例でわかるかんたんな構造主義

例でわかるかんたんな構造主義

・分からないものはたくさん例示する

 現代鉄思想は構造主義とポスト構造主義からなります。

 現代哲学も哲学への構造主義とポスト構造主義の導入からなります。

 ポスト構造主義は簡単です。

 ソクラテスと一緒で無知の知です。

 「知らざるを知ることが知のはじめ」ということがありますが、

 ポスト構造主義は端的にいうとこの「無知の知」の自覚とルール化です。

 そういう見方をすれば哲学は一周回ってソクラテスの最初にかえってきただけと言えます。

 ポスト構造主義は簡単なのですがもう一つの構造主義は難しいです。

・構造主義は難しい

 構造主義は簡単だという人がいるがいるかもしれませんが、一定数は構造主義を難しいと思う人がいると思います。

 私もそうです。

 私のライフワークとミッションは現代哲学を世の中に広めることなのですが、ポスト構造主義の説明は簡単なのに、構造主義の説明は難しいです。

 ポスト構造主義を簡単に理解できる人はおいておいて構造主義について例を示しながら説明しようと思います。

 哲学史家のドゥルーズは色々な哲学者を現代哲学の観点から分析しています。

 過去の哲学者にも現代哲学の萌芽があるからです。

色々な例を構造主義について理解のきっかけになる事を期待してあげていきます。

・家・建築物の例え、アリストテレス的な見方

 構造としては家や建築物を考えてみましょう。

 家や建築物はいろいろな材料からつくられます。

 家は色々なものから作られますが、1つのものが変質して別のものになる場合もあるかもしれません。

 アリストテレスは現実世界のそのようなあり方を質料形相論という仮説で説明しました。

 家や建築物を建てるには部材としての木材や鉄骨が必要かもしれません。

 木材や鉄骨は実在であるかもしれないしないかもしれませんがここではおいておきます。

 木材や鉄骨などの部材を使って家や建築物と言った新たなものと作り上げます。

 これはもともとなかったものでこれが実在であれそうでない場合であれ新たな実在のようなものを作っているのは確かです。

 家や建築物は部材を使って組み立てることで、構造物として完成します。

 実体と思われるものの在り方をよくみると部材の組み合わせという構造体とみることができます。

 これは当たり前のことと感じられるかもしれません。

 ではもう少しややこしい例を出します。

・赤ちゃんの母親認識

 この例えはフロイトの弟子、クライン派という精神分析の流派の創始者、メラニークラインの赤ちゃんの実在の認識論です。

 新生児は目が見えません。

 ですから母親を視覚でとらえることは出来ません。

 そもそも「母親」という概念だか観念を持っているかも不明です。

 多分大人の我々が持っているような意味では持っていません。

 赤ちゃんはお腹が空いたら泣きます。

 泣くと母親がおっぱいをくれます。

 赤ちゃんは母親は認識しなくてもおっぱいは認識するようになるかもしれません。

 あるいはおむつが気持ち悪ければやはり泣きます。

 するとおむつを取り替えてくれます。

 おむつを替えてくれるということは何となく認識します。

 また眠かったり何か不快感があると泣きます。

 すると抱いてあやしてくれます。

 抱いてあやしてもらうと言うことを認識します。

 温かく柔らかい毛布で包んでくれたり、揺さぶってもらったり、子守唄を聞くかもしれません。

 すると毛布を認識したり、揺れると言うことを認識したり、子守唄という音を認識するのかもしれません。

 赤ちゃんはそれを別々のものととらえます。

 もしそれらをするのが母親だったとしても母親という一つの存在がそういう別々なことをするとは思いません。

 しかし赤ちゃんが成長すると目も見えるようになるし、おっぱいをくれておむつを替えて、毛布で包んでゆらして子守唄をうたうものを1つのものとして認識するようになるかもしれません。

 ここで赤ちゃんには母親の認識が生まれます。

 母という実在をみとめて、おっぱいもおむつを替えることもその他もそれらが母親の一部であったり機能の1つであることを認識します。

 これによって赤ちゃんに生まれるのは実際には実在の感覚であり、実際に実在しているかどうかの事実ではありません。

 しかしこの「実在感」というのが赤ちゃんに限らず子供の成長には必要です。

 逆にこれができないと、遅れた子、神経発達障害、学習障害、知的能力障害、低IQとされてしまいます。

・群盲象を撫づ

 「群盲象を撫づ(撫でる)」というのは仏典の有名な例えです。

 ある王様が目の見えない複数の人に象の一部を触らせて象とはどういうものか答えさせます。

 目の見えない人たちは象の身体に触れて頭を石や鼎や甕、項を屋栿、跡(前足)を臼、後ろ足を樹、または脚を柱や足を臼、膊(膝)を柱、背を床や丘阜や屋脊、腹を壁や甕、鼻を木の枝や曲がった轅や繩、鼻を杵、耳を扇や箕、牙をパイプや橛や杵や根、尾を蛇や帚や緪(綱)脇を簟、髀を樹のようだとそれぞれ答えます。

