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介護について、思ったこと⑥「優生思想」の怖さについて。

 いつも読んでくださる方は、ありがとうございます。
 そのおかげで、こうして書き続けることができています。

(この「介護について、思ったこと」を、いつも読んでくださっている方は、「優生思想の怖さについて」から読んでいただければ、繰り返しが避けられるかと思います)。

 初めて、読んでくださっている方は、見つけていただき、ありがとうございます。

 臨床心理士/公認心理師越智誠(おちまこと)と申します。

 私は、元・家族介護者ですが、介護中に、介護者への心理的支援が足りないと思い、生意気かもしれませんが、自分でも専門家になろうと考え、勉強し、学校へ入り、2014年に臨床心理士になりました。2019年には公認心理師の資格も取りました。

 さらに、家族介護者の心理的支援のための「介護者相談」を始めて、ありがたいことに8年目になりました。

(よろしかったら、このマガジン↓を読んでもらえたら、これまでの詳細は分かるかと思います)。

介護について、思ったこと

 このnoteは、家族介護者に向けて、もしくは介護の専門家に対して、少しでも役に立つようにと考えて、始めました。

 もし、よろしければ、他の記事にも目を通していただければ、ありがたいのですが、これまでは、現在、話題になっていることよりも、もう少し一般的な内容を伝えたいと思って、書いてきました。

 ただ、今回は、インターネット上で話題になり、そのことについて、改めて、いろいろと気になったことがあったので、私が語る資格もなく、能力も足りないかもしれませんが、お伝えしようと思いました。

 もし、よろしかったら、読んでいただければ、ありがたく思います。

「優生思想」の怖さについて

 1週間ほどたつと、現在の社会では「古い」話題になってしまうのかもしれませんが、インターネット上での「差別発言」が問題視されたことがありました。

「ホームレス」や「生活保護」など、特定の人たちを名指しして、その人たちの命を軽く見るような発言をした人物がいて、非難されて当然のことだと思いました。そこから、その人物が謝罪をして、それ自体がさらに本人の収入につながったりすることもあり、さらにまた非難されることまでありました。

 こうした人物に対しては、「優生思想」の持ち主として、厳しく批判されることが一般的です。

「優生思想」は、とても短くすれば「その人の能力などによって、命の重さに違いがある」といった思想と言っても、それほど大きくはずれていないとは思うのですが、例えば、「優生思想」の持ち主として非難されたとしても、そうした発言をした人が、自分の思想について、本当に内省してくれるような気がしません。

 まずは、ナチスドイツのような、そんなに大げさなことを思っていない。次に、でも、優れた人間が優遇されることや、何も生産しない人が軽視されるのには一理ある、といったことを、「反省」をした後でも、「本音」の部分では、言いそうな気がします。

 だって、みんな迷惑と思っているんじゃないですか?といった言葉と共に。

 こうした「発言」や「事件」が、形を変えて、何度も何度も起こることが、怖いと思います。個人的な身近さで言えば、認知症の人に、その「排除の思想」がいつ迫ってくるかと思うと、さらに怖さが増します。

相模原障害者殺傷事件

 2016年に「相模原障害者殺傷事件」が起こった時、その事件そのものだけでなく、この容疑者の発言も、社会に衝撃を与えたと思います。

容疑者が,「障害者は不幸を作ることしかしません。障害者を殺すことは(人類の)不幸を最大まで抑えることができます」(括弧内筆者)と言うとき,そこには,「生きるに値しない生命を殺すことで人類に幸福をもたらすことができる」という積極的な信念がある。

 この犯人の「思想」は未熟すぎるのですが、「優生思想」そのものは、かなり長く言われてきていて、例えば、ナチスの思想的なバックボーンともなったと言われるA・ホッヘの発言もあります。

彼は,ドイツにおいて推定で2万人から3万人いる重度知的障害者に対し,莫大な財が国民負担から「非生産的な目的」のために費やされていると指摘し,重度知的障害者の世話をするだけで施設は精一杯,介護職員はまったく実りのない職務に拘束され,生産的な仕事から離れざるを得ないのだと述べる。

