお方が、お決めになった事に我々が従うのは、当然の…」

「では訊くが、節戸屋さんの言う通りにしてお前さん達、得をしなすったかい?」

 廉太郎に鋭く指摘され、素直に頷く事が出来ない米屋達は皆、口を噤んでいる。

 その様子を見ながら、朔也はにやけて言った。

「売り米を半分も持ってかれ、残りを倍値で売って客に文句をつけられ、おまけに節戸屋からの売上金は、全く戻って来ず…これじゃあ、あんた方が腹を立てなさんのも、無理ねえや。でもなあ、だからって俵屋さんに当たりに来るってなあ、筋が違うんじゃねえのか?」

 米屋達は、ばつの悪い顔をして俯いている。

 其処で、廉太郎は提案した。

「では今日一日、待ってみたらどうです?聞く所に寄れば、節戸屋さんは値上げの日から三日以内に、売上金を届けるとの事。今日でもう四日目だが、ひょっとしたら一日遅れで、今日皆さんに金を届けるつもりでいなさるかもしれない。だから今日一日待ってみて、もし来ないようなら明日皆さんで改めて節戸屋さんへ行ったらいい」

「今日一日だけと言う根拠は、一体何処にあるんだね?」

 米屋に訊かれ、廉太郎は答えた。

「いえね、我々が今日一日かけて俵屋さんを説得しようと思いまして…恐らく、総元締である節戸屋さんへ皆さんと御一緒に抗議しに行くなんて、俵屋さんは嫌がると思うんですよ。ねえ、番頭さん?」

 語尾を強めて卯之吉を見た廉太郎は、片目を瞑って合図を送っている。

 それに気付いた卯之吉は、大袈裟に頷いて言った。

「え、ええ、ええ、その通りです!私共は正々堂々値上げに反対したのですから、今回の件につきましては、全く持って関係はない筈で御座いましょう?それだと言うのに、巻き添えを食らうだなんて…御免被ります!」

 それを聞いて、口々に意見し始めた米屋達を宥めながら、廉太郎は言った。

「ですから、今日一日かけて我々が俵屋さんを説得すると、言っているのです。俵屋さんだって米屋の一員、自分達だけ揉め事から逃れようったって、そうは問屋が卸さない…大丈夫、明日の朝には俵屋さんも皆さんと御一緒に、節戸屋さんへ出向いてくれる事でしょう」

「そうそう。ま、今日中に金が届けば、また話も変わって来るけどな…どうだい、米屋さん達」

 朔也もそう言って、米屋達を見回す。

 何やら話し込んでいた米屋達は、ようやく納得して言った。

「分かりました。貴方達が其処まで協力して下さると言うのですから、我々もお言葉に甘える事に致しましょう。今日一日だけ様子を見て、もし金が届かないようでしたら、また明日の朝にでもこちらへお迎えに上がりますので、その時は宜しくお願い致しますよ」

