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変態への道

変態」、この言葉に対して、多くの方は偏見を持たれているのではないでしょうか?

それは、「性的嗜好・性癖」といった言葉との連結によって引き起こされている固定観念だと、私は考えています。

今回は、そういった現在持っている固定観念を見直し、自分にとってプラスとなる新たな価値観を創出していこう、という話です。

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(あなたって)変態だよね。」…例としては最悪(=こんなセリフ言う人言われる人も、そうそういないw)ですが、もし、こんな言葉を言われることがあるとしたら、多くの方は愕然としたり、落胆したり、憤慨するのではないでしょうか?

私も以前なら、そのように感じていたと思います。ですが、今はむしろ言われたいし、言わせたいと思っています(笑)。

性的な印象を取り除き、単純に「変態」という言葉のみの意味を検索すると、「形態を変えること」や「標準的なものから変異した」という解説がなされています。

また、生物学的観点では、正常な育生過程において形態を変えることともされています(出典:Wikipedia)

以上を踏まえた上で、「変態」を再定義するならば、必ずしも悪い印象を与える言葉ではないはずです。むしろ、「標準的=社会的同調(圧力)」からの逸脱と考えるならば、非常に現代(個の時代)に即した言葉であるとも言えるのではないでしょうか?

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多くの方は、若年時に遅かれ早かれ、この「社会的同調(圧力)」に埋もれていく自我というモノで悩んだりしてきたことでしょう。

もちろん、「社会的同調」には、規範やルール、常識の形成といった倫理形成する上で必要な機能を果たしている側面もあります。

ですが、いつしかそこには「同調バイアス」が生じ、場合によっては逸脱者に対する「数の暴力」が起こります。「みんなと同じ=正解」なんて等式は存在しないというのに…。

こういったことが容易に想像できるからこそ、多くの方が苦悩されるという悪循環が起こるのだと私は思います。誰しも、孤立化したくはありませんからね。

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かつて、ドイツ帝国にオットー・フォン・ビスマルクという宰相がいました。

ビスマルクの名前を知らない方も、この言葉は聞いたことがあるので話でしょうか?

「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」

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ということで、少し「歴史上の変態的思想家(仮)」という観点から、「変態とは何か」について考えてみましょう。

私が真っ先に思いついた人物は「コペルニクス」です。

後に「天文学史上、最も重要な発見」とされる「地動説(太陽中心説)」を唱えた人物です。

ここでは多くの重要な史実は省きますが、「天動説(地球中心説)」が「常識」であった時代において、コペルニクスの考えは、どれほど異端(=変態的思想)だったのでしょう。

歴史に疎くて恐縮なのですが、日本史においては、「一の谷での戦い」における源義経の「鵯越(ひよどりごえ)の奇襲」も挙げられるのではないでしょうか。(=馬に跨り、崖を下って平氏の陣に奇襲をかける話。)

あくまで個人的な考えですが、「歴史は逸脱者(変態)によって築かれた」というのは…まあ、極論ですが、それでも「みんなと同じ=正解」ではないことは感じてもらえたのではないでしょうか?

現代では「(破壊的)イノベーション」をもたらす者も、「変態的思想家(仮)」です。「常識を疑え」なんて考え方は、まさに「標準的なものから変異した」人でなければ、発想すらしないでしょう。

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文字数も増えてきたので、そろそろまとめますが、今回の「変態」という言葉に対するアプローチは、「大多数と違う=変態」の意になります。

人は「孤立」や「孤独」を避けたいと行動します。それは、「ホモ・サピエンス」として私たちの原初の記憶に刻まれた本能であると考えられます。

集団的自衛、集団的生存のために高度なコミュニケーション能力を得たのが現在の人類が栄えた要因の一つだと思います。

ですから、「社会との同調」というのは、とても自然な行為であり、それを否定しているわけではないことを、ご理解していただきたいと思います。

その上で、各人が変容し、それを受容する社会が、今後求められていると個人的に考えています。

だからこそ、「変態」という言葉を用いて説明させていただきました。

ということで、皆さんも「孤立や孤独」ではなく「孤高なる変態への道」を歩んでみませんか?

今回の投稿は以上です。


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