見出し画像

わたしを支える背骨はなに?(「推し、燃ゆ」を読んで)

毎度、今更ながらになるのだが、
「推し、燃ゆ」を読んだ。
(以下、ストーリーに触れる部分があります)


いつもあんまり著者のバックボーンを頭に入れないまま読むので、文庫本あとがきの所で
「24歳になるのだが」
と書いていて、とても驚いた。
調べてみると、今作品で19歳、史上3番目の若さで芥川賞を受賞したとのことだった。

そうか、20歳前にもうこれを書いてしまうのか。彼女は文藝賞、三島由紀夫賞、そして芥川賞を受賞している。ものすごい才能だと思う。


本作品について思うことは後述するとして、
わたしは一番、この文庫本の後書きに心を揺さぶられた。まだ読んだことのない方は、ぜひ文庫本で読まれることをおすすめする。

本作を読んだ後に読むこの後書きは、ほんとうに胸に迫る。彼女の優しさが詰まっている。

あんまり年齢で区切ったり、いろいろと判断するのは良くないのだと思うけど、でもやはり
若さを持って書けるこの後書きで、救われる学生は沢山いるだろうと思う。

少しだけ引用させていただくと

「手に取ったあなたに伝えたいのは、その学校には、頼れる大人も頼れない大人もいるということだ。頼れる大人は一軒厳しく、寡黙で、とっつきにくく見える。頼れない大人は自分を持ち上げてくれる生徒にだけ調子のいいことを言い、そうでない生徒を、言葉を持たない未成年であるのをいいことに傷つける。口を閉じている存在を軽んじる先輩や大人にはどうか背を向けて、心の柔らかい部分をまもって生きてもらえたらと願っている」
(宇佐見りん「推し、燃ゆ」157ページより、河出文庫)




この作品の主人公はとても不器用だ。
例えば掃除ができない、勉強もできない。
みんなが出来ていることができない。不器用で、拒食症のような症状も出てしまう。

そんな主人公が「推し」を推すことによって、なんとか生きているさなかで、推しが引退してしまう…というストーリー。


彼女は「推し」が背骨のような存在、という。
何を信じていいのか、何に裏切られるのかわからないこの社会においての、自分を支える背骨。

わたしの背骨はなんだろう。

わたしは、今まで「推し」というものを明確に作ったことはなかったと思う。
みんなが旧ジャニーズだったり、俳優、女優を推していたりしていた中高生時代も、そこまで熱狂できなかった。

好きな俳優とか、漫才師とかはいたけど、でも「推す」まででは全然なかった。
「推し」ってもっと神聖なものというか、これで「推し」って言うと怒られそうでちょっとひやっとする。
私が学生時代に「推す」という言葉はなかったし。


自分を支えるものという意味で今作品の「背骨」を解釈すると、

今までのわたしの背骨はやっぱり、本とか漫画とか。旧ツイッター(X)とかこのnoteとか。読んだり書いたりするのがすき。結局、私を支えているものは文、文字なのだと思う。


わたしの背骨は文章や文字。こうやって言葉にすると、ちょっとどきっとする。

こういうとき、背骨は「夫」とかって書く人もいるのかな…とちょっと想像した。でも、私の場合そういうことにはならない。

わたしみたいなのがここを「夫」とかにしてしまうと、なんかガラガラとふとしたきっかけですぐに崩れてしまう危うさがある気がする。

うーん、なんでだろう。夫とか親友とかを背骨にしてしまうのは、わたしを支えるにはあやうい。重いというか、ぼきっと背骨が折れたら困るので笑、ずーっと背骨にはできない。大事だからとも言えるかもしれない。

やっぱりわたしは文章が好き。
まだ今年が始まって3日。沢山読んで、沢山書いていきたいなと改めて思ったのでした。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?