 こうして、米屋の団体は一斉に帰って行ったのである。

「ふぅーっ…やれやれ、一時はどうなる事かと思ったぜ」

「いや、全くだな…」

 ほっと胸を撫で下ろす二人に、卯之吉は頭を下げて言った。

「助かりましたよ、先生方!本当に、有り難う御座いました!」

「礼を言うのはまだ早いですよ、番頭さん」

 廉太郎は、険しい表情で言った。

「これからが、大変なんだ…」



 欣司と嗣之進は、壽美屋でお三音、風佑、飛朗の帰りを待っていた。

 三人はお冬の居場所を確かめる為、節戸屋へ忍び込んでいるのである。

「少し、遅いな…」

 心配する嗣之進に、お壽美が言う。

「大丈夫ですよ、嗣之進の旦那。三人とも十年もの間、うちの人の下で厳しい修行を積んで来たんですから…万に一つも、失敗なんてありゃしませんよ」

「ふん、随分な自信だな…」

 皮肉めいて呟いた欣司を見て、お壽美はむっとしながら言った。

「お言葉ですけど、大神の旦那…うちの子達が旦那方の仕事、一度でもしくじった事がありました?」

 黙り込む、欣司。

 お壽美は、勝ち誇ったように言った。

「ほーら、御覧よ。大神の旦那も、素直じゃないんだから…正直に仰ったらどうなんです、あの子達を心の底から信頼してるって」

「何だとっ?」

 かっとなった欣司が、刀に手をかける。

「おや、やるのかい?こっちは、いつでも相手になってやるよ!」

 お壽美もさっと顔付きを変え、懐から出した短刀を構えた。

「ちょっ…で、殿中で御座るだ!冗談はやめてくれませんかねえ、二人とも!」

 慌てて立ち上がった嗣之進は、二人を宥めて言った。

「味方同士で、争ってる場合じゃねえだろうが!門下生の命が、懸かってるんだぜ!」

 冷静になった二人は、渋々刀をしまった。

「ったく、何考えてやがるんでえ、この人達は…」

 嗣之進が呆れながら呟いていると、戸口が開いて三人が帰って来た。

「たっだいまーっ!」

「おい、お三音!お前、遅かったじゃねえか…一体、何処で油売っていやがったんだ?」

 飛びつくように訊ねて来る嗣之進に、お三音が笑顔で言う。

「えっ、嗣さん…もしかしてあたしの事、心配してくれてたのーっ?」

「当たり前だろうが!大事な門下生の命が懸かってんだ、失敗は出来ねえんだぞ!」

「なーんだ、お冬ちゃんの事かあ…」

 がっかりするお三音の背中を、お壽美がぽんと叩く。

「なーんだじゃないよ、お三音。それで、節戸屋の方はどうだったんだい?」

「お冬ちゃんは、無事でした」

 説明を始めたのは、風佑だ。

「どうやら、米蔵の中に閉じ込められているようで…詳しい状況は良く分かりませんが、雇われ浪人が交代でお冬ちゃんを見張り、握り飯や漬物等の軽い食事を与えているのが見えました」

 続けて、飛朗が言う。

「各町の米屋からひったくった米俵も、その米蔵の中にちゃーんと隠し持ってましたぜ」

「おもよちゃんと千郎太さんの調べによるとね、その米俵は今夜の内に杉ノ森すぎのもりの向こうの、滝川たきがわちょうにあるなみだ橋の船着場で取引されるんだって。相手は相当な高値で買い取ってくれるらしいから、節戸屋は物凄い儲けになるわよ」

 お三音がそう言うと、嗣之進は考え込みながら腕を組んだ。

「やはり、目的は金か…代官の金山と結託し、ぼろ儲けを企んでいるってえ訳なんだな、節戸屋は」

「金山って、かなりの悪代官らしいじゃない?藩のお偉方や役人の間では、評判が悪い事で有名だって」

 お壽美の話を聞いて、欣司は言った。

「それで、役人共が金山と節戸屋がつるんでいるのを嗅ぎ付け、あちこち調べ回っていやがったんだな…」

 頷いた嗣之進は、茶を飲み干して言った。

「此処まで内情が分かれば、後は行動に移すのみ…取り敢えず俺達は、一旦道場に戻る。暗くなるのを待って戌の下刻頃、お前達三人も道場に集まってくれ。おもよ達も一緒に、最終的な打ち合わせをする。いいな?」

 お三音、風佑、飛朗は真剣な表情で頷いた。



 戌の下刻、道場に面子が揃った。

 廉太郎、頼乃輔、欣司、嗣之進、朔也、お三音、風佑、飛朗、おもよ、千郎太の総勢十名である。

 外はもう真っ暗で、蒼い月が見守るばかりだ。

「取引の時刻は、今宵子の刻。場所は、滝川町涙橋の船着場。実際に取引を行うのは節戸屋も相手側も、この日の為にわざわざ雇い入れた浪人者。当の本人である金山主膳と節戸屋は、金山の屋敷で待機しているものと思われます」

 おもよが説明を終えると、廉太郎は言った。

「それでは、三手に分かれよう。おもよと千郎太は節戸屋へ行き、お冬を救出する。お三音、風佑、飛朗は船着場へ行き、取引を阻止する。俺達五人は金山の屋敷へ行き悪の根を絶つ…異存は無いな?」

 皆が、黙って頷く。

 廉太郎は、刀を掴んで言った。

「よし…行動開始だ、健闘を祈る」



 おもよと千郎太は、節戸屋に忍び込んでいた。

 米の取引に気が行っているせいか、こちらの警備は薄い。

「ねえ、千郎太。あの程度の人数なら、あたし達二人でも殺れそうじゃないか?」

 全身黒尽くめと言う出で立ちで、屋根の上から米蔵を見下ろしたおもよは、得意気な顔で千郎太を見た。

 おもよの隣で、千郎太は眉間に皺を寄せている。

「何、心配してんのさ。お前が蔵の錠を破って無事お冬ちゃんを連れ出したら、あの浪人共の始末はあたしがやるよ。ひい、ふう、みい、よ、いつ…たったの七人じゃないか、平気さ」

 しかし千郎太はおもよの手をぎゅっと握り、首を横に振る。

「わ、分かったよ。全く、千郎太の心配性にも困ったもんさ。あたしが今まで、どれだけの危険を乗り越えて生きて来たと思ってるんだい?それに比べたら、あんな浪人共を殺るくらい…」

 其処まで言って、おもよは千郎太の視線に気付いた。

 哀しそうな瞳をした千郎太は、おもよをじっと見つめている。

「ご、御免よ…こんな強がり言ってられんのも千郎太、あんたが側にいてくれるからだ。確かに、あたしはいくつもの危険を乗り越えて来たけど、それは全て千郎太が助けてくれていたからなんだよね」

