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記憶と恥ずかしさと自己欺瞞と 3

「一人称単数」という短編の意味がいまいちしっくりこなくて、ずっとモヤモヤしている。村上春樹さんの文章を解釈する力が私には足りないのだろうか。

(前略)ちょっとした寄り道のようなエピソードだ。もしそんなことが起こらなかったとしても、僕の人生は今ここにあるものとたぶんほとんど変わりなかっただろう。しかしそれらの記憶はあるとき、おそらくは遠く長い通路を抜けて、僕のもとを訪れる。そして僕の心を不思議なほどの強さで揺さぶることになる。

「謝肉祭(Carnaval)」より 183ページ


些細な出来事を思い出した時に、その出来事そのものや出来事の記憶がどの程度自分の人生に影響を及ぼしたかどうかなんて、感じ方が思い出すタイミングによっては大きく異なってくるような気がしている。
ある時は本当に大したことのないような過去の記憶なのに、ある時は本当に鮮烈に蘇ってきて自分の精神力の根本を揺さぶってくる。ただ風のように記憶が自分の中を吹き抜けていってくれれば良いものを、まるでそこに留まり続けるためにやってきたかのようにずっと心に残っていることがある。

私の人生にも、"寄り道のようなエピソード"というのは多くある。それは無理に思い出そうとするものではなくて、不意に否応なしに自分に襲いかかってくるのだ。良い記憶か悪い記憶かに関わらず、過去の記憶が鮮明に思い出されてしまうことが時には怖かったりもする。

願わくば過去に戻るのではなく、過去のあの卑しい記憶を消してしまいたい。あの記憶さえなければ幸せになれるかもしれないのに。

記憶に揺さぶられない人間になることはできないとは思うが、記憶に今の自分を乱されたくはない。恥ずかしいような過去が急に蘇ってきても、その恥ずかしさというかなんともいえない不甲斐なさを消してしまうくらいの心の強さが欲しいと思っている。そんな記憶の風をもろともにしない、1本の"芯"のある木のように。


🔁


「あなたのその親しいお友だちは、というかかつて親しかったお友だちは、今ではあなたのことをとても不愉快に思っているし、私も彼女と同じくらいあなたのことを不愉快に思っている。思い当たることはあるはずよ。(中略)
恥を知りなさい

「一人称単数」より  232ページ

色々とこのお話の解釈について調べてみたのだが、どうやらこの話は村上春樹さん自身の話らしい。村上さん自身がフェミニズム的な観点から自己を批判しているらしい。女性を軽視してしまったことに対して、自身の振る舞いを「私」は「私」であると.....批判しているらしい。

「らしい」という文言が続いたが、私もはっきりとした答えは出せていない。村上さん自身の「一人称単数」の話かどうかは置いておいて、「恥を知りなさい」というのはなかなか刺さる言葉だった。

なんというか知らず知らずのうちに人を傷つけていることなんて数え切れないほどあると思うのだ。どんなに相手を傷つけないように配慮をしたって、自分が見えない心の奥底で相手は傷ついているかもしれない。
私自身「誰のことも傷つけたことなんてない」と自信を持って言えるわけがないし、残念ながら何度も様々な人を傷つけてきた人間であると思う。一方で私自身も傷つけられてきたけどね。

ただ「誰かを傷つけてしまったかもしれない」というのを自分の中で理解・反省しているのといないのとでは大きな差があるよなぁとは思う。もう2度と同じことで誰かを傷つけたくないしね。
付き合いの長い友達と話をして、「本当はあの時私、あなたの心ない〇〇っていう言葉に傷ついてたんだよ」なんて過去の心情を吐露し合ったこともあった。
自分が誰かを傷つけてしまうような人間であることはもちろん恥ずかしいことの1つかもしれないが、それ以上に「自分が相手のことを傷つけたと分かっていたときに、いつでもすぐに謝罪の言葉を述べることができなかった」ことが恥ずかしいことだと思っている。

自分を守るために、人は時に人を否応なしに傷つける。


相手が傷ついているのかどうか配慮ができない人間であるのも恥ずかしいけれど、それはやっぱり学んでいくしかないと思うのだ。相手と向き合うという経験を積んで、自分も傷ついて、どうしたら相手を傷つけずに済むかを考えないといけないのだと思っている。

相手を傷つけたことに対して謝罪をするということは、「許されたい」という自分のエゴかもしれないし、やっぱり謝罪の言葉だけで許されるなんて絶対そんなことはないと思う。
「謝るくらいなら、一生そのことを抱えて生きろ」と私なら、私を傷つけた人間に対してそう言ってしまいそうである。

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