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雑感記録(218)

【古本巡りはスポーツだ!3】


このタイトルで書き始める時は大体古本の何かしらのイベントに行ったということである。過去の記録については以下記録を参照されたい。

今日も今日とて、こちらに行ってきた。

今回開催されている古本祭りのテーマは「映画」である。一応、僕もそれなりに映画を見る人間ではあるので愉しみだった。それに今回はなんと、前回古本祭りに参加できなかった友人と参戦。うん、もうこれだけで十分幸せなことだ。僕はワクワクしながら会場へと向かった。


これは前にも書いたが、僕の所から所沢まで行くのは時間が掛かる。とにかく個人的に高田馬場まで出るのが面倒である。僕は高田馬場が生憎好きではない。大学時代、高田馬場のBIGBOXでバイトしていたが、それでも高田馬場は嫌いだ。とにかく夜の高田馬場を知ってしまうとげんなりする。人生で初めてネズミの大群を見たのは高田馬場である。乗り換えのほんの僅かな時間でさえも僕は好きではない。

ホームに入ってしまえば大したことは無い。特に西武新宿線。山手線は毎回毎回乗るのが億劫になるくらい休日も人がわんさかいる訳だが、西武新宿線は各駅停車、準急など上手い具合に選択すれば快適に向うことが出来る。時間は掛かるけれども問題はない。それに今日は天気が素晴らしかった。久々に快晴だったような気がする。どうして電車に差し込む日光というのはああも綺麗に眼に映るのだろう。

電車の中で僕はNujabes『Aruarian Dance』を聞く。この「Aruarian」という言葉の意味が分からなかったので色々と調べてみたのだが、「これだ!」と言うものがない。どうしたもんかなと調べた。これはあくまで個人的な見解だがこの「arua」はウガンダにある地域らしい。それでこの「rian」というのが一向に分からないが、遺伝子学的にRNAに組み込まれた1つの何からしい。まあ、これはこじつけにしか過ぎないが、「ウガンダの人々が潜在的に持っている踊りの精神」みたいな感じなのだろう。ちなみに、ウガンダには伝統的なダンスがあるらしい。

まあ、これは適当なことを書いているので信用しないで欲しい。何となく僕の勘と言うか、こんな感じじゃないかというこじつけだ。まあ、大概このnoteに書かれていることは信用しない方が良い。特に僕の場合。ちなみに、この曲のサンプリング元は『The Lamp Is Low』という曲である。これも非常にいい曲である。それもここに掲載しておこう。

これが凄く良くて、これを聞きながら小1時間ぐらい揺られて所沢駅まで向かう。途中、踏切の安全確認とやらで4分ぐらいの遅延。困ったものである。友人は車で既に会場に居るとのことだった。LINEで所沢駅に到着する時刻を伝えた。駅の改札で待ち合わせすることとなった。


駅に着き、無事に友人と合流して会場に向かう。

入口から既に本は並んでおり、1階からゆっくり見ていく。話をしながら見て回っていく。本を見ながら最近何を読んでいるとかそんな話をしていた。その時に「今回の芥川賞の作品読んだ?」と言われたので「いや、読んでないね。あんまり芥川賞とか興味なくなっちゃって。」とぶっきらぼうに返答してしまった。彼は「あれ読んだけど、結構良かったよ。読んでみ。」と言った。その時に彼に言われたことが結構刺さった。

「俺は最近の作品とかにも興味があるけれども、お前は最近の作品に興味を持てないのって何でなんだろうな。わりと俺らって読む本の傾向とか気になる本とかって同じなんだけど、そこが違うんだよな。お前は過去の作品に興味を持つけれども、俺は最近の作品に興味を持つんだよな…」

なるほど。確かにそうだなと僕も思った。最近の小説とか新しい分野についてはいつも彼から教えて貰って読むことや聞くことが多い。でも、自発的に最近の作品に触れようと思わないのである。実際、自分の中で意識しているというか、意図して積極的に過去の作品を選んでいる訳ではない。自然と過去の作品に手が伸びてしまうのである。だから純粋に彼が羨ましい。読書についてアグレッシヴなのは凄いと思う。