 おもよは、大きく深呼吸して言った。

「よし…行くよ、千郎太!」

 二人は屋根伝いに米蔵へ移り、見張りが去るのを待って下へ飛び降りた。

 おもよが辺りを見回し、その間に千郎太が錠を開ける。

 あっと言う間に難無く錠を破った千郎太は、大きくて重い蔵の戸を押し開け、中に入った。

 米俵は今宵の取引でほとんど出され、蔵の中はがらんとしている。

 その中央に、縄で縛られ猿轡を噛まされたお冬の体が、無造作に投げ出されていた。

 千郎太は黙ってお冬の縄を解き、猿轡を外してやった。

「お、おじさん…誰なの?」

 泣きそうな声で訊くお冬に黙って微笑みかけた千郎太は、軽々とお冬の体を持ち上げた。

「やっ…いっ、いやっ!」

 声を上げようとしたお冬を制して、おもよは言った。

「静かにしな、お嬢さん。あたし達は、あんたを助けに来たのさ…亙さん達の、ちょいとした知り合いでね」

「わ、亙さんの?」

 お冬の頬が、ほんの少し赤く染まる。

 おもよ達は廉太郎から、お冬の前では敢えて亙の名を出すように、と言われていた。

 案の定、亙と聞いたお冬は気が落ち着いたのか、千郎太の肩に担がれたまま大人しくしている。

 肩を竦めたおもよは、外へ出ようと米蔵の戸を開けた…その時。

「貴様ら、何者だっ!」

 何と、見張りの浪人達が入口の前に立っているではないか。

 懐から短刀を取り出したおもよを止めた千郎太は静かにお冬を下ろし、おもよに押し付けると指の関節をばきばきと鳴らし始めた。

「な、何だ、この人間離れした図体のでけえ大男は…え、ええい構わん、殺っちまえっ!」

 七人の浪人達は、一斉に千郎太にかかって行った。

 千郎太は相手の刀をことごとくへし折り、浪人達の体を持ち上げては蔵の外へと投げ飛ばした。

 浪人達は首の骨を折られ、その場で息絶えてしまった。

「な、何が、起こっているの?」

 おもよに目と耳を塞がれているお冬が、不安そうに訊く。

「お嬢さんが、心配するような事じゃないさ…」

 おもよはそう答えて、再びお冬を肩に担いだ千郎太と共に米蔵を出ると、深い闇夜に消えて行った。



 同じく全身を黒で固めたお三音、風佑、飛朗は鬱蒼と生い茂る草場の陰から、取引の様子を窺っていた。

「おもよちゃん達、無事にお冬ちゃんを助けられたかなあ…」

 心配そうなお三音に、飛朗が言う。

「大丈夫だろ?千郎太さんがついてるんだ、問題はねえって!」

「しっ!お喋りは、後にしろ。相手方の舟が、御到着のようだ…」

 風佑に厳しい口調で言われ、お三音と飛朗は黙ってその方向を見た。

 いかつい顔をした浪人達の乗った舟が一艘、ゆっくりと近付いて来る。

 船が岸に着くと、節戸屋側の浪人と相手側の浪人は、互いの荷を改め始めた。

 そして、確認が済んだ浪人達が米俵と千両箱を運び換え始めたその時、一人の浪人が突然音も無く倒れた。

「お、おい、どうした?しっかりし…うっ!」

 騒ぎ始めた浪人達が一人、また一人と倒れて行く。

 やがてその場にいた浪人全てが倒れ、あっと言う間に辺りは死体の山と化してしまった。

「一丁上がり…だな」

 飛朗が、一息つく。

「風さんも飛さんも、あたしより多く殺ったでしょう?ったく、いっつもそうやって…言っときますけどね、年は二人より下だって忍びとしてはあたしの方が上なんですからね!」

 お三音が、口を尖らせながら吹き矢を懐にしまう。

 そう、あの浪人達はお三音達が放った吹き矢の毒で、呆気無く倒れたのであった。

 飛朗は、必死に笑いを堪えている。

 風佑は、機嫌の悪いお三音を宥めて言った。

「とにかく、お冬ちゃんがどうなったのか様子を見に行こう」



「節戸屋…お主も、悪よのう」

「いえいえ、お代官様には敵いませぬ…」

 代官金山主膳の屋敷では、金山と節戸屋の主人伝兵衛でんべえが呑気に二人きりで酒を酌み交わしていた。

「他国へ横流しした米俵は、千両箱に姿を変えて儂等の許へ戻って来る手筈になっておる。その金は、儂とお前とで使い放題。前回は算段が甘かったせいで失敗したが、今回はその教訓を経て綿密に計画を立てて行った故、まず万に一つも手違いはあるまい」

 金山はそう言ったが、節戸屋は眉を顰めて囁いた。

「しかしお代官様、まだ解決しておらぬ点が御座いまして…」

 顔を上げた金山に、伝兵衛は言った。

「他の、米屋達の事で御座いますよ。米を取り上げるだけ取り上げておいて、何の音沙汰もないものですから、今日明日にでもうちへ乗り込んで来るらしいと言う噂が。それにあの憎き俵屋、私の提案に意地でも首を縦に振りませんでしたよ。あんな店をのさばらせておいては、今後どんな邪魔をされるか…」

