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「リベラル」の戻るべき地点 国民民主党と「反共左翼」の可能性

「リベラル嫌い」の発生


都知事選以降の日本の選挙に加え、トランプ再選は、リベラルがいかに嫌われていたかを、改めて浮き彫りにした。

リベラルは、いつからこんなに嫌われるようになったのか?


東浩紀が昨日、こんなポストをしていた。


リベラルの理念を、リベラルを自称する勢力から救いだす必要がある。


東の言うことはもっともだ。

だが、それに対して、こんなポストがついていた。


井上達夫氏の『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないで下さい』が話題になってからもうかなりの年月が流れたにも関わらず、先のアメリカ大統領選の報道を見ていても、あの連中は結局のところ何ひとつ変わっていないどころか、むしろますます劣化が進行しているだけじゃないかと。


そのとおり、井上の「リベリベ」(2015)は、同じ問題意識を、もう10年前に表明していた。

それは、第1期トランプ政権が生まれる前の危機感のなかで、出版された。

井上は、「9条護憲」さえやっていればいい、という日本のリベラル左翼の知的怠慢を、厳しく指弾したのだ。


しかし、井上の忠告を聞くリベラルは少なく、反省するどころか、この本の出版直後に、朝日新聞や立憲民主党らは「安保法制反対」「シールズ万歳」「アベガー」のバカ騒ぎに突入していく。

そして今回、トランプの再来を、しかもより徹底したトランプ勝利のなかでの再臨を、迎えたわけである。

リベラルはーーおそらく東を含めーーこの10年間、リベラルの「劣化」を防ぐことができず、むしろそれを促進させてきた。


でも、それを言うならーー


私は最近、『リベラル嫌い』という本の広告を見た。

「欧州を席巻する反リベラリズム」の潮流を、朝日新聞の記者が書いている本だ(亜紀書房、2023)。


この本の表紙を見て、こういう本は前に読んだな、と思った。

NHK記者が書いた『右傾化に魅せられた人々』という本である。


山本賢蔵『右傾化に魅せられた人々』(2003、河出書房新社)


この『右傾化に魅せられた人々』が出たのは、20年以上前、2003年だ。

著者は元NHKパリ支局長で、父・ルペンの国民戦線が台頭した頃のことをルポしている。

今は、ご承知のとおり、娘・ルペンがフランス大統領の座をうかがうほどになっている。


つまり、「リベラル嫌い」の潮流は、少なくとも20年前から始まっており、その時の問題の焦点も「移民」だった。

今さら、トランプ的右翼の勝利と、リベラルの敗北に驚くのは、おかしいと言える。


いや、それを言うならーー


このnoteで再三紹介したが、リチャード・ローティが「文化左翼」を批判したのは、1990年代の話だ。

最初にポリティカル・コレクトネスへの批判が起こったのも、1990年代初期の話である。


もう30年以上前から、しかもリベラルや左派の側から、

「今のリベラルはおかしい」

「このままではリベラルは嫌われてしまう」

という問題意識があった。


それが、なぜ放置されてきたのだろうか。

なぜ、リベラルはひたすら「劣化」し、ひたすら人気を落としてきたのか。


60年代の「ベトナム反戦」が左翼を劣化させた


最初に左翼が「劣化」したのはいつか?

ローティによれば、それは1960年代のことだ。

(以下、ローティの『アメリカ 未完のプロジェクト』=晃洋書房、2000=を参照。ローティの原著 Achieving Our Countryは1998年出版)