冷静に考えてだが、小説もまあ哲学でも美術でも何でもそうだが、日々その時勢に合わせて進化している訳である。これは先日の記録でも書いた訳だが、常にあらゆるものは進歩している。その速度感はそれぞれであれ、日々進歩をしているのである。当然に僕の好きな分野に於いても進歩する。今こうして触れているその瞬間にも進歩している訳であって、続々と新しいものが誕生する。「流行に乗る」というのは少し違うかもしれないが、その時々のトレンドは抑えておくべきである。

何でだろうな…と考える。僕はこれまで「資本主義がどうのこうの」という理由付けをしている訳だが、結局それは欺瞞でしかないのかなとも思えて来る。何だかこれらは全て僕が最近の作品を読まない理由を強引にでっち上げているような気さえしてくる。でも、何だろうな。最近の作品は「1度市場に出たもの勝ち」みたいな印象がある。何かテレビやそれこそSNSなど、あるいは何某かの賞を取れば所謂「バズる」。1度そうなれば言い方は些か失礼にも程があるが、大した技術が無くたって人気が出て、多くの人にすぐに読まれてしまう。

勿論、多くの人に読まれることは非常に重要なことである。多くの人に読まれることでテクストは初めてテクスト足り得る。しかしだ。例えば、批評などでその作品をケチョンケチョンに言われたら外野も当然だが、作者も何故だが「悪口を言われた」「批判されている」と感じてしまう。いや、もっと言えば僕のような批評の土台にすら乗らない人間どもが批評もどきとして「批判」をする訳で、要するに双方の成長が見込めない世の中である。何度も言うようだが読者も、作者も双方共に「読む」ことに関する技術力の圧倒的低下があると思う。

何と言うか、その文学的土壌とでも言えばいいのか分からないけれども、そういった物が醸成出来る環境が無いところで生まれた作品に厚みが無いような気がしてならない。良い作品は良い作品なのだろうけれども、それに対してのセットになる強固な何かがない。その何かが一昔前は「批評」だった訳だけど、僕が大仰に決して言えたことではないがそういうものもない。そしてそれが今ではSNSやらテレビなどに取って代わられてしまった。

作品単体で面白いのだろうけれども、そこに付随する+αの面白みがない。何だかそんな感じがするので僕は読む気になれないのかなとも考えてみたりする。しかし、ここまで書いておいて何だが、これも結局最近の小説を読みたくないというただの言い訳をただそれっぽく書いているだけである。僕が書いているのは「っぽい何か」でしかないのだ。

そんな事を考えながらいよいよ8階のメイン会場へ向かう。


数多く本が並ぶ。結論から書いてしまうと、この会場に4時間滞在していた。途中タバコ休憩やトイレ休憩は挟んだものの、かなりの時間滞在していた。それにしても天国だった。

それで壁の文庫コーナーから順繰りに見て行く。そこで先程言われたことを考えながら歩く。冷静に本を眺めていても、確かに最近の小説には全然目が行かない。ビビっと来るものがない。僕等でいう所の「光るものがない」ということである。だから見るのは岩波文庫とか講談社文芸文庫とかそこらへんばかりが眼に入って来る。その時にふと面白いことに気が付く。

僕は自分で言うのもかなり烏滸がましいが、人並みに読書はしている。それなりに「この作家の作品は…」とか本を見れば大体分かる。しかしだ。それでも初めて見る作家の作品もある訳だ。毎日、神保町に通って様々な本を見ていてもまだまだ僕が知らない作家は沢山存在する。これは過去の記録でも簡単に触れたことがあるが、昔に芥川賞を取った人の殆どの作家を有名どころ以外は殆ど知らない。例え新人賞であってもである。そう考えると読むべき作品はまだまだ世の中には沢山ある。

名著と言われる作品は数多くある。それを読まずして先に進むことが出来ないのではないのか。僕にはそう思えて仕方がないのである。こんなこと言ったら永遠に前に進むことなんて出来ないだろうけれども、何度も何度も何度も書いているが「後ろに進むことで前に進んでいる」という言葉を僕は信じて止まない人間なので、あながちこれはこれで良いんじゃないかと思っている。ここまで詳しくは説明しなかったが、友人に話した。