「おい、節戸屋っ!お前は此処まで来て、折角の大金をどぶに捨てると申す気かっ!」

 焦る金山に、伝兵衛は微笑んで言った。

「まあ落ち着いて下さいませ、お代官様。乗り込んで来た米屋連中や俵屋を、迅速かつ確実に消す方法はきちんと考えてあるのですよ」

 伝兵衛は、金山に耳打ちした。

「まず俵屋の娘を勾引かし、既に米蔵に閉じ込めてあります。どう料理するかは、こちら次第…調べました所、陰の殺し屋で蒼い死神と言うのが居るそうで、狙った獲物は決して逃さないとか。しかも、依頼人の秘密は絶対に守ると言う、中々口の固い連中のようです」

 金山は、頷きながら言う。

「な、成程…そのような連中が居るのなら、わざわざ我々が手を汚す事もあるまい。金はたんまり入るのだ、その蒼い死神とやらに好きなだけ払ってやるが良かろう」

 だが、伝兵衛は今一つ煮え切らない様子で言った。

「しかし、蒼い死神と言うのは謎の連中でして、どのような輩で普段は何処で何をしているかも全く分かりませぬ故、どう繋ぎをつければ良いのか見当もつかない次第でありまして……」

「せっ、節戸屋っ!この期に及んで、何をたわけた事を…では、一体どうすると言うのだっ!」

 と、金山が声を荒げたその時。

「こうしたら、どうだ?」

 何処からか、謎の声。

「蒼い死神ってのは正式な依頼が無くとも、良民を苦しめる阿漕あこぎな連中の許に現れるって言うぜ?」

 薄暗い障子戸の向こうに、男の影が見える。

「だっ、誰だっ!」

 立ち上がった伝兵衛が障子を開けるが、人の姿は何処にもない。

「お前達は、蒼い死神が現れるに十分な悪事を働いてくれたようだな…」

 また、別の声がする。

「こ、こっちか!」

 伝兵衛が隣の襖を開けるが、やはり誰もいない。

「てめえらなんぞに捜してもらわなくとも、蒼い死神自ら出向いてやろうじゃねえかって言ってんだよ!」

 と更に別の声が聞こえ、突然部屋の灯りがすっと消えた。

「なっ、何奴なにやつっ…」

 金山も、焦って立ち上がる。

「随分と、手入れの行き届いた庭だな。こんなに緑が綺麗だと言うのに、大変残念だが…この庭も、今宵で用済みだ」

「何だとっ?」

 金山が、急いで庭に面した障子戸を開ける。

 すると其処には、蒼い月の光に照らされた五人の男が立っていた。

「きっ、貴様ら、一体…」

 森山が、目を丸くする。

 欣司は刀を抜き、にやっと笑って言った。

「今度から悪事を働く時は、月の具合に気を付けるんだな。蒼い月夜の晩には、死神が現れる…空っぽの頭に、今すぐ叩き込んでおけ」

「つーかさ、今度から気を付けろとか、今すぐ叩き込めとか言ったって、この人達今日この場で俺達に斬り殺されちゃうんだから、意味ないじゃん」

 朔也が、呑気に突っ込みを入れる。

「そ、そう言う問題か…」

 頼乃輔は、思わず頭を抱えた。

「お、お代官様っ!恐らく、こいつらですっ!こいつらが、蒼い死神ですよっ!そうに、違いありませんっ!」

 伝兵衛が、血相を変えて金山に飛びつく。

「だから、さっきからそう言ってんじゃん…」

 更に突っ込む、朔也。

「いや、はっきりそうですと言い切った訳ではないぞ」

 廉太郎までもが、呑気な事を言っている。

 溜息をついた嗣之進は、刀の切っ先を金山と伝兵衛に向けて言った。

「代官金山主膳、並びに節戸屋伝兵衛!貴様らの命、この蒼い死神が今宵この場で貰い受ける!覚悟は、出来ているのだろうな!」

「くそっ…」

 金山は拳を握り締めると、屋敷内中に響き渡る声で叫んだ。

「えぇーいっ、曲者だーっっっ!出会え、出会えーっっっ!」

 奥の廊下から、屋敷の侍達が刀を構えてぞろぞろと出て来る。

「来たな…何人だ?」

 頼乃輔が訊く。

 廉太郎は、数えながら言った。

「二十八、二十九、三十…三十、だな」

「何、三十?って事はあ、えーと…」

 朔也が指を一本ずつ折り曲げようとするのを止めて、嗣之進は言った。

「八重樫、てめえは勘定するんじゃねえ。一人当たり、六人だ」

「六人だな?よし…てめえら、獲物の横取りだけはするんじゃねえぞ」

 欣司の目は、既に血走って来ている。

「欣司も、拍車が掛かって来たようだな…それでは、殺るか?」

 廉太郎が訊くと、皆は同時に頷いた。

 金山は叫ぶ。

「斬れーいっっっ!斬り捨てーいっっっ!」

 侍達は、一斉に斬り掛かって来た。

 五人の刃が、次から次へと侍達を倒して行く。

 侍達も粘り強く応戦するが、五人の剣には到底敵わなかった。

「ふん、味気ねえ…」

 早々に六人を片付けてしまった欣司は、庭から土足で部屋へ踏み込み、屋敷の奥へ逃げようとする金山と伝兵衛を、じりじりと追い詰めていた。

「あれ…欣ちゃん、もう六人斬っちゃったのか。早いなあ」

 斬り合い中だと言うのに、朔也は部屋の中へ入って行った欣司の方を見つめている。

「貴様っ、余所見をしていると痛い目を見るぞっ!」

