見出し画像

雑感記録(217)

【駄文の円環Part4】


何だか今日も別に書くことは無いけど、こうして書きたくて書き出してしまった。最近、東浩紀と石田英敬の『新記号論』を読んでからというものの、言葉というものに変な感覚を抱きながら生活している。恐らくだけど、今まで「こうあるべきもの」というものが、最新の研究によって覆されることに単純に衝撃を受けたということなのだろう。その箇所を引用したい。

石田 つまり、人間は、自然のなかの事物を見分けているパターンと同じ頻度で識別要素を組み合わせ、文字を作ってきたということです。
   こうした研究から、人間の文字は、動物としての人間が自然界の見分けシステムのなかで使っている識別要素とほぼ同じしるしから構成されていると考えられる。つまり、世界のどの文字も、同じ空間識別のしるしから派生した同じ特徴を要素として成り立っている。それらは三ストローク以内で書けるしるしであって、世界の文字はそれらの要素を組み合わせてできている。それらの要素は自然界の中に見つかる要素と同じものだという仮説をかれらは立てたわけです。
東  これはほんとうに感動的な研究ですね。まず第一に、人間がつくったすべての文字は、構成要素の出現頻度の点で見るとみな同じ分布でつくられている。そして第二に、その出現頻度は自然界における構成要素の出現頻度と同じ分布になっている。つまり人間は、自然のなかのかたちの出現頻度をまねるようにして、文字をつくっている。文字と自然は対立していない。それはじつは同じかたちの分布でできている!

東浩紀・石田英敬「ヒトはみな同じ文字を書いている」
『新記号論 脳とメディアが出会うとき』
(2019年 ゲンロン)P.74,75

文字の成り立ちなんてあまり考えずに、僕は言葉を「言葉」として書き続けている訳だが、実際言葉は文字によって書かれるのである。当たり前な訳だが、しかし人間と言うのは慣れてしまうと根本的な事を忘れて突っ走ってしまう傾向にある。批評のというか、哲学や科学の良いところはこういう所にある。当たり前に存在するものを懐疑的に見ること。そして新しいものを発見すること。これこそ醍醐味である。

僕は現にソシュールの言語学しか知らなかった訳で、言葉を考える手段にはそれしかない。まず以てその段階でおかしな話ではある訳だ。フロイトだって精神分析の手法では徹頭徹尾なまでの言語主義である訳だし、それを発展させたラカンなども当然。更にフーコーだって『言葉と物』というタイトルで書いたり、デリダだって…と挙げ出したらキリがない。チョムスキーもか。まあ、とにかく多くのそういう先人たちが居る。

僕が先日の記録で書いた、ある種の危うさがここで露見する。つまり、僕の思考はアップデートされていないということに他ならない。僕は小説でもそうだが、昔の作品を中心に読むことが多い。最近の小説などは読まない。ただ、哲学や社会学関係の作品に関してはわりと読んでいる。小説程ではないとは言え、しかしそれでも圧倒的に現代的な思考の流れを僕は身に着けていないような気がする。

いやいや、こう書いておいて何だが、昔の哲学者の本やら批評やらをある一定しか理解していないのに何が偉そうに…と思ってしまった。ここが難しい所である。僕は温故知新タイプ(?)な人間であるから、昔の事を知りもしないのに今を語ることなど出来るだろうかといつも思う。だが最近、研究というのはどの分野に於いても目覚ましい進歩を遂げている訳だ。現にこうして文字、記号論に於いてこのような新しい説が有効である訳だ。

要はバランスの問題だ。昔の作品に凝り固まり過ぎたらただの懐古主義者にしかならないし、昔の事を知らずに今だけを語るのは何だか中身も無いような気がしてならないし…。ここのバランスが僕にとっては難しい。僕はどちらかと言えば懐古主義者みたいな節はある。それは過去の記録を一通り読んでもらうと分かるかもしれない。如何に僕が古い人間であるか。

しかしだ。どうも僕は頑固者で、昔のことばかりに囚われてしまいがちである。どうも昔の方が良いと感じてしまう。それは作品を読むごとに感じてしまう。何故なんだろうと不思議で仕方がない。新しいことを知ることも当然楽しい。だが、過去の事象をもう1度見つめ直す時間もそれはそれで愉しいのである。ここに僕の人間性が現れているような気がしなくもない。

僕は新しいことに挑戦することが苦手である。色々と考えてしまって、頭の中ではどうとでも想像できているのだが身体が動かない。単純に面倒くさいということもあるが、自分の現状の変化が怖い訳である。心の奥底で自分という存在が変わって行くのが怖い。僕はただ恐怖しているに過ぎない。これは良くない。ニーチェ好きであると公言しているこの僕が!それは!よろしくない!

