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短文学集

25
筋も思想も体系も、全部気にせず楽しむことを短文学と称して日々の感傷を綴る。
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#小説

門前の人にも橙を

門前の人にも橙を

 手袋すらつけていない指は、もうハンドルの感触を伝えない。突風でも吹けばあっという間にバランスを崩してしまうだろう。その拍子にチェーンが外れてしまえば、このかじかんだ手で直すことはもう不可能だ。
 寒さは夜の町を覆って、この世界から私の居場所を奪うように、肌の表面から少しずつ浸食し、心臓にまでその手を伸ばそうとしている。こんな小さな折り畳み式の自転車では、どこまで走ろうとも逃げ切れそうにない。
 

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年輪

年輪

 口の中に血の味が広がる。
 左腕を伝う血液を舌で受け、肘の辺りから自分の腕を見上げた。青白い、死んだ魚の腹のような色をした細長い腕。その、手首より少し下の裂け目から、この赤い水は湧き出している。それが幾筋かに分かれながら、ちろちろと流れ落ちている。

 流れる途中で、いくつもの傷痕をまたいでくる。小さく隆起したそれが連なる様は、地層の断面を見ているようで私は気に入っていた。小さな赤い流れはこの隆

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霧向こうの紅

霧向こうの紅

 夢の中の私は少年で、同じ年頃の子供らの群れにいた。やたらと重たい色をした校舎の壁が酷く私を圧迫し、無邪気な他の子らの声は膜の向こうで鳴っているように遠い。教室は曖昧な私の意識を反映したように、隅の方でぐにゃりぐにゃりと、ところどころ歪んでいた。
 私はただ帰りたくて。まだそれが出来ないと知っているから、イヤホンを両耳に刺した。あの甲高く光沢のある金属質の笑い声や、木製の床を椅子が引っ掻く音。避け

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ため息の代わり

ため息の代わり

 いつもよりも早い時間、チャイムの音を合図にしてクラスメイトたちはいそいそと席を立つ。試験期間中に与えられる普段よりも長い放課後を、真面目に勉強にあてるもの、遊びの計画に浮足立つもの。いずれにしても、みんなそそくさと教室を出ていこうとする。

 私は、ぐずぐず荷物をまとめる。文房具と少しのテキストしかない、やけに隙間の多いカバンをいつまでもひっかき回している。まだこの部屋に残っているのは、休憩時間

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忍び泣き

忍び泣き

 その日は大きめの低気圧がやって来ていて、予報通り空は一日中暗い雲に覆われていた。数時間に一度、雨風が窓を強く揺らしては去っていくのを、私はずっと布団の中で聞いていた。
 昔から空模様と体調が比例してしまう体質で、せっかくの休日に何も出来ないまま。それもあと四時間ほどで終わってしまう、という頃になってようやく布団から抜け出し、せめて空っぽの冷蔵庫をどうにかしなければ、と遅めの買い出しに出かけること

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明滅

明滅

 黄色い信号が明滅している、それだけの交差点をいくつも通り過ぎる。取り締まるべき車の流れなどとうにない。その下を早足で行く私にはまるで興味を示さない。私とて、その明滅に日中ほどの意味を認めないで、ただ足音だけを鳴らして過ぎる。

 もうどれほど歩いた。先ほどまで身体を駆け巡っていたアルコールが汗と滲み、それをもう随分夏の夜に振り落としてきた。普段は車内から見るばかりの街路樹や花を、これほどゆっくり

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緑の波

緑の波

「やあ、このようなところへ人が見えるとは」
 愛想の良い初老ほどの男が、いつの間にやら私の脇に立ってこちらを見ていた。いくら川の音がするとはいえ、歩く音が聞こえないほど夢中になっていたつもりはない。自然、向ける目線には警戒の色が混ざったろう。
「これは失礼した。物思いに耽っていて気がつかなかった。この辺りにお住まいの方かな」
 向き直って見ると、男は白髪の混じった皺の深い顔をしており、膝丈ほどもあ

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宵の劇薬

宵の劇薬

 頬に冷たさを感じて、確かめる指先が湿った。いつの間にか寝てしまっていた、そして、目が覚めてしまった。
 夢を、見ていた。開いた目に、瞼の裏と同じ暗闇が映る。少し前まで、この目に映っていたはずの光景は、もうどこを探しても見当たらない。狭いワンルームに圧縮された闇に締め付けられるような、そんな微かな痺れが、脳から手足の先へと伝っていく。
 今頃になってもまだ、あんな夢を見てしまう。そしてその夢を、あ

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底徊

底徊

 どこやらで烏が鳴いた。頭上を黒い影が幾つか、西を目指して行くのが見えた。その後を追う温度の無い風の背を捕まえて、枯葉や蛾などが逃れるように西へ流れていく。
 空が、呑まれていく。あれほど天を焦がしていた夕日の、その下に瓦を輝かせていた人家の、休耕田の僭主たる叢たちの、その全ての色彩を抜き去るほどの暗い夜がやってくるのが見える。
 随分待ったものだ。空の果てに、その影を見つけた時からもう数時間が経

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無水の金魚鉢

無水の金魚鉢

 ああ、今朝が夏との境目なんだな。見上げた空の高さでそう気が付いた。どうして高く見えるのか、取り留めもなく考えてみる。やはり、雲のせいだろうか。夏の、あの豪快に絵具をぶちまけたような入道雲に比べて、今頭上にある雲は繊細に筆を幾筋も走らせたようで、全体的に淡い。この筆づかいが、秋の訪れを感じさせるのだろう。

 きっとこの辺で、一番に季節の境目に気が付いたのは私だ。何しろ平日の朝からこうして公園のベ

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隔たり

隔たり

 隔世遺伝という言葉を知ったその日、なるほど、と思った。色々なことに合点がいきはじめた。脳を駆け巡ったのは、問題を解決した時の爽快感よりもむしろ、何か仄暗いものだった。この時、一つのジグソーパズルが完成したが、はじめから酷く歪な画だったみたいだ。
 僕が、その隔たりだ。そう、思えば、納得が、いった。そう考えることをやめられなくなってしまった。年の暮れに一族が集まったあの席で、祖父が誰かを評して言っ

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泡と煙

泡と煙

 傾けた缶から落ちる液体が、その流れを絶やした。喉を過ぎるのはアルコールを含んだ吸気ばかりで、そのことが惜しくて堪らなかった。オンラインゲームに興じる隣人の声に邪魔されぬよう、あの壁の薄い安アパートの自室から三百五十ミリの僅かな楽しみをせっかく連れ出してきたというのに。
 普段は人気のないこの坪庭ほどに小さい広場の前の路地を、場違いに騒がしい浴衣姿の一団が行き、発泡酒に余計な苦みを足して去っていく

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