幸せのおすそ分け
その扉を前にして、僕は緊張していた。
手には汗が滲み口の中はからからに乾いていた。先に執り行われた式の高揚感が
いまだに僕の頭や心臓を
ぐらぐらゆすっていた。
胸の動悸は収まる気配も無く
倒れないように立ってるので精一杯だった。
この扉が開いた瞬間の事を考えると
余計に緊張感が増してくる。
果たして僕は真っ直ぐに歩いていく事が
出来るだろうか、、、
隣に立つ彼女を見ると僕と違って緊張している様子も無く、落ち着いた表情でじっと前を見据えて立っていた。
僕が自分の方を見ている事に気づくと
彼女は口元に小さな微笑みを浮かべた。
僕が動揺していたら、彼女を不安がらせてしまうかもしれない。それはあってはいけない事だ。
僕が、彼女の事を支えていかなければ
いけないのに、、、。
僕は、深く息を吸い込み、そうして、ゆっくりと吐き出した。胸のドキドキが少しだけ和らぎ、微かに動揺が鎮まった様に思えた。
僕は彼女と同じ様に顔を上げて前を向いた。
僕の左手に添えられた彼女の右手に微かにだけども可愛らしい程度には明らかにきゅっと力が入るのが分かった。
目の前の扉が開いていく。
八月の眩い陽の光が
チャペル内に射し込んできた。
僕と彼女は、その光に向かって
ゆっくり踏み出していった。
結婚式を挙げようと話し合ったのは、
四月の事だった。
彼女は、両親に自分のウェディングドレス姿を
見せてあげたいのだと言った。
それが両親に対する恩返しにもなるから。
彼女の言葉を聞いた時、僕は一瞬だけ驚いた。
自分が結婚式を挙げるだなんて想像もしていなかったからだ。当初は、結婚式はしないで、その浮いた分のお金で、どこかに旅行にでも行き、そこで美味しいご飯でも食べようかと言う話をしていたくらいなのだ。
それがまさか結婚式だなんて・・・。
彼女の真っ直ぐな目を見て、僕は脳裏に浮かんでいた悲観さを瞬時に破り捨てていた。
僕は、彼女にむかって、
「そうだね、結婚式か、いいね!あげよう!」と言っていた。
その日のやりとりは衝撃的だったから、僕の記憶に脳みそに深く刻まれる事になった。大切な人の思いに応えたいと思うのは、自然の成り行きだし、ましてやそれが自分の伴侶となってくれた女性からの頼みとあっては、命に代えてでも叶えてあげたくなるのは至極真っ当な思いの形だと思う。僕は彼女の夢を叶えてあげたい。結婚式を挙げる事で彼女が喜んでくれるのであればやるしかない。
その日、静かに僕は腹を括った瞬間でもあった。
彼女の理想を叶えられ場所として選んだ式場は、岡崎市にあった。
アクアガーデン迎賓館。
式場を見学しに行った際には、溢れんばかりの爽やかな色彩で飾られたガーデンの美しさと、厳かなチャペルの雰囲気に圧倒されてしまった。
式場見学に訪れたのは、四月の半ばだった。
その日は太陽がやけに上機嫌な日だったから、ロビーを抜けて、ガーデンに案内されると、日差しが眩くて、汗が滲むくらいだった。プールの水は涼やかにたっぷりできらきらと陽の光を受けて輝いていた。その向こうにはもっさり盛りだくさんの緑の植物で飾り付けられていて、なんだか、南国のリゾート地にでも遊びにきたかの様な気持ちにさせてくれた。
そんなガーデンを通り抜けた先にチャペルが隣接されていて、扉を開けて中に通された瞬間、僕と彼女は、おぉ!と声を上げてしまった。
あまりにも清潔で透明感のある場所だったからだ。厳かな雰囲気が漂い、なんだか僕は、場違いな場所に迷い込んだ羊のような心持ちになってしまった。
扉から、真っ直ぐに伸びる道の先は全面ガラス張りになっていた。滝を思わせる水の迸りにじっと魅入ってしまった。木々の枝に飛沫が当たり弾けてはキラキラと光っていた。左右の壁にも緑で飾り付けられていて、森の中にある教会にでもいるかのような感覚を抱かせてもらえる非日常的な空間がそこには広がっていた。
