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絶望的な恋 2

最近また結婚報告をもらった。結婚相手にその人を選んだ理由を聞いてみたら、「愛というもの そのものに対する価値観が同じだった」なんてその子は言っていたけれど、その「価値観が同じ」であるという事実にどこでどう気づいたのかが気になるところである。
2人で愛について語り合うというような気恥ずかしいことでもしたのだろうか、これは半分冗談だけれど。


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最近書きたいことが溜まってきて困るしメモするのを忘れるのでモヤモヤしたまま頭に残ってしまう。ちょっと不甲斐ない。


1度書きたいと思ったことを忘れない努力をしなくては、と思いながら
今日は西加奈子さんの「さくら」の感想の続きを書いていく。


今回は前回とは全然違うシーンを取り上げたい。

ありのままの自分はあるのか無いのか見失っているのか論

あまりにも適当な名前(枠内)をつけてしまったが、これはずっと考え続けていたい難題の1つでもある。

いわゆる「そっくりさん」というようなモノマネ芸人というのは存在するわけだが、この本に出てくる兄(一:はじめ)は突然そっくりさんの気持ちを考え始める。

妹ミキは「みんなありのままの自分なんてない」と思っているし、私もこの意見に今の段階では賛成である。

いつだって100%ありのままの自分でいるなんて難しい、それ以上にありのままの自分がどういうものなのかさえ見失う時がある。

自分という人間のマイナスの側面が表に浮き出てしまった時、人はこれは自分じゃないはずだ、こんなはずではなかったのだと
こういう自分も「ありのままの自分」であることを認めようとしない。
それも「自分」であるのは間違いないはずなのに。

人は誰しも抱えたくないような自分を抱えてしまっているのだろうか。
ありのままを隠して別の姿で取り繕って、ありのままでない自分でいるのだろうか。
それともその「ありのままでない自分」も実は「ありのまま」であるのだろうか。
全て自分で抱えている「本当の自分」なのだろうか。



さく、さく、さく、さく。

ミキは兄に恐ろしいほど優しくて、恐ろしいほど大きな大きな愛を抱いている。
本の中でこの事実は徐々に明らかになっていく(というか、薫が徐々にその事実に気づいていく)のだけれど、そんな中で声が、見えない感情が、ひらがなの繰り返しで何度も何度も表現されているのだ。

きっとこの表現1つ1つの意味を考え出したら止まらないだろう。痛いほど主人公の気持ちがわかる、というような恋を私はまだしたことがないとは思うが。
映画ではここら辺の感情がどのように表現されているのか気になるところである。

普通に考えれば実の兄弟に対する恋心は間違っているのかもしれない。例え2人が結ばれたいと願っても、それを許してくれるような大人は周囲にいないかもしれない。

ミキ自身もきちんとそのことに気づいていくのが切ない。
ミキがその事実に気付いた時、その恋が間違っていると気づいた時、"音"を出すのをやめてしまったというのも切ない。薫がその事実に気づいたことはもっと切なかった。

薫に聞こえてくるミキの心の声の描写に注目して読んでほしい1冊であった。


「お兄ちゃん。」
兄ちゃんの部屋から聞こえてくるそれは、優しくて、みずみずしくて、そして、とても悲しかった。世界で一番優しい、優しさが過ぎて、悲しい。そんな声だった。
(321ページ)
ミキの恋は圧倒的で、かけねがなくて、恐ろしいくらい優しかった。世界から何もかも消えてしまって、でも、何かの奇跡が起こって、たったひとつ残る。そんな恋だった。
(323ページ)


1文1文をここまで記憶に残しておきたいと思える小説もなかなかないだろう。
忘れてしまうから、記憶に全ては残しておけないから、
価値がある、言葉が綺麗である....のかもしれないけれど、それでも
心にいつまでも残しておきたい1冊だった。


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