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雑感記録(285)

【古本巡りはスポーツだ!5】


昨日、僕はいつもの友人とここに行って来た。

所沢古本まつりは基本的に必ず行くようにしている。以前の開催は確か3月初旬のことで、およそ2か月ぶりである。何だか久々感とでも言えばいいのだろうか。そういったものはない。もはや「え、行って当たり前でしょ?」みたいになりつつある。いや、「つつある」ではない。「なっている」のである。古本まつりと名の付くものは行っておきたい。ある種の古本好きとしてのプライドなのかもしれない。

それで昨日11:00より開催だった為、西武新宿線で所沢へ向かう。

実は古本まつりの前日、一昨日のこと。何だか愉しみで僕は寝付けず、若干の徹夜をしてしまった。とりあえずNetflixで『パルプ・フィクション』を見て、Amazon Primeで『レザボア・ドッグス』を見て、再びNetflixに戻り『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』を見始めた。この流れで『キル・ビル』も見たいなと思ったけれども辞めて寝ることにした。とは言え、ベッドに入ったのは古本まつり当日の朝4:00である。

8:00ぐらいに起き、身支度を整える。朝飯は面倒くさいので抜いた。ボケボケした頭の中で「今日は何を買おうか」と考えを巡らす。だが、今回はそこまで考えなくていいのだ。それはあらかじめ、買いたい本リストを簡易的に作成していたからである。今回の古本まつりでは柳田國男と鈴木大拙の本を中心に据えて購入しようと決めていたのである。

最近、日本の思想を読んでから、やはり日本に生きている以上は日本の思想を学んでおく必要があると感じていた。また、様々な批評を読んでいると柳田國男が背後にいるような気がしてならない。民俗学というものにチャレンジしてみようかなと思ったのである。鈴木大拙に関しては、以前の所沢古本まつりで友人が「『鈴木大拙全集』を買ったんだが、凄く良かった」と行っていたのを記憶していたので、この機に禅について学んでみようと思った。ちなみに、この友人は以下記録の彼である。

ちなみに昨日の所沢古本まつりを一緒に巡ったのも彼である。

また他にも現代思想を学びたいということから、宇野常寛『ゼロ年代の想像力』や東浩紀『動物化するポストモダン』『一般意思2.0』であったり、あとは中沢新一『カイエ・ソバージュ』『はじまりのレーニン』などもリストに入れた。ただ、最近の本であるし結構売れている作品だから実際あるかなと思ったが、リストに入れる分には問題がない。一応これらも入れておいた。これらと電車で読む用の本を1冊、そして大量のトートバッグをリュックサックに詰め込み自宅を後にする。


高田馬場まで無事に辿り着き、西武新宿線へ乗り込む為ホームに向かう。西武新宿線のホームは有難い。いつも思う。急行、準急と各駅停車で並ぶ場所をそれぞれ確保してくれている。僕は各駅停車でゆっくり行こうと考え、各駅停車の所で待つことにした。僕は電車が来るまでの間、立ちながら持ってきた1冊の本を読み始める。大澤真幸『近代日本思想の肖像』である。これがまた面白い。

 …日本の近代文学や文芸批評は、西洋の哲学や思想を直接に翻訳することの失敗を補償したのである。小説が、そして文芸批評が、われわれの日常言語と思想の言語を媒介してきたのだ。文芸批評が、やがて、守備範囲を拡張するような形で西洋哲学やその他のアカデミックな領域を呑み込んでいく。たとえば小林秀雄はベルグソンを論じ、吉本隆明はマルクスやヘーゲルに言及し、さらに柄谷行人がデカルトやカント、マルクスを我が物にしてきた。そして、西洋哲学は、文芸批評の言語の中に組み込まれたとき、その範囲内で、日本語による思想の言語の財産目録の中に登録されてきたのである。

大澤真幸「まえがきに代えて 哲学と文学を横断すること」
『近代日本思想の肖像』(講談社学術文庫 2012年)
P.13

元々、哲学などの思想というのは西洋から流入したものである。それを我々日本人にコミットさせるために近代文学や文芸批評というものが機能してきたということである。個人的に翻訳という観点からそういったことを考えるのは面白いなと思いながら読む。そう考えると、現代において近代的な小説や文芸批評が必要とされていないのは、究極、西洋哲学や思想というものがその界隈の人にしか必要とされていないのかとも考えることが出来る。

