「介護時間」の光景(53)。「風景」「さくら」。4.13.
いつも読んでくださっている方は、ありがとうございます。おかげで、こうして書き続けることができています。
この『「介護時間」の光景』を、いつも読んでくださってる方は、「2007年の頃」から読んでいただければ、これまで読んで下さったこととの、繰り返しを避けられるかと思います。
初めて読んでくださっている方は、見つけていただき、ありがとうございます。
私は、臨床心理士/公認心理師の越智誠(おちまこと)と申します。
自己紹介
元々、私は家族介護者でした。介護を始めてから、介護離職をせざるを得なくなり、介護に専念する年月の中で、家族介護者にこそ、特に心理的なサポートが必要だと思うようになりました。
ただ、そうした支援をしている専門家が、自分の無知のせいもあり、いるかどうか分からなかったので、自分で少しでも支援をしようと思うようになりました。
それは、分不相応かもしれませんが、介護をしながら、学校へも通い、臨床心理士の資格を取りました。2019年には公認心理師資格も取得しました。現在は、家族介護者のための、介護相談も続けることが出来ています。
「介護時間」の光景
この『「介護時間」の光景』シリーズは、介護をしていた時間に、どんなことを考えたのか?どんなものを見ていたのか?どんな気持ちでいたのか?を、お伝えしていこうと思っています。
それは、とても個人的なことに過ぎませんが、それでも家族介護者の気持ちの理解の一助になるのではないか、とも思っています。
今回も、昔の話で申し訳ないのですが、前半は「2007年4月13日」のことです。終盤に、今日、2021年4月13日のことを書いています。
2007年の頃
1999年から介護が始まり、2000年に、母は転院したのですが、私は、ただ病院に毎日のように通い(リンクあり)、家に帰ってきてからは、妻と一緒に義母の介護を続けていました。
ただ、それ以前の病院といろいろあったせいで、うつむき加減で、なかなか、医療関係者を信じることができませんでしたが、少しずつ信頼が蓄積し、母の症状も安定し、4年が経つ頃には、少し気持ちが変わってきました。
介護は続けていたのですが、それまで全く考えられなかった自分の未来のことまで、少し考えられるようになったのですが、2004年に母にガンが見つかり、手術し、いったんはおさまっていたのですが、翌年に再発し、それ以上の治療は難しい状態でした。
そのため、なるべく外出をしたり、旅行をしたりしていましたが、2007年の2月に熱海に出かけられた後は、だんだん症状が重くなり、栄養を入れるための点滴をするのか。病院を移るのか、といったことまで、検討されるようになりました。
それでも、血液が固まりにくいという状態のために、病院を移ったりする話はなくなり、ずっと生活してきた病院にいられることに、少しホッとはしていましたが、毎日、いつ、急激に症状が悪くなるのかも分かりませんでした。
そのころの記録です。
2007年4月13日
『午後12時頃に病院に着く。
母は、夜に二回、失禁したらしい。
また、どんどんボンヤリしていくんだろう、と不安に思う。
昼食は、カレーで、前は好きだったのだけど、2割くらいしか食べていない。
体温を測りにきた人に対して、それでも、何かの話題から、弟の通っていた大学の自慢を、母はしていた。
結構、あちこちというか、ダルいはずなのに、体調を尋ねると、明らかにぼんやりしていたり、ぐったりしているように見えたりするのに、「大丈夫」と答え続けていた。
午後2時に病院を出た。
今日は、用事があって、病院に行ってから、次のいく場所があるので、早めに病院に来させてもらった』。
風景
湘南新宿ラインは、いつも見ているけど、乗って、しかも横浜よりも遠いところに行くのは初めてかもしれない。横浜までは同じだけど、そこから大崎までは、かなり長い距離があるせいか、電車がすごく飛ばしているように思えた。
4人がけのボックス席の窓際に座ったので、外の景色がいつもよりよく見える気がして、窓際の席を選ぶ楽しさみたいな事まで思っていた。
ごく普通の駐車場にあるような、ひし形になっている色のついた金網が、窓の途中まで、形がくっきりと分かるように目の前に迫ってきて、ある地点を越えると急に溶けていくように急激にスピードを上げて去っていく。次々と。次々と。
さくら
電車の窓から殺風景な駐車場が、ちょっと遠くに見える。
そこに、さくらの花びらが何枚か落ちているのが見える。
それも、この距離でも明らかに少しくたびれた花びらなのが分かる。
周りのいろいろなものの飛び方を見ていると、どうやら限りなくOに近いUの字のように吹いている風に、その花びらも、つられるように進んで、曲がって、また元の位置の近くに戻って、また進んで、踊るように、でもぎこちなく動いている。それが、繰り返されているのが、通り過ぎる少しの時間だけ見えた。
(2007年4月13日)
母は、2007年の5月に病院で亡くなった。
その後も、義母の介護は続いたが、2018年の年末に、義母が突然亡くなり、急に介護が終わった。
2021年4月13日
1ヶ月に一度はずっと歯科医に通っているのだけど、どうやら歯の質が元々弱くて、だから、急に一本折れて、それを根本から抜いてもらった。
歯が減ると、どんどん老いていくようで、悲しくなる。
それでも、なんとかしてくれると歯科医は言ってくれるので、任せるしかないし、次の診察まではまだ日があるのに、じわじわと痛い時があった。
歯を抜いたとはいっても、そこが傷になっているから化膿止めも飲んでいるし、痛いのも仕方がないのだけど、寝る前は痛み止めを飲む日が続いていて、それもあって、気持ちが沈んでいた。
それに、そういえば、個別の介護相談の必要性を、いろいろな場所で伝え始めてから、10年くらいが経つのに、広がっていかないことを、よく思うようになった。
それは、自分の至らなさを繰り返し考え、だけど、これ以上、何をどうしたらいいのか分からない時に、そうやって微妙な痛みとともに生活をしていると、やたらと、生きている意味について考えて、なんで生きているのだろう、と思ったりすることも多くなり、そうすると、コロナ禍とはいえ、何もしてない自分に、嫌になったりする。
イチョウ並木
そんなことを思って、ため息をついているときに、妻が、近くの並木のイチョウが面白いと教えてくれた。
それは、割と古くからあるイチョウの木で、伸びて、剪定されて、また伸びての繰り返しで、木肌の一部が岩肌のようになっているのに、そこに新しい緑の葉っぱが顔を出して、その光景がかわいい、ということで、一緒に歩いていく。
そこは、普段、何度も目の前を歩いていたはずなのに、気がつかなかったような光景だった。近くで見て、そして見上げて、なんだかすごいことだと思いながらも、写真も撮った。
あちこちに新しい緑や、あまり知らない花も咲いていて、見えているのに、どれだけ見えていなかったかを教えられたような気がした。
30センチ動いたコバノタツナミソウ
玄関の外側には、雑草の花が咲いていた。
それは、コバノタツナミソウという名前だと、妻から教えてもらった。
その草は、昨年は、玄関の中、掃き出し口に双葉が生えていて、その後、いつの間にか、なくなってしまっていたが、それと関係あるのかどうか分からないものの、その位置から30センチくらい先、外へ向かって移動したような場所に、今年はコバノタツナミソウの花が咲いていた。
とても可愛い、と妻は笑顔だった。
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