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いきなり彼岸花

いきなりステーキよりよっぽどいきなりだ、彼岸花。毎年この時期、その姿に「ほぉ」と立ち止まる。木も枝も葉も無く、地上40~50cmの高さに何の前ぶれもなく

いきなりである。

季節を象徴する花は多々あれど、
そのいきなりさは、度を外れている。

例えば桜。
桜は、徐々に膨らむ蕾に、心の準備というものをさせてくれるではないか。

彼岸花、あなたは一体どこから来たの?

どう見ても只者ではない。
色も形も一度見たら忘れられない、その姿。
どこぞの高貴な方の冠かと見紛うばかり。

いやいやそんな生易しいものではない。
仏教由来の名前のくせに、匂うような妖艶さ。
(匂い無いのに)
あなたにはどこかで逢ったことがあるような。

あっ、そうだ。花魁なのだ。
ふと目が合うとドキドキする、命短し、
あなたは花の花魁。

彼岸の頃に咲くから「彼岸花」
そういう名前。

あなたは、そのくるりくるりとした形のごとく、2つの世界を行ったり来たりする花に見えてならない。

くるりくるりと輪廻のように、繰り返す人の「業」(うーん、文字の形まで花の形に見えてくる、この不思議。)

どんな花も人の一生に喩えられるけれど、
あなたは幾つもの生を繰り返す人の業を表しているように思えてならない。

あ、ここでひとつお断り。
スピリチュアル苦手、無骨者の私がこんなお話してるのどうしてか、と。

それは、庭の彼岸花のせい。

ひょい、と毎年この時期に現れ、
あっ、と毎年ふいをつかれる、
父が遺した庭の彼岸花。
生前は気にとめなかった花が、
今年は格別に見えるのはどうしてかな、と。

人の一生を見送ると、
花の一生も違って見えるものなのでしょうか?

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