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街の品格と文化の行く末

『どの街に行っても同じような店があり、同じようなビル群があり、同じような服装をしている人たちが歩いている』

海外、特にアジアの都市を訪れるたびに"都市のロードサイド化"への危機感を抱くようになった。

経済が高度に発展していけば、効率よく稼ぐために人々は都市に集まりはじめる。訪れる人の幅が広がるので誰にでも受け入れられる最大公約数的なブランドが好まれるようになり、地価の上昇が平均化に拍車をかける。

無駄を削ぎ落とし、合理性と効率性を追い求めた先にあるのは、グローバル化という名の無個性な空間の乱立なのではないだろうか。

三島由紀夫もきっと、同じ危機感を抱いていたのだろうと思う。

「無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済大国が極東の一角に残るであろう」

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私は昔から『文化』という言葉に甘美な魅力を感じている。

文化はオリジナルなものであり、そこには豊かな多様性が存在している。

そして私は、文化の多様性を心から愛している。
なぜならば、成熟した文化は何よりも代替不可能な価値を持っているからだ。
(中略)
これはまさに石油や天然ガスといった天然資源が、いろんな奇跡によって長い時間をかけて生成されたことと近いように思う。
そしてそうした天然資源も採掘の限度があるように、文化も消費してしまえばいつか枯渇する。

私たちが遥か昔から『生きてきた』歴史を肯定するもの。

それが文化だと私は思っている。

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先日たまたま読んだWWDの記事に『パトリオット(愛国心)』という概念に出会ったのだけど、自らを肯定しながらも他者を否定しない愛国心は、文化を形作る大きな礎だと私は思う。

20年春夏のデザイナーによる「パトリオット」には対立構造なんて存在せず、インクルージョン(包摂・包括性)の延長線上にある、多様な人々を1つに結束させるキーワードだと思うのです。だからこそデザイナーの「愛国」は、「アメリカへの愛」でありながら、日本人の僕らを否定しない。
同じ「愛国」なのに何が違う? NYデザイナーとドナルド・トランプの「パトリオット」

(ちなみにこのテーマはWWDのメルマガに書かれていた話がとても面白かった)

そしてこの記事を読んで、もしかすると右傾化や愛国心の高まりは世界の均質化への反動なのかもしれないと思ったのだ。

先進国の都市に住んでいれば、世界中どこでも生活レベルはそう大きく変わらない。

誰もがスマホを持ち、インスタやFacebookを使い、コンビニやファストフードでお腹を満たし、ユニクロやZARAで服を買う。

ミレニアル世代は国や人種に関わらず近い価値観を持っていると言われるけれど、都市に生まれ都市で育った若者たちはどの国でも似たような生活を送っているのだから、さもありなんと思う。

それは確かに便利を極めたひとつの結果ではあるけれど、どこの国でも変わらないということはどこにも自分だけの居場所がないということでもある。

私自身、東京で暮らしながらうっすら感じる不安の根底には、根無し草のように足場なく漂うことへの抵抗感があるような気がしている。

自分とは何か、どこからきてどこへ向かうのか。

きっと私たちは無意識にその問いへの答えを探している。

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サンクトペテルブルクに来て初めに思ったのは、都市なのにとても息がしやすいということだった。

広々とした道や荘厳な建物が織りなす独特の雰囲気もさることながら、揺るがない確固たる文化があることで、そのしなやかな強さが一介の旅行者すらも包み込み、安心を与えているのだと気づいた。

街中にはもちろんグローバルチェーンのファストフードもたくさんあるし、ラグジュアリーブランドもファストファッションも、都市と呼ばれる街にあるものはすべて揃っている。

しかし、なぜか普段都市に暮らす中で感じる焦燥感が一切感じられない不思議な街なのだ。

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古い建物や街並みがそのまま残っているだけではなく、この街の人々は非効率を非効率のままに受け入れ、自分たちのペースで生きている。

そう思ったのは、観光地であるにも関わらずほとんど客引きにもあうことなく、地元民と同じように穏やかな日常を過ごしていることに気づいたときだった。

日本人はおろかアジア人すらほとんどいないこの街で、一目で外国人だとわかる私は現地の商売人からしたら格好のカモだろう。

路上の弾き語りや大道芸人、水上バスの案内人など観光地らしい職業の人たちもたくさんいるけれど、執拗に勧誘するような人は皆無で、こちらが心配になるほどゆったりとした空気が流れている。

資本主義と距離を置いていた歴史も影響しているのかもしれないが、都市の観光地らしいガツガツした姿勢は微塵もなく、誰もが来るもの拒まず去る者追わずのスタンスで暮らしている。

この姿勢がきっと、サンクトペテルブルクの街らしさを歪めることなく現在に到るまで連綿と受け継いできたのだろうと思う。

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訪れるまで知らなかったのだけど、サンクトペテルブルクは『ワールド・トラベル・アワード』で3年連続もっとも文化的な旅行先に選ばれ、ロシア国内では『文化の首都』と呼ばれる街なのだそうだ。

ロマノフ王朝時代に帝都として栄えた歴史的建造物があちこちにあるのはもちろんのこと、バレエの劇場や美術館など文化的な施設も多いが、この街の文化レベルを上げているのは『足るを知る』を体現していることにあるのかもしれない。

ちょうど最近読んだ『ほんもの』という本の中で、ブランドをほんものにするための戦略について、ミンコフスキー空間を用いながら説明していた。

ミンコフスキー空間とは物質の移動と時間経過の関連性においてすべての物質の未来の移動可能性は過去の位置に規定され、光の速度を超える範囲の外は物理的に実現不可能であるとする理論だ。

ブランドもミンコフスキー空間と同じく過去によって規定された範囲を定義し、そこから逸脱しないようにすることがブランドをほんものたらしめる、というのが本書の主張である。

不可能な夢をみてはいけない。できることをして、できないことをしてはいけない。
限界を知ることでのみ、現実的な選択の幅を広げることができるし、到達すべき場所を見つけることができる。
(「ほんもの」J. H. ギルモア、B. J. パインII)

これは企業に限ったことではなく、文化が形作られる上で避けては通れない原理原則だ。

自分たちの歩んできた歴史を知り、その延長線上に夢を見ることは、諦めや現状維持とは似て非なるものである。

自分を知るということは、『自分以外の何か』になろうとするのではなく『自分自身』になっていくということだ。

「人生は、自分らしさに回帰していく旅だ、と私は思う」

人が1人では生きられないように、私たちは生まれ落ちた瞬間からすでに連綿と続いてきた歴史によって形作られている。

何もかも捨てて別の人間になるなんてことはできないし、好むと好まざるとに関わらず生まれた瞬間に与えられたコンディション(条件)を背負って生きていかなければならない。

人も街も、いかにこの『コンディション』を自覚し受け入れているかが品格として表れてくるのではないかと思う。

隣の芝生は青く見えるし、新しいものは取り入れたくなる。

それが人間の性ではあるけれど、何者かになろうとして節操なくすべてを取り入れようとするのではなく、自分にあうものを知って自分らしいものだけを取捨選択して取り入れていくこと。

誰にも真似できない唯一無二の存在は、本当の意味で自己を肯定することから生まれる。

人も街も、その魅力を作るのは他者ではなく自分自身であり続けようとする意志なのかもしれない。

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