 突然相手の侍が朔也の隙をつき、深く斬り込んで来た。

 しかし朔也はにやりと微笑み、侍の刃をするりと躱して言った。

「あんた、その台詞誰に向かって言ってんの?」

「なっ、何をっ…ぐはっ!」

 侍の口から、血が噴き出す。

 朔也の剣は、瞬時に侍の心の蔵を深く突き刺していた。

「俺、一番下っ端だけど、これでも一応殺し屋やってんだよねえ…」

 朔也は剣を引き抜くと、血を拭き取って言った。

「六人、終わったけど…誰か手伝って欲しい人、いる?」

「おめえこそその台詞、誰に向かって言ってやがるんでえ!」

 嗣之進は、最後の一人を叩き斬って言った。

「これでも一応、おめえよりは一年多く殺し屋やってんだ。その俺に向かって、手伝いがいるかだと?」

「へいへい、分かりましたよ。私が悪う御座いましたあ、どうぞお許し下さいませえ」

「何でえ、その気のねえ謝り方は!」

 小指で耳の穴をほじりながら謝る朔也に、嗣之進が思わずかっとなる。

 刀をしまった頼乃輔は、嗣之進と朔也に言った。

「おい、二人とも。今は、そのような事を論議している場合ではなかろう」

 廉太郎も、頷いて言う。

「そうだぞ。殺るもん殺ったら、大人しくしていろ。さもないと…」

「煩えぞっ、静かにしろっ!」

 突然の怒鳴り声。

 金山と伝兵衛に刃を向けた欣司が、こちらを物凄い形相で睨んでいる。

 その姿は月の光で仄かに蒼白く染まり、まさに死神そのものであった。

「おお、怖っ…」

 身震いする朔也を見ながら、廉太郎は溜息をついて言った。

「ほーら見ろ、だから言わんこっちゃない。最後のとどめで邪魔されるのを、欣司がどれ程嫌っているか、分かり過ぎる程分かっているだろうに…」

「申し訳ありません…」

 嗣之進は、素直に謝った。

 欣司は、薄笑いを浮かべて言う。

「さてと…ようやく、静かになったな?」

 金山は、震える声で言った。

「まっ、待ってくれ、頼む!こっ、今宵はな、金が山程手に入る事になっておってな、も、もうすぐこの屋敷に届く筈なのだ!いっ、いくらか言えば、その分だけお前達にも分けてやる!だっ、だから…」

 欣司は、黙って眉間に皺を寄せている。

 伝兵衛は、唾をごくりと飲み込んで言った。

「お、女ではないでしょうか、お代官様!」

 金山は、頷いて言った。

「そ、そうか、金でなければ女か?わ、分かった、とびきり上等なのをすぐにでも探し出して来てやる!それなら、い、いいだろう?」

 欣司の全身は、殺気に満ち溢れていた。

 離れた庭からその様子を見つめている四人にまで、その気がひしひしと伝わって来る。

 欣司は、低い声で言った。

「いいか、良く聞け。俺は、金も女も興味が無い…」

「じゃ、じゃあ、何が欲しいのだ?何でも、い、言ってみな、さい…」

 金山が、恐る恐る訊く。

 欣司は血走った目を見開き、にやりと笑って言った。

「じゃあ、言ってやろうか。それはな…貴様らの命だ!」

 その瞬間、部屋の内部は血の海と化した。

 畳も襖も障子戸も、全てが赤一色に染まった。

 欣司は、二人の死体を見下ろして言った。

「こっちは、最初から死神だと名乗っているのだ。何を欲しがっているのかくらい、頭の切れる野郎だったら分かりそうなもんだが…この下衆野郎共には、難しい質問だったようだな」

「欣司、終わったのか?」

 頃合を見計らって、廉太郎が訊く。

 欣司は黙って頷き、刀をしまいながらゆっくりと庭へ下りて来た。

 風薫る新緑の庭に、鮮やかな血飛沫が舞っている。

「それにしても惜しいな、この庭…」

 改めて庭を見回しながら、頼乃輔が呟く。

 朔也も、頷いて言った。

「ほーんと。あの木なんかさあ、名前知らないけど美味しい実が生るんだよなあ。放浪中に食い物無かった時、良く採って食ってたもん」

「お前は、本当に何でも食うんだなあ…」

 廉太郎は、呆れている。

 嗣之進は、皆を急かして言った。

「取り敢えず、急いで帰りましょう。皆の様子や、お冬の事も気になりますし…」

「そうだな…それでは、帰るとするか」

 頼乃輔の言う事に皆も頷き、五人は蒼い月の下を道場へ向かって急いだ。



「良かった、五人とも御無事で…」

 道場で五人を出迎えたのは、お三音だった。

 隅に強いてある布団にはお冬が寝ており、その脇に風佑、飛朗、おもよ、千郎太が座っている。

 刀を腰から抜いた廉太郎は床に座り、お冬の顔を覗き込んだ。

「皆も、無事で何よりだが…お冬は、眠っているのか?」

「そりゃあもう、ぐっすりと」

 飛朗はそう答えて、肩を竦めた。

 おもよは、微笑んで言う。

「疲れたんですよ、きっと。あんな所にずっと閉じ込められていたんだ、無理もないさ。あたし達が米蔵に入り込んだ時は警戒してたんですがね、世良の旦那が仰った通り、亙さんの名前出した途端に安心しちゃって…千郎太の肩に担がれて、揺られてる内に眠っちゃったんですよ」