大澤真幸の場合には、この部分の後に資本主義が発展する中で所謂「内面的な個人」が過去のものになりつつあると簡単に指摘している。何となくだけれども分からない気がしなくもない。色々考えるところがあるなと感じながら電車に乗り込む。そして座り本を読み進め、気が付けば寝てしまっていた。もう少し万全な体調で読み進めていきたい。

目が覚めると、東村山駅で停車していた。危ない!良かった!ここで目が覚めて!と安心した。所沢駅の1つ前である。もしこのまま目が覚めなければ僕は古本まつりにはついぞ到着することは出来なかっただろう。「このまま目が覚めなければ」…。こう書いてしまったが、これは些か怖い想像である。だが、そう考えるということは僕も自分が土に還ることに対して抵抗感があるようだ。僕も人間なんだなと思った。

所沢駅に降り立ったタイミングで友人から連絡が来る。

彼は車で所沢まで来ており、「今駐車場を探しているから、会場入り口辺りで待っててくれ」とのことだった。僕は人の多くいる所沢駅を抜けて会場まで歩いて向かう。会場入り口付近に着くともう既に並んでいる。そこまで多い訳ではないが、並んでいる。だが、面白いのは僕等のような若者は1人も居ないことだった。高齢社会の波がここにも来ているんだなと暑い日差しの中ヒシヒシと感じながら友人が来るのを待った。


友人と合流して早々に会場へ向かう。

会場は8階のフロアになるのだが、1階にも本が所狭しと並ぶ。普段ならば1階から順繰りに見ていくのだが、僕等も体力が衰えたのだろう。もう直接8階から見て回ろうということになり、エレベーターに乗り込み8階へと向かう。エレベーターに乗って来るのはやはり高齢の人々ばかりだ。何だか僕等が浮いてしまっているような感じがして、僕は少しだけ歯痒い思いをしてしまった。

会場に着き、本を見て回る。

今回は従前とは違い、3回に分けて見て回ることにした。1回目は会場脇の文庫を見て回り、購入後休憩。2回目は真ん中の単行本エリアを半分見たら購入し休憩。そして3回目には残りの単行本エリアを見て購入し解散。というようなスケジュール感で見て回った。それにお互いタバコを吸うので、タバコ休憩がないと苦しい。そういった意味でも休憩を入れなければ見て回れるものも見て回れない。

さて1回目。

会場を囲むように設置された文庫本はいつ何時見ても壮観である。どれ程の本が並んでいるのか我々には見当もつかない訳だが、並んだ本を一所懸命に見て回る。お互いに「今日はこの本があればいい」というのを伝えていたので、目にしたら「これどう?」と伝えあうようにしていた。僕が求めている本は柳田國男と鈴木大拙であり、その界隈では有名も有名。沢山の本があるので眼に付く。そして僕が見落としていた本を友人が「これもあるよ」と教えてくれる。これで取りこぼしは無くなる。

だが、本を見ているとお互いにだけれども、わりと目ぼしいものは既に持っているということが多い。だから「この作家の本があるよ」というよりも「この作家の本、俺持ってるけど良いよ」というような話をしながら回っていく。自分のお目当ての本を探すことも愉しい訳だが、お互いにお互いの好きな本や持っている本、読んだ本について話しながら見て回るのは面白い。こういう時間は幸せである。

ずらりと並ぶ本に集中して行く。その時に友人がふと「目の前にこれだけ本が並んでて、本のことしか考えなくていい時間って幸せだな」と言った。確かにそうだなと思った。僕は「そら、目の前に本が並んでるからな。」とどこか突き放したような冷たい返事をしてしまったなと思った。やはり好きな事を追求できる場や空間というのは大切なんだなとしみじみと思う。