 これは普通は「木を見て森を見ず」のような「部分だけ見て全体が見えない」という例えに使われます。

 この群盲象を撫づの例えはそのような意味に使っても構いませんが、仏教というものを考えると別の意味が浮かび上がります。

 像というのはいろいろなパーツから作られていると言うことです。

 色々な形態や機能を果たす部品を組み立てて作られている構造体が象であると言うことです。

 構造体としての象を我々は実体、実在するものと感じて実在すると結論する傾向にあるということの例えになります。

・ラカンの例え

 ラカンの鏡像段階という考え方があります。

 ラカンの理論にはシェーマLというものがあり、これはメラニー・クラインの赤ちゃんの母親認識の理論を発展させたものです。

 何かを認識すると言うことは色々な部品から構造を作ると言うことです。

 色々な部品は大きく分けて、現実界、象徴界、想像界から調達してきます。

 例えば自分というものの認識を生成したければ一つの部品では足りずに色々な部品が必要です。

 例えば鏡がないと自分がどんな顔をしているか分かりません。

 鏡を見ることで自分を形成する要素であるの容姿を部品として調達します。

 これは感覚的なもの、物理的なものなので現実界から調達します。

 象徴界からは例えば自分の名前を調達します。

 自分の名前が「山田太郎」であることを言葉の世界から調達し自分を作る材料にします。

 想像界からは例えば自己認識を調達します。

 「自分は能力が高くて将来いっぱしのことを成し遂げる人間だ」という空想を自分の精神の一部として組み込みます。

 こういう一個一個の膨大な作業の総体として「自分」というものが実在するような感じを持つ様になります。

 自己同一性の形成、という言葉を使うことがあります。

 自分以外にも友達のAくん、自分のおもちゃ、生活に使う道具、何でも認識はこのように作っていきます。

 実体感、実在感はありますが、実体や実在である保証はありません。

 でも実んの中では実体であるように感じますし、実在していると信じやすくもなります。

・ドゥルーズの機械

 上記までの例では既にあるものをデカルトの要素還元的方法論のように分解して組み立てて見せてみました。

 もともとない実在を部品を作って0から作る工学的、創造的な考え方もあります。

 それはドゥルーズの機械の発想です。

 昔のミニ四駆やいまのベイブレード、マインクラフトなども、材料を使って2つとないオリジナルなものを作ることができます。

 芸術や工芸における創造もそうです。

 完成したもの、あるいは未完成なものでも人はそれを実体、実在しているものとみなすことがあります。

 客観的な実体の存在や実在するものがあるかどうかは分からないので、人が実態があり実在すると思えばその人にとってはそれが実体であり実在します。

 ドゥルーズはそのように状況によって主体が自主的に部品を組み合わせたり部品を変えたり改造し変えたりして変化して変化していく人間の在り方を推奨したといえます。

・ドゥルーズの粒子

 もともと構造主義の起源は数学と言語学です。

 数学はギリシャ語源では「学ぶべきもの」という意味です。

 言語学は言うまでもなく言葉の研究です。

 科学や学問は言葉と数学からなります。

 中世の教養7科も数学と言語の学習からなっています(音楽は例外だが数学とも見れる)。

 全ての数学分野は集合論から構築していきます。

 つまり元から構造を作っていきます。

 この観点から言えば全ての物は元の集合です。

 原子論や素粒子論のことではありません。

 元と元の間に関係を作っていって構造を作るのが数学です。

 関係の作り方によって構造は変わります。

 これは我々がいろいろな形を取れるということということはドゥルーズは我々が自由に色々な形を我々の自由意志で取れると言うことを言いたいのだと思います。

 今まではアリストテレスの質料形相論、精神分系のクライン派の理論、お釈迦様の群盲象を撫ずの例え、ラカンの事物の同一性や恒常性形成の理論、ドゥルーズの機械などで説明してきましたが、今回のドゥルーズの粒子についてはこれからそれらを導けるのでよりもっと根源的で一般的なものになります。

・実体と構造

 実体と構造は背反ではありません。

 独立です。

 背反と独立の違いは背反はこっちがたてばあっちが立たず、あっちがたてばこっちが立たずになります。

 論理記号ではNORです。

 実体なら構造ではない、構造ではないです。

 実体と構造が両立することはないし、両方が同時に成り立たないこともありません。

 どれに対して独立はなんでもありです。

 実体であり構造である場合もあれば、実体であって構造でない場合、構造であって実体でない場合もあり、実体でも構造でもない場合もあります。

仏教の結論でこれをお釈迦様は中道、ナーガールジュナは中観、天台智顗は三諦論のなかの三要素の1つ、中と言います。

 これは現代哲学の結論でもありポスト構造主義はこれを主張するための思想です。

 構造主義は単に方法論として使えますが、哲学の構造論や認識論にとってはとりわけ重要で存在論と認識論における実在論の議論に「構造論」という実在論を相対化する新しい理論を作ることで哲学の問題を解決したわけです。

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