「あれまあ…じゃあこの子、わた坊にホの字って奴なの?世良の旦那!」

 驚くお三音に、廉太郎は頷いて見せた。

 風佑は立ち上がると、皆に訊いた。

「取り敢えずどうします、旦那方?家の人も心配しているでしょうから、一刻も早くお冬ちゃんを返してやらなければ…」

 頼乃輔も、同意して言う。

「風佑の言う通りだ。連中の後始末は全て終わったのだから、お冬を返せば事は無事に解決する」

 其処で、朔也が伸びをしながら言った。

「まーだ残ってますぜえ、頼ちゃーん。米屋連中への言い訳と、役人連中への言い訳がねえ…」

 廉太郎も、思い出したようにぱかっと口を開ける。

 しかし、嗣之進は言った。

「米屋連中に関しては、問題無いでしょう。事が明るみに出て節戸屋の悪事が皆に知れ渡れば、米屋連中も納得せざるを得ねえ筈だ。ま、米俵が無事だったってだけでも、有り難えと思ってもらわなきゃあな」

「じゃあ、役人連中は?」

 朔也が訊く。

 誰も、答えようとはしない。

 朔也は、宙を見つめながら言う。

「向こうが勝手に首を突っ込んで来たんだとは言え、またもや知らない所で勝手に事が収まってたなんて知ったら、眞ちゃんうっさいだろうなあ…」

「いや、富田だけではないぞ。今回は、悪代官金山主膳と節戸屋の尻尾を掴もうと、靖さんや天さんまで躍起になっていたのだ。はあ、明日が怖い…」

「つーか、もう明け方だけどな」

 頭を抱える廉太郎に、朔也が突っ込みを入れる。

 頼乃輔は、苦笑いしながら言った。

「と、とにかく、今日はこれで解散としようではないか。お冬の事は…おもよと千郎太、手数を掛けるが俵屋まで運んで行ってやってくれんか」

 おもよと千郎太が、黙って頷く。

 廉太郎は、立ち上がって言った。

「今回は、本当にご苦労だった。こうして我が道場の門下生、俵屋お冬が無事に帰って来れたのも皆の働きのお陰だ。心から、感謝している。それでは…此処らで、解散とするか」