一通り、壁一面の文庫コーナーを見終え、購入し一服。

お互いに集中して見ていたので一気に疲労感がやって来る。それに友人も僕もそうだが、腰を1度やっている。立ち止まって見ることが実際しんどい。腰に負担が掛かるので一苦労である。それに僕は朝飯を食べていない。エネルギーが枯渇している。タバコを吸い終え、友人の車に買った本や僕の荷物を置かしてもらい昼食を取ることにした。

2人でカレーを食べながら様々な話をした。

彼は最近というより、以前から映画について関心の領域があり映画の話をした。濱口竜介の映画が激アツだということで色々と教えてもらった。そういえばさっきの喫煙所でこんな話をした。僕は以前の記録で「小説を断った」という旨のことを書いた。

この話をして、加えてタランティーノの映画を朝ぐらいまで見ていたという話もした。すると「ミニシアター系の映画に行かないのが不思議なんだよな」ということを言われた。僕はあまり映画に聡くないので、所謂大衆化された映画の方を割と見る訳だ。それで「いや、あんまりそっちには行かないな」という話をした。「ゴダールとか見ないもんな。そこが俺的に不思議なんだよな」と言われた。だから「ま、ロブ=グリエは見たよ」と言うと「お前、一緒に見に行って寝てたやん!」と言われた。……そう言えばそうだった。

冷静に僕も不思議だなと思う。小説を断ち様々なものへの関心が高まっているのに、映画方面には向かっていない。寧ろ書物的な方面での分野、つまり今まで西洋哲学だけだったけれども、日本思想も勉強してみたいとかそういったもので場としてはある意味で変化はしていない訳だ。場から場へ移行していくということを僕は出来ていない。友人が濱口竜介について熱く語るので、今度機会があればぜひ映画に連れて行って欲しいとお願いした。


さて、2回目と3回目。

実際、ここからが本番みたいなところはある。貴重な本や文庫化されていない作品などが数多くある訳だ。それに画集や雑誌なども数多く並んでいるのであり、文庫ではお目に掛かれないものも沢山ある訳だ。そして僕がリスト化した本たちもこの立ち並ぶ本棚の中に眠っている…。

友人と再び話しながら本を見ていく。これがまた愉しい。そして僕は本を探しながら時折イラつく。というのもだ、僕は「柳田國男」の本を探しているのに「柳田邦男」の本が沢山ある。「あ!柳田國男の本が……って柳田邦男じゃねぇか!おいー!」ということが何回もあった。僕は柳田邦男が嫌いになった。

こういう時にやはり名前というのは大切なんだなとも思う。こういう僕みたいに「柳田國男」を買ったつもりが「柳田邦男」の本を買ってしまうように誘導されている感が否めない。仮に「やなぎだくにお」という音だけ覚えていて漢字を知らずに「柳田國男」が読みたかったのに間違えて「柳田邦男」を買ってしまったという事態が起きれば「柳田邦男」サイドからすれば儲けものである。ペンネームを使わなかったのはわざとか。そう勘繰ってしまいたくなるぐらいには腹立たしかった。

それと同時に日本語の複雑さというか、面白さみたいなものを感じた。音としては同じなのだけれども、漢字が違えば別人である。これを果して「同姓同名」として良いのだろうか。音だけ聞けば「同姓同名」である。だが漢字を見れば「同姓」ではあっても「同名」ではない訳だ。こういう混乱があると同時に、これにより谷川俊太郎が言うところの「ことばあそび」が生まれるのである。詩人が音韻に着目する理由がこんなことで何となくだけれども肌感を持ってやってくるのは変な感じだ。

それで黙々と本を見ていくのだけれども、やはり2人共、腰がしんどい。それはそうだ。重い本を抱えて本を見て回るのだから体力的にもしんどい。昼食を済ませ体力回復を図ったとはいえ、RPGの如くすぐに体力ゲージなるものが回復する訳では決してないのだから。単行本のコーナーを半分見て回り、再び購入し外に出て、一服する。

タバコを吸いながら、帰りの心配を始める。こんなに本を買ってしまっては電車で帰ることを想像したら地獄である。という話をしたら何と駅まで送ってくれると言ってくれた。だが、とはいえ流石にそれは悪いと思う訳だ。彼が帰る近くの最寄駅で降ろしてもらうようにお願いし、僕の帰りは何とかなりそうだと安堵した。再び彼の車に本やら荷物を置きに行き、最後の3回目を回ることとした。

