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アメリカにもある「Colabo問題」 「道徳的ゆすり」と政治の歪曲

スキルのない文系大卒が「道徳的ゆすり屋」になった


数日前に書いた「colaboとマスコミの『脅し文句』ビジネス」に、brothert354という方がコメントを入れてくれて、「ルンペンブルジョアジー」という言葉を教えてくれた。

「ルンペンブルジョアジー」とは、米国のジャーナリスト、レイトン・ウッドハウス(Leighton Woodhouse)氏が提唱する概念だ。


その意味は、ウッドハウスの論説を訳出したtarafuku10氏によれば、以下のようになる。(以下、太字は引用)


「ルンペンブルジョワジー」とは、ここでは生産性は低いが高給と社会的尊敬を得られる職についている大卒社会人ぐらいの意味。労働市場での競争で明確に有利となるスキルを持たない主に人文系の卒業生が各産業に入り込み、大学で吹き込まれた道徳的資本を頼みの綱にしてキャリアを築こうとする。その過程で社会がWoke化していった


ざっと、以下のような議論である。

・かつては、社会道徳を取り締まるのは右翼の役割だったが、今は左翼が社会の道徳を「検閲」している。

・その尖兵になっているのが、とりたててスキルを持たないが、左翼の社会批判概念だけは大学でたっぷり頭に入れてきた「文系大卒者」だ。

・彼らはその知識を商売道具(「道徳資本」)にして、「差別だ」「ハラスメントだ」「ミソジニーだ」と、社会の各所で難癖をつけることを仕事の一部にして生きている。

以下、tarafuku10氏の訳文から引用するとーー


90年代後半のドットコム・ブームの時期、およびパンデミック前のITブームの時期という2回の長い期間にわたって、こうした新卒の求職者の多くはデジタル経済の世界で高収入のキャリアを見つけることができた。プログラマーだけではない。人文学や社会科学を専攻した学生にも、マーケティング、人材管理、コミュニケーションなどの分野で大量の職が用意されていた。かつては理想主義的でリバタリアン的だったテクノロジー産業は、こうして押し寄せた新規採用者たちの道徳的資本を体現するようになった。一言でいえば、ウォーク(Woke)になったのである。

彼らのビジネス・モデルはシンプルだ。すなわち、強請(ゆす)りである。非営利世界の道徳専門家は、彼らのサービスにお金を支払う余裕のある公共団体や民間組織の状況を見渡し、なんらかの構造的抑圧に急性的に感染していると診断し、公に治癒と贖罪の道を歩めるように一連のサービスを提供する。マルコム・シユーネが指摘したように、ウォークネスのイデオロギーは政治的なみかじめ料取り立て屋のように機能する。

(レイトン・ウッドハウス「ルンペンブルジョアジー エリート飽和状態の代償 The Lumpenbourgeoisie : The price we pay for elite overproduction」2022 tarafuku10氏訳)


つまり、生産性の低い文系大卒者が社会にあふれたことにより、社会運動のシノギ化、道徳的ゆすり稼業が始まっている、という話だ。それで、ポリコレ、言葉狩り、意識高い系(woke)が横行する。これは、私が日本のマスコミ業界で感じた彼らの生態ともマッチして、とても面白い。

日本でのcolabo問題の背景、左派運動体と左派マスコミに共通する「人材」がどのように生まれ、現在どのように協力し合っているかを考えるのに役立つ仮説だろう。


アメリカでも暗躍する「非営利活動家団体」


そのウッドハウス氏の他の論説も読んでいると、現在のcolabo問題にもっとハマる議論を見つけた。

「職業としての活動家 Activism as a Vocation」という論説だ。


これは、アメリカで、NGOなどに依拠する政治活動家が、あるべき政治過程をゆがめている、という議論だ。ウッドハウス氏は、サンフランシスコで巨額のホームレス対策費がNGOに流れた例などを挙げている。


