古事記百景 その三十六
豊玉毘売命
於是。
海神之女。
豊玉毘売命。
自参出白之。
妾已妊身。
今臨産時。
此念。
天神之御子。
不可生海原。
故参出到也。
爾即於其海邊波限。
以鵜羽為葺草。
造産殿。
於是其産殿未葺合。
不忍御腹之急故。
入坐産殿。
爾将方産之時。
白其日子言。
凡佗国人者。
臨産時。
以本国之形産生。
故妾今以本身。
為産。
願勿見妾。
於是思奇其言。
竊伺其方産者。
化八尋和邇而。
匍匐委蛇。
即見驚畏而。
遁退。
爾豊玉毘売命。
知其伺見之事。
以為心恥。
乃生置其御子而。
白妾恒通海道。
欲往來然。
伺見吾形是甚怍之。
即塞海坂而。
返入。
是以名其所産之御子。
謂天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命。…訓波限云那芸佐訓葺草云加夜…
然後者。
雖恨其伺情。
不忍戀心。
因治養其御子之緣。
附其弟玉依毘売而。
獻歌之。
其歌曰。
阿加陀麻波
袁佐閇比迦禮杼
斯良多麻能
岐美何余曽比斯
多布斗久阿理祁理
爾其比古遲。…三字以音…
答歌曰。
意岐都登理
加毛度久斯麻邇
和賀韋泥斯
伊毛波和須禮士
余能許登碁登邇
故日子穂穂手見命者。
坐高千穂宮。
五百八十歳。
御陵者。
即在其高千穂山之西也。
是天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命。
娶其姨玉依毘売命。
生御子名。
五瀬命。
次稲氷命。
次御毛沼命。
次若御毛沼命。
亦名豊御毛沼命。
亦名神倭伊波禮毘古命。…四柱…
故御毛沼命者。
跳波穂。
渡坐于常世国。
稲氷命者。
為妣国而。
入坐海原也。
ある日、海神の娘・豊玉毘売命は、自ら火袁理命の元へおいでになり、こう申し上げました。
『わたくしはあなたの子を身籠っているのですが、まもなく産まれる時を迎えようとしています。ですが、天つ神の御子は海原で産むべきではないと思いこちらに伺いました』
そしてすぐに海辺の波打ち際に鵜の羽を屋根にして産屋をお造りになりました。
しかし、産屋を葺き合えずに子が産まれそうになり、堪えきれずに産屋へお入りになりました。
まさに産まれようとしている時、豊玉毘売命は火袁理命に申し上げました。
『およそ他国の者が子を産もうとする時、本来の姿形になり産みます。わたくしも本来の姿形となり産もうと思いますが、お願いですから、わたくしの姿を見ないでください』
ところがその言葉を奇異に思った火袁理命は、産まれようとする様を秘かに覗くと、豊玉毘売命は八尋の和邇となり、蛇の如く這い回っているのを見て、火袁理命は驚き畏れて逃げてしまいました。
豊玉毘売命は火袁理命が覗き見していたのを知ると我が身を恥ずかしく思い、その御子を産み終えると、
『わたくしはいつも海道を通って通おうと思っていましたが、わたくしの本来の姿を見られたことはとても恥ずかしいことです』
と仰り、海坂を塞ぎ海に戻ってしまわれました。
お生まれになった御子の名を天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命と申します。
しかし、豊玉毘売命は覗かれたことを恨みに思いつつも、恋しい思いに耐えきれず、御子を養育する者として妹の玉依毘売を遣わし、歌を献上しました。
阿加陀麻波
袁佐閇比迦禮杼
斯良多麻能
岐美何余曽比斯
多布斗久阿理祁理
火袁理命はこの歌にお答えになります。
意岐都登理
加毛度久斯麻邇
和賀韋泥斯
伊毛波和須禮士
余能許登碁登邇
さて、火袁理命、またの名を日子穂ゝ手見命は、高千穂の宮に五百八十年いらっしゃいました。
その御陵は高千穂の山の西にございます。
天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命は、叔母の玉依毘売命を娶り、生まれた御子の名は五瀬命、次に稲冰命、次に御毛沼命、次に若御毛沼命、またの名を豊御毛沼命、またの名を神倭伊波礼毘古命と言い、四柱の兄弟です。
御毛沼命は浪の穂を踏んで常世の国にお渡りになり、稲冰命は母の国たる海原にお入りになりました。
上つ巻 終わり
※海坂とは海の世界と地上の世界の境界のことです。
※一つ目の歌の現代語訳
赤い球は、それを通した紐さえ光るけれど、白い玉のようなあなたのお姿
は、さらに貴くていらっしゃいます。
※二つ目の歌の現代語訳
水鳥の鴨が寄り付く島で、契りを結んだ妻のことを、世の終わりまでも、
私は忘れない。
「太安万侶です。豊玉毘売命が実は八尋もある和邇でしたとなれば、それは驚くでしょうよ。まあ、鶴の恩返し的な側面もあるようですので、致し方ないのかと。
それに火袁理命と豊玉毘売命は、お互いに歌を送りあってお互いの気持ちを確かめ合われたのに、復縁はされなかったようですね。それにしても、海神の大神のご一家は皆さん素晴らしい性格をしていらっしゃるのですね。
しかし、豊玉毘売命は養育係に妹の玉依毘売命を送り込まれたのに、我が子の妻になって四柱の神を生んでしまうなんて、複雑な家庭環境ですね。
四柱の神のうち、次男の稲冰命は母の国たる海原へ、三男の御毛沼命は常世の国へとそれぞれの道を進まれますが、以後、歴史の舞台には登場されることはありませんでした。どうされているのでしょうね。
何度か現れては、何もせずに消えていく神のお姿を、その時々に私たちも見て参りましたが、一体何の意味があるのか、今となっても皆目見当がつきません。
それにしても色々なエピソードが表でも裏でもございました。
多くのゲストの方にもお越しいただき、様々なお話しをしていただきましたね。
親しくさせていただいていたのに亡くなってしまって、とても悲しい思いをしたこともございました。
誰とは申しませんが、男として最低の振る舞いに憤りを感じたこともございました。
恋多き殿方の話もございました。
地獄の亡者の話もございました。
古事記の中でも最も有名なお話しであろう、天石戸屋の話や八俣遠呂知の話、稲羽の素菟の話、国造りから国譲りの話など、多種多様で内容の幅がありすぎると、編纂に携わった身でありながら、そのように思う次第でございます。
それにしても最後の最後にスーパースターが登場されるのですね。
神代の世界の最後に現れた神倭伊波礼毘古命は系図を辿っていくと高天原はもちろんのこと、山の神の系図にも海の神の系図にもその名が綴られています。
つまり、最高の権力を生まれながらに持っているということです。
そして、およそ別天神から神倭伊波礼毘古命までを書き綴ってきたのですが、神倭伊波礼毘古命こそが、後の世の初代・神武天皇になられる方です。
そしてようやく神代が終り、天皇の世となる訳です。そしてここで、古事記の上つ巻が終ります。
いかがでしたでしょうか、お楽しみいただけましたか?
長らくのご愛読、誠に有難うございました。
ですが、ここで終わるわけには参りません。中つ巻へと続き、初代天皇が登場します。どうぞお楽しみに」
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古事記百景 その三 古事記百景 その四
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