ベトナム反戦運動のなかで、「新左翼」が旧来の左翼を駆逐していった。

致命的だったのは、新左翼が、ベトナム反戦の主張のために、アメリカの「反共主義」を、間違いだとしたことだった。

つまり、アメリカの「冷戦」の大義を否定したのだ。

戦争が起こっているのは、アメリカが共産主義と戦おうとするからだ、と。そんなアメリカが平和を壊している、冷戦は間違っている、と主張した。


60年代左翼のシンボルだったサルトルは、反共主義者は人間のクズだ、とまで言った。

そういう形で、彼らはマルクス主義、共産主義を、それまで以上に、強く肯定したのである。


ローティによれば、それによって、それまでアメリカにも存在した「非マルクス主義的」で「反共産主義的」な左翼が、解体してしまった。

ローティ自身も「反共産主義的左翼」を自任する。彼によれば、彼の父親もそうで、ニューディール型のリベラルだった。


彼ら「反共的左翼」は、資本主義内での「富の再配分」こそが、リベラルの目的だと信じていた。

少なくとも、資本主義に代わる信頼できる政治体制が発明されるまでは。共産主義は、その代替とはなり得ない、と彼らは信じた。


その富の再配分のために、政治運動を生み出し、あるいは政治家に働きかけて、法律を作り、長期的に政府の経済政策にコミットしていくのが使命だと思っていた。

そして、たくましい資本主義のなかでの、富の再配分こそが、社会の多様性を維持発展させるという、リベラリズムの理念にかなうと信じていた。


しかし、1960年代の思想を振りまわす新左翼は、そもそも資本主義は絶望だと思っているから、その枠内での経済政策、「富の分配」などには興味がない。

それよりも、資本主義の隅々にはびこる、権力、差別、支配、抑圧と戦うのが、彼らの使命だと考えた。


彼ら「文化左翼」「フーコー型左翼」は、そのために、社会の隅々で「強者」「優越者」「父権」「男」「パワハラ」「セクハラ」「生きがたさ」などなどと永久に戦う。

そうした不断のサボタージュのすえに、いつか資本主義が滅びて、理想の平等社会が生まれるかも、と夢想している。


こうした60年代型左翼のやったことで、いいこともあるだろう。

しかし、彼らの伝統破壊は、当然に右翼を怒らせた。

そして、彼らのポリコレのせいで、息苦しい社会になった、と普通の人も気づくようになった。

まるで、資本主義国にいながら、共産主義国さながらの全体主義社会に近づいているからだ(そして、まさにそれが彼らの目的である)。


同時に、彼らがしたことより、しなかったことに、人々の不満が溜まってきた。

「フーコー型左翼」のアイデンティティ・ポリティクスが目指しているのは、「権力の再配分」であり、「富の再配分」には興味がない。

しかし、庶民が欲しているのは、権力の分配ではなく、富の分配である。

「富の再配分」をしてくれない左翼は、人気を失って当然だ。


これが、トランプ的保守、トランプ的右翼が台頭し、リベラルが失墜した思想的背景だ。

これが、「労働者を忘れた左翼は敗北する」という、バーニー・サンダースのような古株の左翼が言う意味である。


「富の再配分」への復帰


以上を踏まえれば、リベラルが戻るべき地点は、1960年代以前の「反共的左翼」のポディションだとわかるだろう。

しかし、1960年代以降の左翼を否定するには、相当の思想的パワーが必要だ。

「1960年代以降の左翼」には、田原総一朗や浅田彰をはじめ、今の日本のジャーナリズムとアカデミズム、文化の主流派が含まれる。

この60年以上におよぶプロパガンダにより、新左翼のポリコレ思想は、人々の身体レベルにまで定着している。

それを否定しきることが、たとえば東浩紀にできるだろうか。


ただ、現下の日本の政治状況は、好適な練習問題になっている。


立憲民主党の推す「選択的夫婦別姓」は、典型的な「権力の再配分」政策である。

国民民主党の推す「年収の壁対策」は、「富の再配分」にかかわる。

リベラルはどちらをより選ぶべきか、答えは明らかだと思う。


国民民主党は、その反共的姿勢のために、しばしば「保守」側に分類される。

しかし、「反共左翼」こそが本来のリベラルだ、と考えるなら、国民民主こそがリベラルなのである。


立憲民主党を否定し、国民民主党を肯定する。

そこから始めて、1960年代型左翼が植え付けた思想的な「負の遺産」を、一枚ずつ剥がしていけばよいだろう。



ところで、1960年代型左翼のなかにも、のちに反省して、保守や本来的なリベラルに転向した人はたくさんいる。

ハリウッド俳優のジョン・ヴォイトもそうだ、ということを、以下のポストで知った。


ジョン・ヴォイトは60年代70年代のいわゆるアメリカン・ニューシネマのスターで、ヴェトナム反戦運動にも参加していた左翼だった。
しかし、当時の平和運動はマルクス主義のプロパガンダによって推進されており、カンボジアの虐殺を止められなかった責任があり、当時の反戦活動を後悔していると語り、保守的で宗教的な信念の持ち主として知られている。


そういえば、ジョン・ヴォイトの娘、アンジェリーナ・ジョリーは、Netflixで、カンボジアのポルポト革命の悲劇を描いた「最初に父が殺された」を監督した。

アンジェリーナ・ジョリーが、そんな反共映画を撮るなんて意外だったが、父親の影響もあったのだな、と思った。


今回のトランプ再選では、テイラー・スウィフトやビヨンセなど、ハリスを支持したタレントやスターが影響力のなさを露呈して赤恥をかいた形だが、ジョン・ヴォイトはトランプを支持している。

こういうトランプ支持者がいたのだということも記憶しておきたい。


<参考>


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