大体の議論の流れはこうである。

・我々が政治に期待するのは利害の調整であり、政治家に期待するのは、その調整の中で自分たちの利益を代表してもらうことである。

・しかし、非営利団体に依拠する政治活動家たちは、イデオロギー的目的を持つため、調整や妥協を目的としない。

・従来の政治の仕事は、権益の「分配」であったが、こうした活動家たちは権益を「創造」する。かつての票田は「産別労働者」などだが、現代の活動家はフーコーなどの概念を使い、それまで存在しなかった「票田」を作る。「差別された人々」「生きがたい人々」「トランスジェンダー」などなど。

・政治家がそれらの「票田」の影響力に振り回されると、妥協や調整の道は閉ざされ、政治的問題はいつまでも解決されないどころか、かえって社会的対立を強める。そして、それが活動家の目的である。


彼ら活動家の職業的関心は、対立者と利害を調整することや、有権者にとっての解決を促すことにはない。政治という概念をゆがめ、彼らの「票田」の民主主義や文明に対する被害者意識をレトリカルに膨張させることにある。

Their professional interests lie not in making deals with their opponents and generating solutions for their voters, but in further polarizing the political field and in rhetorically inflating the problems facing their constituents into existential threats to democracy and civilization.
(Leighton Woodhouse "Activism as a Vocation" 2022)


政治家と公務員の「汚職」が本丸だ


「社会の緊張を緩めることを期待して、国や自治体が予算を割き、非営利団体に事業を委託しても、彼らが活動家である場合は、(公金を奪われたうえに)社会の緊張を高めることにしかならない」

このウッドハウス氏の指摘は、日本でも真面目に考えるべきだろう。日米で同じようなことが起こっている。

NGOやNPOのあやうさは、法哲学者の井上達夫氏(東大名誉教授)も論じていた。彼らの社会に対するアカウンタビリティが曖昧で、社会に損害を与えた場合に誰がどう責任をとるのか、といった問題が、そもそもある。(今回のcolaboの例を見ても、彼らにアカウンタビリティの意識がきわめて希薄であることがわかる。)

それも含めて、colabo問題の背後にあり、colabo問題そのものよりはるかに大きな問題は、我々の政治、我々の民主主義が、活動家たちに乗っ取られつつあることである。

colabo問題では左派に焦点が当たっているが、それは、右派、左派、宗教団体、どのような活動家集団によっても起こりうる。

NGOやNPOが、公金をちょろまかしてイデオロギー活動に使うようなことは、無論よくないけれども、まあ大したことではない。朝日新聞や毎日新聞の記者が、ちょろっと偏向記事を書く程度のことだ(よくないけども)。

大事なのは、我々が選んだ政治家や、我々のために存在するはずの公務員が、活動家の方だけを向き、活動家のために仕事をするようになっていないか、ということだ。もしそうなら、それは民主主義の破壊であるが、活動家の一部は、明らかにそれを目指している。

だから、colabo問題でも、重要なのは、団体の代表を叩くようなことではなく、政治家や公務員との癒着や依存を解明することである。

私は、前の「colaboとマスコミの『脅し文句』ビジネス」で、以下のように書いた。


ダイバーシティだのSDGsだの言われても、

「うちは難しいことはわからんです。安くてうまい牛丼を出すだけです。あと、法律は守ってます。うちの何が問題ですか」

と言って無視すればいいのに。


しかし、政治家や官僚と結びついた活動家は、実際に「法律」を作って、活動家から見た「不道徳者」を犯罪者にできる。

例えば、「パワハラ防止法」や「AV出演救済法」などの作られ方に、そういう面がなかっただろうか。

(私がマスコミ内で見聞した例では、職場の左翼活動家と戦った管理職がパワハラで追放された。この例では「パワハラ防止法」は、左翼に人事権を与えたようなものである)

本当に怖いのは、彼らに政治が乗っ取られ、法も乗っ取られることだ。政治活動家には会わないように生きていけばいいし、偏向新聞は読まなければいい。しかし、社会が乗っ取られたら、我々は彼らに全面的に支配される。

繰り返すが、これはイデオロギーの左右に関係ない。colabo問題でも、イデオロギー的に見ずに、民主主義を守る観点を貫くべきだと思う。


<参考>


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