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私をなくしたい!私の人生のために!

私をなくしたい!私の人生のために!

めっちゃ久しぶりの投稿です。

noteの投稿は止まってましたが、夢ワタのスタンドFM放送は止まらずに続いていて、ついに500回を
こえました^ ^

毎度よくわからない話を聴きに来て下さってるみなさんには、ほんと感謝感謝です。
ありがとうございます。

で、久々に何を書こうかと思ったのですが、
やっぱり非二元のnoteらしく
「私」について思ってることにしてみようかと笑

私は「私はいない」とい

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あー…そこは違うのね……

あー…そこは違うのね……

「見るものと見られるもの」
だというのが思考。

「私達は見られる側だ」と言うの、
もちろん思考…
だけど

そうなると、
見るものがあるから存在できるんだ、ってなる。

え、え? まって、存在?

ここに来ると急に
思考から抜け出た気分の思考になってるのは
なぜだい?

「存在」は
「解釈ではない」という認識になってるのは
なぜでしょー。

言葉遊びの始まりはじまりー♪

言葉遊びの始まりはじまりー♪

「わかっていることをわかっている。
わかっていることをわかってない。
それは、わかってるんだから、わかってるよな。
だけど、そういうことを言うためには
それを見ていなくちゃいけなくなるね。
だとすると…
わかっていることをわかってないのは
わかってないということかー!」


もうね、おかしいでしょ笑
でもこういうことをやって
頭は納得したりするんだな。
こういう考えなんかが起きて
「なるほど!」

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現れだもの。迷いだもの。

現れだもの。迷いだもの。

私達は、みんな迷いなんですよ。
そしてそれでいいというか、
そうでしかないんですよ。

全て迷いだとわかるということは
事実が何であるかもわかってしまうわけですが、
でもそれは
何か特別なことを知ったとか
人生を楽にする何かを手に入れたなどという
ことでは全くないんですね。

あー…。

と、「わかって」、
以上です。

人によっては
「ここの迷い」から飛び出して
辿り着く「聖地」なんて
ありえな

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この話を本で理解しようとしてる人、お勉強にしてしまってる人へ。

この話を本で理解しようとしてる人、お勉強にしてしまってる人へ。

「あいうえお」
「あ」の時「いうえお」はない
「お」の時「あいうえ」はない

言葉を追いかけるな
メモを捨てろ
思い出して追跡しようとしても
それはどこにもない

思い出して追跡しようとしてる時
「思い出して追跡しようとしてるだけしかない」と
気づければいいけど

そうでないのなら
言葉を追いかけるな
メモを捨てろ
読むな
答え合わせをしようとするな

逃げるな
そこで起こってることに全力であれ

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「気付いてることしかない」を思考で確認しようとしてます?もしかして。

「気付いてることしかない」を思考で確認しようとしてます?もしかして。

探求してる人が
「楽になりたい」と認めるのって
けっこう勇気がいることなんだと
最近思うんですよね。

そこここで
「個人が楽になる話じゃない」
って言われるし、
(この個人っていうのもどーかとは思ってますが…)

そうすると、表向き、
「楽になりたいわけじゃないんです、
本当のことが知りたいんです」
と言うことが起こったり
「特に悩みなどはないけど、純粋に本当のことが知りたいだけです」
となった

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「無我」って「私を幸せ」にしてくれないよ。「幸せになる私」がいない話だしね。

「無我」って「私を幸せ」にしてくれないよ。「幸せになる私」がいない話だしね。

無我っていうのは
自分が消えてしまうのでもなければ
考えが浮かばないのでもないし、
何も感じなくなるということでもないですね。

今から何かがなくなるんでは
全然ないですね。

ハナから無我だったと気づくだけなのですが、

それに気づいた時

「なんや…ずっとそうやったんか…」
と、思う人は思うでしょうし、
なかには
「ああ!そういうことか!」
と、ちょっとガツンと来る人は来るかもですね。

でも

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特別感はどこにでも顔をだす♪

特別感はどこにでも顔をだす♪

自分が凡人であるということに
気づきたくなかったり
認めたくなかったり

とにかく特別でいたい思いに
「悟り」や「非二元がわかった」は
もってこいのアイテムだね。

お山の大将でいる間は
そういうのに陥ってるということに
気づけないんだ。

だけどある時ふっと
そういうメッキが剥がれるときが来ると

なんだ…

自分はただの人間だ、ということに
気がつく。

これまで通り、
笑って、泣いて、怒って

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全ては「ここで」起こってる。だから、傷付くのも自分なの。

全ては「ここで」起こってる。だから、傷付くのも自分なの。

与えることは受け取ること。
よく言われるフレーズ。

でもこれは
誰かにした行いに見合ったことを
時間差で経験する、
というような話じゃない。

過去や未来など、ないのだから。

その場での起こりを
もう今ここで経験しているということ。

その場で生じた体感、感情を
今まさにダイレクトに経験しているということ。

何かを与える者も
何かを受け取る者もなく
ただその経験のみがあるわけだけど

それは

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「私」って何?と思ったことありません?

「私」って何?と思ったことありません?

「私」っていうのは
育った環境のコピーです。

育った環境というのは
やっぱり主に親や養育者です。

親や養育者の信念によって出来上がっていくのが
「私」なんですよね。

いや、そのまま信念をコピーするというよりは
間に解釈が入ってそれが写し取られると言った
方がいいかな。

でもそうなると…
「私」って何?と思いませんか?

「私」が親のコピーなら、
親もそのまた親のコピーで……

あれ?
「本

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「わからない」に思う

「わからない」に思う

私は「わからない」
という表現が好きです。

「わからない」→「分からない」は
分けられないということで
分けられないから明らかにならないんだけど

明らかにならないことが
明らかになってしまったと。
ここにとても「謙虚さ」を感じるのです。

そして
この「わからない」を
未知のもの全てを含んでいる言葉として
私は使っていて
そこには
「わからない」「認識し得ない」ことへの
畏敬の念のようなものも

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「非二元を知りたい」は本音ですか

「非二元を知りたい」は本音ですか

非二元のメッセージは
人生を楽にしないし

(そもそも救う誰かもいないので)
誰も救わないし…

という話は
この界隈ではよく聞くことかなと思います。

でも、そうすると今度は
表向き
本当のことが知りたいだけなんです、って
いう人がいる。

決して、何かに期待しているわけじゃない。
人生を楽にしたいわけじゃない。
単なる好奇心。
ホントウノコトヲシリタイダケ。

それは…

本当に
本当に
そう

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言葉にしがみつくと自我コレクションになっちゃうよ

こういうのが「空」で
こういうのが「無」だ。

そういうことを
頭でわかったら
満足してしまうのが私達。

でもそれでは
ただの自我のコレクションです。

でね、
私達は「無」はわからない。
消えゆくのかどうかも知らない。

だから
「空」とか「無」とかの「説明」は
補助輪みたいなものなんですね。

言葉に真実があると思い込んで
しがみつくことがなければいいなと
思います。

「夢みる私じゃいられ

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全部ウソだしこの身もウソ

ということは全部ほんとでしょ。

この身に起こることも
この身にとってはほんとのこと。