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想像できないほどの距離

深夜1時を過ぎたオフィス。気がつくとフロアには誰もいなくなっていた。
彼だけが神経質な音をたてながらデスクの上のキーボードをたたいていた。

ふと視線を上げると、窓ガラスのむこうのレインボーブリッジとお台場の観覧車がまるで忘れ去られたショウウインドウのおもちゃのように、ぼんやりと浮かんでいた。彼はその灯りに目の焦点を合わせることに集中してみた。でも随分と長い間パソコンの画面とにらめっこをしていたからか、なかなか焦点を合わせることが出来ない。ようやく焦点が合うと、一度だけ大きな溜め息を吐きながら背伸びをしてみた。誰もいないオフィスで、彼の口から漏れたかすかな声が思っていた以上に響く。

明日のプレゼンの為の企画書。急な案件で、昼過ぎに関係者とのブレストを行い、クリエイターに発注できたのが夕方過ぎ。そして企画書に着手できたのは夜の9時を過ぎた頃だった。そして今ようやくそれを完成させた。

肘掛に手をついて立ち上がり、珈琲をいれると、彼はゆっくりと喫煙ルームに向かった。いつの間にか彼はまたヘビースモーカーになりつつあった。体に悪いことはわかっている。いや、今のオレはわかっているから吸うのかもしれない。まるで自分に復讐しているようだ。メンソールのタバコに火をつけると彼は大きく吸い込み、窓ガラスに向かって煙を吐き出した。

窓の向こうには相変わらずレインボーブリッジが、まるでおもちゃのように見える。手を伸ばせばつかめそうなほど、それははかなく見えた。もしオレが巨大な怪獣なら、あの橋を一掴みにして東京湾に投げ込んでしまおう。彼は深夜にひとりで妄想している自分に気付き、可笑しくなり、片方の頬だけで笑った。かすかに笑ったその顔が窓ガラスに映っている。やっぱり少しは老けたな。1本目のタバコをもみ消すと、続けざまに2本目のタバコに火をつけた。

3年前の初夏、妻の口から妊娠していることを聞いた日に、彼はタバコを止めた。吸いたいとすら思わない日々が続いた。本当なら、もう永遠に吸わないつもりだった。

翌年の2月に娘が産まれた。そしてその年の夏に、彼は妻を亡くした。
たまたま娘を連れて実家に帰った妻は、その実家の目の前でひき逃げにあい、死んだ。まだ25歳だった。

妻の母親は怒りをどこへぶつければよいかわからず、やがてその怒りは彼へと向かった。もともと結婚には反対だった。結婚さえしなければ娘は死なずにすんだのに、と。そして彼の娘の養育権を彼から奪おうとした。

2ヶ月間、弁護士をいれた話し合いが続いた。地獄のように長く感じた2ヶ月だった。そして、親権は当然彼が勝ち取った。でも…彼は想像してしまった。娘を失い、ひとりきりになった妻の母親のこと。彼は、自分の娘を妻の母親に託した。そして逃げるように東京に戻ってきた。

彼は世界一最低の父親になった。

しばらくは何も出来なかった。ただ部屋で泣いていた。どうやって妻のところへ逝こうか真剣に考えた。そして浴びるように酒を飲んだ。睡眠薬をシャンパンで飲んだり、風呂場に張った水に顔をつけたり、ナイフで腕を切りつけたりした。それでも悲しいほどに彼は生きていた。ボロクソに壊れながら息をしていた。心臓は黙って血液を体に送りつづけた。
「オレは妻を幸せに出来なかったのに、何故生きているの・・・・?」
時計の無機質な音以外に、受け入れられるものがあの時の彼にはなかった。

そんな生活の中で、彼は部屋の隅に転がっていたちっぽけな“希望”を見つけるまで1ヶ月もかかった。いや、たった1ヶ月で、だ。そして思い出いっぱいの部屋を出て行った。

彼の指先で3本目のタバコが赤く燃えていた。そのタバコの火が、彼の思い出を消していくんだ、と彼はいつも思っていた。だからいつもその火を見ないようにしていた。レインボーブリッジの上を大きなトラックが3台続けて走っていき、やがてビルの影に消えていった。消えたところから今度はタクシーがお台場に向かって走っていく。そんな景色を彼はしばらく眺めていた。ふと時計を見上げると午前2時を過ぎていた。

通りへ出て車を拾い、誰もいない部屋に帰る。そしてシャワーを浴びると束の間の睡眠を貪り、やがて朝になると起きだしてまたシャワーを浴び、新聞を読み、同じように疲れきった顔をした人混みに紛れ込んでいく。それが彼の日常だ。

4日ぶりに顔を出した太陽に、彼は優しく笑って見せた。両方の頬で、しっかりと。そしてセブンイレブンでミネラルウォーターを買い、またオフィスに吸い込まれていく。それはまるで喫煙ルームに置かれた換気扇に吸い込まれていくタバコの煙みたいだ。

それでも朝は、彼に新しい一日を与えてくれる。それがきっと“希望”だ。
何かが終わる時、必ず何かが始まるんだ。

今の彼を支えている、ほんのわずかな「希望」。
彼がしがみついている、ほんのわずかな「希望」。



「ねえ、どれだけ離れていても、「距離」があるってことはお互いに存在しているってことなんだよ。」

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