 こうして事の成り行きは、無事終焉を迎えたのであった。




 その日の朝、師範の廉太郎は亙を俵屋へ行かせた。

 政五郎が、奥から飛んで出て来る。

「せっ、先生っ!お冬は、無事戻って参りましたっ!ああ、何とお礼を申し上げたら良いかっ…」

「い、いえ…それで、お冬ちゃんの様子は?」

「帰って来てすぐは大分泣きじゃくっておりましたが、今は泣き疲れたのか眠っております。ささ、どうぞ!」

 中へ通された亙は、お冬の寝顔を見て言った。

「お冬ちゃんは、あの過酷な状況の中で良く頑張ったと、先生方も褒めておいででした」

 其処へ、お鶴が茶を持って入って来る。

「先生、本当に有り難う御座いました。後程、道場の方にも御礼に伺いますので」

 亙は、茶を一口飲んで言った。

「先生方は、門下生の一大事に自分達が駆けつけるのは当然の事、礼等とお気を使わぬようにと…」

 すると、今度は政吉とお園が部屋へ入って来た。

「先生!この度は、私共の大切な孫娘をお助け下さり、誠に有り難う御座いました!」

「この御恩、俵屋一同生涯忘れは致しませぬ!」

 そして、何と四人全員が亙に向かって土下座をし始めたのである。

 亙がどうしたものかと困っていると、助け舟が現れた。

「失礼致します、お客様がお待ちで御座いますが…」

「ねえねえ、裏口に八百杉さんが御用聞きに来てるよ」

 番頭の卯之吉と、次女のお妙だった。

「それでは先生、どうぞごゆっくりなさって下さい!」

 そう言って政吉と政五郎は店の方へ、お園とお鶴は裏口の方へと行ってしまった。

 亙が胸を撫で下ろすと、卯之吉は笑って言った。

「長谷先生、大分お困りのようで御座いましたね」

 苦笑いする亙に、お妙が言う。

「でも私達、亙様には本当に感謝しているのですよ」

「ええ、その気持ちは十分に…あ、そろそろ行かなくては。皆さんに、宜しくお伝え下さい。お冬ちゃんも、落ち着いたらまた練習に来るようにと」

「ええ、必ず申し伝えます」

 頷いた卯之吉は、店先の客をかき分けながら亙を見送った。



 朝練習が終わり、昼餉の支度に取り掛かっていると、客が二人現れた。

 手伝っていた鞍悟が手を拭きながら戸口を開けると、其処には眞太郎と全吉が立っていた。

「これは、富田様に全吉さん…さあ、どうぞ」

 鞍悟が、二人を中へ通す。

 奥の部屋には、廉太郎と亙が座っていた。

 眞太郎は、拳を震わせて言う。

「世良…これは一体、どう言う事なのだ!」

 眞太郎が投げて寄越した瓦版を、廉太郎は拾って読んだ。

 内容は代官金山主膳と節戸屋伝兵衛の死から始まり、両名のありとあらゆる悪事の数々が克明に記されていた。

「これが…どうかしたのか?」

 しらばっくれる廉太郎に、眞太郎は言う。

「お前達の仕業だろうと、訊いているのだ!全く、今回は我々役人まで骨を折ったと言うのに、またもやお前達にしてやられるとは…ああ、情けない!」

「ま、解決出来たんだから良かったじゃねえか、眞さん」

 そう言って台所から出て来たのは、嗣之進だ。

「なっ、これは、嗣之進殿っ…」

 改まる眞太郎に、嗣之進は呆れながら言う。

「だからその、嗣之進殿ってのやめろって…眞さんは、餓鬼の頃からこうだ。年も同じで育った長屋も同じ、おまけに五年前までは、一緒に同心と言う仕事にも就いていたんだ。こっちは、気楽に付き合いてえのによ」

「し、しかし、お父上は我々の上役である、筆頭与力の宰良左衛門殿。その御子息に対し、気楽にと言うのは…」

「な、これだよ。眞さんは昔っから、お難くていけねえや。もう少し物事を柔らかく考える事が出来たら、大分付き合い易くなるんだがな…」

 そう言う嗣之進に対し、眞太郎は頭を下げる。

「は、恐れ入ります…」

 其処で、ずっと黙って聞いていた全吉が、口を開いた。

「それより富田の旦那、話が大分本題から逸れちまってますがねえ…」

 はっとした眞太郎は、廉太郎に言った。

「と、とにかくだな、世良!」

「出来たぞ」

 話の腰を折るかのように、頼乃輔が台所から出て来る。

「おお、富田に全吉。丁度良かった、蕎麦が茹で上がったのだが…どうだ、一緒に食べて行かぬか?」

「えっ!いいんですか、見須奈さん?それじゃあ、お言葉に甘えて…」

 そう言って座ろうとした全吉の頭を、眞太郎はぽかりと殴った。

「痛っ!なっ、何するんですか、富田の旦那っ!」

「お役目中だろうが、莫迦野郎!ったく…行くぞ!」

 帰ろうとする眞太郎に、廉太郎は先程の瓦版をちらつかせて言う。

「富田…これ、いいのか?」

 振り返った眞太郎は、咳払いを一つして言った。

「恐らく、代官金山主膳と節戸屋伝兵衛が悪事を企む上で、何らかの食い違いが生じ、互いに刺し違えたのであろう…行くぞ、全吉!」

「へ、へいっ!それじゃあ、その、だ、旦那方…」

 全吉は、指を銜えて蕎麦を見つめている。

「嘆くな、全吉。また今度、誘ってやるから」

 頼乃輔がそう言うと、全吉は笑顔で頷き眞太郎の後を追って行った。



 皆が昼餉の支度をしている頃、欣司は早瀬川沿いの河原で昼寝をしていた。

 空は晴れ渡り、青々と生い茂る草木の薫りが風に乗って運ばれて来る。

「よお、欣…欣じゃねえか」

 名を呼ばれて欣司が目を開けると、土手の方から靖臣と右門が下りて来るのが見えた。

「役人にしょっ引かれるような事は、しておらん…」

 そう呟く欣司を見下ろして、靖臣がにやりと微笑む。

「さあて、それはどうかな…金山と節戸屋の件は、元はと言やあ俺達役人が追っていたんだぜ?それを、横から割り込んで来て引っ掻き回して行ったのは、一体何処のどいつでえ」

 欣司は答える事無く、再び目を閉じた。

 右門は、溜息をついて言う。

「まあ、正直金山や節戸屋を取り締まる手間が省けたのには皆、胸を撫で下ろしているのだ。中々尻尾を出さぬ、悪代官と狸爺であったからな…今となってはお前達が首を突っ込んだ事等、取るに足らぬ事だ」