だが…もう2人もヘトヘトだ。しかし、こういう状況の時の方が探している本が見つかるというものである。2人共フラフラしながら本を見て回った。やはり、最後の最後で良い本というものは続々と見つかるのである。ドシドシと籠に入れていく。ドンドン重くなっていく。比例して体力が減退して行く。隣を見ると友人も限界そうだ。というか限界だったな、あれは。

最後の棚は正直ほぼやっつけ仕事みたいな感じで眺めた。やっと終着地点に辿り着いた時には陽が沈み17:45を周っていた。11:00からここにいたことを考えると相当な時間を過ごしたんだなと何故だか感慨深くなる。だが、それ以上に愉しいひと時だった。レジに進み最後の会計を済ませ、再び喫煙所に向かい最後のタバコを蒸かす。

そうして帰路に着く。


友人の車に乗せてもらい、駅に向かう。

戦利品1
戦利品2

車の中では色々と話をした。先にも書いた訳だが、僕は小説を断った旨の記録を残し、その話題になった。実際に小説を断ってからというものの、自分の中で凝り固まっていたものが徐々に解れつつあって、作品も多岐に渡ったジャンルを読みたいと思うようになった。そして自分の中でもまだ何か分からないが、何かが始まりそうな、そんな気がしていた。

それを話した時に、彼は堀江敏幸の話をした。それが何だか僕の中で響いた。本が読めなくなった時、何かに行き詰った時に始まる何かがあるということだった。それで古井由吉のことも少し話に上がった。それで僕は思い出したことがある。古井由吉は書けなくなったところから書き始めるみたいなことを、多分その彼から聞いたのだと思う。それを思い出した。

人は何かに行き詰ると、どうしようも無くなってしまう。

僕も実際、今まで信奉してきた「日本近代文学」というものが今既に崩壊しているのにそこから眼を逸らし続けていた。「まだ、日本近代文学は存在するのだ」と心のどこかで期待してもいたし、それが読まれ得るべきだと感じていた。だが、様々な本を読んでいるとどうやらそうではないらしい。それは柄谷行人が『近代文学の終り』を書いていることからも分かる。だとしても、どこかそれでも譲れない自分が居たのだと思う。

だが、それが僕の中では『現代日本の批評』で一気に崩れ去り、日本近代文学というのはもう駆逐されたと肌感を持って実感したのである。本屋に行けばキャピキャピした表紙の本が並ぶ。自己啓発本の山。消費化される本。確かにもう僕が信奉していたものは終ったのだとやっと、10年越しに分かった。だから僕にはある意味で寄生先がない状態である。

だが、1つ何かを手放すと大分楽である。今までの基準では無く、広い視野を持って物事を考えることが出来る様になるからである。実際、小説を断ってからというものの様々なことに興味関心が移行しつつあり、日本近代文学に裂いていた時間を自身のパースペクティヴを広げる為に使えると思ったらかなり楽になった。というより寧ろだ。もう今の小説にも、昔の小説にも拘っても何もないということを今更ながらにして悟ったということである。それは先の大澤真幸ではないが「内面的な個人」として愉しもうと舵を切ることにした。

何かを手放すことは恐ろしく怖いことだ。現に僕はこうして1つの体験として捨て去ることが出来なかった。だが、それが失われた時に初めて見えて来る世界がある。何かにしがみついて行く生活よりも、むしろ何かを手放すことが出来る人の方が強いのではないかと思った。彼と車の中で話をする中で再びこの重要性に気付かされた。


車で1時間30分程、目的地の駅に送ってもらった。

駅前で降ろしてもらい、僕は電車に乗り帰宅した。本が重すぎて自宅に帰るのも一苦労だった。だが、ここまで送ってくれた友人の方が大変だったはずで、軽はずみにもこんなことは書いてはいけない。反省である。

そして泥のように眠りにつく。

朝、身体がバキバキである。こうして文章を打っている腕も肩も筋肉痛で痛い。まだまだ僕も若いのかなと思いながらこの文章を締める。

よしなに。


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