クロ

グダグダの人生から常に癒しを求めてた主婦です。 心理学を学んで少しずつ生きるのが楽にな…

クロ

グダグダの人生から常に癒しを求めてた主婦です。 心理学を学んで少しずつ生きるのが楽になり始めた時、非二元のメッセージに出会いました。 そして、癒しが必要な主体などないことに気付きました。 だけど今は非二元も、「非二元」というメソッドだという感想です。

マガジン

  • 「ある」のお話、「人生」のお話

  • 探求してきて思うこと、

  • 言葉のチョイスなく書いたあれやこれや。

    noteに記事をアップする際は、一応言葉のチョイスを気にしています。 が、ここは、言葉のチョイスを気にせず書いたあれやこれや。 「私」が利用できると思ってしまうかもしれんなぁ~、 と思いながら書かずにはいいられなかったこと。 だけど書いてる内容は他の記事とよく似たもので、たいしたことは書いてない笑

  • わからない話(わかっちゃダーメなんだよ~)

    言葉にできない話と言いながら無理やり言葉にしています…

  • 非二元メソッド

    非二元は「非二元メソッド」というメソッドだと思っています。

最近の記事

非二元を「役に立たせる」方法だったりして。

いくら癒しのセラピーを受けようと 本心全てを吐き出させてあげるのと同時に それを引き受けるのは誰でもなく自分しかいない ということを深く知らなければ セラピーのリピーターになってしまうんよ。 癒し業界にとっては それこそ「いいお客さん」でしかない。 で、 セラピーリピーターから脱するという意味では 何の役にも立たないと言われる 「非二元の理解」はすごく役にたつんよね。

    • 私をなくしたい!私の人生のために!

      めっちゃ久しぶりの投稿です。 noteの投稿は止まってましたが、夢ワタのスタンドFM放送は止まらずに続いていて、ついに500回を こえました^ ^ 毎度よくわからない話を聴きに来て下さってるみなさんには、ほんと感謝感謝です。 ありがとうございます。 で、久々に何を書こうかと思ったのですが、 やっぱり非二元のnoteらしく 「私」について思ってることにしてみようかと笑 私は「私はいない」というフレーズは 非二元界隈では結構ポピュラーになったと 思ってるのですがどうですか

      • どれをとっても「ありのまま」

        気持ちが楽な状態の方だけを ありのままと思ってない? 入りとしてはそれもいいだろうけど。 まずは わかってるこの認識、 この「わかってる」が楽にならないと 入ってこない話だと思うから。 だけど、 ありのままって、 悲しかろうが 痛かろうが 人生どん底感半端なかろうが 満たされた感でいようが 「気づきの意識」でいようが 何もかも ありのままといえばありのままなんだわ。 「思考に飲み込まれている」状態でも 「気づきの意識」状態でも 優劣はない。 それが、ありの

        • 「ここから」も「私」もいっしょ。どっちでもいいって。

          本質とか気づきの意識とか そういった気づきが こういう発信をしてる人達に 起きたのだろうと思う。 でもそれも こうして語ってる段階で 「私」の範囲に収まってしまうんよね。 全て、 「私」に収まる話なんよ。 非二元の話も。 悟りも。 「ここからは」とか言って「私」と分けようと する人いるけど、おんなじね笑 (分けとるがな!って話だけど…) 「ここから」でも「私」でも どっちだっていいんだわ。 本質と この現実が離れてないとするなら そして本質は本質だけとし

        非二元を「役に立たせる」方法だったりして。

        マガジン

        • 「ある」のお話、「人生」のお話
          20本
        • 探求してきて思うこと、
          16本
        • 言葉のチョイスなく書いたあれやこれや。
          17本
        • わからない話(わかっちゃダーメなんだよ~)
          61本
        • 非二元メソッド
          83本
        • 夢わたスタエフ関係
          2本

        記事

          「わかる」だけでしょ?

          言葉というのは面白いよね。 何も知らない、と言った途端 「知らない」を知ってる、 ということになってしまう。 別の言い方で 「わからない」と言った途端 「わからない」を わかっていることになってしまう。 「ない」と言った途端 「ない」が私の範疇に入る。 つまり、「ある」んだな。 「わかる」のみで「わかる」が「私」だ。 そしてそれだけ。 実はそこに 「わからない」がぶっ込まれていても、 「わかる」のみなんだよね。

          「わかる」だけでしょ?

          ノウハウなどないという「ノウハウ」

          やっぱりノウハウ人気なんだよな。 なりたい自分になれる、欲しい未来を手にできる、そういうノウハウが人気。 だけど非二元は、 もうそういうノウハウから手を引きましょう という提案をしているということだわね。 ね、もう手を引きましょう。 自分などいないのだから。 ほら、 そういうノウハウから手を引くためのノウハウを ご提供しますよ♪ って。 あれ?笑 気づかないのよね。 自分などいないと知ったら(自分が)楽に生きられる、というなんともおかしなことになってると。

          ノウハウなどないという「ノウハウ」

          人生は何で出来てるか?の1つの答え

          他人に認めてもらうことに意義がある。 それこそが 他人がいるから私がいられる、 と思っている証拠。 だけどここでもう一つ深掘りして、 それを思っているのは? と戻ってくる。 そうすると、 他人がいるから私がいられる、と 私が思ってるんだよ。  ということがわかるよね。 他人に認めてもらうことに意義がある、 と思ってるのは「私」なのさ。 全部は私→ここの思い。 この思いしかない。 この思いによって人生は出来ておりまする。 もっと言えば 人生があると思っている。