 黙ったままぴくりとも動かない欣司を見て、靖臣は肩を竦めた。

「そうさなあ…こいつらの命懸けの悪戯は、今に始まった事じゃねえやな」

 右門も、欣司を見て言う。

「これ以上、何を言っても無駄だ。大体、大神が相手ではまとまる話もまとまらんぞ、靖臣」

 靖臣は、ふっと笑って言った。

「まあ、そう言うこったな…それじゃあ行こうか、天さんよ」

 右門が頷き、二人は土手を上って行ってしまった。

 目を開けた欣司は、黙って何処までも続く青い空を見つめた。



 その頃の朔也はと言うと、朝から銀介に追い回されていた。

「朔っ、てめえっ!」

「堪忍してくれって、銀ちゃーんっ!」

 その様子を、ほのぼのとしながら勘兵衛が見守っている。

「俺達は、本腰入れて今回の件を調べてやったんだぞ!それを、てめえらだけで勝手に解決しやがって!」

 勘兵衛は、微笑んで言う。

「そう怒るな、銀介。お冬とやらも無事に帰って来たのだし、米屋の米俵も手元に戻って来た。悪代官金山主膳と節戸屋伝兵衛も息絶えたと言うのだから、万々歳ではないか」

 逃げ回りながら朔也も、うんうんと頷く。

「そ、そうだぞ、銀!めでたしめでたし、って奴よ!いやあ勘ちゃん、いい事言うねえ!」

「う、うるせえ!てめえは黙ってろ、朔っ!」

 銀介は、朔也を追い回しながら言った。

「曾野津田の旦那っ!あんたは、そうやってへらへら笑ってりゃあ気が済むかもしれねえが、こちとらこの莫迦の頭を一発殴らにゃあ、腹の虫が収まんねえんでいっ!」

「なっ、何でだよーっ!」

 情け無い声を上げる、朔也。

 勘兵衛は、溜息をついて言った。

「仕方あるまい…のう、八重樫殿。可愛い銀介の為に、一発殴られてやってはくれんか?」

「だーかーらぁ、何でだよってのぉーっっっ!」

 飛沫町の空に、朔也の声がこだました。



 その日の夜、道場の七人は壽美屋に集まっていた。

 いつも通り師範の五人とお壽美、お三音、風佑、飛朗、そして仕事を終えて帰って来た鬼一は座敷へ、師範代の二人とお由奈、お璃乃は店の表の席で楽しんでいる。

「まさか、鬼一が役人から依頼を受けていたとはな…」

「へえ、あっしも全くもって驚きましたよ。旦那方まで、この件に関わっていらっしゃったなんて…」

 廉太郎の質問に恐縮しながら答えた鬼一は、お壽美に注いでもらった酒を一気に飲み干した。

 実は鬼一は靖臣達役人に依頼され、金山主膳の屋敷に探りを入れていたのだった。

 同時に節戸屋の内情も調べ、昨晩の米の取引現場にも居合わせていたと言う。

「突然、取引をしていた浪人共がばたばたと倒れて行きましたんでね、すぐにお三音達だと分かりましたよ」

 お三音は、鬼一に酒を注ぎながら言った。

「なーんだ、親分ってばお人が悪いですよ。あの場にいたんなら、手伝ってくれりゃあ良かったのに」

 鬼一は、酒を飲みながら言う。

「そうは、行かねえよ。あくまでもあっしは、お役人様に御依頼を受けて動いている身なんだ。お前達と協力したり、旦那方の側に一瞬でもついたりする訳には行かねえんでい」

「信用を商売にしてやってるからねえ、うちの人は…いくら仲間と出くわしたとは言え、やたらと手助け出来ないのが辛い所なのさ」

 お壽美の話を聞きながら、風佑は次の銚子を用意して言った。

「そう言えば、相手の取引先も一連の悪事に加担したとして、お縄になったそうですよ」

「ま、遠く他国まで蔓延った悪の芽を一気に摘み取る事が出来たんですから、結果としては良かったんじゃねえですかい?」

 飛朗もそう言って、料理の入った小鉢を並べた。

 嗣之進も、頷いて言う。

「しかし寄合で反対された腹いせに、其処の娘を勾引かすとは…とんでもねえ野郎だったな、節戸屋も」

「全くだぜ!おまけに、俺と廉ちゃんは米屋連中の騒動にまで巻き込まれて、散々だったからなあ」

 朔也の話を聞いて、廉太郎も思い出しながら言う。

「あれは、本当に参ったよ。とにかく、何としてでも米屋連中を食い止めねばと思ってな」

 頼乃輔は、笑って言った。

「朔也は、銀にもぼこぼこにされたそうではないか。流石の朔也も、銀の前では形無しと言う訳だな」

「そ、そりゃないぜえ、頼ちゃーん…」

 情け無い声を出す朔也に、欣司が追い打ちを掛ける。

「これでも一応殺し屋なんだと、偉そうな事をほざいていたじゃねえか…いざとなったらてめえと銀介、入れ替えたっていいんだ」

「きっ、欣ちゃんまで、そう言う事言う?ねえ、言っちゃう?」

 本気で焦る朔也を見て、皆は一斉に笑ったのであった。

 庭の若葉は、爽やかな風に揺れている。


― 完 ―


二〇〇三・六・一(日)

by M・H


前話(其の一)


#創作大賞2024
#ミステリー小説部門


この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

同じ地球を旅する仲間として、いつか何処かの町の酒場でお会い出来る日を楽しみにしております!1杯奢らせて頂きますので、心行くまで地球での旅物語を語り合いましょう!共に、それぞれの最高の冒険譚が完成する日を夢見て!