さて,私たちは,A・ホッヘのこの言葉を完全に否定することができるだろうか。「重度の知的障害者は完全なる精神的な死の条件を満たす」という,人間の生命に対する線引きを一度は拒否することができたとしても,それと財政的な負担や介護労働の困難さとがパッケージで示されたときに,私たちは「生命への線引き」に抗うことができるだろうか。生活感情に迫る素朴な功利主義へと滑り落ちていくことはないのだろうか。(富永健太郎)

一般の反応 

 最近の「ホームレス」や「生活保護」に対する「差別的な発言」に対しても、どうやら非難だけではないようです。それと同様に、「相模原障害者殺傷事件」の時も、それが否定されることだけではない、という反応もありました。

 とても個人的なことですが、長く会社に勤め、子供も育てている、社会的には私などよりも立派と思われるような男性が、冷静に「あの犯人の言うことにも一理ある」という言葉を発するのを聞いて、ちょっとショックを受けたことがありました。

 小さくて、もろくて、誰かのケアがなければ死んでしまうような人間の子供を育てた経験もあるのに、そして、こういう言い方もどこか傲慢ではあるのですが、自分自身も、子供も、事故などで障害を持つ可能性があるにも関わらず、そんな言葉を聞きました。

 その「一理」が存在している部分は、「財政的な負担や介護労働の困難さ」に、家族の大変さも加えられて、だから,「私の目標は重度重複障害者の方が家庭内での生活,及び社会活動が極めて困難な場合,保護者の同意を得て安楽死できる世界です」というような容疑者の主張だと思われます。

 私は、その犯人の主張は、「一理」も認めてはいけないと思っていました。それは、認知症の家族を介護をしていた、という個人的な理由もあるかもしれません。

マイルドな優生思想

 こうした「一理あるという考え」に対して、「自分や家族が障害を持った場合を想像してみる」といった主張をしてもほとんど無駄なのではないか、と最近は思うようになりました。

「想像してもらう」ことが、有効であれば、同じような事件が起きたときに、「一理ある」などと言われるようなことは、時代が進めば、なくなるはずだったので、「想像力や共感力」に訴える方法は、何かが根本的に違うのではないか、と思うようになりました。

 本当に正確かどうかは、計測が不可能だと思いますが、精神科医の斎藤環氏の、「たぶん人口の7割くらいはマイルドな優生思想持ってるからね」という言い方には、とても、説得力を感じています。

 だから、こうした発言も、事件もなくならないのではないでしょうか。

 そして、私自身も、もし家族の介護をしていなければ、もしかしたら「マイルドな優生思想」を持っていたかもしれません。それくらい根強いものがあると感じ、だから、より怖いと思います。

「もし、自分だったら」

 「マイルドな優生思想」は、こんな形としても、現れていると思います。

「もし自分だったら」という言葉を用いて、いとも簡単に物事を判断し、結論を下してしまえる人たちもいることです。
 たとえば、次のようなことも本当によく口にされたり、書かれたりします。

「自分なら、延命治療をしてまで生きていたくない」

「もし認知症になって人に迷惑をかけるくらいなら、自分は絶対に死を選ぶ」

「もし事故で半身不随になったら、自分は安楽死を希望する」

 こうした発言が「マイルドな優生思想」になるのでは、とはあまり言われないかもしれません。

 ただ、妙に聞こえるかもしれませんが、健康である今の自分が、(未来の)「障害を持った場合の自分」を、死に至らしめようとしている発言であることは間違いありません。

 今の健康な自分と、(未来の)「障害を持った自分」が、同じ思いである保証もないのに、もし、こういうことが法制化されたり、文書化され、安楽死が実施されるようになれば、それは、「優生思想」に基づいた行為になると思います。