          人生は何で出来てるか?の1つの答え

          「出たもの」しかないじゃない。

          あのね、 ことごとく「私」とは何のことか 確認してみるといいと思うよ。 「私」ってね、 「出たもの」なんだよね。 その時出たものが、そのまま私、自分なんだ。 嘘だと思うなら、ちゃんと確認してみて。 考えた時、考えしかない、いや、考えだ。 感じた時、その体感しかない。 しかない、という言い方、 〜だけ、〜しかない という言い方をすると 何かの中のナニカ、みたいに聞こえるだろうけど そういうんじゃなく、 もう、考えだ。 体感だ。 ということね。 (この辺は、そ

          「出たもの」しかないじゃない。

          グルっと回って「わかりません」

          思考が働いている時にだけ 「これはなんだ?」という 「存在」、「私」というわけのわからなさを 感じることが出来るんだな そしてこのわけのわからなさ加減は 認識が起こって 思考が働かなければない この認識自体は記憶ではない、 とも思える…… ほら どうやったって 思いになってしまう… だから 思った時、思いしかない 認識の時、認識しかない それは何なのだ!?となった時 それは何なのだ!? しかない やっぱり どっやったって 「存在の」「私の」「思考の」「認識の」

          グルっと回って「わかりません」

          「ある」のよ、そこが大前提なのよ。

          そもそも全てが 「私がいる」前提の話にしかならない。 そういう前提の元でしか言わない。 存在していると信じてるから存在してるのだろうし なので そこからしか言えないというのは そらそーだ、とも思う。 悟ろう!とか言ってる人もそうだよね。 そのままだ、と言ってる人もそうだよね。 「私」はいないけど 「個人」はいないけど 「ここ」は「ある」となるねー。 だけど そもそも存在してるのか? と問うてしまうのですが、どうでしょう? いやね 「存在してない」とは言ってないんだ

          「ある」のよ、そこが大前提なのよ。

          その悩み、全部「私事」です

          恋愛の問題は恋愛の問題じゃない。 お金の問題はお金の問題じゃない。 全ての問題はそれが原因じゃない。 そういうと、 ああ、 根っこは親子の問題って言いたいんでしょ? と言う人もいるかなー。 うん、そうね。 だけどやっぱり、 グルッと回って「自分」なんだわな。 親がいて その親から自我が形成された…って、 一般的にはそうだし、 別に間違ってないと、思う。 でもみなさん、 ここはそんなことを言う場でないのは ご存知ですね笑 親はねー、 私の中にしか、いないんだな。

          その悩み、全部「私事」です

          思考を放っておけるようになったんです!←放っておいてるのは何?

          「思考を放っておけるようになったんです。」 ↑ まだそんなん言うてる人いますね。 思考を放っておけるようになったら、 そのままさが現れて、 そのままで生きられるようになったって…。 思考を放っておけるようになる前は、 そのままで生きられなかったんでしょうかね。 うーーん。 思考を放っておけるようになった! そのままでいられるようになった!! と言うそれ、 そう言ってしまうそれは、何なんでしょうね。 実は 「思考を放っておけるようになる前」も 「思考を放っておけるように

          思考を放っておけるようになったんです!←放っておいてるのは何?

          「わかったように」振る舞えるのって、すごくない!?

          あの有名なCMのフレーズあるじゃないですか 「結果にコミット」って。 だけど 結果にコミットするんじゃなくて、 いつも 結果なんだな。 コミットする側がないねという話をしてる。 だけど、 「ああ、結果しかないんですね」という時、 コミットするものが もう出来てしまってるんよね笑 だけどもうね、 そういう形にしかならない。 で、実際のところ そのいつもそうである所の「結果」は いつも結果であるはずなのに何もわからない。 それでもって 「いつも結果」とさんざん言ってお

          「わかったように」振る舞えるのって、すごくない!?

          ズレていて、そして一致している

          スタエフで、「身口意一致」をテーマに喋ったんですよ↓ 「心頭体はすでに一致している!とかしてないとか」 でね、 言葉を、言葉の意味そのままじゃないところにも一致があるのよ。 というか、それで一致してるのね。 発している言葉と、思っていることが違う。 違うなー、ということだけが起こってる。 ザワッ、モヤッとあって、 なんか違うけど…そう言っちゃった… ということだけ、起こったんよね。 ズレていて、それが一致しているんだ。 「ありがとう」は、感謝の意味だけじゃない。 皮肉

          ズレていて、そして一致している

          いつのまにか「私」の支配下に置いてしまう、そしてメソッド化してしまう…。

          「非二元の話は役に立たない」とか 「使えない」とかのフレーズ、 この非二元界隈ではちょくちょく出てくると 思うのですが。 この、「使えない」というのは、 「私」が何を思おうが何をしようが、 その気づきはそんな事とは全く関係がない、 全く関与しない、 1ミリの絡みもない、 とわかった、という、 それだけのことなんですね。 「この話は(非二元は)、個人が使えるような 話ではないからね、しょうがないよね」と、 「私」の支配下に置いて、道具のような感覚で 「使える、使えない」と

          いつのまにか「私」の支配下に置いてしまう、そしてメソッド化してしまう…。

          思考を放っておく??

          思考してるときはダイレクトに思考ですね。 思考してるときは思考しかなく思考そのもの です。 なので、 「思考を放っておく」とか 「思考を見る」とか 出来るわけないですね。 「この思考を放っておこう」としたとき、 すでに↑「この思考」はありません。 「この思考を放っておこう」という思考になって いるだけです。 そして、 「放っておきたい思考」が気になって 「放っておけない、私はまだあの思考が放って おけてない!」と、 「あの思考が放っておけてない」思考になるんですね。

          思考を放っておく??