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意見を述べやすいことが、むしろ危うい
一応夏休みが始まったはずであるのに、なぜか夏休みにも授業をやって毎週課題を出してくるような、不思議な先生もいる。
うちの大学の一部の学科では、あまりの課題の多さに苦しんでいる1年生が、毎日大学に抗議メールを送っているらしい。
彼らの願いが何らかの形で教授たちに届くことを願ってやまない。
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世の中には意見を述べにくい物事がある。例えば政治。例えば環境問題。例えば領土問題。
Twitterで迂闊にほんのちょっと過激な意見を述べてみよう。
数RTされてみよう。あっという間に拡散される。
あっという間に引用RTされる。
「そんな見方は視野が狭すぎる」「1つの視点からしか物事を把握できていない」
中途半端な知識と経験で述べる意見は、多くの人の目にさらされれば
批判的な意見が山となって自分に返ってきたりする。
何気なく述べた意見から、知識の無さが露呈しまうことさえある。
むしろ自分の浅薄さをお披露目するようなことになってしまう。
だが逆に、意見を述べやすい物事はどうだろう。
意見が述べやすいというのは例えば、自分の経験に基づいて考えられるようなことである。
意見をまとめるにあたってほとんど追加の知識を必要とせず、自分の過去の経験に基づいて自分なりの意見を構築することができる、そういうようなことだ。
例えば教育。例えばいじめ。例えばモチベーションを上げる方法、のような精神論のような話。
意見を述べることは簡単かもしれない。知識というかそれ以上に経験がある状態からのスタートだから。
でも本当にその意見は正しいのだろうか?
自分の「経験」を基にして考えた、偏った見方なのではないだろうか?
自分の経験を基に作られた、勝手なイメージではないのだろうか?
最近教育学序説という授業で、教育と社会のあり方、社会全体で行われている営みである「教育」について学んだりした。
教育というのは、自分の過去の経験に基づいて意見を述べやすい学問だ。だからこそ経験に基づく勝手なイメージや、偏った見方が生まれやすい。
社会には教育について語る人が溢れているし、私もそのうちの1人であるが、この授業を通して考えさせられた。
私は「教育」というものに対して偏った見方をしていたのではないか、と。
「社会との関わりの中で『教育』を見る視点」というのが持てていたのだろうか、と。
教育問題は 自分の経験に基づいて語られがちだし、教育政策は 自分の身の回りのことだけをイメージして考えている人が多い。
この授業を通して担当の教授が言いたかったことの1つは、こういうことらしい。
意見を述べやすいという物事は、むしろ危ういのかもしれない。
意見を述べやすいという物事だって、そう簡単に経験に基づいて語って良いものではないかもしれない。
経験を意見の根拠にするためには、むしろより一層知識を持たなければいけないのかもしれない。
今日はいろいろなことを考えさせられたなぁ。