ここで結婚式を挙げるんだ。
四月から打ち合わせが始まった。結婚式本番は、八月の十日に決定した。
当日までに、僕と彼女は、いろいろ決めていかなければいけない事が山ほどあった。ドレスの打ち合わせ、ドレスのカラーやヘアースタイル。招待する家族や親戚の数や案内状の有無。お礼の品々や、テーブルや会場を飾り付ける花々の色彩や雰囲気、料理に関する事。カメラマンはどうするか、司会進行はどの様にしていくか、僕らの馴れ初めやこれからの事、決めるべき事柄はわんさかと、、、
結婚式に来てもらうのは家族や親戚の人達だけで、少人数での結婚式にしようと思っていた。そこで、自分達の成長や思い出に関わる何かを作ろうと言う話になった。幼少期の頃の写真を並べてみようと彼女は言った。ウェルカムボードを手書きで作ってみたり、僕らからの感謝の言葉を添えてみたり、などなど。
やるべき事は山ほどあったけれど、僕らは一つずつ丁寧に誠実に着実にクリアしていった。
八月はあっという間に訪れた。
長い様で短い。短い様で長い。だからって八月はしっかりとした足取りで僕らの前にやってきた。
セミ達がしゃーしゃーと騒がしい八月の水曜日。結婚式当日。白い入道雲がキッパリと夏を告げていた。
コロナ禍での結婚式の開催だったから、不安はいっぱいだったけれど、僕らは運が良かった。中止や延期の憂き目にも遭わず、何事もなく本番を迎える事が出来たのだから。
式が始まる少し前に僕とか彼女は、彼女の両親と少しの間一緒に過ごす事ができた。ウェディングドレス姿の自分を両親に見てもらう事が彼女の夢だったのだ。その夢が叶う瞬間を僕は一番近くから見守る事ができた。
チャペルの真ん中で背中をこちらにむけ立っている両親に向かって彼女はゆっくりと近づいていった。彼女は緊張しているのか、少し震えた手で母の肩を父の肩をそっと叩いた。僕はその瞬間の彼女の姿を今でも覚えている。照れているような恥ずかしいような嬉しいような、それらをひっくるめて堪らなく幸せなんだと言う表情を浮かべた彼女の姿。温かい気持ちになれる宝物のように愛おしい瞬間だった。
母と父に深く愛されて育てられてきた彼女を次は僕が支えていかなければいけない。
大切な娘を僕に預けてもらえる幸せとその責任をしっかりと認識しなければいけない。彼女の両親からお願いしますと言ってもらえた事を僕は忘れてはいけないのだ。
夏真っ盛りのその日の幸せを僕は忘れない。
みんなの前で愛を誓い合った時のドキドキは忘れようにも忘れられる訳もない。
目の前の扉が開いていく。
僕らは、二人で歩いていく。
険しい道もあるかもしれない。でも、二人なら楽しめそうな気がする。家族や親戚の人達もいるわけだし、困った時は助けてもらいながら、生きていけば良いんだ。何も心配する事はない。
扉が開いた瞬間、割れんばかりの声に僕ら二人は包み込まれた。おめでとう!
驚いたと同時に幸せって気持ちに生まれて初めて触れた気がした。
おめでとう!おめでとう!
あぁ、なんて素敵な言葉なんだろか!
僕らは幸せものだ。今この場にいるみんなにもおすそ分けしてあげたくなるぐらい贅沢な気持ちにさせてもらえた。
シャボン玉のキラキラと花びらのシャワーがくすぐったい。柔らかい香りと温かい言葉が胸に沁みて、その日僕は幸せ過ぎて涙を流した。人生初の体験だった。
幸せは堪えきれないものなんだ。
彼女と出会い僕は幸せって気持ちに気付く事が出来たのだ。
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