そこからしばらく文庫を見て回る。友人は過去にギックリ腰を患ってから、腰の調子があまり良くないらしい。本の籠を持って歩くのも大変そうだ。僕も腰痛持ちだから気持ちは本当によく分かる。中腰で下に置いてある本を同じ姿勢で眺めるのは大変だ。これこそ本当に骨が折れるような作業である。籠の中にはどんどんと本が入れられていく。僕は本には無際限にお金を使う人間なので、金額を見ずに「あ、これ読みたい」と思ったら籠に入れていた。

しかし、見ていくうちに何だか変な感じがしてくる。例えば、自分がかなり時間を掛けて読み込んで、凄く重厚な読書経験をした本が置かれている。「あ、これ持ってるな」と思って手に取り、巻末に貼ってある値札を見て愕然とする。「え…200円…」と。まあ、これはあくまで個人的な問題なんだけど、滅茶苦茶一生懸命に読んだ本が200円という金額で売られているのが悲しい。僕の苦労は200円だったのか…。

これはつまり僕も結局、本の資本主義市場に組み込まれてしまっている何よりの証拠である。価値=貨幣という認識が刷り込まれていることの証左である。本来的な価値などそんな貨幣という物差しで決められることではない。それにガッカリする必要もない。200円と僕の経験がイコール関係で結ばれること自体が非常におかしいことなのである。数字に還元できない経験を僕は無理矢理「200円」として考えてしまった。これは危険な事である。自然にこの考えが出て来ることは非常に危険である。

まあ、色々と時間を掛けて見て回った。


戦利品1
戦利品2

昼飯も食べずにずっと見回っていたので、見終えた後、帰りに2人で牛丼を食べた。牛丼なんていつ久しく食べていない。それに幸せ疲れで飯も食べていなかったのでがっついた。これがまあ美味かった。こうして美味いものを気心知れた友人と食べるのは例え何であっても美味い。不思議なものである。

彼はそのまま車で帰るとのことだったので、駅で別れて帰路に付く。

帰りの電車。各駅停車の西武新宿線で高田馬場へ向かう。幸せを噛みしめて帰る。帰りもNujabesの『Aruarian Dance』を延々と流す。家に帰って買った作品を読もうと心に決めて胸を高鳴らせていた。しかし…重い。本を何冊も持って電車で帰るのは労力が掛かる。古本祭りの最大のネックはここだ。友人と別れた後の孤独と重さに耐えねばならない。だが、どうも今日はあまりそれを感じにくかった。やはり古本祭り、ひいては古書店を巡るには分かる人と語らいながら回ること程愉しいことはないとこれまた改めて気づかされる。

自宅に帰り、谷川俊太郎の『質問箱』を読んだのだが、面白すぎて一気読みしてしまった。凄く良いことが書いてあったので、最後にそれを引用してこの記録を締めようと思う。

質問 四

どうして、にんげんは死ぬの?
さえちゃんは、死ぬのはいやだよ。
                (こやまさえ 六歳)

(追伸:これは、娘が実際に母親である私に向かってした質問です。
目をうるませながらの質問でした。正直、答に困りました~)


谷川さんの答

ぼくがさえちゃんのお母さんだったら、
「お母さんだって死ぬのいやだよー」
と言いながら
さえちゃんをぎゅーっと抱きしめて
一緒に泣きます。
その後で一緒にお茶します。
あのね、お母さん、
言葉で問われた質問に、
いつも言葉で答える必要はないの。
こういう深い問いかけにはアタマだけじゃなく、
ココロもカラダも使って答えなくちゃね。

谷川俊太郎『谷川俊太郎質問箱』
(ほぼ日 2007年)P.18,19

この最後の部分は忘れてはいけない感覚だと思う。
言葉で問われた質問に、いつも言葉で答える必要はないの。こういう深い問いかけにはアタマだけじゃなく、ココロもカラダも使って答えなくちゃね。」

よしなに。

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