 こうした発言をする方々を責める気もありませんし、「優生思想」の可能性を指摘しても反発をされるだけでしょうし、自分でも、こうした思想が全くないかと言われると自信はありません。

 それでも、個人的にはまだしも、医療関係者や、著名人が、公的な場で、自分なら、延命治療をしてまで生きていたくない」といった言葉を語るとすれば、それは「マイルドな優生思想」を主張している可能性がある、という指摘がされてもいいのではないか、と思います。

 それは、「未来の自分」だけではなく、現在の「障害を持った人たち」へ、どのような影響を及ぼすかを考えれば、分かっていただけると思います。

 直接的でないとしても、こうした「思想」が広く行き渡るほど、実際に、今の時点で「延命治療が必要な人」「認知症の人」「半身不随の人」に対して、周囲からの柔らかい「優生思想」に囲まれる可能性はあります。もしくは、自分の中の「内面化されたマイルドな優生思想」によって苦しめられることもあるでしょう。

 この「マイルドな優生思想」は、それと分からないくらい、想像以上に、根深く存在していると思います。

冷たい社会という前提

 2021年の春頃、車イス利用者が「乗車拒否ではないか」といった訴えに対して、「わがままだ」という批判もされていました。

 そうした事実を知り、何となくもやもやした気持ちになったのは、とても個人的な経験ですが、介護をしていた頃に、義母を車イスに乗せて外出した時などに、親切な人も、もちろんいらっしゃって有難い気持ちになったこともありましたが、今の日本は思った以上に、冷たい社会なのかもしれない、と感じることも少なくなかったからです。

 そこから、何年も経つのに「冷たさ」が変わっていないように思い、だから、もやもやしていました。

子どもが生まれてからベビーカーを押すことが増えましたが、ベビーカーや車いす優先のエレベーターで、特に問題なさそうな人たちの割り込みを頻繁に見たり、しょっちゅう舌打ちなどを受けるにあたって、つくづく日本の社会は本当に冷たいなと感じるようになりました。

いずれにせよ、助け合いが望めない、しかも少子高齢化が進む冷たい日本にフィットしたバリアフリー新法的な世界観は、障害の有無にかかわらず実は多くの人の利益にかなっているとも思います。

年を取ったり、病気や怪我、家族形態の変化があっても、ハード・ソフトの環境整備を制度が強くもとめることで、事業者含め環境整備が進むなら、それは好ましい変化でしょう。

 これは、社会学者・西田亮介氏の、『冷たい社会を前提として、それでも障害を持った人が不利益を被らないようにするには、善意に期待するのではなく、配慮をするのが義務、という制度にした方がいいのではないか』といった提案でもあるのだと思います。


 それに加えて、この日本社会は、「マイルドな優生思想」を持つ人の方が多数かもしれない、ということを前提として、それでも障害を持つ人たちが不利益を被らないように法律を含めた制度を整備した方がいいのかもしれない。

 そんなことを、繰り返される「差別的発言」と、それが全面的に否定されない、この何十年かの状況を見て、思うようになりました。

自立支援という言葉

 この20年、介護に関わってきて、「自立支援」が強調される介護保険などの方針を考えると、いつ「頑張りたくても頑張れない高齢者」に対しての「差別的な言動」が行われるかもしれないという怖さがあります。

 認知症の人たちに対して、今でもある、「迷惑をかけてまで、生きていたくない」という声が、これから先、どれだけ認知症の人たちや、その介護をする人たちを、追い込んでいくのか分からない。

 そう思うと、今のうちに、「マイルドな優生思想」を持つ人が多数であっても、善意に頼らないような、認知症の人を守れるシステムを作る必要があるのではないか。と、繰り返される「差別的な言動」に触れて、改めて思いました。

 今回は以上です。

 飛躍した論理にも思えるかもしれません。疑問点、ご意見なども持たれた方もいらっしゃると思います。もし、よろしかったら、お聞かせ願えれば、幸いです。

 よろしくお願いいたします。



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