だから僕は柔軟に対応できる人は凄いと思う。最近、若者がどんどん企業をしているらしい。僕は本当に凄いなと思ってその状況を見ている。ただ傍観している。羨望のまなざしと、自分が動けないでいるという中途半端な自分に苛立ちを覚えてしまう。こういう時に僕は自分のことを頭がいいとは思わないが、しかし中途半端に頭がいいと馬鹿を見る。多分、今僕はそれである。一応断っておくが、別に僕は「頭がいい」という訳では決してない。中途半端にものを知っているということが良くないのである。

未だ日本では「学歴」というものが重視されている。最近ではその傾向も徐々に薄れているような気がしなくもない訳だが、僕は思う。「学歴」云々よりも先に動いた方が事態が好転的になるということである。人生が開けるというと何だか仰々しい感じだが、あながち間違えのないような気がする。

そういえば、先日上司との面談で言われた。「若いうちに苦労は買ってでもしろ」と。その後、「面倒くさいおじさんが言いそうなことだよね…聞き流して」と言ったが、実はこの言葉がありきたりな定型文のそれであるのだけれども、結構刺さった。何故なら僕はそれを今まで避けてきたからだという自覚があったからだ。思い返してみると、僕は苦労してここまで来たというよりは、過去の記録で再三に渡って書いているが、人に恵まれてここまで来た。これは紛れもない事実である。

何かあればいつも友人や家族が助けてくれる。自分で現状打破をすることも当然にあった訳だが、その裏にはいつも支えてくれる友人や家族が居た。だから自分で苦労してきたという感覚が僕にはない。詰まるところ僕は1人で何かをする、成し遂げるということをあまり経験してこなかったように思う。それはそれでここまで生きてこられているのだから幸せだ。だが、やはりそうやって周囲の人たちに甘えてばかりはよくない。それに個人的に恩返ししたい。その為にはやはり自分自身が成長せねばならない。

ある意味で、そういう自分を変えようと思って、初めて(と言ったら大ウソも良いところだが)自分1人で転職活動をした。結局友人や家族に色々と話を聞いてもらったり、スケジュール的な面で色々と助けてもらった訳だが、以前よりも自分1人でやった、やり遂げたという感覚は強い。そうして改めて気づかされる訳だ。「人は1人では生きていけない」。誰かに寄り掛かるという訳ではないけれども、それでもお互いがお互いの為に何かをしてやれる関係という素晴らしさにこの歳になって気づく。いや、この歳になったから気付いたのかもしれないな。

これまた最近、記録で「孤独」という問題について考えた訳だけど、僕はこういうことが人一倍経験として感じていたからこそ危機感を持っている訳だ。こういう書き方をすると如何にも我欲の為という気がしなくもない訳だが…。1人で生活していると「自分1人で全てをやっている」という感覚に陥りがちだが実は違うと僕は思っている。僕等の背後には必ず誰かが居る。別にマルクスの話に持って行こうとするつもりは微塵もない。例えば、料理をしたり家事をしたり、掃除をしたり。そういう些細なことで良い。その背後には家族がある訳だ。誰かに教わって洗濯をする訳では無いはずだ。父や母の背中を見て体得するものである。

あるいは、身の回りの家具や家電でも何でもいい。僕の場合だったらパソコンのモニターなど友人に「これ良いんやで~」と言われて考えて購入した。本だって友人に「この作家が良いんだよ」と言われ購入。それが僕にとっての古井由吉な訳だが。あるいは音楽でもいい。「この曲が良いんだよ」と言われ聞いてハマる。それが僕にとってのキリンジやアナログフィッシュな訳だが。とにかく、1人で生活していてもその背後には自分自身を支えてくれた人たちの関係性が潜在的に存在しているのである。

結局のところ、何度も言うようだが「人は1人では生きていけない」それに尽きるのだと思う。例えどれだけ僕が「一人で行動する」と言ってもその背後には僕の大切にしたい人たちの関係性がある。今まで書いてきたことは詰まるところ、ただの欺瞞でしかない。


さて、そろそろ疲れたのでこの辺で。

駄文の円環は自由に書けるから気負いしなくて楽でいいや。

よしなに。



この記事が参加している募集

スキしてみて

振り返りnote

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?