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「介護時間」の光景㊵「ソファー」。1.5.

 私は、2年前まで介護をしていました。

 介護を始めて、仕事もやめ、その時間の中で、家族介護者に対してこそ、気持ちの面のサポートが必要ではないか、と思うようになりました。生意気かもしれませんが、そのころは、そうしたことを担当する専門家がほとんどいないように思えたので、自分でなれないだろうか、と考え、臨床心理士になろうと思いました。

(もし、よろしければ、ここをクリックしていただければ、少し長いですが、私の経歴の概要が分かっていただけると思います)。

 この『「介護時間」の光景』のシリーズは、介護中の記録です。

 今回は主に19年前の2002年1月5日のことですが、1999年から介護を始め、自分の母親だけでなく、妻の母にも介護が必要になり、私自身が心臓の発作に襲われたこともあり、仕事もやめて、介護に専念する毎日でした。そうした日々の中で、周囲の小さい違和感などに対して、今よりも敏感だったように思います。

終盤に少しだけ、2021年1月5日のことを書いています)。

 2002年当時は、自分の母親は病院に入ってもらい、そこに毎日のように通い、自宅に帰ってきてからは義母の介護を妻と一緒に続けていた頃です。2000年の夏に母が転院してから、2年目でしたが、まだ周囲を見る余裕もない頃だったと思います。

 その日の記録です。

2002年1月5日

 「母の病院。
 午後4時頃着く。
 母は、今年初めて会ったように、というより、2日前に初めて会った時と同じようだった。

 あけましておめでとう。今年もよろしく と言われる。

 年が明けて初めて会ったと思っている。

 整形外科医誰だっけ?
 Sさんでしょう。
 あ、そうか、忘れてた。

 一瞬、何のことか分からなかったが、もう何年も前のことだと思いながら、答えたら、少し通じたらしい。

 今日も院長さんが病室に来てくれたらしい。
 弟については、「大みそかに来て、それから来てないのよ」と言っていたが、それは正確な事実だった。

 病棟の廊下を散歩がわりに歩いていると、壁に母の「書き初め」が貼ってあった。それを見て、母は素直に喜んでいた。

 メモに「マラソン 31位」と駅伝のことが書いてあって、それは弟の母校のことのようだった。

 午後5時にトイレへ。10分後に、またトイレへ。

 一緒にテレビを見ていたら、CMに宇崎竜童が出てきて、
「ほら、岡村中の……ねぎ」
「いや、ゆずだって」。
 一緒に笑う。

 ゆずは、親戚の地元出身だということを、母はまだ覚えていた。

 夕食までに、また2回トイレへ。
 35分で食べ終わり、またすぐトイレへ行く。

 6時45分に、またトイレへ行き、午後7時に病院を出る。
 寒い。
 この寒さを去年も確かに味わったはずなのに、本当に記憶にない。
 

 また風邪気味で、弱い自分が嫌になる。
 何もしていないのに」。

ソファー

 夜の8時30分頃。川崎から乗った京浜東北線。
 やけにすいている。
 横に長い7人がけのイスに誰も座っていない。
 乗ってから、そこへ座る。
 青く、やけにほこりっぽいのが気になる。人数が多い家庭の、時には土足でも乗っているような、あまり掃除していないソファーという感じだった。

                         (2002年1月5日)

 それから5年後、2007年には母親を亡くし2018年の12月には義母が亡くなり、介護も終わった。


2021年1月5日。

 2020年の大みそかには、東京都内の新規感染者が1000人をはるかに超えて、新年を迎えたので、ただ不安を持ち越しただけのように思った。

 個人的には、今年は喪中でもあるので、あまり正月らしいこともしないせいもあるかもしれないが、新年が明けてから、再び緊急事態宣言が出るのではないか、といったようなニュースが出ていて、明ける、という感じがしないまま、3が日も過ぎた。

 1月4日も、感染者が800人を超えて、しかも重症者も100人を上回ったと聞いた。

 そんなニュースばかりを聞いているせいか、眠りも浅いというか、変な夢を見たせいか、気温も低く、寝ている時も寒いような気がして、体調も微妙に悪くなって、不安になり、気持ちも暗い方向にしか進まない。

いつもの光景

 家の前の道路から、子どもたちの元気な声が聞こえてくる。
 近くの保育園か幼稚園と思われる子たちが、やや抑えた青い色のお揃いの帽子をかぶり、付き添いの大人とともに列を作って、通り過ぎて行った。

 当たり前だけど、いつもと同じように元気に見えた。

 午後2時頃、近くの河川敷の様子を見に行こうと思った。その途中にある、大きいマンションの敷地内の小さな公園みたいな場所で、幼い子どもを連れた親同士が、明けましておめでとうございます、と穏やかにあいさつを交わしている。その子どものうちのひとりは、自分が出せる限界の高くて大きい声を出そうとして叫んでる。そこに他の子供達が寄っていく。

 それを見ながら、通り過ぎて、階段を登って、河川敷が一望できると、そこには、いつもの光景があった。

 土手の道を走る人がいる。グランドには子どもを乗せられる仕様の自転車が何台も止めてあって、親も子供たちもいる。野球部の練習は整然と距離をとって列を作りながら準備運動をしていて、見たばかりの「教場Ⅱ」の警察学校の場面を思い出させる。この印象は何十年も変わっていないと思う。

 自分がやたらと不安になっているのがバカバカしく思えるほど、河川敷はいつもと一緒だった。

 そこから家に戻る時に、高校のそばを通るのだけど、校門の外へでた女子高生3人と、校舎の2階にいる2人が大きい声で会話をしていた。

 当たり前だけど、年齢や立場によって、今の状況への不安の濃度や日常の過ごし方は、全く違ってくると思った。


 家に帰ってきて、ニュースで、また、不安が高まる数字を知った。
 1月5日は、東京都内の感染者は、また1000人を超えた。



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